and never do wrong [not mellow BB]
https://youtu.be/Ud67rvrwYhE
「リトル・ダーリン」little darling は1957年、カナダの白人ポップコーラスグループ「ダイヤモンズ」diamonds がヒットさせたドウ・ワップ。ビルボードの年間3位になるほどのビッグヒットに。
なので完全な白人ドゥワップかと思いきや、実はオリジナルは黒人ドゥワップグループのグラディオラスthe gladiolas がダイヤモンズの発売の数か月前にリリースしたもの。ソングライトもグラディオラスのメンバー、モーリス・ウィリアムズmaurice williamsによるもの。
https://youtu.be/W5TNqxMfIkg
元祖オールディーズ映画の「アメリカングラフティ」にもピックアップされた名曲で、エルヴィスやモンキーズなどがカヴァしています。
https://youtu.be/Cy35aQN-O1k
トップの動画は歌とは関係ない1952年の映画「青春物語」。
当時のベストセラー小説Peyton Place の映画化。架空の街ペイトン・プレイスを舞台とした青春群像ドラマで、その後リメイクされたりテレビのシリーズドラマ「ペイトン・プレイス物語」として日本でも放映されました。ぼんやりですが見た記憶があり、不倫あり殺人事件ありのドロドロしたシリアスドラマで「アメリカ人も陽気で明るいばかりじゃないんだな」と思ったものです。「パパは何でも知っている」や「わんぱくデニス」、「ビーバーちゃん」などだけで成り立っているんじゃないアメリカの現実を子どもながらに思い知らされたドラマでした。
動画の女優ダイアン・ヴァーシは、18歳でこの映画がスクリーンデビューでアカデミー助演女優賞にノミネートされた女優。その後の活躍が期待されましたが、独自の道を歩み50代で病死した伝説の女優。グレイス・ケリーやキャンディス・バーゲンのような雰囲気があります。
「リトル・ダーリン」からそれてしまったので軌道修正。
歌詞は最愛の恋人に思いのたけをぶっつけいるのですが、なんだか浮気かなんかをやらかして、それが発覚しフラれてしまった男が、それでも「誰よりも負けずに愛しているんだよ、許してくれよ」と懇願している未練節のように聞こえます。
日本でもロカビリー全盛の昭和33年(1958)に早くも輸入されています。はじめにレコーディングしたのはその年の1月キングからの平尾昌晃で、これがデビュー曲。伊藤素道とリリオ・リズム・エアーズがバックコーラスをつけています。訳詞はキングレコード定番の「音羽たかし」。
なおその年の2月に「第1回日劇ウエスタン・カーニバル」が開かれています。平尾昌晃はそのデビューから半年後「星は何でも知っている」をリリースしてさらにブレイク。
https://youtu.be/HX-3xzlE-QU
昭和33年はまさに若者にロカビリーが支持された年で、レコード売上では前半は平尾昌晃や山下敬二郎の「ダイアナ」が席巻。後半は平尾の「星は何でも知っている」がナンバーワンになり、残念ながら「リトル・ダーリン」は小ヒット程度だったようです。
なお、平尾昌晃のバックをつけた伊藤素道とリリオ・リズム・エアーは、その後単独で「リトル・ダーリン」をリリース。TVの「ザ。ヒットパレード」などではリリオの記憶の方が残っています。平尾が専念したのは「ダイアナ」や「星は何でも知っている」だったのでしょう。
https://youtu.be/Ulp0fu0btpo
おまけにYOU-TUBEでみつけた「リトル・ダーリン」の日本人カヴァをふたつ。もう「ヤ・ヤ・ヤ・ヤア」ですね。
https://youtu.be/WKMxC4AlrA4
https://youtu.be/nn7FKCpFkJw
Runaround Sue [not mellow BB]
なぜか雨の日になると用事ができて出かける羽目に。
きょうは錦糸町へ。
早く着き過ぎたので本屋で時間調整。
買いたい本があるわけではないので、ウォッチングのみ。
どこの書店でもそうだと思いますが、最近の売れ筋本がベスト10形式で表示されています。
その店もジャンル横断で、文庫、新書、単行本別にベスト10の本がラックに並べられていました。そのなかで気になったのが新書。
第三位が「ウクライナの歴史」。
なるほど、時節柄感心が高いのでしょうが、アフリカや中東のように以前から現在に至るまでいまだ戦火がおさまらない地域があるのに、なぜウクライナがといえば、おそらくロシアという日本にとっても隣国が犯罪的な侵略を行っているからなのでしょう。それほど日本人にとって関心が高く、他人事とはおもえない暴力なのでしょう。
とにかく毎日なにか気分が晴れないというのは「あの男」のせいだ、とおもってる日本人はわたしを含めて少なくないのではないでしょうか。
第二位は「70歳からの老けない生き方」
