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みんながジロジロ見てるから [歌謡曲]

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今回のカヴァー名人は森山愛子。
森山愛子は以前から知っています。もちろんYOU-TUBEでみたのですが、シンディ・ローパーの前で童謡「赤とんぼ」をうたい、シンディを感動させた動画が印象的でした。
栃木の宇都宮出身で平成16年に「おんな節」でデビュー。
とにかく歌が上手なことはいうまでもありませんが、明るく愛嬌があります。YOU-TUBEに上がっているカヴァーはかなり多く、選ぶのがたいへん。
とりあえず今回は昭和30年代のビッグヒット3曲を選んでみました。

まずはじめは、島倉千代子の「この世の花」と同じ昭和30年の歌。うたうはやはり昭和30年代に歌謡界の主軸として活躍した女性歌手。

https://youtu.be/pbaFIL2BJxE

「東京アンナ」は当時流行のリズム、マンボを取り入れて大ヒット。同年にデビューした大津美子の2枚目のシングル。
大津は豊橋出身で「東海のひばり」といわれたほどの歌うま少女だった。デビューの2年前から当時キングレコード所属だった作曲家・渡久地政信に師事。「東京アンナ」はその師匠の作品。翌年には彼女の代表曲「ここに幸あり」を、32年には「いのちの限り」や「東京は恋人」、33年には「銀座の蝶」とたてつづけにヒットをとばした。

渡久地は戦前は歌手だったが無名で、戦後作曲家に転身。26年に津村謙の「上海帰りのリル」がヒット。そして29年には彼のというか、それまでの歌謡史上最大のヒットといわれた「お富さん」(春日八郎)を手がけた。30年代にはこの「東京アンナ」をはじめ「踊子」(三浦洸一)、「湖愁」(松島アキラ)、「島のブルース」(三沢あけみ)、さらに40年代には青江三奈の「池袋の夜」や「長崎ブルース」と息長くヒット曲をつくり続けた。

大人の社交場だったナイトクラブの花、踊子・アンナの神秘的な魅力を描いた詞は藤間哲郎。ほかでは「お別れ公衆電話」(松山恵子)、「別れの波止場」(春日八郎)、「東京の灯よいつまでも」(新川二郎)など昭和30年代を彩ったヒット曲がある。


つぎはまさに昭和30年代前半を代表し、歌謡曲を社会現象にまでたかめたシンガーの一曲。

https://youtu.be/OqDQGRdNLek

昭和33年(1958)、三橋美智也がうたった「赤い夕陽の故郷」。
北海道生まれで民謡歌手だった三橋美智也は昭和29年にキングレコードから、福島の新相馬節をベースにした「酒の苦さよ」で歌謡曲デビュー。翌年「おんな船頭唄」がヒット。以後、31年の「リンゴ村から」「哀愁列車」、32年には「俺ら炭鉱夫」「東京見物」「おさらば東京」、33年には「夕焼けとんび」「センチメンタル・トーキョー」そしてこの「赤い夕陽の故郷」がヒット。以後も「古城」「達者でナ」「星屑の町」とヒットを連発した。

そのファンの過熱ぶりは戦後最高とまでいわれたほどで、心に刺さるという意味でいまでもつかわれる「シビレる」という言葉は彼のファンが発信したもの、となにかの本に書いてあった。
彼の愛称は「ミッチー」で当時は「本家」がいたためかあまり大ぴらには言われなかったが、昭和50年代なぜか再ブレイクし、第二の「ミッチーブーム」をつくった。

「赤い夕陽の故郷」の詞はキングの主力作家で「下町の太陽」をはじめ数えきれないヒット曲をつくった横井弘。ワケあって故郷を離れた男の望郷の思いをつづっている。どこかカントリーの匂いがする旋律は中野忠晴。

