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細いナイフを光らせて [歌謡曲]

ブルームーン.png

いよいよ9月。
9月1日は「関東大震災」が起きた日で、もうあれから100年経ったという。死んだ父は8歳ぐらいだったようで、被災した本郷の話もしばしば聞いていた。父と同世代の人たちは震災と戦災という二度にわたる大災難を経験していたのだ。
テレビでも関東大震災を他人事ではなく、これから来るであろう大地震とダブルエクスポージャで紹介している。それに今年はなぜか朝鮮人虐殺とそれに関するデマについてとりあげている。森達也監督のそんな映画も公開されるとか。
そうした過去について国もそうだが、東京都知事の反動ぶりはひどい。

福島が艱難をかかえているようで、こちらも気になるが、今回はその福島出身の門倉有希のカヴァを。今年デビュー29年というからやはりベテラン。
平成6年にヒットしたオリジナルの「ノラ」は覚えている。
ハスキーヴォイスで、昼間よりは夜、幸福よりは不幸(これも流行歌には欠かせないテーマのひとつ)な歌が似合う歌手でカヴァも多い。
そんななか、今回は昭和40年代半ばから50年代半ば、つまり1970年代にヒットしたどちらかというとポップスよりの歌を3曲。

まずは、昭和45年(1970)の北原ミレイのデビュー曲。

https://youtu.be/Q71MtJs5gKk?si=zTuJcym20XvkaeLj

「ざんげの値打ちもない」は学生運動がピークだった政治の季節に阿久悠によって書かれたヒット曲。その数年前のGS全盛時に作詞家デビューした阿久悠が作詞家として今後やっていけると手ごたえをつかんだ歌。
はじめて聴いたとき、少女が大人へなっていく断片を、流行歌にはそれまでなかったようなラディカルな詞で描いていたことがとても印象に残った。
「細いナイフを光らせて にくい男を待っていた」とか「鉄の格子の空を見て」(この4番の歌詞はテレビ等ではカットされている)などというフレーズが当時としては衝撃的でかつ、阿久悠にとっては野心的だった。

作曲はその2年前ザ・モップスの「朝まで待てない」でコンビを組んだ村井邦彦。
村井邦彦は慶應のライトミュージック・ソサエティ出身。作曲活動は5年あまりで、60年代末から音楽出版事業や音楽プロデューサーとして活動し、アルファレコードを設立して多くのアーチストを世に送り出した。
代表曲は「翼をください」(赤い鳥、小林潤子)で、ほかには「経験」(辺見マリ)、「エメラルドの伝説」(テンプターズ)、「白いサンゴ礁」(ズー・ニー・ブー)、「雨上がりのサンバ」(森山良子)、「本牧ブルース」(ゴールデン・カップス)、「ある日突然」(トワ・エ・モワ)などのヒット曲がある。
プロデューサーとしては、赤い鳥をはじめ松任谷由実、YMO、小坂忠、シーナ&ロケッツ、ブレッド&バターなどを世に送り出している。

次は田中角栄前首相の逮捕など、ロッキード事件で明け暮れた昭和51年(1976)、流行歌の世界ではやがてカリスマになる女性シンガーのブームがはじまろうとしていた。

https://youtu.be/AfheYPuC7ac?si=asSBjo7SB6zsIOTG

「横須賀ストーリー」は昭和43年(1968)14歳でデビューした山口百恵13枚目のシングル。2年前の「冬の色」に次いで2回目のオリコン1位となった曲。
「冬の色」で「後追い自殺」まで宣言した恋人に隷属的な女の子は、やがて52年の「イミテーション・ゴールド」、53年の「プレイバックpart2」を経て自立していくことになるのだが、51年の「横須賀ストーリー」はまだその成長途中で、失恋を繰り返しながら男の本質を見抜き、やがて「馬鹿にしないでよ」などと言う時代の女に変身していくきっかけになった歌だったのでは。

作詞作曲は阿木燿子・宇崎竜童夫妻で、ふたりが山口百恵に初めて書いた楽曲だったのではないでしょうか。以後二人は「百恵劇場」の座付作者となり、彼女を成長させていくことに。もちろん「イミテーション・ゴールド」も「プレイバックpart2」も夫妻の作品。

最後はそれから2年後の昭和53年(1978)の歌。
トレンドがそれまでのフォークソングからニューミュージックに変わった時代。歌謡ポップスではキャンディーズやピンクレディーのユニットがティーネイジャから熱烈に支持された頃の一曲。

https://youtu.be/FTBXycujxYc?si=OZak9hyoQP7HdpI8

なんでイスタンブールなのか。イスタンブールはトルコの大都市で、日本で当時トルコへの旅行ブームがあったわけでもない。
プロデューサーの「無国籍ソングを」という依頼に応えた筒美京平の曲に、作詞のちあき哲也がイスタンブールというワードをつかってセンチメンタル・ジャーニーをモチーフにした詞をつけた。さらにその楽曲を船山基紀が中近東のイメージにアレンジしたのがこの歌だった。
ちあき哲也がなぜ「イスタンブール」という言葉をつかったのかは不明だが。この前年の昭和52年、池田満寿夫が「エーゲ海に捧ぐ」で芥川賞を獲っている。そして53年にこの「飛んでイスタンブール」、翌54年には「魅せられて」(ジュディ・オング)、「異邦人」(久保田早紀)といった中近東を思わせる歌が立て続けにヒットしている。
実際にイスタンブールや中近東諸国への旅行ブームがあったかどうかは定かではないが、日本の流行歌の世界では昭和50年代前半にちょっとした中近東ブームが起こっていたことはたしかだ。
庄野真代は当時トレンドのニューミュージックのシンガーソングライターだが、この歌も含め次の「モンテカルロで乾杯」、「マスカレード」「ジャングル・コング」はすべて筒美京平の作曲で、最後のヒットとなった「アデュー」のみ彼女の作詞作曲だった。
ちなみに「モンテカルロで乾杯」も作詞はちあき哲也で、筒美・ちあきのヒット曲としてはほかに少年隊の「仮面舞踏会」がある。

昨日は「スーパームーン」だったそうだが、ニュースで小耳に挟んでいたものの、気がつけば夜があけていた。
NASAによると次のスーパームーンは14年後だとか。生きている自信ないなぁ。まんがいち生きていても、そのニュースを認識できるかどうか。
まぁ何十年に1回とかいうナントカ彗星もそうだけれど、追いかけるほどの興味はない。ごくフツーの月を見るだけで充分。満月だろうが半月だろうが三日月だろうが。なんたって、太陽はキツイけれど、月は眼にヤサシイから。
そんなわけで?おまけはブルームーンの歌を。
「ブルームーン」というスタンダードもあるけれど、やっぱりカントリーで。
カントリーのブルームーンといえばビル・モンローがつくった「ケンタッキーの青い月」Blue moon of Kentucky がエルヴィスのカヴァでもしられているが、今回は「ブルームーンがまた輝けば」When my blue moon turns to gold againを。1941年にウィリー・ウォーカーらによってつくられた歌で、「ブルームーンがまた黄金に輝けば、彼女とのあの楽しい日々も帰ってくる」という失恋&未練ソング。エディ・アーノルド、マール・ハガード、ハンク・トンプソン、エミルー・ハリスらにカヴァされている。今回はエルヴィスで。
このブルームーンがはたしてあのブルームーンかどうかは定かではないけれど。

https://youtu.be/O3XcN_6Y2ug?si=lKOnfsUAy4V2fsPM


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勅使下向の春弥生 [歌謡曲]

赤穂浪士02.jpg


大谷は無安打。そんなときもあるさ。なにしろ10打席で7回は不発なのだから。
高校野球は「密な青春」の仙台育英を応援していたけれど、完敗。「エンジョイ・ベースボール」の勝ち。107年ぶりだってスゴイな。でも甲子園球場のあの慶應ホーム感は、仙台育英にはつらい。泣くな坊主たち。
世界陸上は110mハードルの泉谷にメダルを期待していたが、わずかに及ばず5位。いまだメダルなし。あとは予選トップで決勝進出した女子やり投げの北口にどうでも、いや、銅でもいいから獲ってほしい。それがだめだと男子の4×100mリレーと4×400mリレーに期待するしかなくなってしまう。番狂わせで幅跳びの城山、橋岡、吉田の誰かとか、あるいは今大会は期待できない男女のマラソンでヒーローがでるとか。とにかく「にわかナショナリズム」を充たしてほしい。まぁ世界のトップアスリートをみるだけでも充分堪能できますが。ただ、夜中というか明け方の決勝はキツイ。