和田秀樹という精神科医が書いた高齢者向けの「心のサプリメント」のような本(ではないでしょうか、読んでませんので)。このような本が売れていることも、著者の名前も初耳で、いかに自分が世間からズレているか、置いてけぼりにされているかを再確認。今始まったことではないので、気にはしておりませんが。
そして第一位は。これがなんとブランクでそこには「売切れ中」の札が。
これは気になる。そろそろ待ち合わせの場所へ向かわなくてはなりませんが、ここまで見てしまうと、「まぁいっか」とはいきません。
買う気もないくせに近くにいた店員さんに訊ねてみると、親切にも教えてくれました。というより調べずに頭の中に入っていたというのがスゴイ(わたしのような厚かましい客がそこそこいたためかもしれませんが)。プロです。
第一位は「80歳の壁」
これも著者は和田秀樹さん。ますます自分の無知を思い知らされることに。しかし一位、二位独占はすごい。いつの時代にも現れる「売れっ子ドクター」なのでしょうね。多分著書は読まないでしょうが、せめて御名だけでも覚えておこう。でも最近はメモリーの具合がよくなくて、なかなか新規保存がききません。
しかし帰宅してこのブログを綴れているということは、著者の名前を憶えていたということで、メモリーは劣化しているとはいえ、まだ機能しているようです。
そのベスト10に入っていたかどうかは記憶にありませんが、新書でそのほか目についたのが、脳科学者と政治学者という二人女性のタレント文化人が書いた「不倫と正義」という本。まぁ、社会のトレンドに掉さす内容なのでしょう。目を惹いたのはテレビでみたことのある御顔が表紙に並んでわたしを見ていたからなのですが。買いませんよ。
正義はともかく「不倫」ですか。いつくらいからでしょうか「不倫」という言葉が一般的になったのは。少なくとも男優が「不倫は文化」と言って物議をかもした以前からあったような気がしますが、すくなくとも昭和30年代、40年代にはなかったような。
昔は「浮気」っていいました。「浮気」はもはや死語なのでしょうか。日常会話ではまだ生き延びているような気もしますが。
気が変わらないうちに今回もオールディーズを。
60年代のアメリカンポップスです。
https://youtu.be/m-s09vrJgNM
「浮気なスー」Runaround sue はディオンDionがうたって1961年、ビルボード全米ナンバーワンになった白人ドウワップ。ソングライトは彼と友人との共作。のちに「スー」とは彼の奥さんのスザンナのことだと公表したとか。本当かな。大丈夫だったのかな。
動画でみごとにカヴァしているのはオーストラリアのポップス・カルテット、ヒューマン・ネイチャhuman nature。ほかにもオールディーズをいくつもうたっていますので、興味のある方は探して見てください。
「浮気なスー」は、すぐに他の男になびいてしまう彼女には決して近づくな、と男どもに警告を発している歌。裏読みすれば(みながそう思ってくれれば、僕ひとりの彼女になるのだからね)ととれないこともありませんが、素直に読めば「だって僕はこんなひどい目にあったんだぜ」という怨み節。「でも彼女の笑顔や手の感触が忘れられないんだ」という未練節でもある。まぁ、失恋ソングの定番です。
[Runaround]は直訳すれば「走りまわる」ですが、「言い逃れ」とか「ごまかし」という意味もあるようです。この歌では、町じゅうの男にモーションをかける(古い表現ですが)という意味でつかっているようです。それを「浮気」と訳したのは60年代カヴァポップスの作詞、いや訳詞の帝王・漣健児。名訳です。
その訳詞で日本語カヴァしたのが、1962年(昭和37)のスリー・ファンキーズとダニー飯田&パラダイス・キング。記憶にあるのは前者のほうですね。
https://youtu.be/IzwcGK3UeEM
どちらも漣健児の訳詞でファンキーズ盤は「浮気なスー」(サブタイトルは「悲しき恋の物語」)で、パラキン盤は「浮気娘」となっております。
また2009年には甲斐バンドがそのまま「浮気なスー」としてカヴァしております。動画でないのが残念ですが。
https://youtu.be/sbB4JyZi4PY
甲斐ヴァージョンを聴いていると、なぜか歌の終り際にコニー・フランシスconnie francisの「ロリポップ・リップス」lollipop lips の歌い出しを歌っておりました。
こういう「お遊び」で思いつくのはフォーククルセダーズの「帰って来たヨッパライ」。エンディングで、ビートルズの「ハードデイス・ナイト」をお経ふうにうたい、バックには「エリーゼのために」を流すという訳の分からない「お遊び」をしておりました。
とにかく甲斐よしひろさんも幼き頃、カヴァポップスにとり憑かれていたのでしょうね。それにしても「ロリポップ・リップス」はシブい。たしかに[Orange, pineapple, cherry, lemon and lime]は口ずさみたくなるフレイズではありますが。
