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嫌いは嫌い好きは好き [memory]

宝田明.jpg


宝田明さんがお亡くなりになりました。
87歳だそうで、容体がわるくなり翌日に永眠されたそうです。
あれほど美貌の方でも亡くなるのか、とあたりまえのことにながら不条理を感じております。また、自分も願わくば長く寝付くことなく、体調をくずしたら即あの世へ行きたいものだ、という思いも浮かんでまいりました。


昭和9年生まれといいますから、昔よく言われた昭和一ケタ世代。
朝鮮の清津(ちょんじん)で生まれ、終戦は満洲の哈爾浜(はるびん)で迎えたと履歴に書いてありました。終戦後、ソ連軍の満洲への侵攻、蹂躙で過酷な引き揚げ体験があったそうで、そのとき残虐なソ連軍の記憶が消えず、いまでもロシアの文学、音楽ほか藝術に親しめなかったそうです。


昭和30年代の前半、イケ面といえば(いまは主演俳優ほぼそうですが、当時はそう多くはいなかった)宝田明と鶴田浩二が双璧でした。
わたしが小学校へあがるかあがらない頃、近所の遊び友達がいまして、そのお姉さん(いまでいう女子高生)がわたしに歌謡曲を教えてくれまして、そのイチ押しだったのが神戸一郎。彼女曰く「神戸一郎っていい男よね。だって宝田明と鶴田浩二を足して二で割った顔をしてるじゃない」。わたしはふたりのイケ面俳優も神戸一郎も知らなかったのですが、そのとき初めて宝田明という名とその存在をインプットされたわけです。

また彼女の強いプッシュもあってその後、幼いながら神戸一郎のファンになりました。
ちなみに神戸一郎は今でいうアイドルシンガーで、映画にも引っ張りだこ。のちに観ましたが宝田明とも「嵐を呼ぶ楽団」で共演しております。

お姉さんが言った宝田明、鶴田浩二が当時の二枚目スターの代表格であったということは後日知ることになり、あらためてかのお姉さんのミーハー度を確認することにもなったわけです。

「時代の顔」というのもあるのかもしれませんが、古い人間にとってはこの二人はもうしわけないけれどキムタクより「上」でした。すくなくとも、40歳、50歳になっても端正な顔は保たれておりましたし。現在のイケ面だらけの時代、誰が真の二枚目なのでしょうか。それはともかく。

宝田明といえば古くはゴジラ俳優、あるいは近年ではミュージカル俳優としてその存在感を示しておりましたが、昭和30年代に青春を謳歌した先輩方にとっては大学生ものや源氏鶏太原作のサラリーマンもの、つまり東宝青春映画を牽引したトップスターという印象がもっとも強いのではないでしょうか。

個人的に映画に関しては残念ながら東映、日活専門でしたので、ほとんど観ておりませんが、最も印象に残っているのは昭和37年に封切られた(死語?)成瀬巳喜男監督の「放浪記」。林芙美子の自伝原作で高峰秀子が芙美子を演じ、「浮雲」とともに彼女の代表作といえる映画です。
そのなかで芙美子の三人目の夫で、才能に乏しく気の強い妻からもやりこめられる作家を存在感たっぷり、みごとに演じていたのが宝田明でした。
彼の著書には、そのとき成瀬監督から出されたロングNGと高峰秀子とのやりとり、そしてその後日談がおもしろく書かれておりました。

当時の映画界は「歌うスター」というのが重要なプロモーションのひとつで、主題歌をレコーディングする主演級の男優、女優が少なからずいました。
代表的な俳優が日活の石原裕次郎や小林旭、松竹の鶴田浩二、東映の高倉健など。

宝田明は元々高校時代から演劇部に所属していたこともあり、エンタメ志向がつよく、歌も好きだったようです。映画の舞台あいさつや、プライベートで遊んでいたキャバレーなどではよく流行歌やジャズを披露していたとか。

そして彼がはじめてうたった映画主題歌が昭和32年の「美貌の都」。監督は松林宗恵監督でヒロインはその後東宝のトップペアになる司葉子。
この歌こそが彼の唯一最大のヒット曲です。

https://youtu.be/I-yGNgabMzo

作詞は歌謡曲草創期の「東京行進曲」から「愛染かつら」、さらには戦後復興期の代表曲「青い山脈」など昭和の歌謡曲を牽引した西條八十。作曲はやはりコロムビアの看板で「東京の花売り娘」「港町十三番地」「逢いたいなァあの人に」「東京のバスガール」「恋人をもつならば」など戦後歌謡曲を支えたヒットメイカー、上原げんと。

