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ショウヘイ・オオタニ [folksongs]

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大谷翔平投手、ヤンキースタジアムで固くなってしまったのでしょうか。

今朝の試合を楽しみに、洗顔、朝食、排便(失礼)すべてすませ、ネットでの生中継を見たのですが、まさかの初回ナックアウトで降板。

まぁ、こんなこともあります。超人だの宇宙人だの言われておりますが、やはり人間です。もうすぐ27歳になる若者です。

試合はエンジェルスが逆転勝ちし、大谷の負けは無し。これも強運の証。

ほんとに大谷の活躍はこの、コロナで閉塞、委縮した日本社会にどれだけ精神安定剤的作用を及ぼしていることか。とりわけ野球ファン、メジャーリーグファンにはもう「生き甲斐」に近い。

鬱陶しい一日が終ろうとしていても、スポーツニュースで大谷の豪快なホームランを見るとウキウキしてしまいます。チャンネルを変えて同じシーンを何度も見ます。それから安心して床に就き「明日も頼むよ」なんて思いながらぐっすり眠れます。まさに睡眠薬。

大谷の存在がどれだけ「明るい一日」に貢献しているか。「彼の活躍が毎日毎日ホントに楽しみ」と言っていたのは、プロ野球解説をしているかつてのプロ野球のエースピッチャー。プロに対してもその存在で活力を与えているのですから、ほんとにスゴイ選手です。

個人的にはマントル、マリスからのメジャー(というかヤンキース)ファンを自認しておりますが、野茂も、松井も、イチローもとても刺激的でしたが、大谷はひと味ちがいます。やはり二刀流のせいですね。

フットボールやバスケットに比べ人気が下降気味だといわれるメジャーリーグ・ベースボール。大谷の活躍で少しは盛り返してくれたらいいのですが。

わたし以上にメジャー大好きな知人もよく電話をしてくるようになりました。
スマホを耳に当てるといきなり「ショウヘイ見た?」が挨拶のはじまり。

たしかに、アメリカではそうだし日本のメジャーフリークの間でも、「オオタニ」ではなく「ショウヘイ」なのでしょうが、なぜか気に障ります。
パソコンを立ち上げると、マイクロソフトから「〇〇、おはよう」と我が名を呼び捨てで挨拶されたときと同じです。いつもこころのなかで「うっせえ」と言っているのですが。

先日ゴルフでは男女ともアメリカでメジャーを制しましたし、井上尚弥はラスベガスで鮮やかに防衛しました。
それに加えて大谷の活躍です。
スポーツがいかにわれわれをポジティヴな気持ちにしてくれるかを、あらためて感じさせてもらっております。
日本陸上も記録はともかくトラックもフィールドも熱戦で楽しかった。

こうしてみると世界のトップアスリートが集結するオリンピックはぜひ見てみたい。
といっても現実をみるとそんな無責任なこともいっていられません。
好き勝手いわせてもらえれば、無人島でやっていただきたい。そうすれば日本人も安心だし、アスリートだって気兼ねなく実力を発揮できるのではないでしょうか。
いまからいっても遅いけど。

では何かミュージックを。
で、思い出しましたが、だいたい1964年の東京五輪でも72年の札幌、98年の長野でもオリンピックが開催される前年あたりに祭典にちなんだ歌がつくられたものすが、2020TOKYOには何か歌があったのでしょうか。もしかしたらあるのかもしれませんが(あるはずです)聴こえてきません。
コロナで自粛ということなのかもしれませんが。

それはともかく、ここではやっぱり野球の歌、それもメジャーにちなんだ歌を。

メジャーの歌といえば7回のストレッチタイムに球場に流れ、観客も唱和する「わたしを野球に連れてって」TAKE ME OUT TO THE BALL GAMEですが、個人的にはこのノスタルジックなオールドタイミーを。

https://youtu.be/R1kNXxV3Ziw

「マギー若き日の歌を」WHEN YOU AND I WERE YOUNG, MAGGIEは19世紀の半ば、イングランド出身のカナダ教師、ジョージ・ジョンソン が書いた詩に、友人のジェームズ・バターフィールドが曲をつけたもの。
若くして亡くなったジョージの妻・マーガレットへの想いを、長生きしたふたりが年老いて、昔の楽しかった頃の想い出を語り合うというストーリーにして綴っています。

