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New York Yankees [deporte]

マントル.jpg


昨日はなぜか、仕事が重なり、そのうえ他人の仕事の手伝いまでさせられ、気がついたら日にちが変わって午前2時近くというあわただしさ。
まぁ、若い頃だったらなんてことはないのでしょうが。はっきりわかることは仕事がおそろしく遅くなってしまったこと。肉体、精神とも俊敏さを失ってしまった。

それでも今朝はいつものように8時前にめがさめ、いつもと変わらぬルーティンでいつもとかわらぬ朝食を。

そのあときのうやり残した仕事を。老体にムチ打ちノロいながらも一心不乱でテキパキ?と。なんとか10時半までに終らせねばと昨日からの疲労もなんのその。
きょうは10時半からエンジェルス対ヤンキース戦を観るのです。

大谷とジャッジを両方観れるなんてそうはない。
ジャッジはわたしが見るとだいたいホームランを打つ(まぁ、打つ確率が半端ないから)。大谷は昨日もそうだったけれど、ホームランに関しては「空振り」が多い。

1回の表、ジャッジはショートゴロアウト。その裏大谷もショートゴロゲッツーと似たようなスタート。

試合が動いたのは2回裏のエンジェルス。4番のレンヒーフォがセンターへホームランで先制。しかし3回表にヤンキースがスクイズで同点に。メジャーだってスクイズはあるんだ。4回にはヤンキースのリゾが好投していたスワレスからソロホームランで逆転。しかしその裏、ファーストのフォードがホームランして追いつく。
いいぞ、ホームランが乱れ飛んでる。いけるぞ大谷。

その期待通り5回裏、センター前ヒットのトラウトを置いて、出た。大谷の29号。
いささか泳がされて片手打ちになってしまったので、センターフライかと思いましたがみごとスタンドイン。さすがのパワー。

ジャッジも見せてくれました。
2打席続けて申告敬遠のあとの今日4打席めに驚異の50号ホームラン。ヤクルトの村上もスゴイけど、ジャッジも超弩級。
こちらもフルスイングしていなかったのに軽々とセンターオーバー。ほんとうに今シーズン70本いっちゃうかも。

試合は見ごたえのある接戦。最後はエンジェルスが細かい投手リレーで3対4で勝利をものにした。大谷ではないけれど、やっぱ勝たなくては面白くない。
それはそれとして、大谷、ジャッジのホームランを観れたのだから言うことなし。
もうひとつつけ加えれば、8回の大谷のファースト内野安打。際どいセーフアウトでしたが、大谷の手抜きなしの快足が観れました。1回のゲッツーの借りを返した格好に。

ありがと大谷、ありがとうジャッジ、ありがとうMLB。

今日は野球の歌を聴いてみよう。
といっても意外と少ないというか知らない。
ヤンキースなら「くたばれヤンキース」とか「ニューヨーク・ニューヨーク」とか。メジャー全体なら定番の「私を野球へ連れてって」などありますが、今回はヤンキースのかつてのヒーローが出てくる(名前だけだけど)サイモンとガーファンクルの名曲。いまだ破られない連続試合安打をもち、引退後世紀の美女をものにしてしまったヤンキースで最も人気のあった選手がニックネームも含めて二度も。

https://youtu.be/Szs2myVGrJA

おまけにもう一曲。以前取り上げたかもしれませんが個人的にメジャーリーグとなると自然に脳内MDコンポで再生されるアメリカのノスタルジックなルールミュージックを元エンジェルスのオーナーの歌で。

https://youtu.be/UVrpSj2irQU

そういえば、今日の夕方のニュースで、子供の頃のマイ・アイドルだったそれこそヤンキースのスター選手の話題を取り上げておりました。
ヤンキースの4番バッターで通算500本以上のホームランを打ったミッキー・マントルのルーキー時代のベースボールカードがなんと1枚で17億5000万円の値がついたとか。
そんなに大きな選手じゃなかったけれどホームランの飛距離193mというのはいまだに破られていない。
大谷のカードも高騰しているようで、やっぱりメジャー1年目のレアものだったらこの先とんでもない値がつくかも。
ついでに、プロ野球は今年もヤクルトで決まりですね。

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それでなくとも 遥かな旅路 [歌謡曲]

深沢七郎.jpg


夜がまた来る、思い出つれて
俺を泣かせに足音もなく……
恋に生きたら、楽しかろうが
どおせ死ぬまで、シトリシトリぼっちさ

と深沢七郎はエッセイのなかに「さすらい」の歌詞を記している。
1番と2番がごちゃまぜなこと、「どうせ」を「どおせ」、「ひとり」を「シトリ」と誤記しているのは、確信犯で、この作家ならばそう書いても不思議ではない。

わが友・深沢七郎。
わたしより年上、というよりわたしの父親と同い年の偏屈作家を友と呼ぶのは畏れ多いが、
作家というよりその音楽的な嗜好に、先生ではなくはるか年齢のはなれた尊敬すべき友情を感じてしまうのです。

晩年の栖となった「ラブミー牧場」にふれるまでもなく、深沢七郎の「エルヴィス信仰」はつとに有名で、それ以外でもハンク・ウィリアムズをはじめとするカントリー好き、またエルヴィス以外でもリトル・リチャードらのロケンロー、さらにはアストロノウツなどサーフィンミュージックなども好んで聴いていたという洋楽の話はまたいつかということで、今回は歌謡曲「さすらい」。

もうひとつだけつけ加えておけば、彼はロケンローは好きだけどそのエピゴーネンである日本のロカビリーについては否定的でした。そりゃそうでしょう。わたしのようにモノマネ、いやカヴァから入って本ものへというのであればカヴァも愛しくなりますが、本ものを聴いてからカヴァというのでは聴くに堪えない、となるのは当然。とりわけ偏屈でプライドの高い作家であれば。多分聴いてはいたでしょうが。

歌謡曲についても、さほど関心はなかったのでは。よくクラシック好きが歌謡曲を「品がない」と切り捨てるのとはいささか違うようです。なにしろ彼はベートーヴェンのことを悪魔といっているくらいですから。

まあ、好んで聴くというよりは、自然と耳に入ってきていたのではないでしょうか。なにしろあの頃はラジオからは歌謡曲が洪水のようにあふれ出ていた時代なのですから。それでなければ「さすらい」を聴いたときもあれほどの反応はしなかったはず。

