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背なに二本の白い線 [on the park]

有楽町夜景.jpg

雨の公園は何度通っても気分がいい。
これから面倒な仕事が待っているとしても。

今日は風もなく、散り遅れた桜の花びらが引力だけにしたがってほろほろとビニール傘に落ちてきます。

春だけあって公園は雨が降ろうが花ざかり、赤、白、ピンクのツツジが最盛、足元には相変わらずのたんぽぽの群生にまじってちらほらと例年のひなげしも。はるか遠くの休憩所の上には紫にかすんだ藤の花まで。

午前中なので人数が少ないのもまたいい。ゲートボーラーも、パークウォーカーも、相棒の犬と散歩する人も雨に躊躇っているようで見当たりません。

名残惜しい気分のまま仕事場に続く歩道橋にのぼると、遥かスカイラインに靄がかかっております。雨にけむるというやつです。美しい景色です。

「雨にけむる」、そんな歌がありました。
脳内蓄音機でははやくもあの歌が再生されはじめておりました。

昭和33年というぞろ目の年はとても印象的な年でした。
よくいわれるのが高度経済成長のスタート期。
子どもながらに実感しましたその「豊かさ」を、貧しいわが家にもやがてモンスターとなるテレビが侵入してきたのですから。
月光仮面、やりくりアパート、事件記者…みんな家にいながら見ることができたのですから。
長島がデビューし、川上が引退したのもこの年。神様仏様稲尾様で、西鉄が大逆転で巨人を破り日本シリーズを制したのも。野球小僧だったわたしにはまさに忘れられない年でした。

石原裕次郎が銀幕を席巻したのもこの年、「嵐を呼ぶ男」「風速四十米」「明日は明日の風が吹く」などなど。
残念ながら、わたしは東映時代劇一本槍。「任侠東海道」に「水戸黄門」、「快傑黒頭巾」に「丹下左膳」「新吾十番勝負」なんかを。


音楽でいえば、子どもだったわたしの知らないところでウエスタンカーニバルが始まり、ロカビリーのブーム到来。
ポール・アンカが来日し、ダイアナがヒットした、らしい。わたしも、近所のあんちゃんが♪……ダイアナとうたっているのを耳にして、「なんの歌だ?」と思った記憶があります。
残念ながら洋楽はまだ遥か彼方でしたが。それでも目覚めいてた歌謡曲ではお千代さんの「からたち日記」、織井茂子の「夜がわらってる」、三橋美智也の「夕焼けとんび」、大津美子の「銀座の蝶」などが流れておりました。
わたしは好きな神戸一郎の「別れたってをいいじゃないか」を口ずさんでおりました。
♪あああ、花も散るのさ 小鳥も死ぬのさ
なんて、幾つだよって話ですね。

https://youtu.be/lRho8JZdsmk

でもこの年、日本列島津々浦々に流れていたのが、前年の暮れあたりからラジオ、パチンコ店でヘビロテでかかっていたフラック永井の「有楽町で逢いましょう」。
いつでも脳内再生できる名曲です。

代表的なレインソング。雨の日にデートする男の気持ちをうたっております。
なんといってもローケーションが有楽町。これが新しかった。いままでの歌謡曲なら「雨の銀座で逢いましょう」だったのでしょうが、「有楽町」がインパクト大。
地方に住む人間にとっては「有楽町ってどんな素晴らしい街なんだろう」って思ったはず。そんな時代なのでした。

作詞の佐伯孝夫がまた上手いんです。
ビル、ティールーム、ブルース、駅のホーム、デパート、シネマ、ロードショーとカタカナを散りばめて最先端の都会を連想させるのです。

その2番に
♪ああ 小窓にけむる デパートよ

とでてきます。
この時代に生きた歌謡曲好きは、イントロクイズでこの歌がかかれば、ほぼ間髪を入れず「ピンポン」と鳴らせるはずです。

昭和30年代の雨にけむる歌をもう一曲知っています。「有楽町―」から5年あまり経った、東京五輪の前の年に生まれた歌。
こちらはそれほどヒットはしませんでしたが、なぜか心に残るうたでした。とりわけ「背なに二本の白い線」という歌詞が性徴著しいわたしを刺激したことを覚えております。

https://youtu.be/BFAuWKSAB1g

35年に「悲しき六十才」でデビューした坂本九(ダニー飯田とパラダイスキングのヴォーカルとして)全盛期の一曲。
作詞は坂本九自身で、作曲者は不明。

平尾昌晃の「ミヨちゃん」の続編みたいな歌ですが、こちらはやがて結婚し、子供ができて、というように暗い音調のわりには幸せな将来を妄想するストーリーに。
やはり2番に、♪小雨にけむる並木道 と。
その後ドリフターズにカヴァーされたので、こちらで知っている人の方が多いのかも、もはや。

昭和30年代の雨にけむる歌はどちらも、経済成長に裏付けされた希望にあふれる歌でしたが、それから10数年が経ち、成長神話に翳りが見え始める頃、雨にけむる歌は、そうした社会背景を反映した「別れ」の歌に変っておりました。

https://youtu.be/LbQcTcI49JQ

仕事場へ向かう小雨にけむる公園でわが脳内蓄音機にはじめに流れた曲は、実はこの曲でした。

この曲が流れていたおよそ45年前の時代のことも、まさに雨にけむるような自分のこともよく覚えております。この曲が栞というか時代のインデックスとしてあの時代を呼び起してくれるのです。今となってはとても貴重な歌です。
歌の設定は五月ですが、少しフライングぎみにこの歌を聴いてみました。




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花ふぶき舞う道を [on the park]

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午前中のどんより雲った公園では、昨日ほどではなかったけど、少なからず人出がありました。
昨日はすごかった。一昨年の花見と変らない、いや昨年できなかった分上乗せで、あちこちで宴が行われていました。ただ多人数でという光景は見られませんでした。

昼前から雨が降り始め、午後になり風も強くなっているそうです。
もし夜も嵐がおさまらないのなら、公園で灯りのなかを降りそそぐ雨と桜吹雪を見てみたという思いもありましたが、残念ながら気力体力とももはや……。

