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東京の空の下シャンソンは流れる [ワールドミュージック]

青天03.jpg

秋晴れでした。
今日の空は久しぶりに一片の雲もなく……、という青天でした。
ただこちらの目が老化しているということもあるのかもしれませんが、なんとなく燻んだ青でした。東京の空はこれが限界なのか、むかし見たなんともいえないスカイブルーではなかった。

でもやっぱりここは間違いなく東京の空の下。
もしパリであったらパリの空の下。セーヌこそ流れておりませんが、多摩川、荒川、隅田川、江戸川と流れる川に事欠きません。
東京の空の下、今日もシャンソンが流れます。

昨日、昭和30年代の日本のシャンソンブームをつくった本場のシンガー、ジュリエット・グレコの歌を聴きましたが、ほかにも数多の歌手たちが日本でコンサートを開き、日本の音楽ファンを魅了していきました。
今回は昭和20年代から30年代にかけて来日したり、ブームをつくり盛り上げた女性シンガー3人の歌を聴いてみたいと思います。

昭和28年、戦後(戦前も?)初めて来日したシャンソン歌手がダミア。
第一次世界大戦の大正時代からうたっていたダミアは貧しく暗い少女時代を経て歌手になった女性で、代表曲のひとつ「暗い日曜日」Sombre dimancheは、その歌を聴いて自殺をした人が10数人も出て、公権力から「歌唱中止」を宣告されたいわくつきの暗い歌

恋人に去られ、ひとり「愛の巣」へ戻ってきた女性の絶望的な孤独をうたったこの歌のレコードは戦前日本にも入ってきて、そのエピソードともどもよく知られていました。しかし、当時そして戦後もよく聞かれたダミアの歌といえば「人の気も知らないで」Tu Ne Sais Pas Aimer。日本では淡谷のり子がカヴァーしていました。

https://youtu.be/K1vEg3NZUJ8

ほかでは「人の気も知らないで」と同じく日本でいう大正時代につくられた「かもめ」Les Goélandsもありましたが、もう一曲は出演した映画「モンパルナスの夜」の中でうたっていた、監督のジュリアン・デュビヴィヴィエ自らが作詞したという「哀訴」Complainte、

https://youtu.be/qt2G_kKctIY

そして日本のシャンソン発展に最も貢献したといわれるのがイベット・ジローYvette Giraud。
なにしろ1955年の初来日から40年以上にわたってほぼ毎年のようにコンサートを開き、大都市ばかりでなく地方都市でもシャンソンの魅力を伝え続けたといいますから、まさにシャンソンの「伝道師」。その功績が評価され1994年には勲四等宝冠章を受賞しています。

イヴェットについて興味深いのは自伝に書かれたエディット・ピアフと彼女の作詞した「愛の讃歌」 El poder del amorに関するストーリー。

イヴェットは1917年生まれですが、レコードデビューが戦後の1945年12月という「奥手」。
1歳年上で「姉貴的」存在だったエディット・ピアフとはたびたびカフェなどで共演したようで親密な交流があったとか。

あるとき、ピアフは代表曲のないジローに曲を書くことを約束した。そして1948年、その約束が果たされることに。ジローが巴里のピアフの家にゆくと、すでに作曲家のマルグリット・モノーが来ていた。そしてジローの目の前でモノーはピアノで、ピアフは紙に鉛筆を走らせ、新曲を書き上げてくれた。それがあの「愛の讃歌」でした。

そして翌年レコーディング。しかしその直後「愛の讃歌」の発売は中止となってしまった。それはレコーディングの数日後、ピアフの身に重大な事件が起こったからでした。恋人だったボクシングミドル級の世界チャンピオン、マルセル・セルダンが飛行機事故で亡くなってしまったのです。
ピアフはその悲痛な思いをジローに伝え、マルセルへの思いを綴ったこの歌は誰にもうたわせたくない、わたしだけのもの。だからあなたもうたわないで、と言ってきたのでした。

ジローが「愛の讃歌」をレパートリーに加えるようになったのは、ピアフが亡くなった1963年以降からだとか。日本のコンサートでラストを飾るのはほとんどこの「愛の讃歌」だったようだ。
ピアフの「愛の讃歌」については異説もありますが、もはやピアフもジローもおらず、真偽のほどはわかりませんが。イヴェットの「愛の讃歌」の動画がみつからなかったので代わりに「ポルトガルの洗濯女」Les lavandieres du portugalを。

https://youtu.be/a6xW_houRpY

もう一曲は代表曲「あじさい娘」のほか、日本で支持されたシャルル・トレネの「詩人の魂」やセーヌ川にかかる橋に人生をなぞってうたった「ミラボー橋」など彼女の名唱はいくつもありますが、日本だけでなく、世界的にヒットしたというこの歌を

https://youtu.be/sWLH3FAuIe4


最後は、なぜか来日することがなかったにもかかわらず日本でも多くのファンに支持されただけでなく、日本のシャンソン歌手たちからも好んでその歌がカヴァーされたという歌姫、リュシエンヌ・ドリールLucienne Delyle。