今回は島津亜矢で。
島津亜矢は熊本県出身で、今年デビューより37年というこちらもベテラン。
うたの上手さは「歌怪獣」の名で知られるほどの超絶ぶりで、演歌ファンだけでなくポップス好きにも知れわたっている。
このブログでも何度かとりあげているが、ちょっと「上手すぎる」という印象もある。

彼女の歌の魅力は、その声量とうたいあげる迫力で、その魅力を十二分に発揮している歌を三つ選んでみた。はからずもそれらのオリジナルシンガーがすべて浪曲師出身ということになった。また三つとも昭和30年代の歌で、まずは女性の歌うま演歌歌手がこぞってカヴァするという聞かせどころ満載でプロに好かれるという歌を。

https://youtu.be/GlEAuU-xmhY?si=iVcjgSRJXUFAxczg

「無法松の一生」は昭和戦前の岩下俊作の小説「富島松五郎伝」を元にした映画で、戦前戦後と何度か制作されている。
粗野で乱暴者だが純情という人力車夫・松五郎の叶わぬ恋の物語で、「馬鹿だが憎めない」キャラクターが日本人の人情にふれて広く親しまれた。松五郎を演じた阪東妻三郎や三船敏郎のそれらしき演技がさらに松五郎像をかたちづくっていくことに。
そうした日本人の好きな松五郎というキャラクターはその後、山田洋次によって「馬鹿まる出し」の安五郎(ハナ肇)や「男はつらいよ」の寅次郎に受け継がれていく。

福岡生まれ佐賀育ちの村田英雄は5歳から浪曲師・酒井雲門下に。その世界でも頭角をあらわしていたが、古賀政男に見いだされ昭和33年、29歳で歌謡曲デビュー。それが古賀政男作の「無法松の一生」だった。皮肉なことだが、戦前戦後聞く娯楽として一世を風靡した浪曲は歌謡曲の発展とともに衰退していくことに。

作曲の古賀政男はあらためていうまでもない「歌謡曲の父」。
作詞の吉野夫二郎は浪曲作家で、作詞家としては村田英雄の「海の悪太郎」「流れる雲」、やはり浪曲師出身の二葉百合子の「一本刀土俵入り」や「残菊物語」がある。

また、現在うたわれている ♪空にひびいた ではじまる「度胸千両」の部分はのちに付け加えられたもので、当初はなかった。この「度胸千両」の作詞も吉野夫二郎だが、こちらの歌が単独でうたわれるということはない(多分)。

つぎは村田英雄より6歳年上の三波春夫の昭和34年のヒット曲。

https://youtu.be/gn2WwDdTg8k?si=_U-ssXu4CrRfqCEw

新潟出身の三波春夫は16歳のとき「南篠文若」の名で浪曲師デビュー。その後従軍し敗戦後は4年間シベリアに抑留されるという苦難を味わっている。
帰国後、浪曲師として復活するが、その行く末を予感してか32年に歌謡曲に転向。民謡の三橋なら浪曲の三波だとばかり所属のテイチクレコードが総力をあげて売り出し、2枚目のシングルの望郷歌謡曲「チャンチキおけさ」が大ヒット。33年のNHK紅白歌合戦に初出場。
「大利根無情」は34年リリースで、実際にあったヤクザ同士の縄張り争いを描いた講談・浪曲「天保水滸伝」の中の架空の用心棒・平手造酒を主人公とした歌。
この年のテイチクナンバーワンヒットとなり、三波春夫は押しも押されもせぬ歌謡曲の王道をゆく歌手となっていく。

余談ですが、学生の頃、夏休みに昔の歌舞伎座で恒例だった「三波春夫ショー」の大道具のアルバイトをしたことがあって、好きでもなかった三波春夫をこの「大利根無情」と「チャンチキおけさ」に魅了されてすっかりファンになってしまった。
この歌に関しては以前とりあげたので、作曲は長津義司、作詞は猪又良ということで。

最後は昭和36年に発表された、江戸時代から人気の忠臣蔵を題材とした時代物の歌を。

https://youtu.be/VJGsZG24Jlg?si=wJim3nXgvvDPY1rB

これまた浪曲師・真山一郎の昭和36年のヒット曲。

忠臣蔵は昭和の時代までは、年末の時代劇映画の定番であり、NHKの大河ドラマでもとりあげられ、大佛次郎や池波正太郎をはじめ外伝をふくめ小説としても多くの作家がとりあげたドラマチックなストーリー。
日本人の好き(だった)な人情・仇討ち物で、今風にいえばいじめられ我慢の限界を超えた藩主が公の場で刃物をふりまわしいじめた当人を傷つけたため、切腹の刑に処せられ、藩は取り潰された。そのことに納得できない藩士たちが徒党を組みいじめた当人の家に殴り込みをかけ、その首を打ち取ったという仕返しストーリー。
観客・読者は相手の首をとったところで歓喜の涙を流し、そのご47人の元藩士たちは切腹に処せられる(そういう時代)ところで哀悼の涙を流すのである。
ただ近年、打ち取られた相手側の地方から「いじめはなかった」「濡れ衣である」という反論も出ている。

真山一郎も山口県出身の浪曲師から歌謡曲デビューした歌手。36年にこの「刃傷松の廊下」をヒットさせたが、以後ビッグヒットはなかったが、その後は独自の歌謡浪曲を最後まで貫いた。
作曲は桜田誠一でほかには「川は流れる」(仲宗根美樹)、「銀座の蝶」(大津美子)、「あの娘たずねて」(佐々木新一)などのヒット曲ををつくっている。
この難解な詞の作者・藤間哲郎はキングのエースでほかに「おんな船頭唄」(三橋美智也)、「別れの波止場」(春日八郎)、「東京アンナ」(大津美子)、「お別れ公衆電話」(松山恵子)などのビッグヒットがある。
いまは令和の世の中。富島松五郎も天保水滸伝も忠臣蔵も、さらには村田も三波も真山も、さらにさらには浪曲も歌謡曲も忘れられていくのは仕方がない。

おまけは彼女のカヴァアルバムにも意欲的に取り入れられているポップスを。「演歌ばかりじゃないわよ。ポップスだって上手いんだから」という彼女の声が聞こえてきそうなので、それではお口並み拝見ということで。
いろいろあるのですが、動画があるカヴァとなると限定されます。
ここは歌上手同士のデュエットで。

https://youtu.be/FKaWJ9rUPWc?si=qydVehJbWMv-Kj1n


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一度決めたら二度とは変えぬ [歌謡曲]

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今回も現役演歌歌手の歌謡曲カヴァを。
市川由紀乃は1976年生まれでデビューから30年というベテラン歌手。
以前小林旭の「さすらい」のカヴァを聴いたので、そのときほかのカヴァもいくつか聴いた。とにかくこの歌手もカヴァが多い。つまり歌が上手ということに。

市川由紀乃は芸名で、師匠の作曲家・市川昭介からつけたそうだ。
市川昭介といえばコロムビアの専属で、「出世街道」(畠山みどり)、「涙を抱いた渡り鳥」(水前寺清子)、「絶唱」(舟木一夫)、「好きになった人」(都はるみ)など多くのヒット曲をつくったヒットメーカー。どちらかというと古賀政男の流れをくむ和風の楽曲が中心で、現在の演歌でいえば正統派。
市川由紀乃はそうした師匠の教えを受けただけに筋金入りの正統派演歌歌手。