ようやく本筋にもどってきました。
冒頭の歌詞を書き記したのは、深沢七郎が昭和37、8年頃、北海道を流浪(さすら)っていたときのこと。夜の苫小牧で、街から流れてきたアキラのレコードを聴いて突然からだに痙攣がはしり、底知れない孤独を感じたのだと。

https://youtu.be/htWld61QCfk

深沢七郎はなぜ北海道を流浪っていたのか。
ご同輩や諸先輩の方々は記憶にあると思いますが、昭和37年(1962)、雑誌中央公論に掲載された彼の短編小説「風流夢譚」が大きな問題となりました。
内容は日本に左翼革命が起こり、天皇をはじめ皇太子、皇太子妃(いずれも実名で)が斬殺されるという荒唐無稽なストーリー。深沢はそれをリアルな描写ではなく、いわばお伽噺のように描いた。彼自身にいわせるとそれは「諧謔小説」だと。(のちにわたしも読みましたが、諧謔というよりは揶揄いと感じました)

戦前なら間違いなく不敬罪ですが、終戦から10数年経った1960年代にはもちろんそんなものはありません。戦前の軍国主義・帝国主義の右が壊滅すれば、その反動で左に大きく振れるのは道理で、その頂点が1960年の安保闘争でした。
当時、本当に共産革命が起きると信じたのは左翼やリベラリストだけではなく、右側の人間も「恐怖」として革命の波が押し寄せてくることを肌で感じていたのです。

左翼革命は右翼の存亡にかかわることで、なにがなんでも阻止しなくてはならない。その第一弾が「風流夢譚事件」の前年に起こった日比谷公会堂での社会党の代議士・浅沼稲次郎刺殺事件。公会堂で演説中の野党第一党の国会議員が17歳の右翼青年によって刺され死亡したのです。

その翌年に起こったのが「風流夢譚事件」。
浅沼代議士を刺した少年と同じ17歳の別の少年が、雑誌を発行していた出版社の社長宅を訪れ、社長不在のため応対に出た社長夫人とお手伝いさんを刺したのです。「ああいう(不敬の)小説で金儲けする出版社は許せない」とうのが少年の論理。不幸にもその後お手伝いさんが亡くなります。

この事件によって戦後、左に傾きぎみだった出版社が右寄りににシフトしはじめます。社会の風潮も同じで、軍国主義の反動のそのまた反動が起きたわけです。それは思想的というよりは、「皇室を批判したり右翼に反論すると刺されるぞ」という恐怖に裏付けられた忌避であったり忖度でした。

軌道修正。「楢山節考」の作家の話でした。
この思わぬ自身が原因の殺人事件を、深沢七郎はどう受け止め、対処したのか。
多分本人の意思でというより促されてでしょうが、謝罪会見を行っています。そこで涙を流して謝ったとされています。亡くなったお手伝いさんに謝ったのかどうかはわかりませんが、皇室に対しては謝罪したようです。

一時は次に深沢七郎が狙われるのではないか、ということで警察の保護下に置かれます。それでも彼の元には多くの脅迫文、抗議文が寄せられたそうです。

時間が経ち警察の保護がとけると、彼は北海道へ流浪の旅に出ます。
もともと放浪癖があったという彼ですが、今回の旅は彼曰く「死出の旅」。
脅迫文は全国から舞い込み、その中には「殺す」というものも少なくなかった。そんななか北海道からは唯一、ある青年からの脅迫文がありました。

深沢七郎は、北海道のどこに住んでいるのかも、またその名前も知らない青年に刺されるために北海道へ流浪いの旅に出たのです。歩いていれば、そのうちバッタリその青年と出くわし、みごと刺し殺してもらえる。常識ある人間なら「そんな」、と思うでしょうが、彼は本気でそう思っていたようです。

幸いにも、新たな事件は起こりませんでしたが、そうした彼の陰陰滅滅とした心情のなかで流れてきたアキラのうたう「さすらい」が、痙攣を惹き起こし、底知れない孤独感を与えたということなのです。

深沢七郎がこの忌まわしき事件からどれくらいで立ち直ることができたのかは知りませんが、その後の作家活動や生き方を垣間見ると再生できたことはまちがいなく、今川焼店を開いたり、自らつくった農園で農業に明け暮れたりと、自分の人生をまっとうできたのではないでしょうか。ただ、「風流夢譚」は彼の意志で、全集から外されています。

彼はギタリストでもあります。多分、そうした光景は見られなかったと思いますが、弾き語りで深沢七郎の「さすらい」を聴いてみたかった。

https://youtu.be/G_-KUrwDMqQ
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スイングしなけりゃ意味がない [jazz]

サッチモ.jpg

昨日、浅草公会堂でのジャズコンサートに行きました。

コロナになってからのはじめてのコンサート鑑賞。
知人から誘われて重い腰をあげました。
開幕は2時で、正午に雷門で待ち合わせ。荷風ゆかりの蕎麦屋で天ぷらそばを食し、まだ時間があったので喫茶店で近況報告。

びっくりしたのは知人がひと月ほど前、コロナに感染したこと。家族や知り合いのなかでははじめてで、コロナはそこまで来ている。
知人は軽度の糖尿病でしたが、感染の数日前に4回目のワクチンを注入していたのでそのことで重症化をまぬがれたのではないかと。また感染源は2日連続の居酒屋での会合ではないかと。ただ数人で集まったのに陽性になったのは自分だけだったとこぼしていました。
そんなこともあるのか。

見に行ったのは「浅草ニューオーリンズ フェスティバル」で浅草おかみさん会が主催し、今年で38回めになるスイング&デキシーランドジャズ・コンサート。

二部構成で前半が日本の「外山喜雄とデキシーセインツ」、後半がアメリカの「トーマス・フィッシャーとニュ―オリンズジャズ・オールスターズ」で、ともにシックステッド。

デキシーセインツは「リパブリック讃歌」から始まり、サッチモの「ハロー・ドーリー」、「世界は日の出を待っている」などから「ビビディ・バビディ・ブー」までなど日本でもおなじみの曲を演奏してくれました。

https://youtu.be/7754PgjoyQI

1000名あまりのキャパシティは6、7割程度埋まっており、隣り合って座ったわたしと知人の隣は空席で、全員マスクをしていたのでコロナ感染への不安はありませんでした。
観客は40歳、50歳代の若手?とわれわれのような60歳以上のロートルがほぼ半々くらい。
夫婦同伴者も少なくなかったので、女性も半分近く(おかみさん会関連の人が多かったような)いました。
なかには立ち上がり、手を叩き、体をゆらし、ノリノリのご同輩の女性も。リズムの取り方など悦にいっていて、よほどのスイング好きなのだなと思いました。またわたしの前の席にいたご夫婦のうち大先輩と思しき男性は元ジャズマンだったようで、両手を目の前に差し出してステージ上のピアニストに合わせてエアピアノを演じておりました。