桜は黙っていても美しいですが、散ってゆく姿に見とれてしまう人も多いのでは。
はらはらと散り始める花びらをつい目で追ってしまいます。春の嵐のなかをまさに雪のように降り注ぐ桜吹雪も壮観ですが、散り始めや散り終り数枚、数十枚の花びらの舞う光景もとても風情があります。

桜の歌が多いということは、その散る様子をうたった歌も多いのではないでしょうか。残念ながらJPOPにはほぼ無知なので、相変わらずの古い歌のなかから散る桜、とくに激しく散る「桜吹雪」の歌を聴いてみました。

1970年代はじめ、政治の季節が終ろうとしていた頃、生かじりのヒッピー文化が仇花のように一瞬花開いたとき、懐古趣味にあふれたこの歌が聴こえてきたのでした。

https://youtu.be/dKBFWMQHR58

古くて新しかった。
ジンタのリズムや昭和ロマンをつめこんだ歌詞。それにミスマッチがなんとも新しかったジーパン(デニム)に下駄。
あがた森魚が林静一の描いた劇画「赤色エレジー」を昭和ロマンに脚色しました。
いちおうフォークソングにジャンル分けされておりました。

当時フォークといえば「神田川」や「結婚しようよ」「傘がない」など自分たちの生活に根差した、小さな出来事や思いをうたったいわゆる「四畳半フォーク」と呼ばれるスタイルが主流でしたが、この歌はそれをロマンチシズムに昇華させていました。

また、わたしの不完全な記憶では日本のフォークにヴァイオリンを使用したのはこのうたが初めてだったのでは。少なくともグレープの「精霊流し」よりは先でした。


1980年代に聴こえていた「花吹雪」はまるで歌舞伎や大衆演劇の小道具さんが天上から降らせる桜吹雪に模した紙吹雪のようにイミテーションであり、ポップであり、抒情というよりはファッションとして、あるいは「ばえ」として使われていました。

https://youtu.be/uZYaK6Tm5Ts

アン・ルイスは1971年に「白い週末」でデビューし、74年の「グッバイ・マイ・ラブ」あたりまでは清純路線でしたが、78年の「女はそれを我慢できない」あたりから豹変というか変身といいますか、自立する、ロックを身にまとった女に成長します。
いまでいうジェンダリズムとかフェミニズムともいえますが、あれから半世紀近く経ちますが、何も変わっていません。て、話が逸れますので軌道修正。


桜吹雪はまた、人生の門出の象徴としても使われます。入学・入社とか、卒業・退職とか。
おそらくJPOPにはありそうですが、わたしは知りません。くどいようですが。

昭和の時代にも、といいたいところですが、実際は平成のはじめ頃に聴こえてきた「桜吹雪」がこの歌です。

https://youtu.be/f7kkQ6vddS8

日本テレビの24時間TVのテーマソングとしてつくられた歌で、谷村新司の抒情的な詞と加山雄三の抑揚のあるメロディーが感動的な楽曲になっています。
タイトルが「サライ」ではなく、もう少しわかりやすかったらもっと普及していたのではないでしょうか。
わたしなど「さらい」と聞いて「さすらい」の「す」を抜いたもの。つまり酢をいれないシャリにネタをのせた鮨かと思いましたから。ウソですが。

新しい世界へ巣立ったり、ひとつの世界をまっとうした、ある種「希望」や「慶び」の象徴としての「桜吹雪」もありますが、その反対に明るいから暗く、愉しいから淋しいという「桜吹雪」もあります。

https://youtu.be/Q3duALFEk10

近年亡くなった森田童子の歌は、春と死をうたったものがいくつもある。
後年テレビドラマに使われて彼女の代表曲となった「ぼくたちの失敗」(石川達三の「僕たちの失敗」からタイトルを拝借したのではないでしょうか)にも、
♪春のこもれ陽の中で きみのやさしさに うもれていたぼくは 弱虫だったんだヨネ

この歌は春を連呼しておりますが、それは春を謳歌するというよりはまるで「なんでそんなに明るいの」「なんでそんなに愉しいの」とまるで春を恨んでいるように聴こえます。

この歌では「桜吹雪」ではなく「花吹雪」とうたわれております。
一般的に「花吹雪」といえば「桜の花」のこと。俳句の季語でもそうです。そもそも俳句では「花」イコール「桜」ですから。

最後にもうひとつ「花吹雪」の歌を。

https://youtu.be/tDIwmhXWa9c

ジャックスの早川義夫が60年代最後につくった歌です。レコードは競作で女性ユニット・もとまろや岩淵りりでヒットしました。
聴けばわかるとおり、ハッピーソングではありません。
元カノの結婚式の日の、未練男の心情をうたっております。映画の「卒業」なんてまずあり得ない世界で、実際はこの「サルビアの花」が現実。当日その場所へ行ってしまうという狂気。いまでいえばストーカー。でも失恋の極地とはそういうものなのでは。

以前からこの歌について不可解に思っていたことが。
サルビアはだいたい夏に咲く花です。桜咲く三月、四月には見たことがありません。ということは、この歌でうたわれている「花吹雪」は桜ではないのでしょうか。
桜以外の花吹雪とは、それも夏に降る花吹雪とはなんの花なのか。
それとも、失恋の春とサルビアの花を捧げたかった夏の日にはタイムラグがあったということなのでしょうか。
名曲であることに変りはありませんが。

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路上パフォーマー [on the park]

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どこまで続くぬかるみぞ。

なかなか新型コロナが収まりません。
たしかにひと頃よりは検査で陽性になる人も少なくなった感はありますが。

「緊急事態」の継続はしかたのないところですが、市街の人出は確実に増えております。人が多くなって陽性者が減少するということは、人びとの防疫生活が奏功していることもあるでしょうが、コロナの勢いも衰えているのでは、とも思ってしまう。

正直年寄りのわたしだって、自粛生活にはいささかうんざりしているのですから、若い人はもっとでしょう。見えない敵だけに油断禁物ではありますが。

公園で、中学生らしき男女数人が、通行人に背を向けてダンスに興じておりました。その前にはCDデッキらしきものがあり、そこから初耳ですが、ダンスミュージックが遠慮がちにこぼれておりました。