はじめて聴いたのはジョージ・ルイスのデキシーでした。その後、テレビで見たメジャーリーグの歴史を紹介するドキュメントの中で、何度も流れていたので耳に残り、わたしの中ではいつしかメジャーを象徴する歌に。今ではこの歌を聴くと、「フィールド・オブ・ドリームス」「エイトメン・アウト」「ナチュラル」「打撃王」といったメジャーリーグを舞台にした映画のシーンが浮かんできます。

ヴォーカルもいいし、インストもいい。とりわけデキシーのクラリネットの懐かしさには思わず目頭があつくなります。
大谷がどういう数字であれ、怪我なく無事シーズンを終了することを祈りつつ、もう一度懐かしい我が心のメジャーリーグ・ベースボール・ソング「マギー」を。

https://youtu.be/wV4aQGnRP5w

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NLCR(ニューロスト・シティ・ランブラーズ) [folksongs]

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https://youtu.be/dIuoJTuhkxA

1958年、キングストン・トリオの「トム・ドゥーリ」によって幕が開いたアメリカの「フォーク・リバイバル」。
その波は英米ばかりではなく、ヨーロッパはもちろん、アジアとりわけ日本にまで達し、ポップスの世界に新しいジャンルをもたらしました。

しかし、それはキングストン・トリオが突然自分ちの納屋から古い歌をひっぱりだしてきたわけではありません。
20世紀になると、何人もの学者や研究者がアメリカの民俗音楽に関心を寄せはじめ、「発掘」を試み始めます。

なかでも、テキサスにそうした研究者を父に持ったアラン・ロマックスという男がおりました。彼はアメリカの民謡やブルーズに限らずイングランド、アイルランド、さらにはカリブの民謡(カリプソ)などまで、各国各地のルーツミュージックを採集・収録しました。
その成果は40年代から50年代にかけて広く知られるようになり、多くのミュージシャンを刺激し、やがてはキングストン・トリオの「トム・ドゥーリ」となったのです。つまり60年代に大爆発を起こしたアメリカン・フォーク・リバイバルのベースになっていたのが、アラン・ロマックスらの民俗音楽研究家たちだったのです。

そして1958年のキングストン・トリオの登場と時を同じくするように結成されたトリオがニューロスト・シティ・ランブラーズ(以下NLCR)。
彼らこそそうしたルーツミュージックの発掘者の「子供たち」だったのです。

メンバーは20代半ばのジョン・コーエンとマイク・シーガー、30前のトム・ペイリーのそれぞれニューヨーク出身の3人。彼らはいずれもギターとバンジョーをこなし、ほかにジョンはフィドルを、マイクにいたってはほかにドブロ、オートハープなど弦楽器ならなんでもOKというユーティリティ奏者でした。

また、マイクは父親が民俗音楽を研究する学者であり、異母兄のピートとともに若くしてその影響下にありました。

その3人が時代の「求心力」に引かれるべくして集まり結成されたのがNLCRでした。
60年代にフォークウェイズというレーベルから何枚ものレコードを出すことになる彼らですが、そのポリシーは1920年代、30年代に録音されたSP盤を決して「今様」にソフィスティケートすることなく、当時の演奏スタイルを踏襲して再現する、ということでした。もちろんすべてアンプラグドであることはいうまでもありません。


https://youtu.be/s5YuvO5b4Bg

藍色の海に出た船乗りSAILOR ON THE DEEP BLUE SEA
英国でよくうたわれた、いわゆる「海の歌」sea song で、遭難事故で愛する彼を失った女性の悲しみをうたっております。日本のNLCRファンにも人気の歌。