中野は戦前「コロムビア・ナカノ・リズム・ボーイズ」のメインヴォーカルをつとめ、「ダイナ」や「ミルク色だよ」などのジャズや、師匠である服部良一の作品をうたっていた。戦後になると、作曲家に転身し「歌謡曲でなければヒットしない」と悟って和風に専念。その甲斐あって昭和33年にはこの「赤い夕陽の故郷」とともに彼の最大のヒット曲となる「おーい中村君」をつくっている。
とはいえジャズで育った体質ゆえ、ところどころにジャズやカントリーはたまたロックといった洋楽のニオイが感じられる。
やはり三橋美智也とのコンビとなる「達者でナ」は、馬産者と育てた馬との別れをうたった哀歌だが、そもそも舞台が牧場というのがカントリーっぽく(当時はアメリカの西部劇が大ブーム)、曲はなんとエルビスの「ハートブレイク・ホテル」をベースにしたというから驚き。いわれなければわからないけれど、いわれてみればナルホド

それはさておき、長くなっておりますので最後の曲に。
これも昭和30年代に一時代を築いたグループのヒット曲。

https://youtu.be/p26SfGNO_Gw

植木等をメインヴォーカルとしたハナ肇とクレイジーキャッツの37年のヒット曲「ハイ、それまでよ」。

ナベプロ創設期からのジャズバンドだったハナ肇とクレイジーキャッツ。ロカビリーからはじまってテレビの音楽バラエティを席巻したナベプロのバックアップで、コミックバンドとして大ブレイク。それを決定づけたのが36年にギターの植木等のヴォーカルで出したシングル「スーダラ節」。クレイジーキャッツの前身のキューバン・キャッツでクラリネットを弾いていたナベプロの座付作曲家・萩原哲晶が曲をつけ、当時若手放送作家として第一線で活躍していた青島幸男のC調な詞を書いて大袈裟でなく日本列島を席巻するウルトラヒットに。
以後植木等を看板とするクレイジーは、30年代、40年代のテレビ、音楽、映画、舞台の前衛として活躍する。

それから3枚目のシングルとなる「ハイ、それまでよ」も作詞・作曲は「スーダラ節」と同じで、編曲も同じくナベプロのジャズピアニストで作・編曲家の宮川泰(ひろし)。
とにかく詞も曲もしっとりしたムード歌謡風からはじまったと思ったらすぐにジャズ風、コミック風に「転調」するという、意表をついた当時も今でも前代未聞の楽曲。これがウケたのは間違いないが、いわゆる「ネタバレ」した2度目を聴いても面白い。
上記の製作スタッフはもちろん、クレイジーキャッツもベーシストの犬塚弘をのぞいて、みなさんお亡くなりになってしまいました。淋しいことですが、経過した時間を考えればいたしかたないのかも。ただ、いま振り返ると、もろもろ面白い時代を面白く生きた面白い連中でした。

おまけは戦後歌謡曲を代表する三橋美智也をもう一度。
民謡歌手・斎藤京子とのデュエットで。カヴァもアベックで。
この歌もよくラジオから流れておりましたっけ。

https://youtu.be/wPdaOIOuIKw

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愛は醒めて水になる [歌謡曲]

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やっぱり豊昇龍の優勝か。
予想はあたったけれど、北勝富士に優勝させたかった。
でもどっちにしても初優勝だし、豊昇龍は大関になれるようなので良かったのかも。彼には叔(伯)父さんに負けないようなヒールとして活躍してもらいたい。

大谷もいささか不調ぎみ。バッティングもそうだけど、8勝はしたけどピッチングが不安定。いわゆる「球が軽い」ように見える。シーズン通じて好調なんてありえないので、今は山ではなく「谷」の状態なのかも。くれぐれも「大谷」にならないことを願っております。

今回も演歌歌手のカヴァを聴いてみました。
石原詢子は1988年デビューというからもうベテラン。
岐阜県生まれで、実家は詩吟の家元。当然彼女にも心得がある、ただし、将来の夢は演歌歌手だったとか。