本屋で時間をつぶしたあと、駅前の喫茶店で知り合いと閑談。
知ったかぶりで「今売れている本でさ、『80歳の壁』って…」と言い終わらないうちに、「ああ、和田秀樹のやつね」と知人。
「ええ? 常識なの」と心のなかでわたし。知人はわたしより年上なのに…。
Don't make me blue [not mellow BB]
きょうも雨で、おまけに寒かった。
例によって公園のタンポポたちはすぼまっていました。なかには鈍感なのか豪気なのか半開きのヤツもいましたが。
そんなわけで下を向いて歩いていたら雨に濡れた鮮やかな緑の草がピンクの花をつけておりました。一瞬「あれ?」と思いましたが、即座に疑問氷解。視線をあげるといまだ花をつけているカンザン(八重桜)の樹が。
散った薔薇の蕾のような花がうまい具合に青草のうえに落ちただけのことです。青い草に桃色の花、芝桜よりも印象的な光景でした。
公園を抜けて仕事場までの道の途中に町のパン屋さんがあります。最近あちこちでよく見ます。間口半間、奥行き2間ほどの小さな店です。
いぜん一度パンの種類はわすれましたが買った記憶があります。味も覚えていませんが、リピートしなかったとうことはわたしの口には合わなかったということなのだと思いますが。
そのパン屋さんに寄って明日の朝食べる食パンときょうの昼間用の焼きそばパンを買いました。
実は数日前に近所の知り合いからこの店のパンが「実にオイシイ」と聞かされていたので、それならばと再チャレンジしてみたわけです。
その知人も初めて買って食べたというのですが、その理由がなんでもつい最近この店が某ラジオ番組で取材されたのだとか。
そういわれれば、最近店の前を通ると人が並んでいる光景をしばしば目にします。なるほどそういうことなのか、と思いましたが店にとってはうれしいことで、メディアにのることは大歓迎のはず。テレビで町の店を紹介する番組があって、それがきっかけでブレイクするということがあるそうですが、ラジオの影響というのもまだまだ捨てたものではないようです。
しかし、いままで買ったことがなかったくせにラジオのレポーターの「うまし!」のひと言で買いに行ってしまう知人も何と申しますか……。さらにいえば、それをまた聞きしただけで過去の経験を忘れて買い求めてしまうヤツも、学習能力がないといいますか、懲りない人間といいますか。
で、仕事場へ行き、昼にその焼きそばを食べてみました。
味はと言いますと、これがおいしいのです。焼きそば部分はコンビニで買うものと同じようでしたが、パンが美味しい。もしかするとラジオの力に洗脳というか洗味されてしまったのかもしれませんが、実にオイシイと知人の言葉を鸚鵡返ししてしまいます。
こうなると明日の食パンが楽しみ。リクエストに応じてくれるので四つ切りにしてもらったのですが、とりわけ端の全面「耳」になっている部分を少し強めに焼いて食べてみようと思っております。
今回もオールデイズを。手元にはありませんがシングルレコードを買った記憶が。
1963年、ヴェルヴェッツVelvets がうたった「愛しのラナ」Lana。
https://youtu.be/toWXtiQ_6nI
「世界一キレイで可愛いラナ、キミなしでは生きてはいけない、どれほど僕が愛しているか、わかってくれよ」とう流行歌定番の熱烈告白ソング。
日本ではカバーポップスブームの60年代前半、チャート上位になるほどヒットしました。
ソングライトは共同で、そのひとりが「プリティ・ウーマン」や「オンリー・ザ・ロンリー」のヒットがあるロイ・オービソンRoy Orbison 。
動画で彼のカヴァがありました。
https://youtu.be/RIojk00y08w
また、日本ではソウルブームにのってキングトーンズや80年代はじめに活動したシャネルズ(のちのラッツ&スター)によってカヴァされています。
https://youtu.be/CfUhL0bOvNY
ヴェルヴェッツは1959年にデビューしたドゥワップユニット。ハイスクールの先生と4人の生徒がメンバーという異色のユニット。ジャケットをみるかぎり「ホントに高校生かよ?」という驚き。3年ほどで解散といいますから、生徒たちにはそれぞれ進む道があったのでしょうね。
ではもう一曲、彼らの最大のヒット曲1961年の「トゥナイト」Tonight Could Be The Night Buenaを。「ラナ」からかなり時間が経っておりますが。なおシャネルズの「トゥナイト」はこのカヴァではなく邦楽オリジナルです、蛇足ですが。
https://youtu.be/EmmUomPfjhM
仕事を終えての帰り道。例のパン屋さんに行列はありませんでしたが、ガラス戸の入口の張り紙をあらためて見ると「定休日 日曜日・月曜日」と書いてありました。なるほど町のパン屋さんらしいなと思いつつ帰路に。