この映画と主題歌のヒットにより翌年「愛情の都」が製作され、その主題歌もうたったそうですが、映画も歌もほぼ埋もれた存在となっております。

「美貌の都」が公開された昭和32年は戦後日本映画のピーク(観客動員)で、各映画制作会社も多作となり、宝田明も主演級を19本こなしたとか。その昭和32年、「美貌の都」の数作品あとに「青い山脈」(新子の巻と雪子の巻の2作品)が公開されその主題歌をうたっております

https://youtu.be/gWgx391uekk

昭和24年今井正監督、原節子・池部亮主演の8年後のリメイク版です。
ちなみに新子はやはり石坂洋次郎原作の「山と川のある町」で共演した雪村いづみ、雪子(島崎先生)には司葉子。六助が久保明で宝田は校医の沼田という配役でした。

そのほかにも「大学の侍たち」とか「恋のいのち」など多くの映画主題歌・挿入歌をレコーディングしておりますが、音源としてどれだけ残っているのか、ほぼ絶望的です。

https://youtu.be/UyOlRk3yFPA

そんななか、YOU-TUBEに当時の二枚目双璧の共演、鶴田浩二と出演した「暗黒街の顔
役」の予告編があり、そのなかで宝田明が一瞬キャバレーでうたうシーンがありましたので、それを。

https://youtu.be/F6wsXQAqvKw

音源をもっていないので確信はありませんが、多分この映画の主題歌「毀れた方向指示器」だと思うのですが。
そうであれば作曲は浜口庫之助、作詞は最近も舟木一夫の青春歌謡でふれました脚本家であり鉄道写真家でもある関沢新一です。もし、違う歌だったとしても宝田明の若き日の姿と美声を聴けるのでご容赦ください。

日本のミュージカルを支えてきたひとりとしても、また常々映画の社会性を語り、いまだタブー視される俳優・タレントの思想・信条をあたりまえのこととして発信してきた貴重な俳優が亡くなられたことはとても残念に思いますし、ご冥福をお祈りするばかりです。

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hand in hand 3 [memory]

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手をつなぐ、つながないっていうのは、その人の性格なのでしょうか。過去を振り返っても周囲を見回しても、この人はつながないだろうなっていう人はいますし、いました。でもあくまでこちらのイメージですけど。

たとえば、亡き健さんはお龍さんに手を差し出されても「とんでもねぇ、勘弁してください」と断るでしょうし、寅さんなら、別れ際、題経寺のお嬢さんから手を差し出されれば抵抗なくその手を握るでしょうし。

シンガーでいえば桑田佳祐なら自らすすんで手をつなぐだろうけど、矢沢永吉はポッケに手を突っ込んだまま知らんぷりだろうし。イメージだけですけど。

女性はだいたい手をつなぐイメージがあります。嫌々でも。
でも、やはり亡くなった藤圭子やまだご存命の中森明菜は、手をつないでも終始不機嫌だったりして。あくまでイメージですが。

昭和40年代のハンドインハンド・ソングを考えてみましたが、もっともポジティブなイメージでふさわしいシンガーは、女性のエスコートが上手で、ナチュラルでといえば。若大将・加山雄三ですね。

41年は「君といつまでも」のビッグヒットと共に若大将ブームがすごかった。30年代の「われらが兄貴」石原裕次郎が喧嘩っぱやくて不良っぽさが魅力だったのに対して、40年代の「われらが若大将」は当時流行りのエレキが上手くて、海と太陽が似合う屈託のない好青年。時代が変わればヒーローのキャラクターも変わってきます。
その「君といつまでも」のB面だったのがこの曲

https://youtu.be/mHI4Eoc5r6Q

41年の6月にリリースされた「お嫁においで」では手をつなぐとはうたっていませんが、濡れたからだで駆けてきた彼女に珊瑚の指輪をプレゼントしたあと、きっと手をつないで砂浜なんかを駆けて行ったのではないでしょうか。多分。