なぜか師匠の楽曲のカヴァはみつからなかった。
今回は演歌歌手なら男女を問わずカヴァしたくなる美空ひばりの30年代後半から40年代にかけての3曲を。

まずは昭和38年のこの歌。

https://youtu.be/TD4-FqMOXAk?si=3g9yu4J3GrJ4P1W8

昭和38年といえば初代東京オリンピックの前の年。
景気の上向きで老いも若きもバカンスに興じはじめた頃だが、世相的には「吉展ちゃん誘拐事件」や「狭山事件」が起こり、海外ではアメリカ大統領のJ・F・ケネディが暗殺されていたり、暗い事件はいつの年でも。
歌謡曲では舟木一夫の「高校三年生」が大ヒットして、青春歌謡の幕があいた。
「哀愁出船」はその「高校三年生」を作曲した遠藤実の作品。
昭和32年「お月さん今晩は」(藤島桓夫)でヒットメーカーの仲間入りした遠藤実だが、以後北原謙二、こまどり姉妹、山本リンダ、小林旭、五月みどり、千昌夫ら多くの歌手のヒット曲を書くことになる。
いわゆる「演歌」では古賀政男に次いでヒット曲を多産している。

歌は時代にのったマドロスものというか、伝統的な港の別れ歌で、美空ひばりには「哀愁波止場」もあり、こちらはライバル・船村徹の作品。

♪うしろ髪ひく 哀愁出船
とその別れを描いた作詞家は菅野小穂子。
ほかには新沼謙治の「青春想譜」があるだけで謎の人物。この歌も作曲は遠藤実なので、もしかしたら菅野小穂子の実体も作曲家自身なのかもしれない。

つぎはミニスカートが流行し、ラジオの糸居五郎はじめの「オールナイトニッポン」がはじまった昭和42年のヒット曲

https://youtu.be/GXlfhsS5C6s?si=NY02FrXm1WCD4-08

流行歌的にはその前年からはじまっていたグループサウンズの絶頂期。
ブルーコメッツの「ブルーシャトー」はその年のレコード大賞を受賞している。
そしてこの「真赤な太陽」だが、作曲はバンドマスターの原信夫だが、ブルーコメッツのメインコンポーザーで管楽器&ヴォーカルの井上忠夫が編曲を担当していて、ブルーコメッツはひばりのバックバンドとしてしばしば共演していた。動画の三原綱木はブルコメのリードギタリスト。
はやい話がGSの大流行に便乗した一曲なのだが、これが大ヒット。

かつてならマンボ、チャチャチャ、ロカビリー、ツイスト、ドドンパとその時流行りのリズムを貪欲に取り入れてきた美空ひばりの「流行好き」の一面がみられる一曲。
作詞はのちに「真夜中のギター」(千賀かおる)、「八月の濡れた砂」(石川セリ)、「さざんかの宿」(大川栄策)をてがける吉岡治。

最後は「日航機よど号のハイジャック事件」と「楯の会・三島由紀夫の割腹事件」で騒然となった昭和45年の歌。

https://youtu.be/9oJe13XwmVw?si=kyGA2tHUh4z6BtOr

「苦しみ抜いて」「埋もれて耐えて」「生きる試練」「意地をつらぬく」「根性の炎を抱いて」「決めたこの道まっしぐら」「花は苦労の風に咲け」
と全篇が「説教ソング」というか古い言葉でいえば「人生の応援歌」。もちろんタイトルの「人生一路」もでてくる。
作詞したのはコロムビアの重鎮のひとり石本美由起。代表曲には「憧れのハワイ航路」(岡晴夫)、「柿の木坂の家」(青木光一)、「矢切の渡し」(細川たかし)などがある。美空ひばりでは「港町十三番地」、「哀愁波止場」、「悲しい酒」など。

作曲はかとう哲也。ひばりの実弟である。
姉の歌を中心に20曲あまりつくっているが、ヒットしたのは「人生一路」のみ。
ほかの曲はしらないが、この曲については以前なにかの本で、実際は昵懇にしていた著名な作曲家がつくったもので、「かとう哲也」名義でリリースされた、と書かれていた。
真偽のほどは不明だが、専門的に音楽を勉強したわけではないようで、名義だけでなくとも、その作曲家の指導を受けながらつくったという可能性はある。

今日は一日家に。
なによりも大谷のエンジェルス戦が雨天延期になってしまったのが残念。ゆっくり試合を観れると思っていたので。
また高校野球決勝も明日だし、このブログを書きながらずっとテレビをみておりました。
ニュースショーがいちばんヴィヴィッドなのでそこにチャンネルを合わせて。

それらを見て感じたのはギスギスして生きにくい世の中になっているということ。なにか潔癖性、品行方正さを強く求められて息苦しい世の中に。

わたしは自民党支持者ではないが、パリへ視察旅行をして楽しんでいる写真をネットに上げて女性局長を辞任したという自民党議員。税金が入っていたとはいえ、仕事もしてるようだし、多少観光してもいいのではと思う。観光してもネットにあげなければセーフだったのならばSNSではしゃいでいたことがアウトということに。いささか意地悪なバッシング。

韓国出身の女性タレントがイベント会場で観客から胸をさわられるなど性被害にあったというニュースもあちこちでやったいた。痴漢は犯罪だけど、つぎに問題なのはイベント運営会社の警備体制ではないか。タレントの服装はイベントの衣装なので問題はないけれど、映像をみるかぎりファンと接近したときガードマンがおらず、まったくの無防備。もし凶器を持った暴漢がいたらもっとひどい事件になっていたはず。イベント会社は当然そういうことも想定できたはずで、責任はあると思うし、加害者告発の会見には違和感。
また故意かどうか不明な時点で加害者をたたきすぎでは。報道はそれほどこの性加害をたたくのならばもっとジャニー喜多川氏の「犯罪」も掘り下げるべきで、告発者たちがうごいたときだけ報道するという姿勢はいまだ芸能事務所に忖度していると思われてもしかたがない。

日大アメフト部の再家宅捜索も各局で放送していた。しかし他の某大学ボクシング部でも複数人が大麻で逮捕されているがあまり報道されない。というか「林真理子」、「日大アメフト」の通りのよいキーワードで日大ばかりがとりあげられている印象。某大学の逮捕者たちは大麻を「売っていた」ようなので、より罪は重いとおもうのだが。
それに日大アメフト部の活動停止について、関東連盟が決めたように試合に出られないのは当前だが、練習までしてはいけないというのは疑問。たとえ部員たちが先輩同僚後輩のなかに大麻を使っていた人間がいたことを知っていたとしても、自分たちがつかっていなかったのならば練習をしてもいいのでは。まるで廃部にせよといわんばかりのバッシングとは部活を生き甲斐にしている若者にとっては非道い話だ。

テレビを見ているとついつい余分なことが思い浮かんできてしまう。あくまでテレビから世間をのぞいている昭和の人間の愚痴だとおもって聞き流していただければ。

おまけは市川由紀乃に戻って、ややタイミングを逸してしまいましたが、これもある意味反戦歌というひばりではない昭和の名曲を。

https://youtu.be/-fOmNIK-rkI?si=laiYYOnbjF7U0MEo

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明るく明るく走るのよ [歌謡曲]

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真夏だから暑いのはあたりまえだけど、突然やってくるスコールがやっかい。きのうも家から出たとたんポツポツと。引き返して傘を手にして再出発。雨を見たかいなんて余裕もなく激しい雨に。
それでも、1時間あまり用事をすませて外へ出ると手にした傘がマヌケに見えるほどの青空にお陽さまサンサン。
年寄りはなるべく家にてテレビでも見ているのが無難なようです。

きょうは降らなかったけれど、空にはみごとな夏の雲が。
天には白い雲に青い空、そして地には鮮やかな赤い花をつけた百日紅並木。
夏ならではの光景でしょうか。

話変わって、エンゼルスのPSシリーズは絶望的で、大谷もビッグアーチが不発ぎみでウォチャーもいまいちスッキリしない。贅沢はいいません、せめて大谷にホームランキングMVPを獲ってほしい。
今夏はスポーツの花盛り。いまは女子ワールドカップ。なでしこジャパンは優勝アゲインがありそうな勢い。スピードと個々のテクニックが抜けてるよう。少なくとも男よりは世界レベルのチーム。それ以外でもこれからはワールドワイドでいえばラグビーがあり、バスケがあり、陸上もあるし、バレーもあるし楽しみは多い。とりわけ世界陸上は楽しみ。

そして夜の寝しなには相も変わらずYOU-TUBEで音楽を。これまた相変わらず歌謡曲のカヴァが「睡眠導入剤」にはもってこい。

今回は現在休業中という林あさ美を。
青森県出身で幼い頃から民謡と演歌に接していたというよくある経歴。平成8年にデビューし、当初は演ドル(演歌のアイドル)と呼ばれていたとか。
音楽以外でもテレビ、ラジオで活動したい多様だが、なぜか平成25年より休業している。
それでもTOU-TUBEがいくつも残っているということはやがて歌手活動を再開するのかもしれない。