後半はトーマス・フィッシャー楽団。こちらもシックステッドで、リーダーのトーマスがクラリネットとサックスのほか、トランペット、トロンボーン、ドラムス、ベース、ピアノという構成。ピアニストは来日できず、日本人女性が代演していました。

これまた日本人へのサービスの「私の青空」「月光値千金」から「A列車で行こう」「アイスクリーム」、「この素晴らしき世界」(外山喜雄でも聴きたかった)、「タイガー・ラグ」などのスタンダードで盛り上げてくれました。
途中、ヴォーカルのヨランダ・アダムズが登場し、迫力ある声で「想い出のサンフランシスコ」や「ダウン・バイ・ザ・リバーサイド」など数曲を披露しました。

https://youtu.be/khSrhLDtb3E

最後はデキシーセインツも登場して「聖者の行進」を。ステージを降りて会場をまさに行進しながらスイングしながらフィナーレ。

まぁ2時間あまりのコンサートでしたが、充分堪能いたしました。
なによりもジャズ、それも好きなデキシー、スイングがよかった。久しぶりにノリノリ女性ほどではありませんが、遠慮がちに全身でスイングして心身ともに心地よく会場を後にすることができました。歌唱だけのコンサートではこうはいきませんから。また、ロックコンサートなどへは行けませんし。誘ってくれた知人に感謝しております。

おまけは外山喜雄夫妻が心酔しているサッチモの演奏と歌を。

https://youtu.be/VqhCQZaH4Vs


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浴衣すがた がまぶしすぎて [夏]

浴衣.jpg


コロナが始まってから、すっかり足が遠のいてしまった浅草へ行ってきました。
観音さまが目的ではありませんでしたが、自然と足が向き、線香の匂いをかぎながらお詣りしてきました。

仲見世は平日でしたがそこそこ混雑しておりました。でも全盛期?ほどではなく、わたしのような年寄りは少な目、圧倒的に若い人が多かった。これは浅草にとっていいこと。

「こんなにも」と驚いたのが、若い男女の浴衣姿。
これは浅草ならではのことなのでしょうか。ほぼ行きませんが、原宿あたりでも夏は浴衣姿が見られるのでしょうか。だとしても浅草ほどではないのでは。とにかくその数が多い。大ざっぱにいうと若い、とりわけ女の子は半分近くが浴衣。

みなさに上手に着ています。ほぼ。
茶髪でも金髪でもショートでもロングでもみなさん着こなしが上手。雑誌やSNSで研究しているのでしょうか。

わたしも子供の頃はお祭や縁日で浴衣を着せられました。小学校の低学年くらいまでかなぁ。中学、高校になると地元の祭りや盆踊りでも浴衣なんて着なかった。だいたいが持っていなかった。同級生も同じで浴衣なんて着るヤツなんていなかった。女の子もそうだった。ですから、中・高と好きだった子の浴衣姿を思い浮かべることができません。

それが、とりわけ女の子の浴衣姿が出現しはじめたのはいつ頃だったのか。
わたしの印象では70年代後半とか、80年代になってからでは。

流行歌でいうと歌詞に「浴衣」がでてくるTUBEの「あゝ夏休み」やジッタリン・ジンの「夏祭り」が1990年で、その頃には日本の夏に浴衣姿がチラホラでてきていたのではないでしょうか。

https://youtu.be/b84QiAh7Oq8

流行歌のなかでひとつのキッカケとなったのが1970年10月、大阪万博の閉会とともに始まった国鉄(現JR)の旅客獲得キャンペーン、「ディスカバー・ジャパン」ではなかったか。
この「日本発見」のムーヴメントは、「日本の皆さん、とくに若い方々、日本にはこんなすばらしい所があるんですよ。ぜひ、見に行ってください」という国内旅行ブームを仕掛けたものですが、それはいまは忘れられている古き良き日本を再発見しようという呼びかけともなり、いわゆる和ブームを掘り起こすことにもなりました。そのひとつが、盆踊り、縁日に浴衣を着ることにつながったのでは。

流行歌のなかで「和」が強調されたのは1971年4月の「わたしの城下町」(小柳ルミ子)ではなかったでしょうか。以下「お祭の夜」「瀬戸の花嫁」と和風の歌がヒットしますが、作詞の安井かずみは「ディスカバー・ジャパン」を受けて「和風」を意識的にとりこんだとその著書に書いています。
ただ、安井かずみのヒット曲のなかに「浴衣」があったかどうかは調べきれませんでした。
「お祭の夜」のなかに「赤い鼻緒」が出てきます。あえていわずともこれは浴衣ですね。

それでは「浴衣」がいちばん始めに出てくる流行歌とは。

TUBE、ジッタリン・ジンが1990年とうことはいいましたが、その前となると、まっさきに思い浮かぶのが、歌い出しから
♪浴衣の君は すすきの簪
と出てくる「吉田拓郎」の「旅の宿」(作詞:岡本おさみ)。

https://youtu.be/i0IvbEXMRsY

これが1972年の7月。
この歌は「ディスカバー・ジャパン」でもあり、和ブームを受けた歌でもありました。
ほかにも「熱燗徳利」とか、「風流」、「俳句」、「風呂上がりの髪」、「上弦の月」などと岡本おさみは古くて新しい和の言葉を並べています。
それでは1970年代、「旅の宿」より早く「浴衣」をつかった歌はないのか。
つぎに思い浮かぶのが井上陽水。

https://youtu.be/8Wa3Z_1kji0

「夏まつり」は陽水のセカンドアルバム「陽水Ⅱセンチメンタル」の収録曲。
その発売は1972年の10月。
残念ながら「旅の宿」に遅れること3カ月。

ほかで「浴衣」がでてくるのがグレープ(さだまさし)の「精霊流し」で1974年、おなじさだまさしの「線香花火」が1976年、NSPの同じ「線香花火」のなかにも「浴衣」がでてきますが、これも1976年。
演歌は多いかもしれませんが、知っている歌では志賀勝の「蛍籠」は1977年。