彼女もカヴァが多い歌手で、とりわけお千代さんこと島倉千代子のカヴァーをよくみます。ほかの歌手のカヴァも見ごたえ聴きごたえのあるものがあるけれど、それはいずれまたということで、今回は亡くなって10年が経とうという島倉千代子の歌を三つ。

まずは昭和30年のデビュー曲

https://youtu.be/aoF25QdsFLA

哀れで儚い失恋ソング。女性がうたう失恋ソングはいつの世も同性の共感をうけ、異性の同情を生む。ヒットの定番のひとつなのでしょう。
島倉千代子はこの年だけで20曲以上をリリースしたというから、時代とはいえ驚き。「この世の花」は大ヒットとなり、11月の「りんどう峠」もヒットしている。
所属は美空ひばりと同じコロムビアレコードで、以後、このふたりがコロムビアの、というより日本の二大女性歌手として歌謡界に君臨していくことになる。
陽気で勝気な美空ひばりと静かで可憐なイメージの島倉千代子はまさに太陽と月で、両雄並びたった。

お千代さんはひばりに憧れて、コロムビアのコンクールでも「りんご追分」(?)をうたって優勝したとか。
ひばりと同じレコード会社の所属となって、大先輩(といっても年齢はひばりがひとつ上、学年なら同級生)と近づきになれると思ったけれど、ひばりが「拒否」。ふたりが「握手」するまでにはそれから30年近くかかった。それだけ美空ひばりは島倉千代子に脅威を感じていたということでしょう。
それゆえ、あれだけ日本の歌謡曲を手当たり次第にカヴァしてみせたひばりだけれど、島倉千代子の歌は聴いたことがない。もちろんその逆に「和解」するまではお千代さんがひばりの歌をうたうことも許されなかったはず。「和解」(一方的な)をしたあと、お互いにカヴァをしあったのかどうかはしりませんが。

作曲は戦前には「旅の夜風」が、終戦直後には「りんごの歌」が、そしてひばりの一連のヒット曲「悲しき口笛」「東京キッド」「越後獅子の唄」をてがけた万城目正。作詞も「旅の夜風」をはじめ、戦前そして戦後の20年代、30年代日本の歌謡曲を席巻したコロムビアの看板、西条八十。つまりヒット曲製造の最強コンビ。つまり島倉千代子がコロムビア
からいかに期待されていたかがわかる。

「この世の花」がヒットした昭和30年、島倉千代子はその年の暮れの紅白歌合戦に出場していない。その後もヒット曲を出しているのに初出場はなんと32年。彼女の代名詞である「この世の花」が紅白ではじめて披露されたのはなぜか27年後の昭和57年。ちなみにもうひとつのビッグヒット「東京だョおっ母さん」にいたってはアナクロニズムが嫌われたのか紅白でうたわれることはなかった。

2曲目はこれまた思いがままならないトーチソング。これもラブソングのステロタイプ。

https://youtu.be/nRtsrg45Dsc

「逢いたいなァあの人に」はデビューの翌年、昭和31年のの12月にリリースされビッグヒットとなった。こちらはタイミング的に紅白には間に合わなかったが、翌32年、彼女の紅白初出演の楽曲となった。
ちなみにこの年、彼女以外にも紅白初出場が何人かいた。その有名どころをあげてみると女性では朝丘雪路、松山恵子、浜村美智子。男性ではフランク永井、若山彰、青木光一らがいる。

「逢いたいなァあの人に」は昭和30年代前半の歌謡界のトレンドだった「ふるさと歌謡」。
「ふるさと歌謡」には、東京をはじめとする都会に働きに出てきた若者が艱難辛苦のなか、生まれ故郷に思いをはせるというタイプの歌と、反対にその故郷から都会へ出て行った異性を想うという歌があった。「逢いたいなァあの人に」は後者。いつも残されるのは女、とは限らずのちにヒットする「お月さん今晩わ」(藤島桓夫)のような男の場合もある。
いずれにしても、こうした歌の流行は若者が都会に殺到し、地方が淋しくなっていった時代が反映されている。