学校ではダンスの授業があるようですし、フォークダンスしか知らなかったわれわれの時代からすると、世の中変った、ダンスが五輪に、といった驚きがあります。

彼らはきっとどこかでダンスを披露するために練習をしていたのでしょうが、まぁこれもひとつの路上パフォーマンス。
公園では時々みかけます。
多いのが、トランペット、トロンボーン、クラリネット、サクソフォーンなど吹奏楽の練習。そりゃそうだよね、家でやられた日にゃ堪りません。

ひとりでベンチに座り、ガットギターやフォークギターを弾いている人もました。弾き語りをする人もおりました。
木立のなかで尺八を吹いていた年配の方もいました。

いちばんびっくりしたのは、昨年見たベース演奏。
それもギター型ではなくコントラバスと同じエレキのアップライト型。残念ながらサイレントベースだったため音は聴けませんでしたが、ヘッドフォンで目を閉じた30代とおぼしき男性は、おそらくマイナスワンのジャズかなにかを聴きながら悦に入っていたのではないでしょうか。
ボルサリーノにノーネクタイの白ワイシャツ、フォーマルっぽいベストにマンボズボンとなかなかの伊達男でした。

みんないろいろなかたちで発散したいんでしょうね。
楽器をやらない人だってカラオケには行きたい。こうなってみて改めて音楽が人生にどれだけ潤いを与えていたのかということがわかります。
公園ではありませんが、駅前や街中でたまに見かけた路上パフォーマーたちもすっかり家籠りしてしまっているようで、昨今見かけません。

わたしもせいぜい仕事の合間にYOU-TUBEで音楽を見聴きすることが息抜きに。
最後にそんなYOU-TUBEで見た刺激的な路上ミュージシャンを。

https://youtu.be/uOR-yhLsZ4o?si=vN6JgvCu7dFwZM67

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hand in hand 2 [on the park]

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公園を歩いていても、手をつないだカップルはまず見かけない。
こんな時期だから、控えているのでしょうか。

見かけるのは幼児の手をひき散歩するお母さんや、集団散歩で園児の手をひく保母さんたち。以前なら若いふたりはもちろん、たまにはしっかり手をつないだ高齢者カップルもめずらしくはなかったのですが。

自分の記憶をたどってみると、最後に他人(家族も含めて)と手をつないだのは、10年あまり前、毎日のように認知症の母親と散歩していたとき。母親が亡くなるまでの数年間つづけました。子供のころから迷惑のかけっぱなしで、百恩一報(造語です)ではありますが、せめてもの親孝行になったのではと。でも、まさか母親と手をつなぐ日々がくるとは。

そうなんです、ハンドインハンドといっても恋人同士や夫婦とはかぎりません。
それこそ親子であったり、同志であったり、仲間であったり。

流行歌にはそうした「手をつなぐ」歌がなんと多いことか。JPOPにもたくさんあります。きっと。
ハントインハンドはいろいろな意味での愛情表現であり、ポジティブな人間同士のコミュニケーションでもあります。ハートウォーミングも歌の効用ならば、そうした歌詞がつかわれるのもわかります。

ではハンドインハンド・ソングにもっともふさわしいシンガーとは?

いまなら「嵐」とか……、いや知らないので口幅ったいことはやめて、むかしの歌や歌手を。

その歌もパフォーマンスもイメージももっともハートフルなシンガーといえば、今は亡き坂本九ではないでしょうか。
彼の代表曲のひとつでもハンドインハンドのシーンがでてきます。

https://youtu.be/rFw9mO_qlZk

いずみたくのライフワークだったミュージカルの主題歌で詞は永六輔。
いまでもJPOPのシンガーがカヴァーしているぐらいエヴァグリンな歌です。以前でもデュークエイセス、由紀・安田姉妹、大江千里、金子晴美、フォーリーブス、演歌なら石川さゆりや島津亜矢なんかもレコーディングしていました。

この「見上げてごらん夜の星を」の前年、映画の坂本九自身も出演した映画の主題歌としてつくられたのがこの歌

https://youtu.be/LsBrsQbOcQw

作詞の永六輔はかわりませんが、作曲はもうひとりのベストパートナー、中村八大。監督は「紅の流れ星」のわが舛田利雄。
主演は吉永小百合と高橋英樹、浜田光夫。
映画と歌のタイトルが微妙に異なるのは、映画サイドと永六輔とのあいだで話し合いが不調に終わったからでしょうか。たしかに映画のタイトルのほうが座りはよい。でも作詞家は座りのよい言葉など求めない。

坂本九の3つ目のハンドインハンド・ソングは、またまた永・いずみコンビ。こうみてきますと、いかに永六輔という人が本質的にハートウォーミングな作詞家だったということがわかります。当時、身障者のチャリティーソングとしてもよく耳にしました。

https://youtu.be/-SEFIEt_83E

坂本九のあたたかくここちよい歌声を3曲聴いてみましたが、こうなるとどうしてもカヴァーが聴いてみたい。YOU-TUBEを散策してたら、なつかしい人のカヴァーがありました。

https://youtu.be/5_llt6jLkss

この歌は坂本九の昭和40年の曲ですが、ほかの2曲は30年代。
30年代も流行歌はぬくもりを求めて手をつなぎまくっておりました。いくつかあげてみますと、

釧路の駅でさようなら 三浦洸一
お花ちゃん 三橋美智也、斎藤京子
寒い朝 吉永小百合、マヒナ・スターズ
愛ちゃんはお嫁に 鈴木三重子
ふたりだけの太陽 島倉千代子

オマケも昭和33年のヒット曲。
つないだ手を離したくないという女ごころと、男の小さな困惑が感じられる歌。
手を離したって、♪明日の晩も逢えるじゃないか とうたっております。

https://youtu.be/075vKtVHAy4


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hand in hand [on the park]

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さる日、用事をすませて家路をたどっておりました。

近所の中学校の生徒たちが大量に路上にあふれています。午後2時近辺。
そうだ下校時間なのだ。

道一杯に広がった学生服の男女が、楽しそうに話をしながら歩いている。
ときおり背後から自転車にベルを鳴らされたり、クルマの音に波のように道の両端へ押しやられたりしながら。