いちばん年長のトム・ペイリーは、レッド・ベリーやウディ・ガスリを聴いて育ち、3人のなかではもっとも早くからルーツミュージックに関わり、NLCR結成前に、アパラチアのマウンテンミュージックを採録しレコーディングしています。また、彼の両親はコミュニストで、その影響も強く、第一次のNLCRが4年余りで解散したのも、そうした思想信条の違いからだといわれています。トムがメンバーから抜けたあと、代わりにはトレイシー・シュワルツが加入しています。

9枚のレコードを出してからNLCRを離脱したあと、別のグループを結成し、拠点をイギリスに移して英語圏ばかりでなく北欧のフォークソングにも関心を寄せていきます。そして2017年、89歳でイギリスで亡くなりました。

https://youtu.be/3izAqRJKngM

直訳すると「ルイビルの泥棒野郎」Louisville Burglar。
ルイビルで正直者の両親に育てられたのに、酒とギャンブルに明け暮れついには窃盗事件を起こして、可愛い彼女とも娑婆ともおさらばして牢獄につながれちまった、という男の悲劇がうたわれております。

アメリカ人はこうしたアウトローの歌というか、下獄する犯罪者の歌が好きなようです。
そういう犯罪者を面白がっているのか、共感しているのか、よく解りませんが。
日本にも鼠小僧とか、白浪五人男なんかの「ピカレスクソング」が無くはありませんが、アメリカほどではありません。
さらにいえばアメリカのルーツミュージックは実話が多く。このルイビル・バグラーもそうなのかもしれません。
ちなみにルイビルはケンタッキーの大都市で、モハメド・アリの出身地でもあります。余分なことですが。


ジョン・コーエンは3人のなかでも最もクリエイティヴな感性を持ち、多彩な分野で活動したアーチストでした。
演奏活動のほかにも、音楽プロデューサー、写真家、映像プロデューサー、大学教授として後に続く若者たちに少なからず影響を与えました。

ルーツミュージックはジョンの生涯のテーマであったようで、写真家としてはガースリィ、ディランやビートニク作家のジャック・ケルアックたちをそのフレイムに納めています。また、「カーター・ファミリー」やマウンテン・ミュージックの世界を描くドキュメンタリー映画のプロデューサーとしてルーツミュージックの紹介、普及に力を注ぎました。
最も長生きしたジョンも2019年に87歳で亡くなっています。

https://youtu.be/F8beZnAhsF0

「埴生の宿を作った男は、独り者さ」MAN WHO WROTE "HOME SWEET HOME"NEVER WAS A MARRIED MAN
歌を題材にした歌というのもおもしろい。
「ホーム・スイート・ホーム」は19世紀のはじめにイングランドでつくられた歌。
我が家がいちばん、いまは旅の途中だけれど、いつかは愉しき我が家に帰ろうという歌。
日本では「埴生の宿」として知られています。

そんな歌をつくった男はきっと、結婚なんかしたことない野郎さ。
くたくたに働き疲れて家に帰ると、女房は早々とベッドの中で大いびき。起きていてもケンカになって麺棒でどやされる、睡魔に襲われても赤ん坊が泣き叫んで安眠できない。これが「スイート・ホーム」の現実だぜ、だから「埴生の宿」をつくった野郎は家庭のことなんかまるで知らない野郎なのさ。
というシニカルかつユーモラスな歌。

3人目のマイク・シーガーは前述したように、とにかくどんな楽器でもこなしてしまう多才なミュージシャン。
父親のチャールズ、母親のルースとも作曲家であり民俗音楽の研究家だったため、若い頃からその影響を強く受けていました。とりわけ母親は、アメリカ議会図書館に席を置くア
ラン・ロマックスとともにルーツミュージックの保存に尽力し、作曲家の立場から、いくつものフォークソングのアレンジも手がけていたようです。そうした関係から、レッド・ベリーやウディ・ガースリィがシーガー家を訪れ、マイクも幼いころから彼らと接することがあったとか。