ということはやはり「旅の宿」が1970年代「浴衣ソング」の嚆矢なのか。
ところが同じ1972年に「浴衣」をうたった歌がもうひとつあります。

https://youtu.be/JhA8wuIV7Yw

以前もとりあげたのでいささか気がひけますが、1972年のTVコマーシャルソングとして全国を席巻した(大袈裟)ご当地ソング「ふりむかないで」(ハニー・ナイツ)にも♪ゆかた姿の と出てくるのです。それもレコードが197年4月発売といいますから、「旅の宿」より3カ月はやく世に出た歌。作詞は池田友彦、作曲は小林亜星。

70年代「浴衣ソング」の魁は「ふりむかないで」ということに。もちろんあくまでわたし調べ、それもかなり浅い調査ですが。

ところで浅草で見た女の子たちの浴衣姿。もうひとつ感心したのが流行りなのか白のレースの浴衣を何人も見かけました。あれはあれでカッコイイし、色っぽい。

その反対に気になったのが男の浴衣。だいたい浴衣を着た男は女の子同伴つまりペアというのが多かった。その彼らですが、なんとなく着こなしが野暮で貧相。とりわけ痩せ気味の男子はなんとも頼りなく、風が吹いたら飛ばされそうに見えてしまいます。はんたいに太りすぎだとお相撲さんになってしまいますし。
髪型、履物、帯など考えてもう少し粋に着こなしてもらいたい。

歌のなかに出てくる「浴衣」もほぼ女性。
なのでおまけの歌は男の子の浴衣を応援する意味で、男の浴衣姿をうたった歌を。もちろんフォークではありませんが。

https://youtu.be/qEsFFWwvXyU

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過ぎてゆくのさ夜風のように [歌謡曲]

sasurai.jpg

いまだ、脳内MDコンポでは「さすらい」が流れております。

まえにも言いましたがこの「さすらい」は「詠み人知らず」の歌で、戦時中、フィリピン・ルソン島に赴いていた日本兵たちにうたわれていたという「ギハロの浜辺」という歌を植内要が採譜したものといわれています。以前はYOU-TUBEにあった記憶があるのですが、いまはありませんでした。

ソフィスティケイトされたこの歌が実際に知られるようになったのは昭和35年(1960)の日活映画「南海の狼煙」の主題歌として銀幕に流れてから。「海から来た流れ者」以来の流れ者シリーズの三作目で宇和島の闘牛にからむアクション映画でした。
監督は山崎徳次郎、相手役は浅丘ルリ子。ほかには日活ニューアクションには欠かせない殺し屋として宍戸錠、またキャバレーシーンの名花・白木マリが共演。敵役は金子信雄と岡田真澄。懐かしいなぁ、みんな。
「さすらい」は以後「流れ者シリーズ」の通しの主題歌となります。

2年後の37年にやはり日活で小林旭主演のサーカスを舞台にしたラブ・サスペンス「さすらい」が作られ、その主題歌は2年前の「さすらい」がそもまま流用されます。監督は野口博志、共演は松原智恵子でした。
経緯は不明ですが、「南海―」で同時発売した主題歌の「さすらい」が思いのほかヒットしたため、その主題歌「さすらい」をモチーフとしてあらたに脚本を書き上げたのではないでしょうか。もっといえば、もしかすると小林旭自身がその歌を気に入ってリクエストしたのかもしれない。
なお、この映画では戦前の「サーカスの唄」(昭和8年・松平晃)が挿入歌としてつかわれています。もちろんうたっているのはアキラ。

そして「さすらい」はそれ以外でも、アキラ主演の作品で挿入歌として何度かつかわれたそうで、本人およびスタッフによほど気いられた歌だということがわかります。
実際小林旭は自伝のなかで「さすらい」がいちばん好きな歌だと書いています。その自伝のタイトルも「さすらい」。

「おらおらでひとりいぐも」の桃子さんが♪夜がまた来る 思い出つれて と一節唸ったように、この歌を好きで聴いたり、あるいは口ずさんだりした・している人はめずらしくなかったのかもしれません。

小林旭、ではなくて小林信彦は自著のなかでアキラと「さすらい」のことを書いている。
30年代のエンタメ、とりわけ映画と喜劇について書かせたら右にも左にも出る者がいない作家が小林信彦。

小林信彦は昭和7年(1932)生まれで、「南海の狼煙」が封切られた頃は20代後半。
その4年前の石原裕次郎の鮮烈デビューで始まった日活アクションを支持した主軸年齢層はどのへんだったのか。おそらく中卒の16歳くらいから20代前半あたりの男女だったのではないでしょうか。データがあるわけではありませんが。もしそうだとすれば信彦氏はやや「遅れてきた青年」。

実際、本の中でアキラの映画を観ることが「男として恥かしい」と書いています。実年齢でいってもアキラは信彦さんの6つ年下。アイドルにするにはたしかに恥かしい。

では裕ちゃんはどうだったのか。と気になりますが、裕次郎については書いておりません。
想像するに、裕次郎は信彦氏よりやはり年下ですがその差2つ。ほぼ同世代といってもいいくらいで、アキラよりは己が姿と比較しやすい。
一部では元祖・オタクといわれている信彦氏ですから、かの不良っぽい太陽族の親玉みたいな男はそのカッコよさの嫉妬もからめて肌が合わなかったのではないでしょうか。

その点アキラは、かなりの弟分であり、その演っていることのバカバカしさも相俟って憎めない愛すべき存在だったのかもしれません。
もうひとつのアキラの看板作品「渡り鳥シリーズ」ともどもその無国籍かつ定型ストーリーをマンガのようにおもしろがっていたのでしょう。

アキラの歌にかんしては「ギターを持った渡り鳥」の主題歌および作品ごとにうたわれるアキラの「民謡」の明るさと、「流れ者シリーズ」に一貫して流れる「さすらい」の暗さを比較しています。

https://youtu.be/EyqCvghXz7g

悪党どもとの格闘シーンに流れる「民謡」は笑わせてくれるけれど、いまとなっては三橋美智也に匹敵するよさがあると書いています。言いすぎかな。

https://youtu.be/hM0dRiSxw5U

「さすらい」については、その暗さは本モノで、そのやりきれなさは絶品と称賛しております。その暗さはマイトガイとちやほやされたアキラが銀幕のなかのヒーローと実際の己とのギャップに気づいたときの暗さだ、とまで言っています。ほんとかな。