その3か月後にリリースしたシングルではちゃんと手をつないでおります。

https://youtu.be/qQ1Eh9fe0Rs

「君といつまでも」、「お嫁においで」「霧雨の舗道」の作詞はいずれも岩谷時子。作曲はもちろん弾厚作。こうしてただうたうのではなく作曲もしてしまうところも、女性だけではなく男も魅かれる「若大将」だったのでしょう。

当時、わたしは加山雄三には冷ややかで。ガールフレンドがやたら絶賛するのが気に入らなかったもので。「荒木一郎のほうが文学的だよ」なんて。
もちろんそれはポーズで「蒼い星くず」のレコードもしっかり買っておりました。このB面の「夕陽は赤く」がまたいいんだ。いまでもベストなのです。

「若大将」だけで終わってしまいそうなので40年代のほかのハンドインハンド・ソングを。
40年代はじめはGSブーム。
ワイルドワンズの「バラの恋人」でも手をつないでおりましたが、GSの人気ナンバーワンバンドにもこんな歌がありました。

https://youtu.be/LCfJdwOUkDk

「僕のマリー」、「モナリザの微笑み」からのGS黄金コンビ橋本淳・すぎやまこういちの作詞作曲でした。

アイドル歌謡では郷ひろみの「男の子女の子」でも手をつないでいますが、やっぱり野郎は女の子ですね。

https://youtu.be/c9WZCe1p7i8

アイドルではじめてレコードを買ったのがシンシアの「色づく街」。これも「純潔」と同じ筒美サウンド。
当時レコードの貸し借りをしていた会社の先輩からある日借りたのが、ジョン・デンバーとなぜか南沙織。そのLPは半分がカヴァー曲で「夢見るシャンソン人形」とか「雨」、「悲しき天使」、「ジョージー・ガール」とか。これがまた良かった。それでハマってしまったというワケです。

もうひとつ耳に残っている「手つなぎ歌」は40年代はじめ、「同棲時代」とか「赤色エレジー」など同棲ブーム?のなかでヒットした少し大人のほろ苦いラブソング。アルフレッド・ハウゼの作曲だそうです。ということはオリジナルがあるのかな。聴いたことありませんが。日本語の作詞はうたっている本人。

https://youtu.be/Av20x26yrFI

最後のおまけは何かカヴァーを。YOU-TUBEで探したのですが、もちろんはじめて見るバンド。ギター、ベース、ドラムスのトリオなのですが、見事な腕前。とりわけベースに魅かれて何度も聴いてしまいました。

https://youtu.be/XotCs1nhAsU

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バラ色の雲をありがとう [memory]

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雲の出てくる歌で、いわし雲や流れ雲のようにその形状や動きをあらわすものもありますが、いちばん多いのは「色」。

なかでも最多と思われるのが「白い雲」。そして次が「夕焼け」や「あかね」などの落日に反映された雲でしょう。

もうひとつ「バラ色の雲」というのもあります。
「バラ色」とはまさに花の薔薇の色のこと。薔薇の色には赤のほか、黄、白、青などいろいろありますが、ふつう「バラ色」とつかわれる場合は「赤」。

赤といっても、薔薇の花にようある深紅ではなく、淡紅、つまり薄紅とか杏色にちかい色のようです。

また、歌の歌詞にでてくる「バラ色」は色彩というよりは「明るい」あるいは「幸福」を象徴したイメージの色ということのようです。
つまり「バラ色の雲」と「夕焼け雲」とは異なるということなのでしょう。

「バラ色の雲」の歌といえば60代、70代の人がすぐ思い浮かべるのがヴィレッジ・シンガーズの「バラ色の雲」でしょう。

https://youtu.be/WqXgCnNmCjE

テレビで筒美京平さんの訃報が流れておりました。
60年代のGSから、70年代の歌謡ポップス、80年代のアイドル歌謡と昭和後半の流行歌の主流をつくり、数えきれない名曲でわれわれを楽しませてくれた希代の作曲家でした。
ご冥福をお祈りいたします。