まずはこの曲を。

https://youtu.be/NzA__3QzBYY

「東京のバスガール」は昭和32年の大ヒット曲。
うたったのはコロムビア・ローズ(初代)。幼い頃、彼女がバスガールの制服と帽子をまとってうたう姿をテレビで見た記憶がある。わたしにとってもっとも古い歌謡曲の映像かもしれない。
いまや観光バス以外では見ることのできないバスガイドさんの歌ですが、当時は「バスガール」といった。また昭和40年代のはじめころまではその姿をみることができた。その後、一気に現在のようなワンマンバスに切り替わって、あっという間にいなくなってしまった束の間の少女たちだった。
バスの振動を見事なフットワークでこなして、YOU-TUBEにあったような釣り銭と切符の入った蝦蟇口型のポシェットを提げた姿が可憐で、見とれていたり、口説いた男客も多かったのではないでしょうか。

作曲は「東京の花売り娘」(岡晴夫)や「白鷺三味線」(高田浩吉)、「銀座九丁目は水の上」(神戸一郎)などの上原げんと。作詞は「高原列車は行く」(岡本敦郎)、「山のロザリア」(スリー・グレイセス)、「高校三年生」(舟木一夫)などの丘灯至夫。

昭和32年といえば、終戦から12年目。その前の年には経済白書で「もはや戦後ではない」という宣言が出て、豊かさ行きの急行列車が走り始めた時期。今から思えばいちばん幸せな時代だったかもしれない。
そこで林あさ美の残りの二曲も昭和32年の歌を。
2曲目はやはり上原げんと作曲のこの歌。

https://youtu.be/OrjYJXPT26E

昭和24年「河童ブギウギ」でデビューした美空ひばりの8年目、111枚目のシングル「港町十三番地」。8年で100枚越え。今では考えられない。
ちなみに「港町十三番地」は彼女のシングル売り上げの第7位。ちなみに1位は「柔」で2位が「川の流れのように」で、ひとつ上の6位が「みだれ髪」。
とはいえ、この昭和32年は、彼女にとって災難の年。年明け、浅草国際劇場での正月興行でファンの十代の女の子から舞台上で硫酸をかけられ負傷するという被害を受け、興行も休演となった。「港町十三番地」はその2か月後にリリースされ、大ヒットとなり、みごとにマイナスイメージを払拭してみせた。

作詞は「柿の木坂の家」(青木光一)や「憧れのハワイ航路」(岡晴夫)、矢切の渡し(細川たかし他)のヒットメーカー石本美由起。
♪な~がい 旅路の 航海おえて
とはじまる「カッコイイ男」海の男をうたったマドロスソング。
そうです、この時代はマドロスがモテモテで、船、港、波止場をキーワドに旅立つ男に見送る女のドラマをうたったマドロスソングが全盛だった。誰もが身近にマドロスなんていなかったのに、なぜかキャプテンハットをかぶり縞のジャケツを着た「幻のヒーロー」が存在していたのです。

最後もそんなマドロスソングを今度は女の立場から。

https://youtu.be/g5B6RvRPH-E

「未練の波止場」は昭和30年「マドロス娘」でデビュー(松山恵子名義)した「おけいちゃん」こと松山恵子の大ヒット曲。
その後、「だから云ったじゃないの」や「お別れ公衆電話」などのヒット曲を連発したマーキュリーレコードのエースで、30年代の女性スター歌手のひとりだった。
彼女のトレードマークは「えくぼ」と「白い手袋に白いハンカチ」、そして小林幸子の先をいっていたときおり見せるビッグな衣装。ひばりや島倉千代子に対抗するにはこのくらい派手でなくては。

「未練の波止場」はタイトルどおり、航海に出るマドロスに「置いてかないで、連れてってよ」とすがる恋女の歌。
作詞は井沢八郎の「男船」や氷川きよしの「箱根八里の半次郎」をつくった松井由利夫。松山恵子では「だから云ったじゃないの」や「バックナンバー1050」も。
作曲の水時富士夫はほかに花村菊江の「潮来花嫁さん」や赤木圭一郎の「海の情事に賭けろ」などがある。

おまけも昭和32年の歌を。
この時代のリアルヒーローといえばマドロスさんではなく、その前年に映画デビューし、その主題歌もうたって一時代を築いていくことになる石原裕次郎。その32年のヒット曲「俺はまってるぜ」と「錆びたナイフ」をライバルのカヴァで。

https://youtu.be/qawN6f6hMzs

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みんながジロジロ見てるから [歌謡曲]

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今回のカヴァー名人は森山愛子。
森山愛子は以前から知っています。もちろんYOU-TUBEでみたのですが、シンディ・ローパーの前で童謡「赤とんぼ」をうたい、シンディを感動させた動画が印象的でした。
栃木の宇都宮出身で平成16年に「おんな節」でデビュー。
とにかく歌が上手なことはいうまでもありませんが、明るく愛嬌があります。YOU-TUBEに上がっているカヴァーはかなり多く、選ぶのがたいへん。
とりあえず今回は昭和30年代のビッグヒット3曲を選んでみました。

まずはじめは、島倉千代子の「この世の花」と同じ昭和30年の歌。うたうはやはり昭和30年代に歌謡界の主軸として活躍した女性歌手。

https://youtu.be/pbaFIL2BJxE

「東京アンナ」は当時流行のリズム、マンボを取り入れて大ヒット。同年にデビューした大津美子の2枚目のシングル。
大津は豊橋出身で「東海のひばり」といわれたほどの歌うま少女だった。デビューの2年前から当時キングレコード所属だった作曲家・渡久地政信に師事。「東京アンナ」はその師匠の作品。翌年には彼女の代表曲「ここに幸あり」を、32年には「いのちの限り」や「東京は恋人」、33年には「銀座の蝶」とたてつづけにヒットをとばした。

渡久地は戦前は歌手だったが無名で、戦後作曲家に転身。26年に津村謙の「上海帰りのリル」がヒット。そして29年には彼のというか、それまでの歌謡史上最大のヒットといわれた「お富さん」(春日八郎)を手がけた。30年代にはこの「東京アンナ」をはじめ「踊子」(三浦洸一)、「湖愁」(松島アキラ)、「島のブルース」(三沢あけみ)、さらに40年代には青江三奈の「池袋の夜」や「長崎ブルース」と息長くヒット曲をつくり続けた。

大人の社交場だったナイトクラブの花、踊子・アンナの神秘的な魅力を描いた詞は藤間哲郎。ほかでは「お別れ公衆電話」(松山恵子)、「別れの波止場」(春日八郎)、「東京の灯よいつまでも」(新川二郎)など昭和30年代を彩ったヒット曲がある。


つぎはまさに昭和30年代前半を代表し、歌謡曲を社会現象にまでたかめたシンガーの一曲。

https://youtu.be/OqDQGRdNLek

昭和33年(1958)、三橋美智也がうたった「赤い夕陽の故郷」。
北海道生まれで民謡歌手だった三橋美智也は昭和29年にキングレコードから、福島の新相馬節をベースにした「酒の苦さよ」で歌謡曲デビュー。翌年「おんな船頭唄」がヒット。以後、31年の「リンゴ村から」「哀愁列車」、32年には「俺ら炭鉱夫」「東京見物」「おさらば東京」、33年には「夕焼けとんび」「センチメンタル・トーキョー」そしてこの「赤い夕陽の故郷」がヒット。以後も「古城」「達者でナ」「星屑の町」とヒットを連発した。

そのファンの過熱ぶりは戦後最高とまでいわれたほどで、心に刺さるという意味でいまでもつかわれる「シビレる」という言葉は彼のファンが発信したもの、となにかの本に書いてあった。
彼の愛称は「ミッチー」で当時は「本家」がいたためかあまり大ぴらには言われなかったが、昭和50年代なぜか再ブレイクし、第二の「ミッチーブーム」をつくった。

「赤い夕陽の故郷」の詞はキングの主力作家で「下町の太陽」をはじめ数えきれないヒット曲をつくった横井弘。ワケあって故郷を離れた男の望郷の思いをつづっている。どこかカントリーの匂いがする旋律は中野忠晴。