異母兄のピート・シーガーとは当然セッションはしたようで、はじめのYOU-TUBEの「いつも嘆き悲しむ男」Man of Constant Sorrow ではマイクがオートハープによる弾き語りを聴かせてくれています。

ソロアルバムを出すほど音楽的にもすぐれていたマイクですが、3人のなかでは最も早く2009年に亡くなっています。78歳でした。

https://youtu.be/jBp2tSKc1XU

ジョージ・コリンズGEORGE COLLINS
ジョージ・コリンズ氏は冬のとりわけ寒い夜に仕事から帰宅し、あんなに元気だったのに病気になって死んでしまった。といういきなりの悲劇ではじまるこの歌。その知らせを受けた恋人のネリーは取り乱し、墓標にすがりついて泣いたという悲しい死別のドラマがうたわれています。

ジョージ・コリンズ氏が何者なのか、彼の風貌、性格など一切うたわれておりません。
でもジョージというより、コリンズさんは髭を蓄えた英国紳士で、毎日判を押したように朝早く出勤し、夜遅く帰宅するという実直な銀行員かなにかだったのではないでしょうか。近所の評判も良くて。

おそらくこれも実話で、コリンズさんはその死を悼んで歌がつくられるほど、立派な人格者だったのではないでしょうか。
もちろんこれは勝手な想像ですが。確かなことは彼の死を、絶望の淵に立たされたように嘆き悲しむ相思相愛(おそらく)の恋人がいたということです。

60年代から70年代にかけてライ・クーダーやボブ・ディランらのミュージシャンたちにに少なからず影響を与えたニューロスト・シティ・ランブラーズ。

「NLCRのルーツミュージックはもちろん、彼らのバンドネーム、演奏スタイル、ファッション、すべてが好きだったね。いっときは彼らのあらゆる曲を弾き語りして、彼らの音楽世界に浸っていたもんだよ」
と、ボブ・ディランは自伝の中で語っています。

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天使のハンマーって? [folksongs]

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https://youtu.be/8of3uhG1tCI

キングストン・トリオがフォークブームの起爆剤の役割を果たしたとすれば、そのブームを爆発的に広め、とりわけ女性のフォークファンを増殖させたという意味で、日本のフォーク、さらにいえばポップスに多大な影響を与えたのがピーター・ポール・アンド・マリー(PPM)でしょう。
その曲をからだで感じ、絶叫でレスポンスしたのがビートルズファンならば、その曲をハートで感じ、つつましく口ずさんでみたのがPPMファンではなかったでしょうか、なんて。

ニューヨーカーのピーター・ヤーロウ、ボルティモア出身のノエル・ポール・ストゥーキー、それにケンタッキー州ルイヴィル出身のマリー・トラヴァースの3人が61年に結成し、翌年より多くのヒット曲をリリースした。とりわけ時代を反映したベトナム戦争へのプロテストソングをいくつもうたい、多くのファンに支持されたことが特筆されます。

実際、3人ともリベラルな考え方で、とりわけ穏やかな顔のピーターは政治活動、反戦活動に直接かかわった。反戦歌は彼の影響が大きい。ポールは信仰心が篤く、アルバムには「ソーリン」や「ヨルダン河」といった聖歌がいくつもみられます。マリーは両親がジャーナリストでその影響からか、やはりリベラルな思考がつよく、デビュー前はピート・シーガーのバックコーラスの一員だったこともあるとか。

https://youtu.be/P5Yx8cg6Gpg

レモン・トゥリーは1961年の彼らのデビュー曲。
父親が子供に自分の失恋談をレモンの木にたとえてさとす。「レモンの木は美しく、花は香ばしい。でもその酸っぱい実は食べられない」と。50年代にウィル・ホルトがブラジルの民謡をヒントにつくったといわれます。
トリニ・ロペスのカヴァーも知られています。トリニ・ロペスはそのルールであるラテンばかりでなく、カントリーやフォークもうたってしまう不思議なシンガーでした。

https://youtu.be/Xu-DWUngjhk

いわずと知れたボブ・ディランの作品。
邦題「くよくよするなよ」は名訳です。
早い話、ハートブレイクソングで、愛してくれなかった彼女に対して、また去っていかなければならない自分に対して、「しょうがないよ、でもこれでいいんだよ」と強がり、慰めています。