曲は「上海の花売り娘」ほか戦前から岡晴夫とのコンビで、戦後はひばりの「港町十三番地」やコロムビア・ローズの「東京のバスガール」で知られる上原げんと。詞は岡晴夫の「憧れのハワイ航路」、青木光一の「柿の木坂の家」、美空ひばりの「悲しい酒」などをてがけた石本美由起。

最後はもはやローカルの小都市化がすすみ、マイカー、新幹線、飛行機等によって「遠く望んだ」故里に日帰りできる時代となった昭和59年のスマッシュヒット。

https://youtu.be/ed_4VcYdAI0

昭和59年、1984年といえばチェッカーズと中森明菜が大ブレイクした年。という影響もあって、こんなリズミックな演歌というか歌謡曲がヒットしたのかもしれない。3年後に大ヒットする「人生いろいろ」もそうだけれど、泣き節・お千代さんにもこうした楽しい歌がたまにある。36年の「恋しているんだもん」とか38年の「星空に両手を」(with守屋浩)とか、41年の「ほんきかしら」とか43年の「愛のさざなみ」などが。

詞は細川たかしの「望郷じょんがら」を書いた里村龍一、曲は八代亜紀の「舟唄」、クールファイブの「そして神戸」、由紀さおりの「挽歌」、奥村チヨの「終着駅」などのビッグヒットがある浜圭介。ひばりの「夢飾り」を聴いてみたかった。

その「夢飾り」をオマケにもう一回。
これぞカヴァの醍醐味という一曲を。お千代さんもつきそっております。とにかく巻き舌の「夢飾り」なんてはじめて、それがなかなか。なにより歌が格別にうまい。

https://youtu.be/dh3u4lQssQg

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死ぬまでだましてほしかった [歌謡曲]

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「暑い、アツい、あつい」
こんな状態があとふた月以上続くと思うと、それでなくてもスピードアップしている「時の流れ」をさらにギアアップしたくなる。すぐに秋は来るけれど死期も近づく。

昨今の興味は大谷をはじめとした大リーグと、メインキャストのいない大相撲。相撲はよく言えば群雄割拠の戦国時代で取組じたいは面白いけど、人気を煽るにはやはりスター不足。いでよ超力士。
ちなみに優勝予想は、きょう霧島をやぶった豊昇龍かな。白桜鵬の勢いも凄いけど。でも今場所だけは北勝富士希望。

就寝前はあいかわらずYOU-TUBEでミュージックを。
最近は邦楽中心。といっても新しい歌は、Jポップはもちろん演歌も聞かないのでまるで知らない。もはや脳内メモリーが飽和状態で新曲は受け付けないのかも。たまに初耳アワーで新曲(自分にとっての)をみつけるけれど、多分、なにかが上書によって消去されているのでしょう。

ここのところ聴いているのは昭和歌謡。安心ですからね
それも元歌は少々飽きもきているので、カヴァで。ほとんどがバリバリ現役の演歌歌手。
歌の上手な人が多いですね。そりゃそうでしょう、カヴァアルバムなんかをリリースするのは「歌上手」でなければ無理。1曲2曲ならばなんとかなっても10曲あまりをこなすには天性の歌マインドがなくては。

きのう見たのはクラウンレコードの川野夏美。1980年、大分県生まれだそうです。

https://youtu.be/n6QXyZCGWjY

「黒百合の歌」は昭和28年に公開された映画「君の名は 第二部」の主題歌で、オリジナルは「君の名は」や「夜が笑ってる」をうたった織井茂子。ソングライトはこのシリーズのコンビである古関裕而(曲)と菊田一夫(詞)。
28年といえば、敗戦から8年を経たとはいえ日本はまだまだ貧しかった。その3年前に当時の大蔵大臣・池田勇人が「貧乏人は麦を食え」(実際はもっと柔らかい言い回し)と発言して物議をかもし、以後政治家の横暴・傲慢さのたとえとして時どき引用されている。それから3年経ち、28年の食糧事情はといえば相変わらずヤミ米が流通し、外米(輸入米)さえ高騰するありさまで、庶民の塗炭の苦しみはさほど改善されていなかった。
当時の大手新聞のコラムには「消費者がもっと麦類を食べる腹を決めれば」とか「麦はいやだなどと贅沢なことはいえた義理ではない」と書かれている。池田勇人には先見の明があったということで、そのことの評価はあまり聞かない。