戦前からのシンガーですが、いわゆるメジャーになったのは戦後で、1947年、フランスの解放後初のディスク大賞に「私にくちづけを」Embrasse moiが選ばれてから。
不実な男と別れることができず、すべてわかっているからキスして、と彼の腕に抱かれる恋心をうたったこの歌でその名を浸透させていきます。

https://youtu.be/2U6gLW5DvZA

さらに彼女の人気を決定的にしたのは1956年に発表しADFのディスク大賞を受賞した「ジャヴァ」java。

https://youtu.be/SHTJaS0xhWU

ジャヴァとはパリに古くから伝わるフォークダンスのようで、この歌の場合は演奏家に弾かれているアコーディオンをそう呼んで話かけるという設定。♪何してんのよ、屋根で転んだ猫みたいね とか♪わたしを田舎者あつかいしないでよ などと軽口をたたき、結局は♪私は(あんたと同じように)そのアコーディオン弾きに抱かれたいのよ と本音を吐露するという歌。

残念なことにこの翌年あたりから彼女は体調をこわし、ベッドに伏せることが多くなり1962年、白血病で帰らぬ人となります。

ところで彼女の日本で最も知られ、うたわれている歌といえば「サンジャンの恋人」Mon amant de Saint-Jean 。
フランスの南にある村サン・ジャンの祭りの高揚のなかで心を奪われてしまった若者への激しい思いをうたったラブソングは哀愁を帯びたメロディーとあいまって日本のシャンソンファンの心を捉えたようです。

https://youtu.be/cgxi7TKY-D8

ただ、この歌は戦前の歌で、戦後再評価されたということでしょうか。少なくとも日本ではリュシエンヌの歌はすべて戦後からですから、「新曲」ともいえる歌だったのでしょう。
それこそ石井好子、中原美沙緒、あるいは金子由香利、大木康子から最近のシャンソン歌手まで、ほとんどの女性歌手(男性もいます)がカヴァーしているといってもいいのではないでしょうか。
そんなわけですから日本のシャンソン歌手でも一曲。
いろいろなシンガーのカヴァーを聴いてきましたが、?十年前に初めて聴いたとき、その(年上の)女の若者を思う歌声に鬼気迫るものがあったこの歌を。

https://youtu.be/852cG13bUX8

最後にリュシエンヌ・ドリールのオマケの一曲を。
1953年といいますから、日本のシャンソン夜明け前の昭和28年、なんと彼女はカントリー&ウエスタンをカヴァーしておりました。それもハンク・ウィリアムズの名曲を。

https://youtu.be/n91TjELB-G4

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愛しのイザベル [ワールドミュージック]

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明日はシャルル・アズナブールの命日。3年前の10月1日、彼は自宅である南フランスのムリエスで亡くなっています。死因は心不全ということで、94歳でした。まぁ、大往生といっていいのだと思います。

驚くべきことは、ラストコンサートがその2週間あまり前の9月18日だったということ。さらに驚くのが、その場所がNHK大阪ホールだったということです。
その2日前には東京のNHKホールでも公演が行われており、彼の最後の舞台が日本だったということは、ファンにとっては強い印象を残したはずです。

地元ではもちろん、世界的にも知られたシャンソン歌手で、日本でもイヴ・モンタン、サルバトーレ・アダモと並んで人気でした。
戦後デビューしたアズナヴールは、フランスではその黒人ぽい声も相まって「ジャズ風のシャンソン」という評価だったようです。60年代の歌はしばしば聴きました。そんな歌をいくつか。

世界的にもっとも知られた歌はシャーリー・バッシーやアンディ・ウィリアムズなど多くのアメリカのポップシンガーにうたわれた「帰り来ぬ青春」Yesterday when I was young ではないでしょうか。カントリーでもグレン・キャンベル、ロイ・クラーク、ウィリー・ネルソンらがうたっております。

https://youtu.be/bHokx2L1wi4

原題は1964年につくられた「昨日もまた」Hier encore で、20歳のころの愚かだった自分を振り返り、後悔の念にさいなまれる日々をうたっております。
どれだけ多くの無謀な夢を描いていたことか、時間が過ぎ去るのがいかに速かったことか、そして何人もの人たちが自分の元から去っていったことか。
と嘆いております。「まぁ、それが青春なのだよ」といわれれば、それまでですが。とりわけ齢を重ねますと身に染みてまいります。