そんななかに男女のペアがいた。
別に不自然じゃないし、数十年前のわたしたちの時代だってそういう光景はめずらしくはなかった。

でもそのふたりにしばし目を奪われてしまったのは、しっかりと手をつないでいたから。
まごうことなき恋人同士ではありませんか。派手さはなく、髪型もごくふつうの中学生といったふたり。

もうひとつ意外だったのは周囲の学生たちがそのふたりのことをまったく、気にする様子もなく帰路についていること。たぶん、かのペアは学校内では周知されていて、ハンドインハンドはごく見なれた「光景」だったのでしょう。
それでも、「手と手」のふたりは彼らだけで、ほかにもいるのではと振り返っても見当たりません。やっぱりスペシャルなふたりなのです。

ああいう若い男女が世の中を変えていくのだろうな、なんてとりとめのないことを考えながら家路をたどっていった次第です。

そんな光景を眺めながら脳内蓄音機が奏でだした音楽は、
♪お手て つないで 野道をゆけば
いささか貧しい音源ストックではあります。

せめてこんな歌でも聴こえてくれば満更でもなかったのですが。

https://youtu.be/BYVAE-P7noc

オリジナルはディズニーの「おかかえ」シンガー、アネットでした。
田代みどりは12歳でデビューという当時流行りのカヴァーポップスのガールズシンガーで、ほかに「ビキニスタイルのお嬢さん」や「ベビー・フェイス」、「フルーツ・サラダ娘」「月影のマジョルカ」「子どもぢゃないの」なんかを可愛くうたっていました。日活の青春映画(青い山脈など)にも脇役ででていました。

「お手てつないで」というフレーズではほかにこんな歌もあります。

https://youtu.be/KSZjzIY0SEw

GS時代のノヴェルティ・ソングで、ザ・ダーツとザ・ジャイアンツ(ケメ子の唄)がうたってました。ダーツ盤は冒頭のスキャットにニール・セダカの「かわいいあの娘」Next door to an angel をつかっております。

https://youtu.be/KirpiNV0Xp4

ジャイアンツの方は映画化され、小山ルミが「ケメ子」で主演している(観てませんが)。
またアンサーソングとして松平ケメ子(ひでえ芸名)が「わたしがケメ子」をうたってる。この歌の作詞が当時人気の創作落語家柳家小せんというのだから、徹底したフザケっぷり。

たいへんなケメ子ブームがあった様相ですが、実際は歌もそこそこでそれほでのものではありませんでした。

もう一曲「お手てつないで」ソングは、六・八コンビの傑作。

https://youtu.be/LbLO6C3J17M

「上を向いて歩こう」や「遠くへ行きたい」と同じくNHKの「夢で逢いましょう」の今月の歌でうたわれました。
永六輔のグッドアイデアで、いささかできすぎたストーリー。でも実際に幼なじみが結婚したというケースはそこそこあるのでしょう。それはそれでウラヤマシイ。
デュークエイセスも3年前に解散してしまいました。時の流れですね。

永六輔・いずみたくコンビによる「にほんのうた」シリーズは「いい湯だな」とか「銀杏並木」とか「女ひとり」などなど名曲が目白押しです。
さいごのオマケにそんなデュークの歌を。

https://youtu.be/fKUuebC2zBQ

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瞳とじれば夕焼け雲が [on the park]

夕焼け⑦.jpg


きょうもほとんど雲のない快晴でした。
公園のベンチで初老の男が座り、彼に覆いかぶさるように同年代の女性が掌をかざして気を送っておりました。数日前も雨の公園で違う人たちの同じ光景を見たのですが、流行りなのでしょうか。

きょうは、あかね雲に続いて夕焼け雲。

「夕焼け雲」の歌というと、そのストーリーと映像がすぐに思い浮かぶのがNSPの最大のヒット曲。

https://youtu.be/6l6MJpDe5sM

NSPは「ちぎれ雲」のところでふれましたが、この歌を初めて聴いたとき歌詞が「虫にさされるのはいやだけど」とか「そんなにふくれちゃいやだよ」とか「君は笑うのがへたになっちゃったんだね」とか生の口語体がなんとも幼稚に感じたものでした。でも、その後それこそ「雨は似合わない」や「ヒコーキ雲」などを聴いているうちに天野ワールドに堕ち込んでしまいました。

この歌は天野からオリジナルの楽曲を提供されていた石川ひとみやアグネス・チャンがカヴァーしています。

https://youtu.be/9dvQ__BZmZQ

NSPは「フォークソング」にジャンル分けされると思いますが、和製フォークの抬頭期、
「夕焼け雲」をうたったシンガーがいました。

昭和41年(1966)といえば、流行歌の世界ではエポックメーキングな出来事がありました。6月のビートルズの来日。
その数年前から世界のトレンドとなっていたエレキ・ヴォーカル・バンド。その頂点にいたのがビートルズ。

日本でも40年あたりからエレキバンドが誕生しはじめ、この61年にGS(グルーウサウンズ)としてポップス界を席巻します。
ジャッキー吉川とブルーコメッツの「青い瞳」、田辺昭知とスパイダースの「夕陽が泣いている」のビッグヒットを皮切りにGSブームがはじまりました。

その前年、西田佐知子の「女の意地」が夜の街に流れていた頃、そのGSにさきがけてエレキヴォーカルで若者のハートを掴んだのが加山雄三。
その曲が「夜空の星」。不朽の名作「君といつまでも」のB面でした。当時ではめずらしい両面ヒット。

もどりまして41年。
GS大爆発の陰でひそやかに流行していたのがフォークソング。
アメリカのモダンフォークブームに影響された日本のフォーク。それはカレッジフォークと呼ばれました。
「バラが咲いた」のマイク真木、「若者たち」「星に祈りを」のブロード・サイド・フォー、「いつまでもいつまでも」のザ・サベージ、そして「空に星があるように」の荒木一郎。
やがてフォークは「反体制」「四畳半」「抒情」などの冠をいただいてGSを蹴とばして日本のポップスの王道を歩くことになるのですが。