中野は戦前「コロムビア・ナカノ・リズム・ボーイズ」のメインヴォーカルをつとめ、「ダイナ」や「ミルク色だよ」などのジャズや、師匠である服部良一の作品をうたっていた。戦後になると、作曲家に転身し「歌謡曲でなければヒットしない」と悟って和風に専念。その甲斐あって昭和33年にはこの「赤い夕陽の故郷」とともに彼の最大のヒット曲となる「おーい中村君」をつくっている。
とはいえジャズで育った体質ゆえ、ところどころにジャズやカントリーはたまたロックといった洋楽のニオイが感じられる。
やはり三橋美智也とのコンビとなる「達者でナ」は、馬産者と育てた馬との別れをうたった哀歌だが、そもそも舞台が牧場というのがカントリーっぽく(当時はアメリカの西部劇が大ブーム)、曲はなんとエルビスの「ハートブレイク・ホテル」をベースにしたというから驚き。いわれなければわからないけれど、いわれてみればナルホド

それはさておき、長くなっておりますので最後の曲に。
これも昭和30年代に一時代を築いたグループのヒット曲。

https://youtu.be/p26SfGNO_Gw

植木等をメインヴォーカルとしたハナ肇とクレイジーキャッツの37年のヒット曲「ハイ、それまでよ」。

ナベプロ創設期からのジャズバンドだったハナ肇とクレイジーキャッツ。ロカビリーからはじまってテレビの音楽バラエティを席巻したナベプロのバックアップで、コミックバンドとして大ブレイク。それを決定づけたのが36年にギターの植木等のヴォーカルで出したシングル「スーダラ節」。クレイジーキャッツの前身のキューバン・キャッツでクラリネットを弾いていたナベプロの座付作曲家・萩原哲晶が曲をつけ、当時若手放送作家として第一線で活躍していた青島幸男のC調な詞を書いて大袈裟でなく日本列島を席巻するウルトラヒットに。
以後植木等を看板とするクレイジーは、30年代、40年代のテレビ、音楽、映画、舞台の前衛として活躍する。

それから3枚目のシングルとなる「ハイ、それまでよ」も作詞・作曲は「スーダラ節」と同じで、編曲も同じくナベプロのジャズピアニストで作・編曲家の宮川泰(ひろし)。
とにかく詞も曲もしっとりしたムード歌謡風からはじまったと思ったらすぐにジャズ風、コミック風に「転調」するという、意表をついた当時も今でも前代未聞の楽曲。これがウケたのは間違いないが、いわゆる「ネタバレ」した2度目を聴いても面白い。
上記の製作スタッフはもちろん、クレイジーキャッツもベーシストの犬塚弘をのぞいて、みなさんお亡くなりになってしまいました。淋しいことですが、経過した時間を考えればいたしかたないのかも。ただ、いま振り返ると、もろもろ面白い時代を面白く生きた面白い連中でした。

おまけは戦後歌謡曲を代表する三橋美智也をもう一度。
民謡歌手・斎藤京子とのデュエットで。カヴァもアベックで。
この歌もよくラジオから流れておりましたっけ。

https://youtu.be/wPdaOIOuIKw

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愛は醒めて水になる [歌謡曲]

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やっぱり豊昇龍の優勝か。
予想はあたったけれど、北勝富士に優勝させたかった。
でもどっちにしても初優勝だし、豊昇龍は大関になれるようなので良かったのかも。彼には叔(伯)父さんに負けないようなヒールとして活躍してもらいたい。

大谷もいささか不調ぎみ。バッティングもそうだけど、8勝はしたけどピッチングが不安定。いわゆる「球が軽い」ように見える。シーズン通じて好調なんてありえないので、今は山ではなく「谷」の状態なのかも。くれぐれも「大谷」にならないことを願っております。

今回も演歌歌手のカヴァを聴いてみました。
石原詢子は1988年デビューというからもうベテラン。
岐阜県生まれで、実家は詩吟の家元。当然彼女にも心得がある、ただし、将来の夢は演歌歌手だったとか。

彼女もカヴァが多い歌手で、とりわけお千代さんこと島倉千代子のカヴァーをよくみます。ほかの歌手のカヴァも見ごたえ聴きごたえのあるものがあるけれど、それはいずれまたということで、今回は亡くなって10年が経とうという島倉千代子の歌を三つ。

まずは昭和30年のデビュー曲

https://youtu.be/aoF25QdsFLA

哀れで儚い失恋ソング。女性がうたう失恋ソングはいつの世も同性の共感をうけ、異性の同情を生む。ヒットの定番のひとつなのでしょう。
島倉千代子はこの年だけで20曲以上をリリースしたというから、時代とはいえ驚き。「この世の花」は大ヒットとなり、11月の「りんどう峠」もヒットしている。
所属は美空ひばりと同じコロムビアレコードで、以後、このふたりがコロムビアの、というより日本の二大女性歌手として歌謡界に君臨していくことになる。
陽気で勝気な美空ひばりと静かで可憐なイメージの島倉千代子はまさに太陽と月で、両雄並びたった。

お千代さんはひばりに憧れて、コロムビアのコンクールでも「りんご追分」(?)をうたって優勝したとか。
ひばりと同じレコード会社の所属となって、大先輩(といっても年齢はひばりがひとつ上、学年なら同級生)と近づきになれると思ったけれど、ひばりが「拒否」。ふたりが「握手」するまでにはそれから30年近くかかった。それだけ美空ひばりは島倉千代子に脅威を感じていたということでしょう。
それゆえ、あれだけ日本の歌謡曲を手当たり次第にカヴァしてみせたひばりだけれど、島倉千代子の歌は聴いたことがない。もちろんその逆に「和解」するまではお千代さんがひばりの歌をうたうことも許されなかったはず。「和解」(一方的な)をしたあと、お互いにカヴァをしあったのかどうかはしりませんが。

作曲は戦前には「旅の夜風」が、終戦直後には「りんごの歌」が、そしてひばりの一連のヒット曲「悲しき口笛」「東京キッド」「越後獅子の唄」をてがけた万城目正。作詞も「旅の夜風」をはじめ、戦前そして戦後の20年代、30年代日本の歌謡曲を席巻したコロムビアの看板、西条八十。つまりヒット曲製造の最強コンビ。つまり島倉千代子がコロムビア
からいかに期待されていたかがわかる。

「この世の花」がヒットした昭和30年、島倉千代子はその年の暮れの紅白歌合戦に出場していない。その後もヒット曲を出しているのに初出場はなんと32年。彼女の代名詞である「この世の花」が紅白ではじめて披露されたのはなぜか27年後の昭和57年。ちなみにもうひとつのビッグヒット「東京だョおっ母さん」にいたってはアナクロニズムが嫌われたのか紅白でうたわれることはなかった。

2曲目はこれまた思いがままならないトーチソング。これもラブソングのステロタイプ。

https://youtu.be/nRtsrg45Dsc

「逢いたいなァあの人に」はデビューの翌年、昭和31年のの12月にリリースされビッグヒットとなった。こちらはタイミング的に紅白には間に合わなかったが、翌32年、彼女の紅白初出演の楽曲となった。
ちなみにこの年、彼女以外にも紅白初出場が何人かいた。その有名どころをあげてみると女性では朝丘雪路、松山恵子、浜村美智子。男性ではフランク永井、若山彰、青木光一らがいる。

「逢いたいなァあの人に」は昭和30年代前半の歌謡界のトレンドだった「ふるさと歌謡」。
「ふるさと歌謡」には、東京をはじめとする都会に働きに出てきた若者が艱難辛苦のなか、生まれ故郷に思いをはせるというタイプの歌と、反対にその故郷から都会へ出て行った異性を想うという歌があった。「逢いたいなァあの人に」は後者。いつも残されるのは女、とは限らずのちにヒットする「お月さん今晩わ」(藤島桓夫)のような男の場合もある。
いずれにしても、こうした歌の流行は若者が都会に殺到し、地方が淋しくなっていった時代が反映されている。

曲は「上海の花売り娘」ほか戦前から岡晴夫とのコンビで、戦後はひばりの「港町十三番地」やコロムビア・ローズの「東京のバスガール」で知られる上原げんと。詞は岡晴夫の「憧れのハワイ航路」、青木光一の「柿の木坂の家」、美空ひばりの「悲しい酒」などをてがけた石本美由起。