個人的にも、はじめてこの曲を聴いたのはディランではなくPPMで。ポールのスリーフィンガーがとても魅力的でした。アメリカでもヒットしたのはPPMが先だそうです。

この歌はヒットしたことももちろんですが、多くの後輩ミュージシャンたちに影響を及ぼした歌ではないでしょうか。それほどカヴァーするフォーキーやポップシンガー、さらにはカントリーシンガーが多い。日本のフォーキーたち、とりわけ「ディラン党」には「風に吹かれて」以上に影響を与えた歌ではないでしょうか。友部正人をはじめ。

https://youtu.be/zVQAhhlq798

悲しみのジェットプレインは1967年にアルバムに収録。2年後にシングルカットしたところビルボードのポップチャート1位となった歌。数あるPPMのフェヴァリットソングのなかでも、いちばん好きな歌です。

元々はジョン・デンバーの作品で、はじめはタイトルも歌詞に出てくる[Baby, I hate to go](恋人よ、行きたくないんだ)だった。PPMがこの歌をシングルカットした同時期、ジョンも新タイトル「悲しみのジェットプレイン」として再リリースしたそうです。

空港での別れをうたった歌で、去っていくのが男。残されるのが女。のようです。
「僕を待っていると言ってくれ」「もう一度抱きしめて、キスしてくれ」「どこへ行こうが、君のことは忘れない」「帰ってくるときは、エンゲージリングを捧げるよ」といまだ相思相愛のふたり。でも「いつ帰ってこれるかわからない」とも。
いったい彼は愛する恋人を残してどこへ行こうというのでしょうか。
もちろん旅行ではないし、仕事での出張とも考えられない。もしかしたら、兵役につくのかも。さらには、その後ヴェトナムへ赴くことになっているのかもしれません。
そうならば、およそ日本では考えられない別離だともいえます。

https://youtu.be/GIbzPNTxSHY

1962年の「虹と共に消えた恋」。この歌も日本でヒットしました。哀調を帯びたマイナーチューンで戦争へいった恋人を嘆き悲しむ歌詞が、平和ニッポンの若者たちにも共感をよぶことに。

この歌は1860年代といいますから南北戦争期にうたわれていたトラディショナルソング「ジョニーは行ったの兵隊に」がベースになっています。
さらにいえばこの歌のルーツはアイルランドの伝承歌「シューラ・ルゥ」Siúil A Rúnだといわれています。内容は恋人や夫を戦地に送り出してしまった女性の悲しみや淋しさを歌ったもので、シューラ・ルゥとはゲール語(アイルランドの言葉)で旅立つ人の無事を祈る言葉だとか。

ほかにも「500マイル」、「悲惨な戦争」、「勝利を我らに」、「わが祖国」、「戦争は嫌だ」、「風に吹かれて」、そしてピート・シーガーの「花はどこへ行った」、「天使のハンマー(ハンマーソング)」など聴きたい曲はいくつもありますが、キリがありません。

マリー・トラヴァースが亡くなってもう10年以上が経ってしまいました。毎日のようにPPMを聴いていた時代からなら半世紀以上が過ぎました。J-POPやK-POPに夢中になっている音楽好きの若者のどれくらいがPPMを、またその歌を知っているでしょうか。
ポップソングの宿命といえばそれまでですが。

最後に「日本のPPM」の一曲を。
六文銭を結成する前の小室等が「レモン・トゥリー」に衝撃を受けて1963年に結成したのが「PPMフォロワーズ」。その一曲を。

https://youtu.be/c1QkvsfgytQ



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フォークはどこへ行った [folksongs]

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https://youtu.be/kguj_dz9JjI