貪欲な加山雄三はそのカレッジフォークも取り入れてしまいます。
それが若大将の夕焼けソング。夕焼け雲をストレートに「紅い雲」とうたっております。ギターのイントロが印象的(イージー)でよく弾いていました。

https://youtu.be/nMhIvGXfKWg

もう一度「夕焼け雲」に戻ります。「旅人よ」の作詞・岩谷時子をもう一曲。

https://youtu.be/4n2vFmF02Rk

昭和39年(1964)、東京五輪の年にリリースされた倍賞千恵子の名曲。
倍賞千恵子といえば「男はつらいよ」の妹・さくら、というのが日本人の印象ですが、元は浅草を舞台とした東の宝塚・SKD(松竹歌劇団)の出身。
それゆえ、演技だけでなく歌も踊りもお手のもの。

スカウトで松竹映画に入り、37年にシングルレコードの「下町の太陽」が大ヒット。翌年松竹で映画化され、これまたヒット。これで彼女はスター街道を歩き始めることになります。

この歌は名コンビ岩谷時子といずみたくによるものです。
このふたりによるヒット曲は39年の夜明けの歌(岸洋子)から、太陽のあいつ(ジャニーズ)、貴様と俺(布施明)、恋の季節(ピンキーとキラーズ)、いいじゃないの幸せならば(佐良直美)など多数。

瞳をとじて浮かぶものは、
1番は片想いの恋人、2番は亡き父親で、結婚の報告、3番は懐かしい故郷と妹たち。
4番では初キスの幸福感
というようにひとりの女性が恋をして嫁いでいくまでの感情の動きと幸福感がうたわれています。

イカしたジャジーな間奏(編曲)は小川寛興。「さよならはダンスの後で」の作曲者でもあります(「月光仮面は誰でしょう」もね)。

一時、倍賞千恵子はいずみたくのミュージカルに出演したようですが、あるときその売れっ子作曲家に新曲を依頼したそうです。そして出来上がったのが「希望」(藤田敏雄作詞)だったとか。
しかしご存知のように45年リリースされた「希望」をうたったのは岸洋子。
倍賞は自著でその理由を「自分の力不足」とだけ書いています。
どんなドラマがあったかは知る由もありませんが、その後彼女はいずみたくの新曲をうたうことはありませんでした。

例によって「おまけ」です。
「瞳とじれば」の3年後に倍賞千恵子がうたった「岩谷・いずみ」コンビの歌を。
NHKドラマ「素顔の青春」の主題歌です。付け加えておきますとこのドラマに彼女は出演していません。

https://youtu.be/QREMwSVIxZY

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空にひと刷毛 あかね雲 [on the park]

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今日も夕焼けがきれいだったのではないでしょうか。日本のどこかでは。見ていませんが。

白い雲と青空がセットになっているように、夕焼けといったときには空や雲があかく(レッドではない)染まっていることを意味しています。
つまり「白い雲」に対して夕焼けは「紅い雲」ということに。

夕焼けは日本人の情念を刺激するようで、その歌は「白い雲」より多い。

♪夕焼け小焼けで日が暮れて
♪夕焼け小焼けの赤とんぼ
♪夕焼け 海の夕焼け
♪夕焼け空が 真っ赤っか

とうたいだしが「夕焼け」の歌がポロポロでてきます。

ただ、「夕焼け」をキイワードに歌をチェックすると収拾がつかなくなります。
で、やっぱり「夕焼け」だけではなく、「夕焼け雲」や「あかね雲」と「雲」がつかわれている歌をピックアップしてみました。

まずは「あかね雲」。

「白い雲」でもとりあげた植木等の「だまって俺について来い」では、
♪見ろよ燃えている あかね雲
と頼りになるのかならないのかわからない無責任男がうたっております。

どうしても何もかも吹き飛ばされた大嵐(戦争)が終息した直後の庶民の愛した歌がきになります。

https://youtu.be/M9UZw7Q5hBc

戦前戦後と日本の青春をうたい続けた万年青年・藤山一郎の東京ソング。昭和22年の歌で、作詞作曲はサトウハチローと古関裕而。このトリオで2年後に平和祈念の「長崎の鐘」がつくられます。
多くの軍歌で日本人を鼓舞し、戦地に赴く若者の背中を押し続けた古関裕而の変り身のはやさ。悪魔の歌も天使の歌もつくれるという技量の高さのなせる業でしょうか。作詞家はもろ思想が表にでますが、作曲家はそれが見えにくい。

この歌といいその数か月後につくられた「若人の歌」もそうですが、勇壮・悲壮感などみじんもなく明るく希望に満ちた旋律で日本人の心をとらえています。子ども向けラジオドラマの主題歌「とんがり帽子」をつくったのもこの年でした。

見ていませんが現在NHKで古関裕而をオマージュするドラマが放映されているようです。戦後75年……。もはや「時効」ということなのだと思いますが、複雑な気持ちです。

https://youtu.be/0nBMzFWqV4w

32年のこの青春賛歌は、カントリーシンガーでアイドルとなった小坂一也がうたった歌謡曲。♪夕焼け空に あかね雲 とていねいにうたっております。
いっときとはいえ、昭和30年代初頭日本にカントリーブーム?があったとうのが幻のようでスゴイ。

作曲は歌謡曲のルーツともいえる古賀政男。彼も軍歌を作らざるをえなかった作曲家のひとりで、終戦後は本気で逮捕されるのではと恐れ、地方へ隠遁したとか。
アメリカ軍は寛大?で、流行歌で罪に問われた関係者はひとりもいなかったはず。軍歌なんて戦いの形勢を左右するものにあらずと軽んじられたのでしょう。

作詞は田中喜久子。この歌にしかその名をとどめいない作詞家で、多分雑誌の懸賞で入選した読者なのではないでしょうか。

https://youtu.be/Hnw-xXlNgJ8

32年に浪曲から歌謡曲に転身した三波春夫の34年のビッグヒット曲。
実際にあったヤクザ同士の縄張り争いを描いた講談・浪曲で知られた「天保水滸伝」の中の架空の用心棒・平手造酒を主人公とした歌。
デビュー2曲目の「チャンチキおけさ」でブレイクした三波春夫は、この歌で押しも押されもせぬ歌謡曲の王道をゆく歌手となりました。