最後はもはやローカルの小都市化がすすみ、マイカー、新幹線、飛行機等によって「遠く望んだ」故里に日帰りできる時代となった昭和59年のスマッシュヒット。

https://youtu.be/ed_4VcYdAI0

昭和59年、1984年といえばチェッカーズと中森明菜が大ブレイクした年。という影響もあって、こんなリズミックな演歌というか歌謡曲がヒットしたのかもしれない。3年後に大ヒットする「人生いろいろ」もそうだけれど、泣き節・お千代さんにもこうした楽しい歌がたまにある。36年の「恋しているんだもん」とか38年の「星空に両手を」(with守屋浩)とか、41年の「ほんきかしら」とか43年の「愛のさざなみ」などが。

詞は細川たかしの「望郷じょんがら」を書いた里村龍一、曲は八代亜紀の「舟唄」、クールファイブの「そして神戸」、由紀さおりの「挽歌」、奥村チヨの「終着駅」などのビッグヒットがある浜圭介。ひばりの「夢飾り」を聴いてみたかった。

その「夢飾り」をオマケにもう一回。
これぞカヴァの醍醐味という一曲を。お千代さんもつきそっております。とにかく巻き舌の「夢飾り」なんてはじめて、それがなかなか。なにより歌が格別にうまい。

https://youtu.be/dh3u4lQssQg

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死ぬまでだましてほしかった [歌謡曲]

kuroyurinouta.jpg

「暑い、アツい、あつい」
こんな状態があとふた月以上続くと思うと、それでなくてもスピードアップしている「時の流れ」をさらにギアアップしたくなる。すぐに秋は来るけれど死期も近づく。

昨今の興味は大谷をはじめとした大リーグと、メインキャストのいない大相撲。相撲はよく言えば群雄割拠の戦国時代で取組じたいは面白いけど、人気を煽るにはやはりスター不足。いでよ超力士。
ちなみに優勝予想は、きょう霧島をやぶった豊昇龍かな。白桜鵬の勢いも凄いけど。でも今場所だけは北勝富士希望。

就寝前はあいかわらずYOU-TUBEでミュージックを。
最近は邦楽中心。といっても新しい歌は、Jポップはもちろん演歌も聞かないのでまるで知らない。もはや脳内メモリーが飽和状態で新曲は受け付けないのかも。たまに初耳アワーで新曲(自分にとっての)をみつけるけれど、多分、なにかが上書によって消去されているのでしょう。

ここのところ聴いているのは昭和歌謡。安心ですからね
それも元歌は少々飽きもきているので、カヴァで。ほとんどがバリバリ現役の演歌歌手。
歌の上手な人が多いですね。そりゃそうでしょう、カヴァアルバムなんかをリリースするのは「歌上手」でなければ無理。1曲2曲ならばなんとかなっても10曲あまりをこなすには天性の歌マインドがなくては。

きのう見たのはクラウンレコードの川野夏美。1980年、大分県生まれだそうです。

https://youtu.be/n6QXyZCGWjY

「黒百合の歌」は昭和28年に公開された映画「君の名は 第二部」の主題歌で、オリジナルは「君の名は」や「夜が笑ってる」をうたった織井茂子。ソングライトはこのシリーズのコンビである古関裕而(曲)と菊田一夫(詞)。
28年といえば、敗戦から8年を経たとはいえ日本はまだまだ貧しかった。その3年前に当時の大蔵大臣・池田勇人が「貧乏人は麦を食え」(実際はもっと柔らかい言い回し)と発言して物議をかもし、以後政治家の横暴・傲慢さのたとえとして時どき引用されている。それから3年経ち、28年の食糧事情はといえば相変わらずヤミ米が流通し、外米(輸入米)さえ高騰するありさまで、庶民の塗炭の苦しみはさほど改善されていなかった。
当時の大手新聞のコラムには「消費者がもっと麦類を食べる腹を決めれば」とか「麦はいやだなどと贅沢なことはいえた義理ではない」と書かれている。池田勇人には先見の明があったということで、そのことの評価はあまり聞かない。

「黒百合の歌」はプロに人気のナツメロのひとつで、カヴァしている歌手も多い。またこの歌は、鉄火というか、今風でいえばやさぐれたような気の強い、略奪愛もいとわない女のうたで、そうしたフンイキがよくでていたのが川野夏美だった。

つぎは昭和39年というから、もはや戦後ではないどころか、経済成長の加速によってわれわれ下々の家庭もそのオコボレを授かり、「豊かさ」なんて言葉がつい口から出るようになった時代。そんなころ巷にながれていた女歌。

https://youtu.be/Qyys5YHv4R8

シンプルに言うと失恋ソングで、曲は戦前から脈々と受け継がれている和製ブルース。オリジナルの西田佐知子はその特性であるノンビブラートのうたい方が、シャープでベタベタ感がなく、「それでも生きていかなくちゃ」という戦後の女のしたたかさを感じさせた。
彼女の最大のヒット曲は35年の「アカシヤの雨がやむとき」で、ほかに「エリカの花散るとき」も含めて、詞・曲は水木しげると藤原秀行。
「泣いた女がバカなのか」とか「死ぬまでだましてほしかった」などという女の自虐のセリフはこのころから流行りのようにつかわれるようになった。そう言わせている(作詞家)のは男なんだけれど。

最後は、もはや経済成長もピークをむかえ、「昭和元禄」などと呼ばれる時代にさしかかった昭和45年、つまり1970年代に突入した年の歌。

https://youtu.be/ZKTyAt8Iwjk

オリジナルの渚ゆう子は元ハワイアンシンガーで、この年の2月、ベンチャーズ作曲の「京都の恋」で大ブレイク。同じ年の12月にベンチャーズ提供第二弾としてリリースしたのがこの歌。もちろんこちらもヒット。作詞はいずれも林春生で、ほかに「白いギター」ほかチェリッシュの一連のヒット曲や欧陽菲菲の「雨の御堂筋」をてがけている。
ちなみにベンチャーズ作曲の歌謡曲としては「京都慕情」に先がけて「二人の銀座」(山内賢・和泉雅子)や「北国の青い空」(奥村チヨ)があった

オマケは「東京ブルース」の前年にヒットした、昭和30年代最高の歌謡ポップスを前田有希とのデュオで。

https://youtu.be/PPRNNJydZAU

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それでなくとも 遥かな旅路 [歌謡曲]

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夜がまた来る、思い出つれて
俺を泣かせに足音もなく……
恋に生きたら、楽しかろうが
どおせ死ぬまで、シトリシトリぼっちさ

と深沢七郎はエッセイのなかに「さすらい」の歌詞を記している。
1番と2番がごちゃまぜなこと、「どうせ」を「どおせ」、「ひとり」を「シトリ」と誤記しているのは、確信犯で、この作家ならばそう書いても不思議ではない。

わが友・深沢七郎。
わたしより年上、というよりわたしの父親と同い年の偏屈作家を友と呼ぶのは畏れ多いが、
作家というよりその音楽的な嗜好に、先生ではなくはるか年齢のはなれた尊敬すべき友情を感じてしまうのです。

晩年の栖となった「ラブミー牧場」にふれるまでもなく、深沢七郎の「エルヴィス信仰」はつとに有名で、それ以外でもハンク・ウィリアムズをはじめとするカントリー好き、またエルヴィス以外でもリトル・リチャードらのロケンロー、さらにはアストロノウツなどサーフィンミュージックなども好んで聴いていたという洋楽の話はまたいつかということで、今回は歌謡曲「さすらい」。

もうひとつだけつけ加えておけば、彼はロケンローは好きだけどそのエピゴーネンである日本のロカビリーについては否定的でした。そりゃそうでしょう。わたしのようにモノマネ、いやカヴァから入って本ものへというのであればカヴァも愛しくなりますが、本ものを聴いてからカヴァというのでは聴くに堪えない、となるのは当然。とりわけ偏屈でプライドの高い作家であれば。多分聴いてはいたでしょうが。

歌謡曲についても、さほど関心はなかったのでは。よくクラシック好きが歌謡曲を「品がない」と切り捨てるのとはいささか違うようです。なにしろ彼はベートーヴェンのことを悪魔といっているくらいですから。