ここでそのいくつかを紹介したい気持ちはありますが、どれもこれも忘れられない歌ばかりで、ベスト10を絞り込むのは到底無理で、多分ベスト100でも足らないでしょう。

そこで2000年代につくった曲で、最後に好きだった歌を一曲だけ。
YOU-TUBEは長いので22分40秒あたりからどうぞ。

https://youtu.be/1EJSl5N-6iA

ヴィレッジ・シンガース以外の「バラ色の雲」の歌を。
いずれも、筒美さんがデビューする前の昭和20年代、30年代の歌です。

https://youtu.be/OYWdJdAnlyo


終戦から4年目。おそらく「リンゴの歌」以上に当時の日本人に勇気と希望を与えてくれた歌。石坂洋次郎の原作で何度も映像化されましたが、その主題歌は変わりません。西條八十作詞、服部良一作曲です。YOU-TUBEはリメイク版で島崎先生は芦川いづみです。

https://youtu.be/ri9-qrCzQzE

つぎに31年の日活映画の同名主題歌。
主人公・芦川いづみさんの心は孤独で、決して「バラ色」ではなかったのですが。でもきっとハッピーエンドで終わるのです。
うたうのは、トップシンガーになりつつあったコロムビア・ローズ。この翌年「東京のバスガール」で大ブレイクします。

https://youtu.be/TcN2xrycaiU

「幸せはどこに」の作詞・作曲は西條八十と万城目正。
このコンビの楽曲「この世の花」で昭和30年にデビューしたのが島倉千代子。そのお千代さんの昭和39年のヒット曲にも「バラ色雲」がでてきます。
この歌の作詞・作曲は「さすらい」(小林旭)の西沢爽と「好きになった人」(都はるみ)の市川昭介。

最後にプラスワンで、筒美さんの「バラ色の雲」をオマージュした一曲も。当然タイトル「バラ色の雲」がでてきます。

https://youtu.be/s8Ms7BsubUE

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僕は泣いちっち [memory]

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小学校低学年の時でした、放課後友だちの家へ遊びに行ったときのこと。
友だちが「お兄ちゃんのだ」と言ってギターをもってきて、やおら弾き出した。
本物のギターにまずびっくり。友だちがそのギターをまるでしがみつくように抱えて指で弾いて音をだしたのでさらにビックリ。

そのときはその旋律がなんの歌なのかわかりませんでしたが、後日、ラジオから流れてきた守屋浩の「僕は泣いちっち」の印象的なイントロだとわかりました。

https://youtu.be/jKa6xGwK6cE

不思議な歌でした。
「僕は泣いちゃった」ではなく「泣いちっち」なんて。そんな言葉は聞いたことがなかったし、いまもって聞いたことがない。作詞作曲者浜口庫之助の言葉のマジック「泣いちっち」がこの歌の大ヒットの最大の原因ではないでしょうか。

その歌詞も不思議でしたが、守屋浩の声(まだ家にテレビはなかった)が奇妙な声でした。

あとで考えれば、声ではなく歌い方だということはわかりましたが。ちょっとカントリーっぽい歌い方。当時のロカビリアンはそういう人が多かった。かまやつひろしとか北原謙二とか城卓也とか。

「僕は泣いちっち」は当時歌謡曲の主流だった「ふるさと歌謡」。

いまでも、学校を卒業したら仕事をするため上京するという人は多いのでしょうが、当時はもっと多かった。集団就職もあったし、花の都で一旗あげようという若者がわれもわれもと東京をめざしたもの。
だから時代を反映してそんな流行歌が多かった。

データがあるわけではないけれど、現在の東京人の半分以上は、当時(戦後)地方から東京へ出てきた次男坊や次女たちによって形成されているのではないでしょうか。

多くは「僕は泣いちっち」とは反対で、彼氏が上京し彼女がふるさとで「待つ」というケースだったのでは。「哀愁列車」とか「お花ちゃん」とかでうたわれているように。もう少し新しい歌なら「木綿のハンカチーフ」とか。

https://youtu.be/B-_75dOASxM

この歌の彼女も東京へ行ったのでしょうか。
でもこちらの彼は追いかけてはいかなかった。それぐらいまだ幼かったのかもしれません。
こういうケースが圧倒的に多かったのではないでしょうか。

こんな歌もありました。

https://youtu.be/O_DbqE_JxGA

この歌の彼は、東京に憧れて数年前に上京してきた若者。
そして就職した工場でやはり地方から出てきた彼女と知り合う。

しかし数年後、彼女は家の事情でふるさとへ戻らなくてはならなくなった。
彼はあわてて自分の気持ちを打ちあけたが、彼女のその「事情」がどうにも許さない。
そして彼女が東京へ戻ってくることを信じて列車を見送ることに。