いかに小林信彦が「さすらい」を気に入っているかは、「さすらい」と立てられた短いチャプターのなかで、「さすらい」の歌詞(1~3番)をすべて書き記していることでもわかります。

さらにその章の最後には、1960年の暮れ、友人数人と新宿ヒカリ座の前をこの「さすらい」を咆哮しながら、まさに夜風のようにすぎて行ったことを記しています。 

わたしにも昨年亡くなった「さすらい」友達がおりましたので、1960年という複雑な年の瀬の新宿を、あくる年に向かってさすらう小林信彦はじめとする青年たちの姿が生々しく目に浮かぶのです。

おまけは、歌:小林旭、詞:西沢爽、補作曲:狛林正一トリオをワンモア。
というよりわが青春のマドンナが出ているもので。

https://youtu.be/9LPU3KHLt3k

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時計ばかりがコチコチと [夏]

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1946年から数えて何度目の終戦記念日になるのでしょうか。
もはやこちらも歳をとりすぎて計算不可。ずいぶん昔のことのように遠ざかってしまったことは確かですが。もはや「いや、終戦やなくて、敗戦やろ」なんてつっこむ人もいなくなり。

幸いにも戦火を知らずに生まれ、壊滅的な飢餓時代も経験することなく乳母日傘はウソですが、まぁ無難に育ってきたわたしですが、両親はじめ先輩方からその聞くも涙、聞くも恐ろし戦争話のかずかずは聞かされてまいりました。さらに、空襲や灯火管制の経験はありませんが、子供時代防空壕はありましたし、傷痍軍人の方々を見かけることもさほどめずらしくない時代ではありました。

それでも、では己の子供たちに諸先輩から伝授された「戦争憎むべし」「戦争絶対反対」を伝えてきたかというと、はなはだ自信がありません。
すっかりノド元を過ぎてしまったあの戦争ですが、[War no more]は「やられたらやりかえせ、倍返しだ」になり、さらには「やられる前に、やっちまえ」になっていくような。

ただ今年の8月15日の日本は少し違う。
いまだ継続しているウクライナの戦禍を目の当たりにしているから。
侵略国が日本の隣国・ロシアということで、報道も多く、関心も高まっています。テレビ・新聞は飽くことなくウクライナの戦火を報道し続けています。ウクライナの方々にはほんとうに気の毒だというしかないのですが、ともすれば長期戦となり、関心も薄れがちになるので、粘り強く停戦になるまで報道を続けていってもらいたい。

若い人たちも戦争がスクリーンや本・雑誌のなかの話ではなく、すぐ隣で人間による人間に対する惨殺が行われていることを実感しているのではないでしょうか。また中国・台湾の問題も何かあれば飛び火し、やがて「自宅延焼」になるかもしれないコワさを実感しているのではないでしょうか。

民間人も含め300万人以上が殺されたという第二次世界大戦の教訓を活かし、「やる」のではなく、いかにすれば「やらない」ですむかということに全力を傾注してもらいたい。それを実現するのが外交の役目で、優秀な政治家や官僚たちが「反戦」を遂行できるように、報道を含めた国民のチェック、サポートが必要不可欠。ともすれば声高な言葉や強権に引きずられてしまいがちなわれわれなのですから。

話を変えて歌を。
「戦争と歌」といえば反戦歌もありますが、かつての日本でいえば「軍歌」でしょうか。
あんなに数年のあいだに、ほぼ戦争を支持肯定し、応援する歌が一国を席巻してしまったなんて国がほかにあったでしょうか。今考えてもほんとに信じがたいことが80年あまりの日本に起こっていました。
それこそクラシック界から歌謡界まで同盟国のドイツ、イタリアを除いた欧米音楽をすべて放逐しろなんてあたりまえのように高言していたのですから。そして国外には届かないことを知ってか知らずか自国の歌は敵国を完膚なきまでに打ち砕き、国民には忍耐を犠牲を強いるという、およそ現代では信じられない歌の数々。それが軍歌でした。軍歌の嵐が吹き荒んでいた時代でした。嵐の渦中にいる国民はまるでその異常に気づかなかった。

たとえば、その抒情に満ちた詩ゆえにいまでも多くのファンを持つ詩人も、その渦中にあっては「万歳ヒットラー・ユーゲント」「万歳ナチス」と筆をすべらせてしまう。
多くの(ほぼ全員)作曲家、作詞家、歌手たちが日本の戦争を支持し、敵国を壊滅させることを望んでいたのです。それは彼らの音楽を聴く国民も同じで、あの嵐の中で「戦争反対」を叫ぶ人間などほぼいなかった(例外は一部の思想家、宗教家で、彼らはもちろん国家権力から迫害を受けた)。

また、誰でも知っている童謡の作曲家も戦時中、多くの軍歌をつくりました。そのことを戦後糾弾されると「もし私が戦争犯罪者だというのなら、国民全員が同罪になってしまう」と言ったとか。たしかに的外れの言い訳ではないけれど、それを「扇動者」が言ってはいけないし、たとえ同じ犯罪人だとしても、「先導者」の罪ははるかに重い。

「万歳ナチス」と書いた詩人も、日本人は誰もが戦争犯罪人といった作曲家も、敗戦から10年も過ぎたころには、偉大なクリエイターとして「復活」していました。「自分たちだっていわば加担者だから…」という国民の負い目がそれを許したのかもしれません。

とにかく驚くほどの「軍歌一色」で、絶望的なほど「反戦歌」が生まれない時代でした。同調圧力の極みの時代ともいえます。

そんななかでいくらか救いになるのが、「反戦」ではないけれど、「厭戦」あるいは「諧謔・自虐・揶揄・皮肉」といった類の歌。そんな「軍歌」をいくつか。

https://youtu.be/K13GM1NtDVs

「戦友」(詞:真下飛泉、曲:三善和気、明治38年)

♪ 軍律きびしい中なれど これが見捨てておかりょうか
  しっかりせよと抱き起こし 仮包帯も弾のなか

14番まであるという歌詞の一部で、これが昭和の軍隊には見過ごせない軍規に反する行為になる。日露戦争の頃につくられた歌で、まだ国家の締め付けも緩かった時代。
ただ、このストーリーは斃れた友を抱き起した兵士も、負傷兵の願い(これが哀しい)もあり、未練を残しながらも友を残していくと続き、軍規違反をしてはいない。
しかし全般的にもの悲しい旋律、さらには戦友の形見の懐中時計が自分のポケットの中でコチコチと鳴っている、とかその詩も全般的に陰鬱で、およせ戦意を高めるものではないということで、「ふさわしくない」と禁止されます。とはいえ、なぜか上官が意識的に耳を塞ぎ、歌われていた部隊もあったとか。