公園の藤棚にははやばやと薄紫の花の群れがいくつか。「大丈夫か、しばらく寒いぞ」と言ってやりました。
feel alright [not mellow BB]
きのう、谷根千へ行ってきました。
本郷に住んでいる知り合いと月一くらいで根津で昼食をとるのです。
いつも、地下鉄の千駄木駅で降りて、不忍通りを根津まで歩いて行きます。
昔、千駄木に住んでいたことがあったので、街並みの変わり様を見て歩くのが気分転換にもなるものですから。
ほんとに町って生きているなぁと感じます。昔ながらの店もなくはないけど、知らぬ間にフェイドアウトし、その代わりに新しい店が誕生するなんてケースが珍しくない。とくにコロナの影響なのか、開店間もなく閉店なんて場合も。
ここのところ感じるのは「饂飩」あるいは「蕎麦」の専門店が増えている気がします。とりわけ土曜日曜は谷根千散策のウォーカーが多く、昼時はども店も行列ができるほど。
千駄木から根津まで歩いて15分あまり。というのは昔の話で、いまは20分以上かかります。しょうがいなですね。
知り合いと今回は中華で昼食。そのあといつもの居心地の良い喫茶店で一か月分の近況などを話します。そのあと時間があるときは池之端や谷中を散歩しながら、またまたおしゃべりを。男同士なのにね。
きょういちばんの盛り上がりは大谷のツーホーマー。わたしは1本目を見て出てきたので知り合いから知らされた2本にはビックリ。
今回は知り合いが用事があったので、喫茶店でグッドバイ。
わたしは、善光寺坂をのぼり上野方面へ。途中で左折して谷中墓地をかすめて三崎坂を下ります。谷中小学校が見えたら今度は右折して谷中のコミュニティセンター(ここには図書館があって昔よくCDを借りに来ました)方向へ。センターまで歩いたら左折してよみせ通りへ続くゆるい坂をくだります。
その途中にある小さな古本屋さんが目的地。
いぜん一度山本昌代の文庫本を買ったことがあった店で、そのとき買おうかどうか迷ったのが「わが心のジョージア」というレイ・チャールズの自伝。
あれから半年以上も経っているのですでに売れてしまっているかもしれませんが、それならそれで何か読んでみたい本があるかもしれないし、なくても眼と頭の保養になるのでとにかく向かうことに。
店の前には見たことのある昔ながらの二つ折りの看板が。そして小さなガラス張りのドアから本の並んだ暗い店内が見えます。では中へとノブに手をかけたとたん「アレッ?」。なんとカギがかかっております。定休日ならば看板は出てないでしょうし、シャッターも降りているはずなのでやっていることは間違いないのですが、おそらくワンマンショップなので、店主はおそい食事か何かで店をあけているのでしょう。
残念ながら、いつ戻るかわからない店主を待つほどの余裕はなかったので、出直しということに。
帰宅したのは午後4時ちかく。
ずいぶん歩きました。スマホの万歩計をみるとあと200歩あまりで1万歩。疲れたけれど気分はいい。知り合いにも会えたし、谷根千からも英気をもらえたし、大谷も調子があがってきたし。
大谷にちなんだ音楽は思いつかないので、古本屋で嫌われてしまったレイ・チャールズのオールデイズを。
いろいろ聞きたい曲はありますが、こどもの頃に聴いて強烈なインパクトがあったこの歌を。
https://youtu.be/pVwIMNkTPSc
からだの芯まで突き動かすラテン系のリフと、コールアンドレスポンスが印象的な「ホワッド・アイ・セイ」what'd I say は1959年にレイ・チャールズがうたい、ビルボードのR&Bでナンバーワンになった曲。
コンサートで時間が余り、レイがピアノの弾き語りで即興につくったといわれるこの歌は発売当初、7分(当初)という曲の長さと、性的エモーショナルがすぎるという理由で放送を拒むラジオ局があったりして、チャートも低迷していたそうだ。
それが歌詞の過激な部分(オリジナルがどうだったのかはわかりませんが)を修正したところビルボード1位に輝いたとか。
その後、シナトラ、エルヴィスなどそれこそ多くのシンガーに「カヴァ」されて、誰もが認めるスタンダードポップスになりましたが、レイにいわせると「白人がうたったからだろ」と。つまり白人なら性的表現でも許されるのかよ、という皮肉なのでしょう。
https://youtu.be/hLi5PNasbvA
日本では1964年(昭和39)に発売された内田裕也&尾藤イサオ盤(わたしも音源をもってます)が知られていますが、海外同様多くのシンガーがカヴァしています。原曲のノリをいくらかでも際限出来ているのはやはり内田・尾藤盤ではないでしょうか。とにかくふたりともこの手の歌が上手。編曲はわかりませんが、バックバンドの寺内タケシではないでしょうか。
https://youtu.be/DlyA75vo6d4
ただ最もはやくカヴァしたというなら1961年といいますから、レイのオリジナルの2年後、果敢にも日本語でうたった藤木孝かもしれません。訳詞はタカオ・カンベで、アレンジは宮川泰。デビュー当時藤木はナベプロでしたから。