まあ、好んで聴くというよりは、自然と耳に入ってきていたのではないでしょうか。なにしろあの頃はラジオからは歌謡曲が洪水のようにあふれ出ていた時代なのですから。それでなければ「さすらい」を聴いたときもあれほどの反応はしなかったはず。

ようやく本筋にもどってきました。
冒頭の歌詞を書き記したのは、深沢七郎が昭和37、8年頃、北海道を流浪(さすら)っていたときのこと。夜の苫小牧で、街から流れてきたアキラのレコードを聴いて突然からだに痙攣がはしり、底知れない孤独を感じたのだと。

https://youtu.be/htWld61QCfk

深沢七郎はなぜ北海道を流浪っていたのか。
ご同輩や諸先輩の方々は記憶にあると思いますが、昭和37年(1962)、雑誌中央公論に掲載された彼の短編小説「風流夢譚」が大きな問題となりました。
内容は日本に左翼革命が起こり、天皇をはじめ皇太子、皇太子妃(いずれも実名で)が斬殺されるという荒唐無稽なストーリー。深沢はそれをリアルな描写ではなく、いわばお伽噺のように描いた。彼自身にいわせるとそれは「諧謔小説」だと。(のちにわたしも読みましたが、諧謔というよりは揶揄いと感じました)

戦前なら間違いなく不敬罪ですが、終戦から10数年経った1960年代にはもちろんそんなものはありません。戦前の軍国主義・帝国主義の右が壊滅すれば、その反動で左に大きく振れるのは道理で、その頂点が1960年の安保闘争でした。
当時、本当に共産革命が起きると信じたのは左翼やリベラリストだけではなく、右側の人間も「恐怖」として革命の波が押し寄せてくることを肌で感じていたのです。

左翼革命は右翼の存亡にかかわることで、なにがなんでも阻止しなくてはならない。その第一弾が「風流夢譚事件」の前年に起こった日比谷公会堂での社会党の代議士・浅沼稲次郎刺殺事件。公会堂で演説中の野党第一党の国会議員が17歳の右翼青年によって刺され死亡したのです。

その翌年に起こったのが「風流夢譚事件」。
浅沼代議士を刺した少年と同じ17歳の別の少年が、雑誌を発行していた出版社の社長宅を訪れ、社長不在のため応対に出た社長夫人とお手伝いさんを刺したのです。「ああいう(不敬の)小説で金儲けする出版社は許せない」とうのが少年の論理。不幸にもその後お手伝いさんが亡くなります。

この事件によって戦後、左に傾きぎみだった出版社が右寄りににシフトしはじめます。社会の風潮も同じで、軍国主義の反動のそのまた反動が起きたわけです。それは思想的というよりは、「皇室を批判したり右翼に反論すると刺されるぞ」という恐怖に裏付けられた忌避であったり忖度でした。

軌道修正。「楢山節考」の作家の話でした。
この思わぬ自身が原因の殺人事件を、深沢七郎はどう受け止め、対処したのか。
多分本人の意思でというより促されてでしょうが、謝罪会見を行っています。そこで涙を流して謝ったとされています。亡くなったお手伝いさんに謝ったのかどうかはわかりませんが、皇室に対しては謝罪したようです。

一時は次に深沢七郎が狙われるのではないか、ということで警察の保護下に置かれます。それでも彼の元には多くの脅迫文、抗議文が寄せられたそうです。

時間が経ち警察の保護がとけると、彼は北海道へ流浪の旅に出ます。
もともと放浪癖があったという彼ですが、今回の旅は彼曰く「死出の旅」。
脅迫文は全国から舞い込み、その中には「殺す」というものも少なくなかった。そんななか北海道からは唯一、ある青年からの脅迫文がありました。

深沢七郎は、北海道のどこに住んでいるのかも、またその名前も知らない青年に刺されるために北海道へ流浪いの旅に出たのです。歩いていれば、そのうちバッタリその青年と出くわし、みごと刺し殺してもらえる。常識ある人間なら「そんな」、と思うでしょうが、彼は本気でそう思っていたようです。

幸いにも、新たな事件は起こりませんでしたが、そうした彼の陰陰滅滅とした心情のなかで流れてきたアキラのうたう「さすらい」が、痙攣を惹き起こし、底知れない孤独感を与えたということなのです。

深沢七郎がこの忌まわしき事件からどれくらいで立ち直ることができたのかは知りませんが、その後の作家活動や生き方を垣間見ると再生できたことはまちがいなく、今川焼店を開いたり、自らつくった農園で農業に明け暮れたりと、自分の人生をまっとうできたのではないでしょうか。ただ、「風流夢譚」は彼の意志で、全集から外されています。

彼はギタリストでもあります。多分、そうした光景は見られなかったと思いますが、弾き語りで深沢七郎の「さすらい」を聴いてみたかった。

https://youtu.be/G_-KUrwDMqQ
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過ぎてゆくのさ夜風のように [歌謡曲]

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いまだ、脳内MDコンポでは「さすらい」が流れております。

まえにも言いましたがこの「さすらい」は「詠み人知らず」の歌で、戦時中、フィリピン・ルソン島に赴いていた日本兵たちにうたわれていたという「ギハロの浜辺」という歌を植内要が採譜したものといわれています。以前はYOU-TUBEにあった記憶があるのですが、いまはありませんでした。

ソフィスティケイトされたこの歌が実際に知られるようになったのは昭和35年(1960)の日活映画「南海の狼煙」の主題歌として銀幕に流れてから。「海から来た流れ者」以来の流れ者シリーズの三作目で宇和島の闘牛にからむアクション映画でした。
監督は山崎徳次郎、相手役は浅丘ルリ子。ほかには日活ニューアクションには欠かせない殺し屋として宍戸錠、またキャバレーシーンの名花・白木マリが共演。敵役は金子信雄と岡田真澄。懐かしいなぁ、みんな。
「さすらい」は以後「流れ者シリーズ」の通しの主題歌となります。

2年後の37年にやはり日活で小林旭主演のサーカスを舞台にしたラブ・サスペンス「さすらい」が作られ、その主題歌は2年前の「さすらい」がそもまま流用されます。監督は野口博志、共演は松原智恵子でした。
経緯は不明ですが、「南海―」で同時発売した主題歌の「さすらい」が思いのほかヒットしたため、その主題歌「さすらい」をモチーフとしてあらたに脚本を書き上げたのではないでしょうか。もっといえば、もしかすると小林旭自身がその歌を気に入ってリクエストしたのかもしれない。
なお、この映画では戦前の「サーカスの唄」(昭和8年・松平晃)が挿入歌としてつかわれています。もちろんうたっているのはアキラ。

そして「さすらい」はそれ以外でも、アキラ主演の作品で挿入歌として何度かつかわれたそうで、本人およびスタッフによほど気いられた歌だということがわかります。
実際小林旭は自伝のなかで「さすらい」がいちばん好きな歌だと書いています。その自伝のタイトルも「さすらい」。

「おらおらでひとりいぐも」の桃子さんが♪夜がまた来る 思い出つれて と一節唸ったように、この歌を好きで聴いたり、あるいは口ずさんだりした・している人はめずらしくなかったのかもしれません。

小林旭、ではなくて小林信彦は自著のなかでアキラと「さすらい」のことを書いている。
30年代のエンタメ、とりわけ映画と喜劇について書かせたら右にも左にも出る者がいない作家が小林信彦。

小林信彦は昭和7年(1932)生まれで、「南海の狼煙」が封切られた頃は20代後半。
その4年前の石原裕次郎の鮮烈デビューで始まった日活アクションを支持した主軸年齢層はどのへんだったのか。おそらく中卒の16歳くらいから20代前半あたりの男女だったのではないでしょうか。データがあるわけではありませんが。もしそうだとすれば信彦氏はやや「遅れてきた青年」。

実際、本の中でアキラの映画を観ることが「男として恥かしい」と書いています。実年齢でいってもアキラは信彦さんの6つ年下。アイドルにするにはたしかに恥かしい。

では裕ちゃんはどうだったのか。と気になりますが、裕次郎については書いておりません。
想像するに、裕次郎は信彦氏よりやはり年下ですがその差2つ。ほぼ同世代といってもいいくらいで、アキラよりは己が姿と比較しやすい。
一部では元祖・オタクといわれている信彦氏ですから、かの不良っぽい太陽族の親玉みたいな男はそのカッコよさの嫉妬もからめて肌が合わなかったのではないでしょうか。