ほかにもうたうことが禁じられていた「軍歌」がいくつかあります。

https://youtu.be/yXJw1DV9RvA

軍隊小唄(詞:不明、曲:倉若晴生)
♪ いやじゃありませんか軍隊は
  金(かね)の茶碗に竹の箸
  仏様でもあるまいに
  一膳めしとは情けなや

https://youtu.be/yl6tFlzMBRA

可愛いスーちゃん(詞・曲不明)
♪ お国の為とは言いながら
  人の嫌がる軍隊に
  召されて行く身の哀れさよ
  可愛いスーちゃんと泣き別れ

  朝は早よから起こされて
  雑巾がけやら掃き掃除
  嫌な上等兵にゃいじめられ
  泣く泣く送る日の長さ

いずれも建前上軍隊ではうたうことが禁じられていた歌。
「曳かれ者の小唄」なんて言葉もありますが、明日この世から消えてしまうかもしれなわが身を思えば、国家圧力があろうともつい本音がポロッとでてしまうのは人間のまともな心情だったのでしょう。またその歌に共感する人間が少なからずいたからこそ、圧殺されることなく生き延びてきたのではないでしょうか。

ただもし再び日本が戦争をはじめそうになったら、諧謔・揶揄ではなく「戦争は嫌だ」[War no more]とストレイトに言いたい。

戦後77年(といまニュースで言っておりました)の間、日本にも「反戦歌」が生まれなかったわけではありません。たとえば以前もふれましたが「もずが枯木で」とか「サトウキビ畑」と「戦争は知らない」、「戦争を知らない子供たち」、「教訓Ⅰ」ななどなど。「教訓Ⅰ」は例外ですが、だいたい拳を振り上げたり、シュプレヒコールしたりというような直接戦争反対を唱える歌というよりも、婉曲に戦争の悲惨さや悲劇を訴えることで戦争を否定するという歌で、そうした余韻を残した歌の方が日本人には好まれのかも知れません。
敗戦直後の童謡にもわたしにはそんなふうに聴こえる歌がありました。おまけの一曲はその歌で。

https://youtu.be/8lTdQzq1UgE


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二刀流開眼 [country]

大谷10勝.jpg


最近ピッチングもバッティングも調子いまひとつの大谷。
今日こそはと思っておりましたが、朝から出かける羽目に。
暑い、外ではもうマスクはつけられない。

用事を終えて家へ戻ってきたのは午後1時半過ぎ。
汗だくの服を着替える間もなくパソコンのスイッチオン。
間に合ったまだやっておりました。でも9回裏アスレチックスの攻撃。
5-0でエンジェルスが勝っている。

大谷は無失点で責任を果たしたことになる。
このままクローザーのキハーダが押さえれば大谷に勝ち星。
ホームランを1本くらって「まさか」と思ったけれど、残り3人を押さえてエンジェルスの連勝。

大谷ようやくの10勝。スゴイ。身内(のつもりになっているのはわたしだけではない)としてはやれやれです。
ゆっくりダイジェストを見れば、なんと7回にライトへソロホームラン。25号で、内野安打もあって3打数2安打。みごと。久々にすっきりしました。
そのあと、テレビで各局のスポーツニュースを飽きることなく見まくったことはいうまでもありません。

ベーブルース以来104年ぶりの2ケタ勝利、2ケタホームランの偉業、大谷にとってはあたりまえのように思ってしまいがち。とてつもないことなのですけど。とにかく今季は無理だけど、20勝、50ホームランを実現してもらいたい。

不安はケガ。今日も打球が足に直撃して痛そうでしたが、最近自打球を足に当てること2度、先日は相手のピッチャーに足を踏まれたり、なにかと足への「攻撃」を受けているようでいささか心配。

とにかく久しぶりにモヤが晴れたような爽快な気分になりました。
それでは歌を。

気の利いた歌が思い浮かばないのでイージーですが、「二刀流」にかけて「宮本武蔵」を。

https://youtu.be/HDonMWZqXDU

今は懐かしいドンキー・カルテット。
昭和40年代に活躍したコミックバンド。メンバー中、リーダーの「鳥取県が生んだ天才」・小野ヤスシと、名フィドラー・飯塚文雄やベビーヴォイスの猪熊虎五郎は亡くなってしまいましたが、いつもリーダーとやり合っていたジャイアント吉田とメンバーがケンカ中でも舞台の端でドカ弁を食べていた祝勝は存命だそうです。
「宮本武蔵」はそのジャイアント吉田の作詞・作曲で、メインヴォーカルも彼です。

1曲だけでは寂しいので、おまけに「宮本武蔵」によく似ているカントリーソングをふたつ。どちらも古い伝承歌です。

https://youtu.be/ZIvd-enRJFw

https://youtu.be/CFLL9GVh3Jk

カブスの鈴木誠也も9号ホームランをふくむ3安打で久々の活躍。明日はその本拠地・リグレー球場で「フィールド・オブ・ドリームス・ゲーム」というかの名作映画にちなんだ試合が行われるそうで、見たいと思ったのですが、abemaでは配信がないようで残念。
ちなみに鈴木誠也は「フィールド・オブ・ドリームス」を観たことがないとのこと。時代ですねえ。

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オリビアを聴きながら [country]

olivia.jpg


近年にない猛暑でバテております。歳のせいもありますが。
歩く姿もトボトボと。若い人たちが追い抜いていきます。元気だなぁ。

外に出たタイミングがわるく日影がまるでない。しばらくはこんな灼熱が続くようです。

その暑さのせいがあるのかないのか、ここのところ訃報が多い。声優の方もふたり亡くなりましたし、以前テレビでよく見た服飾評論家の女性も亡くなった。そして先ほどの報道では三宅一生氏も亡くなったとか。

海外からも訃報は聞こえて来ております。
やはりもっとも親しみを感じていたオリビア・ニュートン・ジョンの死には驚いた。73歳はまだまだという気もしますが、70年生きれば充分という気もします。

とにかくシンガーとしては際立った美形でした。そのため映画にも何度も出演しており、女優という側面もあったようです。トラボルタとのロケンロー・ミュージカル「グリース」は当時観ました。ヤンキー娘をみごとに演じてました。
彼女は、やはり俳優のメル・ギブソンやワンマンバンドのギタリスト、トミー・エマニュエルと同じくオーストラリア出身だとは知っていましたが、今度の訃報でイギリス生まれであることを知りました。