では彼女は「事情」を乗り越えて彼の待つ東京へ戻ってきたのでしょうか。

https://youtu.be/ZWSvkx5rQIw

たぶんこういうことなのだろうと思います。チープなラブストーリーですが昭和30年代にふさわしい結末ではあります。

守屋浩さんの歌をYOU-TUBEで聴きながら妄想をかりたててしまいました。

ご冥福をお祈りいたします。いい歌をたくさん聴かせていただき、ありがとうございました。

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ツイスト№1 [memory]

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いろいろな方がお亡くなりになっております。

齢を重ねていけば仕方のないこと、といえばそうなのですが。

なかでも感慨ぶかいのは藤木孝さんです。

子どものころ彼のブラウン管での出現は衝撃的でした。
ツイストブームの申し子で、短い期間でしたがいくつものツイストナンバーを聴かせてくれました。

https://youtu.be/qb3zSGFsy5o

それがわずか1年あまりで突如ブラウン管から消えてしまったことも不思議でした。
それが大人の事情だとわかったのはずっとあとのこと。

それから20年あまり(不確定ですが)、何かのテレビ番組で往年のカヴァー曲をいくつかうたっていましたので、元のプロダクションとは和解したのかなと思っていましたが、その後はナツメロ番組などにも出なかったようです。もっと歌が聴きたかった。

リアルタイムではありませんでしたが、それから数年後、篠田正浩監督の「涙を獅子のたて髪に」は観ました。

いわゆる「青春の蹉跌」もので、彼が主役で野心に燃える青年を演じていました。
青年の親方を演じた名脇役・南原宏治の怪演ぶりと、若き加賀まりこの可憐さも覚えています。最後に青年の怒りが爆発して親方の支配から脱却するシーンも印象的でした。

決して歌も演技もうまくはありませんでしたが、存在感のある歌手であり役者でした。あのまま順調に芸能活動を続けていれば、また違う歌手あるいは役者人生があったのかもしれません。彼が望んだことなのか、そうではなかったのかはわかりませんが。

引退後、役者としてカムバックし、ドラマや舞台で活躍していることは知っていましたが、個人的には60年代のはじめ、まさに花火のように強烈な閃光を放ってあっという間に消えてしまった歌手であり役者だった、という印象です。

とりわけ好きだった曲を2曲も(再)カヴァーしているYOU-TUBEがありました。1曲はイタリアン・ポップスでもう1曲はポール・アンカの歌です。

https://youtu.be/swPNeR84eT0?si=MDzFPscMoYtBcd4O

https://youtu.be/2ZwSyub_ljc?si=UBpE1zmSxeA4BQVl
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星が飛ぶ日に [memory]

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またひとり好きな役者が逝ってしまいました。

折もおり、今日は終戦記念日。
テレビではコロナの影響で人数の少なくなった記念式典の模様を映しながら「戦争の記憶がうすれていく」とナレーションしていた。
実際、間に平成を挿んだ昭和はずいぶん彼方に遠ざかってしまったような気さえします。

哲兄ぃこと、渡哲也さんも「昭和の俳優」でした。

闘病中であるという何かの記事を見て、この暑さのなかもしやという不安がよぎることもありましたが、とうとう訃報をきくことになってしまいました。

ほんとに歌に映画に、われわれファンを楽しませてくれました。
「ありがとうございました」とお礼を言い、ご冥福を祈るばかりです。

大昔、やはり渡哲也のファンの友人がいて、彼が外国へ行くにあたり餞別返しにとくれたのが「無頼」というLP。
「東京流れ者」から「男の流転」までのベスト盤のようなものですが、それぞれの曲のあたまにオリジナルのヴァースのようなセリフが入っているのが秀逸な企画で、テープに落として何度も聴きました。いまでも聴いています。

いちばん気に入っているのは「燃える大陸」という浜口庫之助の作詞作曲で、映画の同名主題歌すが、残念ながらYOU-TUBEにはありませんでした。……ありました。すぐに消えてしまうから今のうち。

https://youtu.be/kAG8FG80BX8?si=0MVksH0OkJQfsmWV

それで2曲目の「野暮な事言っちゃあいけないよ。恋のやりとりは情のやりとりって昔から…」というセリフではじまる「星よ嘆くな」を聴いて、故人を偲びたいと思います。

https://youtu.be/5JMXAAwqyHM

もう一曲。これは「無頼」には入っていませんが、当時神田の人生劇場で景品としてゲットしたシングル盤です。これもセリフ入りで、詩曲はちあき哲也・杉本真人のコンビ。すきな歌です。