その点アキラは、かなりの弟分であり、その演っていることのバカバカしさも相俟って憎めない愛すべき存在だったのかもしれません。
もうひとつのアキラの看板作品「渡り鳥シリーズ」ともどもその無国籍かつ定型ストーリーをマンガのようにおもしろがっていたのでしょう。

アキラの歌にかんしては「ギターを持った渡り鳥」の主題歌および作品ごとにうたわれるアキラの「民謡」の明るさと、「流れ者シリーズ」に一貫して流れる「さすらい」の暗さを比較しています。

https://youtu.be/EyqCvghXz7g

悪党どもとの格闘シーンに流れる「民謡」は笑わせてくれるけれど、いまとなっては三橋美智也に匹敵するよさがあると書いています。言いすぎかな。

https://youtu.be/hM0dRiSxw5U

「さすらい」については、その暗さは本モノで、そのやりきれなさは絶品と称賛しております。その暗さはマイトガイとちやほやされたアキラが銀幕のなかのヒーローと実際の己とのギャップに気づいたときの暗さだ、とまで言っています。ほんとかな。

いかに小林信彦が「さすらい」を気に入っているかは、「さすらい」と立てられた短いチャプターのなかで、「さすらい」の歌詞(1~3番)をすべて書き記していることでもわかります。

さらにその章の最後には、1960年の暮れ、友人数人と新宿ヒカリ座の前をこの「さすらい」を咆哮しながら、まさに夜風のようにすぎて行ったことを記しています。 

わたしにも昨年亡くなった「さすらい」友達がおりましたので、1960年という複雑な年の瀬の新宿を、あくる年に向かってさすらう小林信彦はじめとする青年たちの姿が生々しく目に浮かぶのです。

おまけは、歌:小林旭、詞:西沢爽、補作曲:狛林正一トリオをワンモア。
というよりわが青春のマドンナが出ているもので。

https://youtu.be/9LPU3KHLt3k

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嫁に行くよな娘じゃないが [歌謡曲]

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御三家最後は最年長でもちろんデビューも昭和35年ともっとも早い橋幸夫。すでに来年5月80歳になると同時に引退すると表明しております。そうですね、まぁ納得のいく決断でしょう。フェイドアウトしていく方もいますし、それはそれでよいと思いますが、引退宣言といいますか、引退予告というのも江戸っ子らしい。

ところで橋幸夫の代表曲といったら何でしょうか。
そのデビュー曲の「潮来笠」。ほかでは吉永小百合のデュエットでレコード大賞を獲った「いつでも夢を」。同じくレコ大受賞の「霧氷」……。
ほかでは作詞の佐伯孝夫が実話をもとにつくったという「江梨子」とか、リズム歌謡の一発目の「あの娘と僕」なんかでしょうか。

橋幸夫が他の二人と異なるところは、いわゆる「和もの」が多いということ。以前は「日本調歌謡曲」なんていってました。
とくに橋幸夫の場合は、デビュー曲の「潮来笠」に象徴されるような映画でいうところの「股旅もの」。江戸時代のやくざ者とかながれ者ですね。だから着物姿も多かった。

舟木一夫にも多くはありませんが、かの「銭形平次」があったし、赤穂浪士の若者をうたった「右衛門七討入り」とか「火消若衆」とか「一心太助江戸っ子祭」などありますが、ヒットしたのはテレビドラマでリピートされた「銭形平次」くらい。
西郷輝彦にいたっては、テレビの時代劇ドラマの主題歌があったような気がしますが、ほとんど聞きません。

特筆したいのは橋幸夫の数多ある「股旅もの」、たとえば「沓掛時次郎」「関の弥太っぺ」「南海の美少年」「磯ぶし源太」など、そのほとんどが吉田正、佐伯孝夫の作曲、作詞コンビ。
吉田・佐伯コンビといえば「哀愁の街に霧が降る」「東京の人」から「有楽町で逢いましょう」「東京ナイト・クラブ」「再会」など、いわゆるムード歌謡の達人たち。それが和ものというか、股旅ものもテリトリーとしていたというのがスゴイ。

わたしの記憶に残っていて、ときおり自動再生されるのは歌そのものは「和もの」ではないのですが、メディアミックスで同名映画の主題歌としてつかわれ、その映画というのが大映の股旅ものというアナクロぶりの「おけさ唄えば」。
映画は観ていませんが、主演が大映の看板・市川雷蔵。橋幸夫も出演していたようです。
動画はその映画のワンシーンで、若き日の橋幸夫登場で、ファンには堪らない。いや時代劇ファンや雷蔵ファンにも堪らない。ちょっと長いですが、歌だけなら8分あたりから。

https://youtu.be/Y_1JjKqzW98

歌の内容は、佐渡から東京へ出てきた男が故郷にいる恋人に想いを募らすという、やはり当時歌謡曲の主流だった「故郷歌謡」。

この歌の思い出は残念ながら発売当時、つまり青春歌謡全盛時の昭和30年代後半ではなく、それから10年あまり経過した昭和40年代。社会人になって間もない頃。

東京郊外の工業団地で働いていた頃の話です。気の合う先輩がいまして。部署は違ったのですが、最寄駅からの送迎バスで隣り合わせになったことから話をするようになり、しばしば酒に誘ってもらうようになりました。
大きなからだで、眼鏡をかけた細い目がいかにもやさしそうで。そんな警戒心をいだかせない風貌に魅かれるものがありました。仕事のほうはバリバリこなすというタイプではなく、しばしば上司や同僚から注意される光景を見かけたこともありました。やっぱりお互いに歌が好き、というところが共通点だったのかもしれません。

そんな先輩に誘われてスナック通いをしていたのは、ちょうどカラオケが出回り始めた頃。、といってもカラオケボックスなどはなく、バーやスナックに設置されたカラオケマシーンが全盛でした。選曲は専用の歌詞集があって、リクエストするとママさんや女の子が8トラックとよばれたカセットテープを挿入するというもの。で、ミュージックが流れると、客はそのマシーンに繋がったマイク片手に鼻声を披露するわけです。

先輩、スナックでは水を得た魚。
よくうたっていたのが鶴田浩二とか神戸一郎とか。そして締めにうたったのがこの「おけさ唄えば」。
橋幸夫のこの歌は知っていましたが意識しはじめたのは先輩のカラオケショーで。聴けば聴くほど「いい歌だなぁ」と思うようになって、やがてわたしの脳内名曲アーカイブスに。
先輩のうたも上手だったなぁ。こちらは鼻声ではなく、美声で。
遠距離恋愛の歌詞もいいですが、演奏の「おけさ節」の浮かれ囃がなんとも哀愁を含んだ賑やかさで。嫌なことでも忘れさせてくれるチャンチキ囃。先輩にとってもそんな歌だったのかもしれません。

当時、一年ごとに職場を変わるという渡り鳥のような生活をしていたわたしは、「予定通り」その会社を短期退職し、先輩ともそのままになってしまいました。
短期間ではありましたが、その先輩とは歌にまつわる別の思い出もありますが、それはいつかまた披露できることがあれば。

もい一曲といいますか、今回は二曲を。
橋幸夫でも「チェッ、チェッ、チェッ」とか「恋のメキシカン・ロック」とか「若いやつ」など聴きたい曲はたくさんありますが、大好きな「チャンチキ囃」が聞こえてくる他の歌手の歌を。
まずは元祖チャンチキ節。やはり佐渡から都会へ出て来た男の歌。こちらも遠い故郷の彼女の顔も浮かびますが、都会へ出てきたものの一向に芽が出ない己を嘆き、酒で紛らすというある意味やけ酒ブルーズ。

https://youtu.be/K8vURIZ8Myk

もう一曲は、昭和の歌姫のチャンチキ節で、はじめに述べたような「和もの」。
主人公はこれもはっきり言ってはいませんが、どうやら佐渡から江戸へ向かう旅がらすのようです。こちらはチャンチキ囃もそうですがドドンパがいい。

https://youtu.be/B45Ckl7lsaA





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