一般的にはポップシンガーであり映画俳優なのですが、個人的にはカントリーシンガーのひとりだと思っております。
彼女を偲んでそんなカントリーソングを3曲聴いてみます。


故郷へ帰りたいtake me home, country roads

https://youtu.be/GJzq3dAEgIs

ジブリのアニメでもつかわれた(観てませんが)という近年では最も日本人に知られたカントリーソング。「悲しみのジェット・プレイン」や「緑の髪のアニー」などをつくったジョン・デンバーがつくり歌ったことなど知らないでしょうね。1971年のこの大ヒット曲でジョンは日本で知られるようになった。オリヴィアはその2年後にリリースし、全英で15位にチャートインしています。
ジョン・デンバーも20年以上前に飛行機事故で亡くなっております。

オハイオの岸辺でbanks of the Ohio

https://youtu.be/e5lt_BgJK9Y

P.D.(パブリック・ドメイン)でカーター・ファミリー、オズボーン・ブラザーズ、リリー・ブラザーズ、ドク・ワトソン、ニュー・ロスト・シティ・ランブラーズ、ジョーン・バエズなど多くのカントリーシンガーやフォーキーたちによってうたわれています。
アメリカの伝承歌にありがちなマーダーソングで、結婚を拒否された男が恋人を殺してしまいオハイオ川に投げ込み、流されている姿を見ているという残酷な歌。男は翌日訪ねてきた保安官に捕まるという因果応報的なエンディングにはなっております。
マーダーソングは実話が多いと言われ、この歌もそうだったのかも。でもオリヴィアはなぜこの歌を選んだのかな。たしかにメロディーは美しいですが。

オリヴィア盤は1971年にリリースされ、全豪ナンバーワンになっています。


雨の別離blue eyes crying in the rain

https://youtu.be/vAu7sagkKuA

1940年代、フレッド・ローズの書いた美しい別れの歌。はじめにレコーディングしたのはロイ・エイカフでその後、51年にハンク・ウィリアムズによってうたわれています。
大ヒットしたのは1975年のウィリー・ネルソンによって。いまでも彼の代表曲のひとつです。そのほかエルヴィスをはじめ多くの歌手にうたわれているカントリークラシック。

オリヴィアは1976年のアルバム[Come On Over]のなかの一曲としてうたっております。わたしがもっている2枚のアルバムのひとつで、ほかにドリー・パートンの「ジョリーン」、ビートルズの「ロング・アンド・ワインディング・ロード」、トラデショナルの「グリーンスリーヴス」などが入っています。

ほんとに綺麗なシンガーで日本でも70年代にブームがあったのではないでしょうか。尾崎亜美&杏里の「オリヴィアを聴きながら」は彼女のことでしたよね、たしか。あの歌もEP盤を買うほど好きな歌でした。おまけに。

https://youtu.be/_rm4rbX2RbA


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旅の灯りが遠くうるむよ [books]

旅の灯りが遠くうるむよ.png


久しぶりに小説を読みました。
数年前の芥川賞作品で、「おらおらでひとりいぐも」(若竹千佐子著)という本。なんとなくタイトルに魅かれて買ってしまいました。
なんでも映画化されるほどのベストセラーで、周囲からは「いまさら?」コールも聞こえてきた。
「おらおら」はあの「オラオラ」ではなく、「いぐも」も「行くも」あるいは「逝くも」であることは理解できました。わたしは東北出身ではないけれど、学生時代に懇意にしていた東北生まれの友人がいたため、東北訛は慣れていたし、友人が吐き出す言葉とその響きがなんとも心地よかった。
まぁ、本の「タイトル買い」というのもひとつの「縁」だと思うし、芥川賞作品なのでハズレはないだろうという安易な考えもあって、ページを捲ってみた次第。

読み始めてまず気づいたのが、東北弁で書かれているということ。「ト書き」部分では標準語もあるが、彼女の想いや心象風景は東北弁が多い。ただ、すべて純正の東北弁だと読者が理解できないと配慮してか、「普及版の東北弁」というアレンジもなされている。それが読者の理解を可能にし、さらには東北の風や匂いを感じることにつながり、いいアイデアだと思う。

もうひとつのこの小説の特徴が主人公・桃子さんの心の葛藤をからだの中に生息するさまざまなキャラクターの「柔毛突起」たちに井戸端会議させていること。かんたんにいうとよくある「内なる天使と悪魔」が数人、あるいは十数人いて激論をたたかわすわけである。
映画ではその「柔毛突起」を擬人化して三人の男(ほぼ同世代)が演じていましたが、あれは必ずしも成功していたとはいいがたい。
それはともかく、内容をかいつまんで。

1964年秋のオリンピックのファンファーレに送られて、故郷・岩手で控えていた祝言を蹴っ飛ばして東京へ出てきた「遅れてきた金の卵」というのが、主人公の桃子さん。
二十歳そこそこで、何のあてもなく大都会・東京へ足を踏み入れる。それも後足で故郷に砂をかけるような不退転の決意をもって。

今なら新幹線でさっと出かけてうまくいかなければさっと帰ればいいのだけれど、半世紀以上昔の話なのだから。半世紀以上昔の人間なのだから。それも女なのだから。
それだけ、桃子さんには東京への衝動が押さえられなかったということ。半世紀以上昔とはいえ、ほんの一握りだったかもしれないけど、そういう女がいたんですねえ。もしかしたら、一握りではなく、二握り、三握りの女どもがいたのかもしれません、半世紀以上昔だったとしても。そんな女どもが現代のフェミニズムをつくってきたのではないでしょうか。なんて。

そんな桃子さん、花の東京で同じ東北出身の「美しい男」に出会い、ひとめ惚れし、彼の「決めっぺ」の殺し文句で夫婦になる。そしてその心身ともに「美しい男」のために生きていこうと決めるのでありました。
子供もでき、郊外に家を買って絵に描いたような小さな幸せなをいきてきた桃子さん。その幸せが30年余りであっけなく崩れていく。最愛の夫の急死。
悲嘆に暮れるなんてものではない絶望の淵。
小説ではその思いを「死んだ死んだ」と30回以上の連呼で描写している。