作曲の長津義司は三波の「チャンチキおけさ」や「俵星玄蕃」も手掛け、戦前の大ヒット曲「大利根月夜」(田端義夫)も。作詞は「青春は雲の彼方に」でもふれた猪又良。
個人的な思い出のある唄なのですが、長くなりますのでいずれまた。

https://youtu.be/pizxoXB7avo

70年代はこ一曲だけ。もはや「あかね雲」は死語と化してしまったのでしょうか。
本田路津子の代表曲。ピート・シーガーの「一人の手」もカヴァーしている。和製フォークのカヴァーも多く、それぞれが心地よい。歌がじょうずな証拠ですね。

どうしても欲張りなわたしは、最後に「オマケ」をつけたくなるのです。今回も。
本田路津子の「一人の手」と迷いましたが、この歌をもう一度。
このシンガーも歌上手でカヴァーが聴かせるんだ。

https://youtu.be/gn2WwDdTg8k

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お嬢もうたった白い雲 [on the park]

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今日も東京は快晴で良き雲が浮かんでおりました。
昨日はもっと晴れていて、ほとんど青空。もうしわけ程度に東の空の下に小さな雲がひっそりと。

明治・大正期の詩人・山村暮鳥はそんなわずかな雲を、青空があまりにも果てしないので「途方に暮れている」とうたっていました。

昭和30年代の白い雲はこの歌。

https://youtu.be/ARQhU4-2kYw

33年の美空ひばりのヒット曲です。
もはや最高峰の歌姫として伝説化されていますが、彼女と同時代の音楽ファンには嫌いな人も少なくなかった。
とりわけ、洋楽好きのなかには自身のルーツでもあった流行り歌に気づかず、邦楽(当時は流行歌とか歌謡曲といいました)を見下していた音楽好きも。その歌謡曲のナンバーワンがひばり嬢だったのですから、それは風当たりも強かった。
そのくせ、彼女が亡くなると「日本の歌は好きになれないけど、美空ひばりは別だな」などとのたまわれたり。

個人的にはそうした先輩方の影響はまるでなかったのですが、違った意味でひばり嬢にはいささか偏見も。それは島倉千代子のファンだったので、ひばり嬢を勝手にライバル視していたわけでして。お千代さんはひばり嬢を決してライバル視などせず、コロムビアの偉大な先輩として尊敬していました。

「ライバル視」していたとはいえ、いい歌はどう逆立ちしてもいい歌なわけです。とりわけこの歌のような「日本調」は鼻歌で出るほどでしたし、聴いていました。
「ひばりの渡り鳥だよ」、「関東春雨傘」「車屋さん」「日和下駄」なんかはいまでもGOOD。

このうちの「ひばりの渡り鳥だよ」以外はすべて「花笠道中」同様、米山正夫の作詞・作曲です。
そうなんです、米山正夫のスゴイところは専門の作曲(リンゴ追分)ばかりではなく、作詞もしてしまうというところ。こういう流行歌の作家はごくごく稀。

米山正夫は大正元年東京生まれで、東洋音楽学校でピアノを学んだという本格派。当時は流行歌の作曲家といえども、学校でクラシックから学ぶという人が少なくなかった。

流行歌の初期は股旅もの、つまり意外にも日本調が多かった。
当然軍歌もつくりましたが、たとえば昭和13年の♪男ひとたび銃とるからは 手柄たてずに帰らりょか という「男ひとたび」(作曲のみ)もお得意の? 日本調。その後の軍歌の主流となるイケイケドンドン調ではありませんでした。

軍歌はあまり得意ではなかったようです。軍歌ではありませんが、17年の彼の戦前最高傑作といわれる「森の水車」は曲調も詞(清水みのる)も戦時にふさわしくないと発禁になっています。

そのことが古関裕而や山田耕筰、古賀政男のように歌で「参戦」せずにすんだ要因なのかもしれません。

戦後は戦中から曲を提供していた近江俊郎との「山小屋の灯」で大ブレイク。以後、作詞もするようになり、ヒット曲を連発していきます。
そして20年後半から30年代にかけて、美空ひばりに多くの楽曲を提供し、多くのヒット曲を世に送りました。美空ひばりの「育ての親」という人もいます。

30年代後半からはレコード会社をコロムビアからクラウンへ移籍。
そこでも西郷輝彦(恋人ならば)、水前寺清子(三百六十五歩のマーチ)らを育てました。
めずらしいところでは渥美清にも「寅さん音頭」など数曲を提供しています。

最近亡くなられた筒美京平をはじめ、戦前からの古賀政男、古関裕而、服部良一の諸作曲家たちは米山正夫のような「二枚鑑札」ではありませんでした。
古賀政男はデビュー曲(影を慕いて)ほか何曲か、また服部良一も「ラッパと娘」ほか数曲の作詞をしていますが、ほぼ「珍品」。

70年代のシンガーソングライターは作詞作曲をする人が多かったですが、ヒット曲を連発できたのはごくわずか。松任谷由実と井上陽水くらいしか思い浮かびません。

昭和の流行歌の作曲家で「二枚鑑札」で名をはせたのは、この米山正夫と浜口庫之助くらいではないでしょうか。

例によって1曲目で長話になってしまいましたので、昭和30年代以降の「白い雲」ソングをサラッと、立て続けに。

30年代なかばからテレビはナベプロの時代。
その代表選手の二人?がザ・ピーナッツとクレイジーキャッツの植木等。

https://youtu.be/rWEGgAdCuh0

36年から3年間NHKテレビで放映された「若い季節」の主題歌。
ドラマは淡路恵子、黒柳徹子、渥美清、坂本九、三人娘(中尾ミエ、伊東ゆかり、園マリ)等がレギュラー出演した伝説的バラエティドラマ。
歌は詞・永六輔、曲・桜井順、編曲・宮川泰のトリオ。

https://youtu.be/k4xz2sE2a-Q

日テレのバラエティ「シャボン玉ホリデー」で大ブレイクしたクレージーキャッツのなかでのメインヴォーカルで、ソロでもヒットをとばし、歌手としても俳優としても(元々はジャズギタリストだった)一時代を築いた植木等の一曲。
詞曲は、「スーダラ節」から「無責任一代男」まで一連のヒット曲コンビ、青島幸男と萩原哲晶。