https://youtu.be/ccBzqdHHWu0
ちなみにタカオ・カンベはかのロカビリー時代の起爆剤となった山下敬二郎の「ダイアナ」や園まりの「太陽はひとりぼっち」、尾藤イサオの「悲しき願い」などの「訳詞」を手がけています。また作詞では森山加代子の「じんじろげ」や高倉健の「網走番外地」(共作)なども。元々はレコード会社の社員が二足のワラジでだったとか。そういうケースはたまにあったようです。
この歌のある種代名詞であるコールアンドレスポンスを聴いたのもこの歌がはじめてだったような気がします。
またこの「ホワッド・アイ・セイ」カヴァしているのは男ばかりとは限らず、ナンシー・シナトラやジュン・カーター、ロネッツなどの女性もカヴァしています。日本では黛じゅんや弘田三枝子らが。
女性の「ホワッド・アイ・セイ」もいいもので、最後に内外の女性によるカヴァを。
まず日本は「レイ・チャールス大好き」を公言するR&Bシンガーのみごとな歌を。
https://youtu.be/Q1DvNBO8TRY
アメリカでは日本でツアーをしたこともあるというR&Bシンガー、バーバラ・リン。めずらしいギターの弾き語りで(それもレフティで)、動画では歌詞をやや変えているようです。なによりもいまだ現役だというのがスゴイ。
https://youtu.be/U6Y7sEO7Low
悲しきエルヴィス [not mellow BB]
エルヴィスが生きていたら86歳?
……想像がつかない。
エルヴィスは日本でもっと評価されていいシンガーです。その生き方はともかく、数々のヒット曲で世界のポップシーンに与えた影響はビートルズ以上だと思うのですが…。
それが悲しい。
エルヴィスがサンレコードからデビューしたのが1954年、「ザッツ・オーライト・ママ」で、いわゆるB面がビル・モンローのブルーグラス「ブルームーン・オブ・ケンタッキー」をR&Bにアレンジしたもの。それはまさにその後のロケンローで、カントリーシンガーのパッツィ・クラインやリアン・ライムスのカヴァーもそのうたい方を踏襲している。それほど斬新なアレンジでした。
https://youtu.be/QLb99I86pE4
そして56年RCA移籍後の初シングル、「ハート・ブレイク・ホテル」が文字どおり大ブレイク。その波は日本にまで及び当時ウエスタンのアイドルとなっていた小坂一也がカヴァー。
https://youtu.be/W4euyTDhFnk
少し横道にそれてロケンローの話をしますと、「ハート・ブレイク・ホテル」の前年1955年に映画「暴力教室」のテーマとしてつかわれた「ロック・アラウンド・ザ・クロック」(ビル・ヘイリーと彼のコメッツが録音したのは前年)が大爆発したのがきっかけ。
昔読んだ本か何かに書いてあったのは、日本でも同じ年(昭和30年)にこの映画が公開されたとき、PTAから上映禁止や鑑賞禁止の運動が起こったとか(実際に禁止されたかどうかはわかりませんが)。
たしかにあの時代にあの映画は刺激が強すぎました。あれからじゃないでしょうか、怒れる若者たちに「飛び出しナイフ」ブームが起き、「俺たちも先公殴っていいんだ」と気づいて校内暴力が発芽したのは。
まぁ、そういう背景がありまして、エルヴィスやロケンローはストレートに日本の社会に入っていかなかったのでしょう。
もし昭和30年代初頭に日本でもエルヴィス旋風が起こっていたら、彼の存在は日本でもっと大きなものになっていたのではないか、と思っています。
ですから当時わたしの耳にはエルヴィス・プレスリーは聴こえてきませんでした。もっとも小学校に上がるか上がらないかという頃ですので当然なのですが。
そのかわりかすかに聴こえていたのが「ビーバップ・ルーラ」と「ダイアナ」。もちろんジーン・ビンセントやポール・アンカなど知る由もなく、近所のお兄さんお姉さんがうたっているのを小耳に挟んだだけなのですが。
もちろん名前は知っていましたが、初めてエルヴィスを聴いたのは「GIブルース」。ただし、これは坂本九&パラダイスキングのカヴァーで。ちなみにこれが安井かずみの作詩(訳詞)デビュー作。
https://youtu.be/oaDkvUucobA
ですから正真正銘エルヴィスの歌唱を聴いたのは1963年といいますから昭和は38年。
当時聴き始めたラジオのヒットパレードで何週にもわったってナンバーワンになった「悲しき悪魔」you are devil disquise。
これこそわたしのエルヴィスの原点なのです。
https://youtu.be/6ZH29Lb_Oh8
その頃ベスト10の上位を競っていたのが、映画「大脱走」のテーマやポール&ポーラの「ヘイ・ポーラ」、ジョニー・シンバルの「ミスター・ベースマン」、クリフ・リチャードの「ラッキー・リップス」、リトル・ペギー・マーチの「アイ・ウィル・フォロー・ヒム」などなど。