「黒百合の歌」はプロに人気のナツメロのひとつで、カヴァしている歌手も多い。またこの歌は、鉄火というか、今風でいえばやさぐれたような気の強い、略奪愛もいとわない女のうたで、そうしたフンイキがよくでていたのが川野夏美だった。

つぎは昭和39年というから、もはや戦後ではないどころか、経済成長の加速によってわれわれ下々の家庭もそのオコボレを授かり、「豊かさ」なんて言葉がつい口から出るようになった時代。そんなころ巷にながれていた女歌。

https://youtu.be/Qyys5YHv4R8

シンプルに言うと失恋ソングで、曲は戦前から脈々と受け継がれている和製ブルース。オリジナルの西田佐知子はその特性であるノンビブラートのうたい方が、シャープでベタベタ感がなく、「それでも生きていかなくちゃ」という戦後の女のしたたかさを感じさせた。
彼女の最大のヒット曲は35年の「アカシヤの雨がやむとき」で、ほかに「エリカの花散るとき」も含めて、詞・曲は水木しげると藤原秀行。
「泣いた女がバカなのか」とか「死ぬまでだましてほしかった」などという女の自虐のセリフはこのころから流行りのようにつかわれるようになった。そう言わせている(作詞家)のは男なんだけれど。

最後は、もはや経済成長もピークをむかえ、「昭和元禄」などと呼ばれる時代にさしかかった昭和45年、つまり1970年代に突入した年の歌。

https://youtu.be/ZKTyAt8Iwjk

オリジナルの渚ゆう子は元ハワイアンシンガーで、この年の2月、ベンチャーズ作曲の「京都の恋」で大ブレイク。同じ年の12月にベンチャーズ提供第二弾としてリリースしたのがこの歌。もちろんこちらもヒット。作詞はいずれも林春生で、ほかに「白いギター」ほかチェリッシュの一連のヒット曲や欧陽菲菲の「雨の御堂筋」をてがけている。
ちなみにベンチャーズ作曲の歌謡曲としては「京都慕情」に先がけて「二人の銀座」(山内賢・和泉雅子)や「北国の青い空」(奥村チヨ)があった

オマケは「東京ブルース」の前年にヒットした、昭和30年代最高の歌謡ポップスを前田有希とのデュオで。

https://youtu.be/PPRNNJydZAU

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イスタンブール [jazz]

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数日前のネットニュースで、柳澤真一が亡くなっていたことを知りました。
亡くなったのは今年の3月で89歳だったそうです。

彼も忘れられた人だったのだろうか。
子供の頃テレビで何度も観たおぼえがあります。
ドラマだったのかバラエティだったのか番組までは覚えていませんが、もの静かでおとなしい雰囲気でした。でもなぜか印象に残る人でした。多分、他の出演者が燥いだり騒いだりと派手だったので、反対に記憶に残ったのかもしれません。それでも子供のわたしにとってはサムシングがある人だったのでしょう。訃報を目にしたときすぐにあの落語家のような顔が浮かんできましたから。

彼がもともと歌手だったということをしったのも大人になってから、音源もいくつか持っていますがすべてコンピアルバムの中の一曲。
昭和20年代末にジャズをうたってデビューしたといいますから、同時代のシャンソンやラテンブームともども勢いもあったのだと思います。テレビのドラマやバラエティにも出て、映画にも出て一時は将来を嘱望されていたのではないでしょうか。

それが30年代に入っての空前のロカビリーブーム。そして音楽ファンの若返り。そんな流れについていけなかったのでは。いや、ついていく気がなかったのかも。そうした日本のジャズシンガーはあまたいたはずですから。