つぎは「帰り来ぬ青春」の前年につくられた「ラ・マンマ」La mamma。

https://youtu.be/mCDbvxeJVhc

直訳すれば「母」で、日本でいえば「かあさん」「おふくろさん」「お母さん」「母の歌」とか。そんな母親讃歌の歌は日本でもいくつもあります。
ただ、アズナヴールの「おふくろさんよ」は母の死に親類をはじめ多くの人が集まり、その想い出にふけり、みんなで母の魂をなぐさめる「アベ・マリア」を合唱するというドラマチックな設定。

この歌は彼のキャリアのなかでも特筆すべきヒット作品といわれ、ある本にはこの歌で1800万フランを稼いだとも。日本円にしたらいくらなのかわかりませんが、その当時の無名の歌手がレストランでうたって(何度か?)50フランだったといいますから、それを5000円とすれば(いい加減)1フランは100円ということに。
そのレートを当てはめてみると当時「ラ・マンマ」は18億円の売上があったということに。その期間がひと月なのか、1シーズンなのか、1年なのかはわかりませが。またその当時のアズナブールのひと晩のギャラはフランスでも最高位で、3万フランだったといいますから、前の計算でいえばワンステージ300万円ということになります。これも多いのか少ないのかわかりませんが。

最後は、フランス国内ではどの程度ヒットしたのかわかりませんが、日本では「ラ・ボエーム」や「愛のために死す」と並んで高く支持された1965年の「イザベル」Isabelle。

https://youtu.be/GZPnUMWtih0

突然自分の目の前に現れ、おだやかだった心を嵐のようにかき乱すイザベルへの激愛をうたっております。イザベルのためなら運命を委ねてもいい、イザベルが死んだら私は永遠に彼女の影を愛し続けるだろう、と。[Love is Blind]とはいいますが、死んでもいい、と思うような恋なんて、……してみたかったなぁ。

この歌は半分以上がシャンソンにありがちの「語り」で、そのためかほとんどカヴァを聴きません。日本の女性シンガーでうたっている人もいますが、作品にしているのは笑福亭鶴光が「イザベル 関西篇」と題したコミックソングだけ。
歌の延命のためにも誰かうたってくれないもんですかねえ。終章の語りから歌になる部分や、全般を通して流れるバロック風の伴奏などすばらしい歌だと思うのですが。

パリっ子のアズナブールは、父親が「酒場の歌手」だったようで、幼いころから芸事をしこまれ、11歳でダンサーとして舞台デビューしています。
彼が本格的な歌手活動をはじめるのは30過ぎてからと奥手なのですが、それまでは作詞家、そして作詞・作曲家としてヒット曲を世に出していました。もちろんその間でも自作自演でうたっていましたが、シャンソニエとして舞台に立つ決心をしたのは、ピアフやトレネ、パタシューらの助言があったからだといわれています。

そんなわけでオマケは彼が作詞家時代につくった歌で、ジルベール・ベコーが作曲し自らうたった1953年の「メケ・メケ」Méqué méquéを。アズナブールの歌唱もYOU-TUBEにありましたが、ここは日本のシャンソニエに。
うたっているのは当時の新進シャンソンシンガーの丸山信吾。銀座の「銀巴里」や神田の「ラドリオ」でうたっていたそうです。
日本でも話題になった歌で、訳も分からないままメケ・メケという言葉(それがどうした、という意味)が流通していたようです。
わたしも子どもながらに「メケ・メケのバッキャロー」(そう聴いた記憶があるのですが)という歌詞が耳に残っておりました。リュシエンヌ・ボワイエの名曲(バラ色の人生ではありませんよ)もついております。

https://youtu.be/y3w5LiMrQEw

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歌う女歌わない女 [ワールドミュージック]

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カラオケ文化は日本発のワールドワイドな遊びだそうです。
わたしがカラオケに初めて遭遇したのは1970年代も終ろうとする頃。
先輩と地方都市へ出張したときのこと。
とどこおりなく仕事をこなし、夜は先輩馴染のスナックでお疲れさんの一杯二杯。