前も書きましたが、至福のラジオデイズでした。
しかしこの「悲しき悪魔」、原題は「君は悪魔の化身」といった意味なのですが、なぜ「悲しき」なのでしょうか。
まぁ、歌のストーリーは天使のような彼女に振り回される男の嘆きで「心うらはら」「言葉うらはら」で彼女が悪魔に見えてしまったのですから、「悲しき」はあながち間違いではありません。
実は、「悲しき…」は坂本九の「悲しき60才」(ムスターファ)あたりから流行ったタイトリングで、「悲しきインディアン」だとか「悲しき街角」、「悲しき片想い」など多くのカヴァーポップスの「冠」となったタイトルでした。
最後にポケットトランジスタを耳にあてて「悲しき悪魔」を聴いていた同じ時期、ヒットパレードを賑わしていた「悲しき」ソングを2曲どうぞ。
https://youtu.be/bQstQST1GiM
https://youtu.be/sjbNblrAJXc
テネシー・ワルツTennessee waltz [not mellow BB]
アメリカの大統領選はようやく「バイバイ・トランプ」で終わりそうですが、ほんとに彼にとっては惜敗で、州によっては圧勝だったところも少なくない。
激戦となったジョージア州のすぐ北に位置する南部・テネシー州では、トランプが60%以上を獲得して勝利だそうです。
それでも、州都のメンフィスや大都市ナッシュビルではバイデンが勝っているのがアメリカの分断や複雑さを象徴しています。
ちなみにメンフィスにはエルヴィスが初レコーディングしたサン・レコードがあり、ナッシュビルはカントリーミュージックの祭典「グランド・オール・オプリ」の開催地。
そのテネシー州の州歌といえば有名なのが「テネシー・ワルツ」。
実はほかにも9つの州歌があるのですが。
https://youtu.be/44B6B1OycgI
「テネシー・ワルツ」は1950年、パティ・ペイジによってうたわれ、世界的ポップソングとなりました。それから70年が経過してしまったので、今の若者にとっては、よほどの「若年寄」でなければ忘れられた歌といわれても仕方のないところ。
この美しい歌のルーツがカントリーミュージックであるとこも高齢の洋楽好き以外は誰も知らないのかもしれません。
https://youtu.be/yL5lLDdnDgo
誕生したのは1948年。つくったのは当時流行のウエスタン・スイングバンドを率いていたピー・ウィー・キングと、そのバンドのフィドル兼ヴォーカルだったレッド・スチュアートのコンビ。ちなみにふたりはジョー・スタッフォードをはじめ多くのシンガーがうたっているスタンダード「ユー・ビロング・トゥ・ミー」のライターでも。
その年、ピー・ウィーたちのほかにもパティと同じオクラホマ出身のカントリーのバラードシンガー、“カウボーイ”コーパスがこの「テネシー・ワルツ」をレコーディングし、ともにカントリーチャートに入っています。
パティがプロになったのは47年、20歳のときで、23歳で「テネシー・ワルツ」をヒットさせる前にも、いくつもビルボードのチャートに入る曲をうたっています。「テネシー・ワルツ」をリリースする半年前には「オール・マイ・ラヴ/ボレロ」でチャート1位を獲るなど、いわば有望なポップシンガーでした。
パティがピー・ウィーたちの「テネシー・ワルツ」を知っていたかどうかは不明ですが、少なくともそれらを聴いてこの歌をうたいたいと思ったわけではないらしい。
https://youtu.be/de5kkTdWn7E
実はピー・ウィー達や、コーパスのほかに同じ年「テネシー・ワルツ」をリリースしていたグループがいました。
それがアーキン・ホーキンス楽団で、ヴォーカルにピアニスト兼のエイス・ハリスをフューチャーした「テネシー・ワルツ」は、R&Bチャートのランク6位に。
そのホーキンス楽団盤をパティにすすめたのが音楽プロデューサーだったジェリー・ウェクスラー。
ジェリーはレイ・チャールズやアレサ・フランクリン、クリス・コナーらを育てた辣腕で元々ジャーナリストだったこともあり、それまでのレイス(黒人)ミュージックを「リズム・アンド・ブルーズ」と言い換えた男でもあります。
これを気に入りパティはさっそくシングル盤としてレコーディング。
そしてご存知のとおりパティの「テネシー・ワルツ」は1950年から数年間で700万枚を超える大ミリオンヒットとなったのです
パティによって「男歌」から「女歌」に変えられた「テネシー・ワルツ」は早い話が「寝盗られソング」。
ダンスパーティーで恋人と踊っていたら、久しぶりの旧友と再会。自然の流れでその彼女をダーリンに照会したところ、自然の流れ?でふたりは踊ることに。
するとその一曲踊る間に、旧友はなななんとダーリンのハートを盗んでしまった。という悲しき恋の物語。
失恋も過ぎてしまえば良い思い出という、美しい歌です。