何もかも夫に捧げた30年。遺された妻の胸のうちは、草木も消えた荒野のような果てしない喪失感。なぜ夫を奪ったのかという神や仏への罵倒。悲しみに一睡もできな夜もあった。しかし、それから10数年を経たいま、桃子さんは夫の死という絶望のなかに、小さな喜びがあった、と回想する。つまり最愛の男が突然消えたことで99の悲しみはあったけれど、ひとつの喜びがあったと。

その喜びこそ、半世紀以上昔に桃子さんを突き動かした、女として、人間としてもっとも大切にしなければならなかったことなのです。それが「おらおらでひとりいぐも」ということなのです。

人間は自らの足で歩いて行く、つまり生きていくということが「らしい」ことなのだと桃子さんは再確認するのである。たとえ愛する人であっても、誰かのために生きるというのは「らしくない」のではないかと。

そう読みすすめてきて、読者であるわたしはいささか胸がざわつくのです。それなら、かの「美しい男」は桃さんによって乗り越えられてしまったのか、否定されてしまったのかと。
さらに読みすすむと、桃子さんはときとして愛夫のことを思い出し、その名を呼 んでみる。そして「あいたい」とつぶやくのでした。
そういう描写にわたしはホッとするのです。

わたしの稚拙な書き方では「ネタバレ」にはならないので、さらにストーリーをおいかけてもよいのですが、この小説を紹介するのが目的ではないので、このへんにしておきます。
前置きがながくなりましたが、ここからが本番です。

実はこの小説には流行歌がいくつかでてくるのです。
でなければブログでとりあげることはなかったのですが、それを求めてこの小説を読んだわけではなく、読みすすめていくうちに突然でてきたということなのですが。

だいたい小説とりわけ芥川賞を獲るような「純文学」には流行歌など出てこない。まぁ例外はありますが(車谷長吉とか)。現代のエンタメ小説にJPOPが出てこないかどうかは知りませんが、かつての「大衆小説」であっても具体的な流行歌はさけて、「ラジオから卑俗な歌謡曲が流れていた」とか「店のなかは薄っぺらな流行歌が響いていた」とか。
その歌詞はおろか、タイトルも不明。それが文学の不文律でもあるかのように。

ところがこの小説ではそんな卑俗な流行歌がいくつか出てくる。
さすがにタイトルはでてきませんが、それとわかる歌詞がでてくる。

まずは2曲。
桃子さんがいかに「愛」に囚われ、騙されていたかと思い返す部分で。

「あなた好みの女になりたいー 
 着てはもらえぬセーターを寒さこらえて編んでます」
なんとかならないのがこの歌詞。この自己卑下。奴隷根性」

https://youtu.be/JvVezfjvmUY

https://youtu.be/dSQ8eXXWqEM

桃子さんの気持ちよくわかります。
はじめが奥村チヨの「恋の奴隷」で、つぎが都はるみの「北の宿から」。作詞は前者がなかにし礼、後者が小林亜星でどちらも昭和の歌。あたりまえだけど。
つまり男の作詞家が女になりきって歌わせているのです。
たしかに「恋の奴隷」などある意味「時代の歌」で、いまならまず世に出てこない。「北の宿から」についても、当時ジェンダーを越えていた淡谷のり子は「なして着でくれねえセーター編むんだ」と言ったとか言わなかったとか。

流行歌なんてそんなものです。昭和30年代後半、青春歌謡の金字塔としてレコード大賞まで獲った吉永小百合と橋幸夫の「いつでも夢を」。作詞家は還暦を過ぎていました。あのAKB48の「恋するフォーチュンクッキー」で10代の若者を乱舞させていたのは50歳をゆうに越した作詞家でした。いつの時代も若者たちは初老のオッサンの言葉に感動し涙するのです。

それはともかく、そしてもう一曲歌謡曲が。
これは桃子さんの怒りの対象ではなく、彼女の思いや生き方を反映している歌。もしかしたら愛聴歌、さらには愛唱歌かもしれない。
その一文を書き出してみると、

「湯呑に残った冷えたお茶をゆっくりと飲み干した。
 夜がまた来る、思い出つれて、と一節低く唸り、この歌詞をおらほど深く理解している人間がほかにいるだろうか、と十年一日の繰り言を言った」

https://youtu.be/An6K3_4hJ4s?si=vwFlsUsy4eOFrsJa

♪夜がまた来る 思い出つれて
は小林旭の昭和35年のヒット曲「さすらい」(詞・西沢爽、補作曲・狛林正一)のうたいだし。
「補作曲」ということでも想像がつくようにこの歌は元来「詠み人知らず」つまり伝承歌なのです。「東京流れ者」や「お座敷小唄」などのように。
曲もいいですが、なによりも西沢爽の詞が心に沁みます。

この「さすらい」が好きな人はわたしの周りにも多い。しかし女性でこの歌が好きだと言った人ははじめて。かってにこの歌が「男だけの世界」だと思い込んでいましたから。
しかし、この本を読み終わると桃子さんが「さすらい」が好きだという理由がよくわかります。

ところで、わたしのように甘っちょろい人間にとっては、この自由と自立を再獲得する女性の物語がラブストーリーに読めてしまうのです。
たとえば、遥かな未来、他の星へ移住した人間たちが遠い地球を眺めて古えへ想いを馳せている。そんなことを想像する桃子さんはそのおびただしい人間のなかから夫をみつけたいと思うのです。そしてやはりそのなかで歓声をあげている自分のことも夫にみつけてほしいと思うのです。

人間ひとりじゃ生きられない、と言うけれど。それならロビンソン・クルーソーはどうなの? なんて子供じみた反論はしたくないけど、本当はだれでも何物にも縛られずに自由きままに生きていきたいんだよね。でもそのスタンスを押し進めると周囲との軋轢が起こること間違いなし。だから自由に生きるということは孤独であるということでも。
自由を獲るか孤独を受け入れるか、って二択にする必要もない。時には束縛を受け入れ、時には気の置けない人たちに身も心も委ね、自由と孤独とをうまく折り合いをつけて生きていければいいのではないでしょうか。なんて口で言うほどうまくはいかないけれど。

そんな生き方をこの「おらおらでひとりいぐも」では次のように言っております。
「人は独りで生きていくのが基本なのだと思う。そこに緩く繋がる人間関係があればいい。」

最後に「おらおらでひとりいぐも」の作者に敬意を表し、女性がうたう「さすらい」を。」

https://youtu.be/DnrF6KweLZY?si=zMvs3p0qxBwBK6Nv


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