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坊や大きくなっとくれ [フォークソング]

軍国の母.jpg


https://youtu.be/3WMSS9oum5Y

終戦記念日になるとマスコミは毎年判を押したように、凝りもせずセレモニーの模様を報道する。その数日前あたりから戦争の悲惨さを伝える企画番組、記事を発信する。そして日にちが変わると、もはや戦争報道などなかったようにいつもの日常に戻る。これが70数年間続いている。

これでいいのだと思う。365分の1日であっても毎年懲りずに発信することがかつてあの戦争に加担したマスコミの役割であり、本来のあるべき姿なのだと思う。
「誰も読まないし、見てないよ」といわれてもいいのである。超マイノリティであっても誰かたちが受信しているはずなのです。
彼らが受け止めている以上、万が一の危機が訪れようとしたとき、あの時代ののように流されていく社会に対して杭を打ち込んでくれるかもしれないのだから。多分。

だからたまには反戦歌を聞いてみるのもわるくない。

日本の反戦歌がもっとも盛り上がったのは昭和40年代の半ばあたり。西暦でいえば1960年代後半。
反戦というくらいなので、なにか戦争があったはずである。歌というくらいなのでなんらかの歌のスタイルがあったはずである。それが、ベトナム戦争であり、アメリカからやってきたフォークソングだった。

つまり、おせっかいにも日本では自国の戦争ではなく、海の彼方の国で起きている戦争に対して反対を表明する歌が生まれたのである。それもひとつやふたつではなく。

50年代とほぼ時を同じくして起こったベトナム内戦とアメリカのフォークリバイバル。
そして1964年にはアメリカが「民主主義」と「正義」を掲げてベトナム戦争へ参戦していく。
ところが60年代後半になると、戦争の泥沼化と、多くの若者の犠牲によりアメリカ国内でその「正義」に疑問をもつ人たちが増えていくことに。つまり反戦、厭戦気分がたかまり、その気分は文学や舞台、映画とともに音楽にも反映されていく。音楽ではとりわけ若者中心で、自由を求める歌が多かったフォークソングにその影響が顕著に現れることに。

プロテストソングの発生である。代表的なものをいくつかあげると「花はどこへ行ったの」、「悲惨な戦争」、「風に吹かれて」、「勝利をわれらに」、などがあり、シンガーとしてはピート・シーガー、ジョーン・バエズ、ボブ・ディラン、ピーター・ポール・アンド・マリーなど。

つまり、日本の反戦歌はアメリカのフォークソングのカヴァからはじまったのである。
当初、それは関東の大学生たちからはじまり、カレッジフォークなどとよばれた。それがハッキリとしたメッセージとして反戦がうたわれるようになったのは、関西からで、これはアメリカの「北爆」をはじめベトナム戦争が激化し、日本のなかでベトナム反戦運動が起こったことが大きく影響している。

その嚆矢が高石友也で、「戦争の親玉」などボブ・ディランの歌をみずから訳してうたいはじめた。彼に続いて、岡林信康、中川五郎、五つの赤い風船、加川良などがオリジナルのプロテストソングをつくり、当時流行りの深夜ラジオ放送などを通じて全国に広まっていった。

随分「前説」が長くなりましたが、今回聴いてみたいのは昭和44年(1969)に高石友也とマイケルズの共作としてリリースされたベトナムのカヴァ曲「坊や大きくならないで」。

https://youtu.be/Znl4LvEfZTQ

つくったのは1939年生まれのベトナムのシンガーソングライター、トリン・コン・ソン。正確な年代は不明ですが、たぶん60年代後半につくられた「坊や、お休み」という歌が日本で紹介され、先のふた組のカヴァとなった。
大ヒットしたという記憶はありませんが、何度も聴いたことがあるし、多くのシンガーにカヴァされて(カルメン・マキや森山良子などもカヴァしていた)いたので知っている人も少なくないのではないでしょうか。

意外なのはあまりこの歌に関する情報がないということ。たとえばマイケルズというグループの詳細が不明。レコードジャケットから男性3人組ということはわかるが、出身とか各個人の名前等はわからない。ということは2枚目をレコーディングするまえに解散してしまったのかもしれない。
また作詞の浅川しげるという人物も不明。ほかに作詞活動をした形跡がなく、推測すればベトナム語に堪能な方で、レコード会社から依頼されて翻訳したのではないか、ということに。