宴もたけなわってほどでもなかったけれど、先輩の一連の今日の反省、アドバイスが終ると、やおらママさんからマイクと歌詞の書かれた歌本を受け取り、店の女の子が差し込んだ8トラックのカセットから流れる重厚な演歌のイントロに続いて、吠え、いや歌いはじめたものでした。
忘れもしません、当時そこそこ流行っていた李成愛の「釜山港へ帰れ」。
先輩のダミ声はジャマだったけれど、初めて聴いた伴奏はそこそこ酒の入った脳みそをさらに気持ちよくさせてくれました。

カラオケ初体験といっても、聴くだけで自らマイクを握ることはありませんでした。
わたしだって、幼いころから神戸一郎や島倉千代子を聴いて育ってきたくらいで、歌謡曲は大好き。もちろんいま流行りの歌のひとつやふたつ歌詞カードを見なくたって歌えました。

先輩、♪逢いたいあなた~ とうたい終ると、「次は〇〇くん、なんかやれよ」と、マイクと歌本をわたしに向けます。
「いやぁ、ぼくは音痴ですから」
とお決まりの「社交儀礼的遠慮」。
それでも「そんなこと言わずに下手でもいいから、なにかうたえよ。それが新人の役目だぞ」とかなんとか言われて渋々うたう。というのがお約束のヤリトリだと思っていたのですが、「音痴」を真に受けられ、他に客がいないことをいいことに「そっか、じゃうたうか」と先輩、ふたたび歌本をめくりはじめます。

それから延々、ママとのデュエット「東京ナイトクラブ」などを挟んだ先輩のワンマンショーにつき合わされることに。まだカラオケボックスなどなかった頃の話。

ちょうどこのカラオケ初体験の頃、アニエス・ヴァルダのフランス映画「歌う女歌わない女」が公開されていた。
その映画は観ませんでしたが、「歌う、歌わない」というタイトルから連想される言葉がなぜか脳裏に沁みつきました。

カラオケのなかった時代、日本人は圧倒的に「歌わない人」が多かった。

宴会や祝事でうたうのはほとんど「のど自慢」で、他の参加者は手を叩いて調和しました。なかには小さく口ずさんでいた人もいましたが。
もちろん歌が大好き、うたうの大好きという人もいました。そういう人は職場のコーラスサークルに入ったり、地域の合唱団に入ったり、はたまた歌声喫茶に入り浸ったりして「歌う人生」を謳歌していたのでしょう。

それが経済成長がピークを迎える頃、「カラオケ」なる「歌う人育成マシーン」が登場し、昭和が終ろうとするあたりには、うたうことを隔絶された密室で愉しむことができるというカラオケボックスなるものが登場し、日本人は一気に「歌う人」がマジョリティになっていったのでした。
ということは多くの人は、もとから「歌う人」になりたかった、うたいたかったんですね。
そういう意味ではカラオケは人間のある部分を開放させた画期的な発明だといえます。

今回はYOU-TUBEでみつけた「歌う女歌わない女」を。

まずはじめは、「えっ? うたうんじゃないの…」という女というか少女を。

https://youtu.be/PqMr0zqHXQw

カーリング・ファミリーはスウェーデンのスウィングバンド。
ピアノはもちろんラッパなら何でも、というメインヴォーカルのガンヒルド・カーリング姐さんが率いるまさに家族・親戚楽団のようです。

セーラー帽をかぶった女の子はガンヒルド姐さんの娘・イドゥンちゃん。
演奏が開始されて早々にフレイムインしてきた彼女、「うたうな」「アンドリューズ・シスターズ並にお母さんにハーモニーを付けるのかな」「あれ、うたわないのかな」「2コーラスめにイドゥンちゃんのソロか」なんて思ってるうちにステップを踏みはじめ、結局演奏終了。「うたわんのかい!」とツッコミたくなるような「素敵な貴方」でした。


でも見事なチャールストンを披露してくれたから、いいですね。イドゥンちゃんの名誉のために言っておきますと、彼女は「歌わない女」ではなく、ほかのYOU-TUBEでは「アイスクリーム」とか「サニー・サイド」など、ちゃんとうたっております。あまり上手とはいえませんが。名誉にならないか。


次は「歌う少女」を。

フランスの農村で結成されたバンド。
そんな村人たちのセッションを、見物にきたピンクの上着を着た5、6歳の女の子。ポッケに手を突っ込んでおじさんやおにいちゃんたちの演奏に見とれてる。
と思いきや。

https://youtu.be/kZ1WLIA5DuE

イサクとノアはフランスのファミリーバンドの兄妹。
ギターを弾いているのが父親の韓国系フランス人、ニコラスだそうです。YOU-TUBEのトランぺッターとアコーディオニスト(トーマスおじさんだそうです)は正確にはわかりませんが、親類かニコラスの友人であることは間違いないでしょう。
イサクとノアの母親はキャサリンで、これらのYOU-TUBEを撮影しているらしい。

