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みたびゆるすまじ [戦争]

日本海海戦.jpg

https://youtu.be/zq9pXGShrHk

昭和29年につくられた「原爆を許すまじ」は原水爆禁止運動のテーマソングのような歌で、昭和30年代には労働組合や市民団体で、あるいは「うたごえ運動」や「うたごえ喫茶」でよく歌われました。当時ワルシャワで開かれた青年学生友好祭の音楽コンクールで2位に入賞したそうです。作は浅井石二は生粋の労働者で生涯唯一の名作をつくった。作曲の木下航二は都立日比谷高校の先生で、これも労働歌として30年代の「うたごえ運動」でよくうたわれた「しあわせの歌」(作詞は石原健治)の作者でもあります。

原子爆弾が究極の武器であり、最終戦争に使用されるものと考えると「原爆を許すまじ」
は反戦歌そのもの。それも2度の被害にあった日本が発信できる唯一無二のワールドワイドな反戦歌ともいえる。

日本で反戦歌が盛り上がったのは昭和40年代半ばだったが、そもそもそれ以前に日本に反戦歌があったのか。日本人の国民性として「反戦」はなじまないものなのかどうなのか。

日本最古であり、とうぜん嚆矢ともなる反戦歌は明治37年に勃発した日露戦争時につくられた。それが、
♪ここは御国を何百里 離れて遠き満州の 赤い夕陽に照らされて 
ではじまる「戦友」である。

https://youtu.be/eHssWQN_gQo

これは京都の歌人・真下飛泉によって書かれ長詩で、厳しい戦火をくぐりぬけ生還した男が村長になるまでが綴られているらしい。そのうちの戦争に関する14話までに陸軍に所属する三善和気が曲をつけた。
軍の規則を破ってまで敵の攻撃で負傷した戦友の介抱をしたり、戦死した友の遺品である時計がポケットの中でコチコチ鳴っていた、などと厭戦気分のあるれる詩的な言葉が綴られていて、昭和の太平洋戦争時でも兵士には人気の歌だったという。

この歌が果たして反戦かなのかという疑問もあるが、少なくとも太平洋戦争中はうたうことが禁じられていたというし、戦争のいたましさや厭戦気分を受けるという意味で反戦歌と考えてもいいのではないだろうか。
日本の反戦歌には「戦争は知らない」にしても「さとうきび畑」にしても直接というより戦争の悲劇を語ることで間接的に反戦を表明している歌が多い。これこそ日本人の国民性なのかもしれない。

ただ明治・大正期(そして昭和の20年までは)、「反戦」という言葉は日常的にはつかわれていなかったのではないだろうか。当時の日露戦争に反対する社会主義者やキリスト教者あるいはリベラリストは「反戦」ではなく「非戦」という言葉をつかっていた。
当時のリベラル派新聞、万朝報や平民新聞でも「非戦」がつかわれていた。
「戦友」の作者の真下飛泉の「飛泉」は雅号であり「非戦」からとったとも考えられる。

またその頃、町では社会の出来事などに「節」をつけてうたうラッパ節(演歌節)が人気で、なかでも知られていたのが演歌師・添田唖蝉坊。
彼のうたう多くは多くは税金苦や反資本家などの世相を舌鋒鋭く撃つ「ラッパ節」だったが、なかには、

●「大臣大将の胸先に ピカピカ光るは何ですえ 金鵄勲章かちがいます 可愛い兵士のしゃれこうべ」とか
●「名誉名誉とおだてあげ だいじな倅をむざむざと 砲(つつ)の餌食に誰がした もとの倅にして返せ」

などという反戦歌つまり「非戦歌」もあった。これは非戦論をかかげて万朝報を退社し、平民社を起こした幸徳秋水や堺利彦に共感してつくったものといわれている。
これらも「反戦歌」といえばいえる。

それから「無風」の大正時代を経て昭和へ。
どんな自信に支えられたのか、日本は中国へ侵入し、さらには世界の連合国と一戦構えるという暴挙にでます。
もはやラジオやレコード・蓄音機の出現に支えられて日本全国に歌謡曲、流行歌が急激に浸透していった時代、当然反戦歌もあちこちに。と思いきや、これがまったくといっていいいほど見当たらない。それどころか時代がすすむごとに、ラブソングや抒情的な歌などは緊急時にうたう歌か、女々しいとばかり検閲という国家権力によって封印されてしまう始末。
つまり「歌の自由」は帝国主義国家が解体される敗戦時まで続いた。このように歌を作った人、うたった人が皆同じ方向を向いていた不幸で奇妙な時代の話は長くなりますので、いつかまたということに

ただ昭和の時代、40年代までに「反戦歌」や「非戦歌」がまったくなかったかといえば、そうともいえない。昭和10年にかのサトウハチローの詩に小学教師の徳富繁が曲をつけた「もずが枯木で」は日中戦争の悲劇をうたったもので、
♪兄さは満州へ行っただよ 鉄砲が涙で光っただ もずよ寒いと泣くがいい 兄さはもっと寒いだろう
という部分がまさに「反戦歌」。もっとも当のサトウハチローは反戦とか非戦という思想をもっていたわけではない。佐伯孝夫同様、数は少ないが「御国のために」とか「勝利の日まで」などという軍歌もつくっている。ただ「もずが枯木で」は彼が持っている叙情性がつくらせたもので、戦争によって起きる家族の悲劇を感じ取っていたという意味で厭戦という考え方はあったのかもしれない。

とはいえこの歌が「反戦歌」として陽のめをみたのは戦争直後、20年代のなかば頃から全国的に広がった「うたごえ運動」によって。うたごえ喫茶などでもよくうたわれたらしい。もちろん当時の男女は「反戦」を意識しながらうたっていたのである。

昭和40年代の半ばには岡林信康が再々発掘して、フォークファンの知るところとなった。
今回はその岡林の音源で。やや長めの「前説」付ではありますが。

https://youtu.be/56S52eXkAkA

昨今、わざわざ他所の国へ行って「戦う準備を」なんて演説をした某自民党政治家にはあきれた。誰に向けて「戦闘態勢を」と煽ったのか。訪問国の人たちに対してなら「大きなお世話」だし、外国から日本の国民にたいしてのメッセージなら、そんなこと「自分の国で言えよ」ということになる。

その某政治家はとにかく品性にも問題がある。なのにマスコミは彼に甘い。
元総理の孫だからなのか、暴言が清々しいとでも受け止めてるのか、あるいはマンガ好きだから若者の気持ちがわかっているとでも思っているのか。たんに世間知らずで、品性に問題があり、活字がキライなだけなのでは。
本気でかの大国と一戦交えるつもりなのか。頼りにしているもうひとつの大国に梯子を外されるかもしれないとは考えてもいないのだろうか。彼も自民党も。とにかくマスコミは彼に寛大すぎる。かつての某音楽事務所に対するように忖度の度を越えている。

いささかヒートアップしました。クールダウンして最後にもう一度「原爆をゆるすまじ」を。反戦歌の父の歌で。

https://youtu.be/AxH4FWjHdMM
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