そして40年代はフォークの季節。

https://youtu.be/JnBLB3oX2Zw

その先駆けとなった高石友也の2枚目のシングル。3枚目の「受験生ブルース」で大ブレイク。

https://youtu.be/iKAnjDyNGlM

フォークブームの起爆剤となった衝撃作「帰って来たヨッパライ」、そして「イムジン河」に続くザ・フォーク・クルセダーズの3rdシングル。イムジン河が自粛となり、急遽つくった作品。曲はメンバーの加藤和彦。詞はなんと「リンゴの歌」や「浅草の唄」のサトウハチロー。加藤らが挨拶にいったとき、サトウは顔見世だけして、そのまま部屋に戻り出てこなかったとか。それでも名曲は誕生した。

最後は駆け足というかクルマでぶっ飛ばした感じになりましたが、最後の最後に好きないずみたくの「白い雲」を。由紀・安田姉妹ですが、オリジナルはピンキーとキラーズだった記憶が。

https://youtu.be/eJiLKBtxrZI



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鬼滅のあとの白い雲 [on the park]

白い雲02.jpg

https://youtu.be/n4en0wYZC5s

ようやく、白い雲が見えました。
白い雲ということは青い空。セットになっています。

1945年の8月15日、東京では快晴だったそうです。
青空をバックに白い雲が浮かんでいたのではないでしょうか。見たわけではないのですが。

敗戦の悔しさ悲しみ、そしてその先の不安に心穏やかではなかった先輩方も多かったでしょうが、なかには、もう空襲から逃げまどわなくてもよい、という死の恐怖から解放された喜びで、空と雲を見上げていた人たちもきっといたはずです。

そして年があけると、「リンゴの歌」がラジオから流れてくるようになります。
さらにその年が押しせまる頃、
♪ゆらぐ青葉 白き雲は湧きて
という歌が戦争の傷をいやすように巷に浸透していきます。

https://youtu.be/WLWDpziCb0w

岡晴夫がうたった「青春のパラダイス」。
その曲は躍動的ではありますが、決して軍歌にあったような勇壮感はなく、なによりもその詞は、「青春の花」「愛の小鳥」「風も甘く」「バラは赤く」「牧場の道」「美しの恋」「二人を結ぶ」と一年前だったら絶対に許されない「軟弱」な言葉が並んだ流行歌でした。

そもそも1年前まではタイトルの「パラダイス」は敵性用語でしたし、「青春」という言葉すら、軟弱な言葉とされていたようです。
少なくとも太平洋戦争がはじまった1941年以後、軍歌や国民歌謡で「青春」という言葉はタイトルはもちろん、歌詞にすら出てこなかったのではないでしょうか。

きっと、みんな「青春」をつかいたかったし、歌いたかったのだと思います。

岡晴夫は戦前からの歌手で、上海や広東の「花売り娘」シリーズがヒットしました。当然軍歌もうたいましたが、その声質とかキングという傍流のレコード会社所属だったなどの理由からか、その数は少なく、戦火が激しくなるころには体調を壊したりと、軍歌で名をはせた歌手ではありません。

戦後、ほとんど間髪を入れずに歌謡界で光を放つことになったのは、そのことと無関係ではありません。それはやはり昭和20年代前半にスポットライトがあたった近江俊郎や灰田勝彦にもいえることです。

「オカッパル」という愛称で親しまれた岡晴夫。戦後は「東京の花売り娘」で再起し、そのあとの「青春のパラダイス」に続いて「啼くな小鳩よ」「憧れのハワイ航路」で多くのファンを楽しませました。
その後は、もともとからだが弱いとろこへ当時流行したヒロポン(覚せい剤)の依存症などもあって54歳という若さで亡くなりました。

「青春のパラダイス」の作詞は詩人でもあった吉川静夫。その後昭和40年代には森進一の「女のためいき」三沢あけみの「島のブルース」、青江三奈の「長崎ブルース」、「池袋の夜」などをつくります。。
作曲の福島正二は主にアレンジャーとして活躍。テイチク専属だったようで、20年代なら田端義夫の「かえり船」、30年代なら石原裕次郎の「錆びたナイフ」や「二人の世界」、三波春夫の「雪の渡り鳥」から「東京五輪音頭」、「世界の国からこんにちは」などの編曲を担当しています。

ではそれ以外の昭和20年代の「白い雲」を。

25年には岡本敦郎のこの歌が。

https://youtu.be/iLKm2SccM1g

岡本敦郎はクラシック畑出身で音楽教師の経験もあることから、抒情的あるいは明朗な歌が多く、「教科書のような歌い方」ともいわれました。29年には「高原列車は行く」のビッグヒットがあります。
作曲は戦前からの作曲家の田村しげる。作詞はその妻の寺尾智沙。

https://youtu.be/CdV2QdwBqOo

続いては(最後ですが)、26年のハワイ生まれの江戸っ子、灰田勝彦のヒット曲。
独特の高音で戦前からトップシンガーでした。とりわけ兄の有紀彦が作曲し、佐伯孝夫が作詞した「森の小径」は今でもハワイアンナンバーとして親しまれています。

「水色のスーツケース」は気ままな汽車旅の歌。
いまならなんのことはない旅情をうたったものですが、ほんの数年前までは旅行など許されるわけがなく、気ままなひとり旅なんて「非国民」扱い、という時代を経てつくられた歌です。
終戦から6年といえばまだまだ旅行する余裕などなかった人が多かったはず。それでも、そう遠くないうちに、という現実に限りなく近い夢をみることはできるようになっていました。そんな希望を与えてくれたものが流行歌でした。

作曲は利根一郎、作詞は井田誠一。いずれもビクターの専属で、利根はほかに「星の流れに」(菊地章子)、「ミネソタの卵売り」(暁テル子)、「若いおまわりさん」(曽根史郎)な
どがあり、40年代には橋幸夫の「霧氷」でレコード大賞を獲っています。

井田誠一は「若いおまわりさん」や「泣かないで」(和田弘とマヒナスターズ)の作詞のほか、「青いカナリヤ」(雪村いづみ)や「バナナ・ボート」(浜村美智子)などビクターの洋楽の訳詞を一手にひきうけていました。