あらためて若かりし頃の柳澤真一の美声を何曲か聴いてみました。

彼の代表作といえば、ナット・キング・コールがヒットさせた「プリテンド」だと思うのですがなぜかYOU-TUBEでは見つけられませんでした。それでこれも記憶の底のその縁にわずかにこびりついているこの曲を。

https://youtu.be/1aqiyY3b9oQ

「イスタンブール」は1953年にジミー・ケネディとナット・サイモンによってつくられた歌で、フォー・ラッズというコーラスグループによってヒットした。
当時は「ウスクダラ」や「ムスタファ」(ちょっと後ですが)など中近東の香りがするエキゾチックな歌がときどきヒットしていました。

ただ、この歌を小ヒットさせたのは「ウスクダラ」同様江利チエミでしょう。当時のマンボブームを半ば強引に取り入れて「イスタンブール・マンボ」としてカヴァしています。カテリーナ・バレンテもうたっているので、こちらのほうをカヴァしたのかも。

後年この「イスタンブール・マンボ」を大瀧詠一もカヴァしていて、間奏では「ウスクダラ」や「ムスタファ」(悲しき60才)のワンフレーズを聴かせてくれる。
そのサビ?の部分が甲斐バンドの「裏切りの街角」の間奏によく似ている。まったくの余談ですが。

つぎはアメリカでビッグヒットとなり、日本でも昭和30年代によく流れていた曲。

https://youtu.be/scSflT8MZfw

1919年、ジョージ・ガーシュインによって作曲された「スワニー」は彼の出世作。当初売れなかったものがアル・ジョルスンがうたったことで全米中にとどろいたといわれています。日本では30年代の紅白歌合戦で雪村いづみが何度かうたっていた印象がある。

雪村いづみといえば、彼女のアルバム「フジヤマ・ママ」の中で柳沢真一とのデュエット「お猿の新婚旅行」が聴ける。

https://youtu.be/adse2R9gDH4

これは1950年の日本未公開のアメリカ映画「トゥ・ウィークス・ウィズ・ラヴ」の劇中歌「アバ・ダバ・ハニムーン」のカヴァで、映画ではデビー・レイノルズとカールトン・カーペンターがうたっている。ちなみに訳詞はビクターのカヴァをほぼ一手に引き受けた井田誠一ですが、「アバダバ」をどうして「お猿」としたのだろうか。

つぎはいささか出力が弱いのですが、「君慕うワルツ」を。

https://youtu.be/9nbeXhAIKGw

これは江利チエミで小ヒットしました。
ジャズヴォーカル・ファンならごぞんじのパティ・ペイジの「チェンジング・パートナーズ」のカヴァ。
パティの大ヒット曲「テネシー・ワルツ」のあとにリリースされたやはりダンスパーティを舞台にしたワルツ。彼と踊りたいのにすぐに相手が変わってしまう。はやくまた彼と踊りたい、という恋心をうたったもので、こちらは寝とられることはありません。江利チエミの「テネシー・ワルツ」の陰にかくれてしまった感じですが、こちらも名曲。

柳澤真一。私生活の詳細はわかりませんが、世渡りは決して上手ではなかったような気がします。それでも訃報を聴いたのち、YOU-YUBEでつい最近まで彼がライブハウスでジャズをうたっていたことを知り、なぜかうれしかった。ゆいつの動画です。晩年の柳澤真一ですが、もちろん若き日の彼の面影充分。残念ながら曲名はわかりませんが。

https://youtu.be/dlK95wqAkn8

柳澤真一さん、わたしはあなたのことを覚えていましたよ。そうだなぁ、もし可能ならば灰田勝彦の「森の小径」なんかを聴いてみたかった。
おまけは彼が主演したという映画の主題歌を。
うたっているのは彼ではありませんが、昭和30年代初頭、まごうことなきあの頃の歌です。

https://youtu.be/xZJ7rWaHQsE




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