パティはその後、いくつものナンバーワンを含む、日本でもおなじみのミリオンヒットを連発しています。
https://youtu.be/g0OSRuaKKig
「モッキンバード・ヒル」Mockin' bird hill
美声で啼くモッキンバード(つぐみに似た小鳥)の囀りで目覚める丘での幸せな暮らしをうたってミリオンヒットに。パティより少し前にレス・ポール&メリー・フォードでヒットしている。日本ではペギー葉山がカヴァー。
https://youtu.be/2AkLE4X-bbU
「ワンワン・ワルツ」Doggie in the Window
ペットショップで、「防犯や散歩するために必要なの、あの犬はおいくら?」と値踏みをする女性の他愛のない歌。犬の鳴き声が当時はめずらしかったノヴェルティソング。桜田淳子がカヴァーしてるらしいが、YOU-TUBEには見当たらない。かわりにナンシー梅木のヴァージョンがありました。
https://youtu.be/Qph5hIicNbI
「涙のワルツ」I went to your wedding
これまたワルツ。「テネシー・ワルツ」ほどではないが日本でもヒットし、ファンも多い。元彼?の結婚式で涙するハートブレイクソング。「テネシー・ワルツ」の続編ととれないこともない。のちにハンク・スノウがカントリーにアレンジし、チャートインさせている。
日本ではペギー葉山、伊東ゆかり、エミー・ジャクソンらがカヴァー。
https://youtu.be/PZd1wgl665k
「チェンジング・パートナーズ」Changing partners
これも日本では人気のあったPatti's song 。内容は彼と行ったダンスパーティでの出来事。「彼との楽しいダンスも、すぐに相手を変えなければならない踊りだったため、彼はあっという間に彼方へ。だから私は次々に相手を変えて早く彼の所へいくの」という女心をうたっている。日本では江利チエミが「君慕うワルツ」という邦題で♪悲しや チェンジパートナー 君去りゆけば とうたっている。またこれもレッド・スチュアートやビル・モンローらによってカントリーにアレンジされている。
「テネシー・ワルツ」は名曲だけにカヴァーも多い。
カントリーならロイ・エイカフ、エディ・アーノルドやアーネスト・タブ。ディーヴァならパッツィ・クライン、エミルー・ハリス、エヴァ・キャシディ、ヘイディ・ハウゲとか。
ジャズではソニー・ロリンズが知られていますが、ポップスならジョー・スタッフォード、アン・マレー、ボニー・ライアット、ノラ・ジョーンズ、コニー・フランシス、ペトゥラ・クラークなど。男性ならパット・ブーン、オーティス・レディング、サム・クック、YOU-TUBEを探せばエルヴィスでも聴けます。
もちろん日本でもヒットしました。
ドリス・デイと並んで、この時代日本で最も知られた女性ジャズ(そう呼ばれた)ヴォーカリストだったペティ・ベイジ。
当時高校生だった、元演出家で作家の久世光彦はその著書のなかで、「《Patti Page》と表紙に書いたノートを、いつも通学鞄に入れていた。中には彼女のヒット・ナンバーの英語の詞が、小さな几帳面な私の字で書かれていた……私たちの世代にとって、《パティ・ページ》だけは特別だった。」と「パティ・ペイジの時代」を書いています。
ルート66 [not mellow BB]
ほかにも「アンフォゲタブル」や「ランブリング・ローズ」など多くの楽曲で日本人を愉しませ、慰めてくれたキング・コールですが、個人的にいちばんよく聴いたのは「ルート66」。おそらくこの歌が脳内アーカイブに保管されているという先輩、ご同輩は多いのでは。
https://youtu.be/dCYApJtsyd0
なぜなら「ルート66」はアメリカのTVドラマとして1960年に放映され、日本でもその2年後(昭和37年)にNHKで放映されたからです。テレビ受像機が爆発的に全国に普及した頃です。マイ・カーブームを先取りしたアメリカの「オン・ザ・ロード」ドラマにカルチャーショックと憧れを抱いた諸先輩も少なくなかったのでは。
もちろんその主題歌はその「ルート66」。ただし、ドラマでうたったのはキング・コールではなかったらしい。というのはわたしは残念ながらドラマを見た記憶がないのです。おそらく裏番組にうつつをぬかしていたのでしょう。
そもそも「ルート66」はアメリカ東部のイリノイ州シカゴから西部のカリフォルニア州ロサンゼルスまでの大陸横断3920キロの自動車道路。全線舗装が完了したのは1938年というから3年後に太平洋戦争を控えた昭和13年。
当時、ダストボール(砂嵐)に悩まされたオクラホマやアーカンソーの農民がルート66で新天地カリフォルニアを目指したといわれます。1939年にスタインベックが発表した「怒りの葡萄」はまさにその様子を描いたもので、彼は「ルート66」をマザーロードと呼びました。
https://youtu.be/jQYKJaWuj0Y