昭和40年代、日本の隅々にまで浸透したフォークソング。
吉田拓郎も井上陽水も五つの赤い風船も南こせつとかぐや姫も、すべてはその10年余り以前、西暦でいうと1958年に全米を席巻したこのトリオの登場からはじまったのでした。

https://youtu.be/wfTDFy4Z2O4

キングストン・トリオはハワイ生まれのデイブ・ガード(ギター)とボブ・シェーン(ギター、バンジョー)、サンディエゴ出身のニック・レイノルズ(ギター、パーカッション)の3人がカリフォルニアで結成したポップス・トリオグループ。当初はハワイアンやカリプソを演奏していたとか。「キングストン」(ジャマイカ)というトリオ名がその指向を象徴しています。

トム・ドゥーリ、この歌でアメリカのフォークリバイバルがはじまります。
歌の内容はいわゆる「人殺しソング」で19世紀のノースカロライナで、トム・ドゥーリ(ドゥラ)によって惹き起こされた愛人殺人事件がうたわれています。

ノースカロライナはアメリカ東海岸に面し、アパラチア山脈沿いにある州で、まさにアメリカ音楽のルーツのひとつであるマウンテンミュージックの宝庫。
そんななかで生まれたトム・ドゥーリもトラディショナルソングです。

元歌を聴いたわけではありませんが、多分、その歌のケバや凹凸をカンナ掛けしその時代風にしたものがキングストン・トリオの「トム・ドゥーリ」なのでしょう。

しかしアメリカ人(だけではないけど)ってなんでこういう残虐な歌が好きなのでしょうか。「オハイオの岸辺で」なんかもそうですし。昨年はボブ・ディランがケネディ暗殺をうたった「最も卑劣な殺人」をうたって(何で今?)少し話題になりました。
日本では不謹慎と言われてしまいそう。オウムや大量殺人について歌にしようというミュージシャンはまずいません。犯人にというより被害者に配慮しているのでしょうか。

この歌のヒットにより全米でフォークブームが起こります。もちろんビフォア・ビートルズです。
そして60年代に入り、ベトナム戦争が勃発し、アメリカの若者たちは徴兵という現実の中で死に直面していきます。
今アメリカで問題になっている「アジア人(主に黄色人種)への暴力事件」は、白人の何割かに確実にある東洋人への潜在的蔑視思想でしょう。いや白人だけじゃないですね、黒人もまたというか、の方が顕著ではないかとすら思えるアジア人へのヘイト行動。ただ、黒人は白人からの被差別があり、「被差別が差別を産む」という面があり100万分の一くらいは同情できないこともないのですが。

https://youtu.be/ecyI0SM85YE

日本でキングストン・トリオの代表曲といえば、「トム・ドゥーリ」ではなく、おそらくピート・シーガーの「花はどこへ行った」ではないでしょうか。歌の内容がワールドワイドの分。また、彼らのビジュアルではおそろいのストライプ柄のボタンダウンがカッコよかった。ビーチ・ボーイズもそうでしたけど、当時日本でも流行りました。たしか。

20世紀最高のプロテクトソングといわれるこの歌は、ピート・シーガーがショーロホフの小説「静かなるドン」を読んでいてインスパイアされて詞を書き上げたといわれていますが、そうではないという評論家も。小説を読んでおりませんので何ともいえませんが。
とにかくピートの作品(補作者はいる)であることには異論はないようです。近年100歳をまたずに亡くなったピートは1940年代のアメリカの錯乱「赤狩り」の標的にもされた筋金入りの反戦・平和主義者です

このピートのある意味「ただの反戦歌」だった歌を、その美しくドラマチックな詞ゆえ、とりあげて洗練された世界的フォークソングに仕立てたのがキングストン・トリオでした。1961年のことです。