とにかくノアの歌声は幼いのですが、驚くべきはそのリズム感。2コーラス目の入り方に失敗しますが、いとも簡単にリカヴァリー。覚えたてのウィンクも可愛いですね。

イサクとノアのYOU-TUBEもたくさんあります(ルージュの伝言なんかも)が、なぜかラテンが多い。お母さんの影響でしょうか。

ではおまけで少し成長したイサクとノアのラテンを2つ。
まずはエクアドルの「シナトラ」、フリオ・ハラミジョが60年代にヒットさせたという「回想」REMINISCENCIASを。タイトルどおり、恋多き男が死ぬ前にどうしても逢いたひとりの女性への追慕をうたった歌です。

https://youtu.be/6ojh64c0djI

もう一曲はクバノチャント。
オマーラ・ポルトゥンドとコンパイン・セグンドで知られた「20年」Veinte años。こちらも、帰り来ぬ恋人との愛の日々を偲び嘆く歌。ノアちゃんなぜか間奏でベンチャーズの「アパッチ」を弾いてしまうというミステリー。

https://youtu.be/-9d1_W0f4gg

カラオケボックスの普及で日本人(外国人だって)の大半が「歌う女」「歌う男」に。

わたしもずいぶんお世話になってきました。
学生時代の仲間や、仕事での知人と年に何度かは恥かしげもなく鼻声を披露してまいりました。もう数十年も。
歳を重ねるごとに思うことは、結局うたうのは若い頃に聴いたりうたったりした歌。もう無理して最新ヒット曲なんてうたわない(うたえない)。
カラオケボックスとは、唯一誰憚ることなく「後ろ向き」になれる空間(前を見たって何も見えませんから)。なにしろ、あの頃の仲間たちがいるのですから。

それもコロナの影響でもはや2年あまり、過去を共有する仲間と会っておりません。淋しいことです。わたしを含め仲間は年々、気力体力が衰えていくというのに。
いまのわたしは、不本意ながら「歌えない男」なのです。

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ナディア [ワールドミュージック]

黒猫.jpg

ブルーマンデーというよりディープ・ブルーマンデー。

なるべく外出せず、なるべく人と会わず。というのがコロナにうつらない、コロナをうつさない策なのだろうが、生きていくためにもなかなかそうもいかない。

仕事場へ向かう途中のほぼ桜も散った公園。
平日にしては人の姿が多い。半分近くの人あるいは人たちがペットの犬を連れていた。そりゃそうだよな、犬だって散歩したいし、人間だって散歩したい。

犬はコロナに感染しないのだろうか。

そんなときニューヨークの動物園のトラがコロナに感染したというニュース。飼育員から感染したという報道も。ほんとかな。

ほんとうなら、ペットも感染するのではないだろうか。とりわけトラの仲間のキャッツは(ちなみにわたしは猫派です。犬も嫌いじゃないけど)。
でも日本で犬猫が感染した、あるいは死んだというニュースは聞きません。わたしが知らないだけ?

もしペットも感染するとしたら、問題はさらに深刻になります。
なんとも鬱陶しい昨今です。

トラのニュースで耳に残ったのが「ナディア」という彼女の名前。

と同時に脳内蓄音機で鳴りだした曲がこれ。

https://youtu.be/8CQ0TG6A75c


「ラシアン・トゥ・ステップ」 Russian Two Step というロシアのダンスミュージックで、甘いロマの香りがただ寄ってきます。別名「少女ナディア」Nadia というのでトラのナディア嬢から連想したわけです(コマネチは後で気づきました)。

演奏はロシア出身の「トリオ・ヴォロネジ」というフォークバンドで、クラシックからワールドミュージック、さらにはブルーグラス(YOU-TUBEで[She'll be comin' round the mountain]をやっていた)までやってしまうというワールドワイドなバンド。

すべてロシアの民俗楽器でバスバラライカはともかく、アコーディオンが「バヤン」、マンドリンが「ドムラ」というそうです。

近々に緊急事態宣言が発令されるようです。いまの生活がどう変化するのか、しばらく様子をみてみないとなんともわかりません。
面倒くささに棚上げしていた、用事をボチボチとやっていきます。

ブログ作成中に、近所のおばちゃんたちの大声での立ち話が聞こえてまいりました。
「これから、食料品買いだめにいくんだよ、ハハハハ…」
「まったくだよねぇ、ハハハハハ…」

大丈夫かよ、明日から。……笑うしかないか。

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