第二次世界大戦が終わるとアメリカでは革命的モータリゼーションが起こり、ルート66を利用して東から西への大移民がブームとなったとか。また、多くの野心家がルート66沿線の土地を買い、ガススタンドにホテル、バーガーショップにドラッグストアなどドライバー向けの店をオープンさせ、この大陸横断道路はさらに隆盛を極めていきます。
そんななか、ペンシルベニアにボビー・トループという男がいて、1946年その経験をもとに「ルート66」という歌をつくりました。そしてそれを聴いたまだトリオ時代のキング・コールがいちはやくレコード化することに。こうして時代を反映したポップス「ルート66」は誕生しました。
ただ通過地の名前をいくつも織り込んだだけで、「ごきげんだぜ、ルート66」「こいつが新し旅ってヤツさ」と単細胞な若者がのたまっているだけのような歌ですが、それが一般受けしたのか見事にヒット。
しかし盛者必衰のことわり通り、モータリゼーションがさらなる進化を遂げ、やがてハイウェイ時代が到来すると、ルート66はその役割を終え、1985年に廃線になります。
ただ、いまでも当時の様子を偲ばせるミュージアムが旧ロード近くにいくつかあるといいますから、その一部はいまでもノスタルジック街道として訪れる人がいるのかもしれません。
ところでこのノリのいい歌をカヴァーするシンガーは少なくない。
https://youtu.be/BE36QIwwkOc
日本では60年代に内田裕也がリリースした記憶が。YOU-TUBEにもありました。また珍しいジュリーのカヴァーもありましたが、どちらも他の楽曲とのメドレーでした。
女性では金子晴美とかケイコ・リー、綾戸智恵らのジャズヴォーカリストがカヴァーしています。
https://youtu.be/8SPW0oMclv0
どうしてももう一曲聴きたいのが、やっぱりカントリー。
日本ではカントリーファン以外はほぼ無名ですが、アメリカでは名の知れたウエスタン・スウィングバンド。ジャジーでブルージーなルート66を。
https://youtu.be/vifUaZQL8pc
トゥ・ヤング [not mellow BB]
1945年の暑い夏、かの戦争が終わりそれまでの軍国主義的価値観がめでたくご破算となりました。
そして、秋風が吹き、さらに雪の季節が去って、空襲に怯えることのない春がやってくると、食糧難に悩まされながらも、われら日本人の諸先輩の方々の暮しにも、わずかながら本を読んだりラジオから流れてくる音楽をはじめ、浪曲、落語などのいまでいうエンタメに耳をそばだてる余裕も生まれてきました。多分。
そんななか新進的な若者や戦時中我慢していた洋楽ファンは米軍放送(FENの前身)にダイヤルを合わせるようになったり。そこから流れてきたのがまったく新鮮なアメリカのポピュラーミュージック。ダウンロードもYOU-TUBEもない時代、そのポップスとの出会いにどれほど感動したことか。おそらく。
それはともかく、その昭和20年代、日本人にもっとも愛された(聴かれた)外国人シンガーは誰なのかと考えてみました。
統計があるわけではなく、20年代も後半にこの世にオン出たわたしとしては、わかろうはずがありません。
ただ、いろいろな人の当時の本や、その後に書かれた回想録などを読むと、男女ふたりのアメリカ人の名前があがってきます。
女性は「センチメンタル・ジャーニー」でジャズヴォーカルに乗せて戦勝国アメリカのモダンさをストレートパンチでぶつけてきたドリス・デイ。
男性は艶のある低音で「トゥ・ヤング」「プリテンド」「枯葉」などで日本人を魅了したナット・キング・コールではないでしょうか。
ずっとあとですが、わたしも「ラヴ」のシングル盤を買いました。
https://youtu.be/c55s6Kp63X0
「トゥ・ヤング」は1951年に発表された、万国共通いつの時代もという“大人はわかってくれない”ソング。前年の「モナ・リサ」に続いて全米のポップチャート1位になった曲。日本では翌52年(昭和27年)にいちはやく江利チエミがカヴァーしています。(テネシー・ワルツの4カ月後)ちなみに「プリテンド」は柳沢真一がうたっています。
https://youtu.be/EQZQGyRN470
キング・コールはほんとうに日本人に愛されたヴォーカリストであり、ピアニストでした。
キング・コールをきっかけに華麗なるアメリカンポップスの世界を散歩するようになった日本人は少なからずいるはずです。
また、30年代に入ると「カチート」や「キサス・キサス・キサス」などで当時の日本のラテンブームにもひと役買い、2度来日してコンサートを行っています。(夭折しなければ何度も来日したはず)。
https://youtu.be/Ue8dYjjLLjs
そんなキングコールのラテンミュージックに影響されて、こんな歌謡曲も巷に流れておりました。
https://youtu.be/eeq2YSm64G8