https://youtu.be/Dwr-UFBxvew

最後はやっぱり映画で。
「無頼」「前科(まえ)」とシリーズものはほとんど観てますし、「東京流れ者」や赤座美代子が出ていた「剣と花」や芦川いづみと共演したリメイクの「嵐を呼ぶ男」もよかったけど、ダントツで好きなのが、軟派ぶりが痛快だった「紅の流れ星」。
余談ですが、この映画のなかで奥村チヨの「北国の青い空」となぜかジェンカが聴けます。

https://youtu.be/dehbEWXOn_s

味気ないことも多々ある人生に潤いを与えてもらったと思っております。
いまふたたび、ありがとうございました。
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ミコの海岸物語 [memory]

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わたしのなかで、弘田三枝子は「人形の家」以前のカヴァーポップス時代。

「子供ぢゃないの」からはじまって「ハロー・メリールウ」「バケーション」「バイバイ・ブロンディ」「悲しきハート」など、アメリカン・ガールズ・ポップスの魅力を十二分に教えてくれました。

https://youtu.be/zjpeLY6eZF4

その後のUKロックやモダン・フォーク、R&B、さらにいえばジャズやカントリー、つまり洋楽の扉を開くことになった原点が60年代カヴァーポップスの女王といってもいいミコこと弘田三枝子です。

彼女以後、今に至るまで10代のポップシンガーであれほど声、リズム感、雰囲気で弘田三枝子を越えるシンガーは見たことも聴いたこともありません。

73歳はいかにも早すぎます。安らかに眠りにつかれることを願っております。

わたしのようなファンは少なくなかったのでは。
甘くて酸っぱいひとでした。

https://youtu.be/a6PX3Byg6RQ

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エンニオ・モリコーネ [memory]

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ニノ・ロータとともに、60年代のタリア映画黄金時代に映画ファンを楽しませてくれた作曲家でした。

エンニオ・モリコーネの名前を知ったのはご同輩と同様、かのマカロニ・ウエスタンから。本場の西部劇衰退の間隙をついて、まさに「下手の鉄砲」のように撃ちまくられたイタリア製西部劇。

当然ロケもイタリアで、かの長靴半島でアメリカの大平原や奇形山岳群に対抗すべくロケーションをハントしたのだから、大胆というか剛毅というか。

西部劇大好きだったので、この異端ガンマンストーリーにもはまりました。ただ当時でも、なにかオレンジ色が強すぎるロケーションにいささか違和感はありました。
それでもハマったのは本場のガンファイトにはない流血ドバッ、肉片ブキュンの残酷シーンに。
結局それがウリでまんまとのせられてしまいました。しかし、飽きて観なくなったのもその残虐シーンゆえ(ストーリーのマンネリ化もあったけど)。

クリント・イーストウッドにフランコ・ネロ、ジュリアーノ・ジェンマとスターも育てました。しかし、荒野の用心棒をのぞいて、そのストーリーはほとんど覚えておらず、エンニオ・モリコーネの主題歌のみがいまだに耳の底に沈殿しております。

一作目?の「荒野の用心棒」や 、アメリカでもヒットチャートに入った「夕陽のガンマン」もよかったけど、いちばん好きだったのはいかにもイタリアっぽい「続・荒野の用心棒」。無口で、試練に耐えて耐えてついに爆発という、まるで健さんのようなフランコ・ネロがカッコよかった。


https://youtu.be/SvE02Uo11E4

その後も、映画音楽を書き続けていたようですが、こっちが映画から離れてしまって。わずかに覚えているのは80年代の名作「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」と「ニューシネマ・パラダイス」。

しかし、「わが青春のモリコーネ」といえばなんといってもこの曲

https://youtu.be/pe4Fth_4yoM

ブラフォーに続き生まれて2番目にかったシングルレコード盤。
もちろん映画など見ているわけはなく、モリコーネの名も知らず、あくまでポップスとして買ったのですが。

ジャケットのカトリーヌ・スパークがあまりにも眩しくて、まるでエロ本のように家人にみつかるのが恥ずかしくて、ジャケットだけを机の奥に隠して、ポータブル電蓄で聴きまくっていました。純情だったなぁ、わたしも世の中も。

日本では木の実ナナや伊藤アイコがカヴァーしていました。

https://youtu.be/tLnrDLBpE-0


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