歌の内容は、訳詞が原曲に忠実ということを前提にすると、父親を戦争で亡くした幼ない男の子を寝かしつける母親の心情をうたったもので、大きくなれば父親と同じように戦地に行かなければならないだろう。そしてまたお前お失わなければならなくなるかもしれない。だからこのまま大きくならずにわたしの傍にいてほしい、という母親の思いがうたわれている。

通常ならば子どもに対して「元気に育ってほしい」と思うのが母心であり親心なのだが、そうした思いを歪めてしまっているのが戦争なのである。

ウクライナとの戦争で、ロシアには息子に戦争へ行ってほしくないという母親は少なくないという報道もあった。とうぜんだろう。どこに自分の息子に最前線へ行って敵を倒してきなさい、なんて親がいるだろうか。

というのは正論かもしれないが、そういう母親もいる、いやいた。
正しくいえば、母親が幼子に対して「早く大きくなって敵を倒し、国を守ってね」といったのではなく、いわされたのであり、そういう思いにさせられたのである。

それが80年あまり昔の日本の戦争で、国家が強いた母親の心構えだった。
当時の母親にとって息子が兵隊に召集されることは当たり前で、万歳三唱で戦地へ送ることも仕方のないこと。せいぜい無事を祈るしか術がなかった。もし戦死したとしても、恨み言をいわずそれを名誉と思わなくてはいけない。それが当時の国民の、さらには母親の共通認識だった。
いまでは考えられない一億総洗脳社会だが、それが戦争であり、それが帝国主義国家だったのである。
もちろん当時、歌といえばほぼ戦争を鼓舞する軍歌で、反戦歌なんて日本中どこを探しても「存在しない時代」だった。

太平洋戦争が起きた翌年の3月、「海の母」という歌がリリースされた。
「産みの母」とかけてるのかもしれないが、国家の検閲をクリアした「りっぱな」軍国歌謡である。残念ながらYOU-TUBEに音源がなかったので、その詞を書き記しておく。

「海の母」

坊や大きく なっとくれ
撫でてさすって 願かけて
風の吹く日は 袖屏風
抱いて寝かせた 夜の鶴

ねんねんおころり 子守唄
寝ればねたとて 可愛い顔
あかず眺めて 手枕も
ほんに昨日か 一昨日か

雨の降る夜も 母の灯は
なんで消えましょ 赤く点く
照らせわが子の 進む艦(ふね)
海は日本の 母ぢゃもの

ほぼ普通の母の子に対する思いが書かれているが、戦時中だということと、最後の2行をみれば、早く大きくなって立派な兵隊さんになり、御国のためにたたかっておくれ、という母の声が聞こえてくる。

この歌は、それまで「燦めく星座」や「新雪」(いずれも灰田勝彦の歌唱)をつくった佐々木俊一(曲)と佐伯孝夫(詞)のコンビによってつくられた。
つまり母親がつくったのではなく、「父親」たちがつくったのだ。

戦後、「いつでも夢を」(橋幸夫・吉永小百合)や「有楽町で逢いましょう」(フランク永井)「再会」(松尾和子)などをつくり昭和30年代ナンバーワンのヒットメーカーだった佐伯孝夫は、戦時中軍歌をいくつかつくったが、当時の売れっ子作詞家にしてはきわめて数が少ない。元来「夢見る人」である佐伯は、争いごとは嫌いという温厚で優しい人柄だった。だから勇ましい詞は苦手で、上の「海の母」がせいいぱいの軍歌だった。それでも当時の母親に成り代わって早く子どもを戦地へ送ろうと扇動したことは否定できないだろう。

たかが歌ではあるけれど、百年も経たない昔の戦争中に「坊や(早く)大きくなって」という考え方が常識だった時代があったのである。
そういう時代が来ないようにたまには反戦歌が聴こえてきてもいいのだ。
ベトナム戦争のような海の向こうの戦争で日本に「坊や大きくならないで」が流れ、多くのオリジナルの反戦歌が生まれたのだから、ロシアのウクライナへの侵攻あるいはミャンマー軍事政権による民主化運動弾圧に対して反対を表明する歌が聴こえてきてもと思うのだが。とりわけ若者のIPOPから。

おまけは軍歌を。
「海の母」のコンビによってつくられた歌で、うたったのも「海の母」同様、戦前戦後芸者シンガーとしてしられた小唄勝太郎。と思いましたが、やはり終戦記念日まじかなので軍歌はちょっと控えて。
実はこのうた戦後の昭和30年代、歌詞を一部変えて三沢あけみがリバイバルヒットさせています。なのでそちらのほうを。

https://youtu.be/cSVxj3k955s
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