戦争という暗黒時代に引っ張られて長くなりすぎ、昭和20年代で終わってしまいました。「白い雲」の続きはいずれ近いうちにということで。

「鬼滅の刃」が話題になっております。
もちろんコミックもアニメも見ておりませんが、ニュースに取り上げられるほどで、その概略は耳目に入ってきます。
なにが気になるかというと大正時代という設定。「大正時代に鬼退治かよ」とか「大正時代に切った張ったかよ」などツッコミどころはありますが、エンタメあるいはフィクションとしてはおもしろそう。

あの時代、日本にとっての鬼はアメリカでした。
鬼退治に乗りだした日本でしたが、みごとに返り討ちにされてしまいました。
時々想像します。あの時鬼退治に成功していたらどうなったか。
こたえは、日本が鬼になっていた。
ではなく、実は日本が鬼だったので、あの戦に勝っていたら、さらに永い「鬼の春」が続いたというのが正解。しかし幸か不幸か日本はあのとき滅ぼされてしまいました。
くれぐれも鬼が復活して「青春」や「パラダイス」が抑圧されませんようにと。

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子どもだって雲をみていた [on the park]

恋の汽車ポッポ.jpg

秋の長雨は鬱陶しい。それでも外出せねばなりません。
空を見上げても当然のごとくグレー一色。
公園の道端にはずいぶん団栗が転がっておりました。
子どもの頃だったら、用途など考えずにポケットにあふれんばかりに拾いまくっていたでしょう。今の子どもは団栗なぞに興味がわかないのか、あるいは落ちているものは汚いから拾っちゃだめ、という教育が徹底しているのか、見向きもしないようです。

雨の日は家でゲームでもしているのでしょうか。
われわれの頃の雨の日の楽しみは「貸本漫画」でした。すぐ読み切っちゃうにもかかわらず毎日借りられるわけではないので何度も読み返したもの。近くに貸本屋は2軒あり、どちらもちがった銭湯の近くにあった。

その漫画も、テレビがやって来てから読む機会が激減しました。
当時のテレビが今の「ゲーム機」だったんでしょうね。

前置きが長くなりました。子どものころ見たテレビ番組の詳細は忘れてしまいましたが、その主題歌はいくらか覚えております。そのなかにも「雲」は空に浮かび、流れておりました。

https://youtu.be/FZFJ_Nl7jMQ

この番組はよく見ていました。たしか日曜日の6時からの30分で、6時半からは「シャボン玉ホリデー」というのが毎週のローテーションでした。

番組に夢中になったのは主役の藤田まことのキャラクターによるところが大きい。それと道中記のように毎週毎週場所を変えて、全国を行脚するというのが飽きない理由だったのかも。毎回のゲストも楽しかったし。37年から7年あまり続いた人気番組でした。

日本中を漫遊するというのは、主人公が渡世人だからできたことで、映画「男はつらいよ」があれだけ長くシリーズとして続いたのも、寅さんのキャラクターとともに毎回違うロケーションという設定が飽きさせなかったのだと思います。

主題歌をうたっているのは藤田まことで作詞は脚本の香川登志緒。作曲の林伊佐緒は戦前からの流行歌手で代表曲は「ダンスパーティーの夜」や「高原の宿」。戦後は作曲家としても活動し、三橋美智也の「りんご村から」や春日八郎の「長崎の女」などのヒット曲をつくっています。

その1年あまり前からテレビで放映されていたのが「風雲黒潮丸」。

https://youtu.be/lG6TK2YyCXQ

これはテレビでは見た記憶がありません。
この作品は元々映画としてつくられたもので、わたしも小学校にあがる前だと思いますが、近所の友達とそのお父さんと三人で見にいきました。
関が原で敗れた小西一族の子が主人公で……、などという設定など知る由もなく、めったに見ることのない白黒のスクリーンに高揚しておりました。

強い印象として記憶に刻まれているのは、主人公が海で泳いでいると、大きな鱶があらわれて主人公と戦う場面。
とにかく海にこんな恐ろしい魚がいるのかと、怖かった。ジョーズにさきがけること20年余り前の恐怖体験でした。
主題歌はテレビと同じで、歌詞に「雲」はでてきませんが、タイトルに「風雲」とありますので。「かざぐも」ではなく「ふううん」です。
作詞は原作者の小沢不二夫で、ほかに美空ひばりの「りんご追分」もてがけています。作曲は平岡照章で、主に童謡を手がけ代表曲は「子鹿のバンビ」。

つぎは ♪ふんわりにこにこ白い雲 と主題歌にうたわれたNHKの人形劇。

https://youtu.be/z61AFsy9wI4

昭和31年の第1回から9年あまり続いた人気番組でした。
錚々たるタレントが声優として出演しておりました。主人公は黒柳徹子、里見京子、横山道代で、ほかにイタチのプー助(一龍齋貞鳳)とかモグラは記憶に残っています。
作詞は原作者の恒松恭助。作曲は宇野誠一郎。ほかに「ムーミン」「一休さん」、「鉄人28号」、童謡の「アイアイ」などをつくっています。若き日の徹子さんの声を聴けるのも貴重。

さいごはその「チロリン村」に続いてNHKの定期番組となった人形劇。

https://youtu.be/lDlh3D7xMPs

小学校の高学年になってましたので、毎週ではなくたまに見る程度でした。それでも軽快な主題歌は今でも耳に残っていますし、なぜか子どもには使ってみたい言葉だった「ドン・ガバチョ」(声は怪優・藤村有弘)はよく流通しておりました。
原作と主題歌の作詞のひとりが井上ひさしであることはのちのちに知りました。
作曲は「チロリン村」に引き続いての宇野誠一郎。
余談ですが、この歌を聴くとアネットの「恋の汽車ポッポ」Train of love が再生されます。

https://youtu.be/gJsfMwcuPXU

今回名前のでてきたほとんどの方はすでに他界されております。当時10歳あまりだった人間が70歳になろうというのですから無理もありません。それでも「チロリン三人娘」はご健在のようで、喜ばしいことではあります。

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