ディランの「風に吹かれて」が1963年ですから。それに先がけてのキングストン・トリオによる「プロテストソング」でした。
ジョーン・バエズやブラザース・フォアやPPMといったフォーキーばかりでなく、ドイツの大女優マレーネ・デイトリッヒがカヴァーしたことでも世界的な歌となりました。
日本でも雪村いずみやザ・ピーナッツ、梓みちよなどがカヴァしています。女性が多いということはキングストン・トリオよりはPPMやジョーン・バエズの影響のほうが強かったのかも。

https://youtu.be/Miq1lfb2AwI

これもファースト・アルバム「キングストン・トリオ」に収められていた一曲。元はカリプソソング(バハマの民謡)で、多くのフォーキー、あるいはビーチ・ボーイズも取り上げている名曲です。
スループとは帆船のかたちで、1本マストの帆船のこと。
邦題はキングストン・トリオ盤では「ジョン・B号の遭難」、ビーチ・ボーイズ盤では「ジョン・B号の難破」となっておりますが、内容は「俺と爺さんの航海記」でケンカ沙汰や警察沙汰があった最悪の航海となり、早く家に帰りたい、という外国のフォークソングにありがちな荒唐無稽な話。
でも座礁とか遭難なんて話は出てきません。はじめにタイトリングした人が船のトラブルだから「遭難」じゃないか、なんて思ったのでしょうか。
日本ではウルフルズが日本語でうたっています。もはや航海でもなんでもなくなっておりますが、「家へ帰りたい」というホームシックソングであることは同じです。

とにかくモダンフォークの魁となったキングストン・トリオの功績は大きい。冒頭にもふれましたが、日本にも輸入され、それを日本風にアレンジした和製フォークが爆発した1960年代後半、その影響で空前のフォークギターブームが起きました。これは60年代のエレキギターブームを遥かに凌駕するもので(アンプがない分誰もが遠慮なく自室で掻き鳴らすことができた)、わたしもその時代に乗った(乗らされた)ひとりです。

実は1950年代後半、アメリカでも空前のアンプラグドのギターブームが起きたのですが、そのきっかけとなったのがこのキングストン・トリオの登場にあったといわれています。
この時ギターを手にして弦を掻きならした若者の中から、のちにどれだけのミュージシャンが誕生したことか。ボブ・ディランもそうした一人だったそうです。

そんなキングストン・トリオですが、なぜか評価がいまひとつ。
多分、50年代後半彼らによって勃発したフォークブームが、60年代に入りベトナム戦争という時代背景もあって、プロテストソングが主流になっていったからでしょう。そしてその担い手としてピート・シーガー、ボブ・ディラン、ジョーン・バエズ、PPMたちが抬頭してきます。

そんななかにあってキングストン・トリオは政治的中立を保ち続けたといわれます。「花はどこへ行った」もおそらく、反戦歌というより、抒情歌としてうたったのではないでしょうか。「俺たちはノンポリである」「反戦歌はうたわない」というグループがいたってかまわないのですが。

1849年にカリフォルニアで起こった「ゴールドラッシュ」。30万人あまりの人間が殺到し僻地だったサンフランシスコは一夜にして(大袈裟です)都市へと変貌したといわれています。では、はじめてその金脈を掘り当てたのは誰なのか。
それはニュージャージー出身のカーペンター、ジェームズ・マーシャルだと歴史書に記されています。
それに倣えば、アメリカン・モダンフォークの先駆者としてのキングストン・トリオも、ジェームズ・マーシャルに匹敵するくらいの功績があり、アメリカの、いや世界のポップミュージック史の1ページに記されてもいいし、きっとその名をとどめるはずです。
なお、昨年、最後のオリジナルメンバー、ボブ・シェーンが亡くなっています。


https://youtu.be/10oDs-S7yC0

おまけの一曲。
アメリカというより、世界のポップミュージックのモニュメント的ソング「トム・ドゥリー」はファーストアルバムからシングルカットされた一曲ですが、実はこの歌、セカンドシングルなのです。ファーストシングルはアルバムの前に出した「スカーレット・リボン」(B面?はスリージョリー・コーチマン)。
1949年に書かれたもので、父親が娘のために赤いリボンを買ってあげようと思うのですが、町じゅうどこを探しても売っていなくて、途方に暮れて家へ帰り、娘の寝ている部屋をのぞくと、ベッドの上にたくさんの覚えのない赤いリボンが散乱していたという幻想的な歌。
この歌もアメリカでは多くのシンガーにカヴァーされているよく知られた歌です。




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七色ばたけに 妹の [folksongs]

イギリスの農村.jpg


桜は散って選手交代、はやくもツツジが咲いていました。

それどころかチューリップも。
桜は入学式、卒業式のイメージがありますが、ツツジやチューリップは新学年のイメージ。

そのほかタンポポはもちろん名の知らない花がまさに百花繚乱。
いつも通る公園の花壇での話ですが。

さらにはモンシロチョウまで。
モンシロチョウが赤い花々の上で躊躇しているのを見て、わたしの脳内蓄音機の針が下り、
♪緑のそよ風 いい日だね
と懐かしき歌が再生されました。

♪ちょうちょうもひらひら、……

そのあとがでてきません。
♪七色ばたけに 妹が……

またストップ。
以前にもこんなことがあったような。デジャヴか。

童謡唱歌はわが脳内アーカイブスのなかでも最も奥にあるというか古いもの。そういうものから順番に壊れていくんだな。

まあ、家へ戻ってパソコンくんに訊ねてみれば答えはすぐに出てきます。
でも、家へ着いたときにはすでに「歌を忘れた」ことを忘れていたりして。
まぁ、そんなことを心配しても埒はあきません。
まさに春爛漫ではありませんか。
暖かくなると思って一枚脱いできたのですが、もう一枚脱ぎたい気分。中途半端な「緑のそよ風」の鼻歌をうたいながら気分の良い公園の帰路でした。

さて帰宅して、ひと休みしたら音楽を。
ひとり童謡を聴くというのも恥かしいので(誰もいないのに?)、「緑のそよ風」にちなんで「みどりの歌」を。
これは内外たくさんあります。
イージーですが「緑の地平線」とか「緑の風のアニー」とか「グリーン・グリーン」とか「グリーン・アイズ」とか、「グリーン・オニオン」とか。

でも今日は、いちばんはじめにレコードを買ったフォークグループ、ブラフォーことブラザース・フォアの「グリーン・ソング」3曲を。

はじめは前述した初めて買った洋楽レコード。とうじ聴いていた洋楽のなかではマイナーチューンが新鮮でした。

https://youtu.be/dERADmL8fAE

つぎは映画「アラモ」の主題歌。デイビー・クロケットに扮するジョン・ウェインが自ら監督しました。ほかにジム・ボウイのリチャード・ウィドマークほか錚々たるメンバーの西部劇でした。3時間以上の大作でしたが飽きませんでした。
作曲は「真昼の決闘」や「OK牧場の決闘」のデミトリー・ティオムキン
たしか、この映画より前に観たやはり長時間映画でチャールトン・ヘストンが主演した「北京の55日」(これもティオムキン)の主題歌もブラフォーがうたっていました。

https://youtu.be/GRPPKZzClWE

さいごは、イングランドのトラディショナルソング。いまとなってはこのなかでは一番好きな歌です。「緑の袖」にはいろいろな意味があるようですが、届かぬ愛の悲しみが伝わってきます。

https://youtu.be/cKUZq-MRkwA

冒頭の「忘れな歌」ですが、帰って調べました。
♪ちょうちょうもひらひら 豆の花
でした、「そうだった!」とはならず、へえそうだったのか、という感想が悲しい。
♪妹の つまみ菜つむ手がかわいいな

もはや「妹の」を「妹が」と違えていましたし、「つまみ菜」もまさかの「初耳」。でも♪……手がかわいいな
は「そうだった、そうだった」と記憶がよみがえり、すこし嬉しかった。

3番の「草野球」をする場面も思い出しました。
ああ、いつまで覚えていられることやら。

最後にオマケでYOU-TUBEでみつけた「緑の袖」をもう一度。

https://youtu.be/VFfvsLrepCM


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