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指先に 夕陽が沈む [covers]

キムヨンジャ.jpg

https://youtu.be/tAZWCeJpAIw

最近、あまり見かけませんが韓国の歌姫キム・ヨンジャはどうしているのでしょうか。
もっともわたしが最近、歌のテレビ番組をほとんど見ないので知らないだけなのかも。いまでも彼女は日本で活動しているのでしょうか。それともこのご時世ですから故国へ戻っているのでしょうか。

キム・ヨンジャは1959年全羅南道光州市生まれ、15歳で歌手デビュー。その3年後には日本デビューというから、日本を歌手活動の舞台としてあと数年で半世紀になろうとしています。出稼ぎといったら失礼ですが、腕(のど)と努力がなければ、こんなに長く続けることはできません。
プロゴルファーのように国際ルールがあって、言葉や文化がさほど関係ない「舞台」ならばともかく、オリジナル、カヴァーをふくめすべて日本語で、それも耳の“肥えた”客に聴いてもらい満足してもらうのは、並大抵の努力とセンスがなければ不可能。

とりわけ彼女が日本の流行歌ファンから支持されるのは歌謡曲のカヴァーじゃないでしょうか。もちろん、いまの日本人歌手でも難しい昔のヒット曲をうたうのですから、正直「当たり外れ」はあります。でもハマったときの迫力はそれこそスゴイ。
だからそのカヴァーたるやおびただしい。日本の上手な歌手なら何度か歌えば会得する「歌詞」や「主題」や「ストーリー」を「肉体化」するのにどれだけの時間がかかるものか。

数あるカヴァーの中から、昭和の歌謡曲を聴いてみたいと思います。
それも古い歌謡曲。戦後の復興と発展のなかで庶民に受け入れられた昭和20年代、30年代、40年代の歌謡曲をそれぞれ1曲ずつ3曲を。


まずは昭和29年(1954)のヒット曲、「黒百合の歌」。

https://youtu.be/2iHJeQ5qFOc

29年といえば敗戦から9年、日本がようやくひと息つけそうになってきた頃。それでも横丁には防空壕跡があったり、街角には傷痍軍人が弾くアコーディオンが悲しげに響いていたりと、戦争の残滓はいまだ残っておりました。
そんななかで頻繁にラジオから流れていたのが「黒百合の歌」。

同年に公開された映画「続・君の名は」の主題歌で、前年の前作「君の名は」と同じ織井茂子がうたった。作詞作曲も同じコンビで、詞は原作者でもある劇作家の菊田一夫。曲は戦前・戦中・戦後と一貫して流行歌の売れっ子だった古関裕而。
もともとはその2年前の連続ラジオドラマ「君の名は」からはじまった遭ったり離れたりと運命に翻弄される男女・春樹と真知子のドラマで、社会現象といえる大ブームとなりました。
SNSはもちろん、ケータイもない、テレビもないそんな時代で、ラジオと新聞と書籍と雑誌とレコードで日本のすみずみまで、その存在を知らしめるということは、今の尺度では推し量れないほど爆発的なエネルギーが存在していたはず。

第一作の「君の名は」もヒットしましたが、この「黒百合の歌」のほうがヒットしたようで、いまだうたいつがれているのはこちらのほう。
作詞の菊田一夫はアイヌの娘・ユミ(北原三枝)の激しい情念そのままにプロ作詞家には書けない独特の世界を描いています。
とりわけ、「あたしが死んだら」とか「やがては私も死ぬんだよ」という歌詞のインパクトが大きかった。それまでの歌謡曲にもあったリリシズムとしての「死」ではなく、どこか心中をにおわせていたり、死ぬことへの「居直り」が感じられるコワイ女がうたわれておりました。
別の言い方をすればある種の狂気、それをキム・ヨンジャはみごとに演じております。


時は流れて昭和35年。
この頃になると、日本が完全に経済成長のレールに乗ったといってもいい時代。
その一方我が先輩方のなかには、本気で革命が起きると信じていた政治の季節でもありました。まぁ、いまから考えれば、そうした思いや行動ができたのも、一般庶民にも経済的な基盤ができあがってきたから、といえないこともありません。少なくとも全般的には食うや食わずという生活からはなんとか抜け出せていたのですから。

そんな時代、夜の街に低く暗く流れていたのが松尾和子がうたう「再会」。

https://youtu.be/oDo8imSSY_A

その少し前の昭和32年には29年の「お富さん」以来の大ヒットとなった「有楽町で逢いましょう」が日本を席巻し(大袈裟かな)、翌33年には「西銀座駅前」が、そして34年には「東京ナイトクラブ」と、大人の恋愛ソングが巷に流れます(JPOPと比べるとなんとも流行歌の変遷に唖然とさせられます)。

そして35年には「好き好き好き」や「東京カチート」が。
これらすべてフランク永井の歌。そしてこれらすべてソングライターは曲が吉田正、詞は佐伯孝夫のコンビ。
あきらかにそれまでの流行歌とは異なった雰囲気の歌で、当時「都会調歌謡曲」なんて呼ばれていました。それが後にトレンドとなるムード歌謡のさきがけでもありました。

「再会」も吉田・佐伯コンビの作で、フランク永井同様、ジャズシンガー出身の松尾和子が情念たっぷりにうたっております。牢獄に囚われの身となった男を指折り数えて待つという健気な女性のストーリー。ひと昔前なら戦地に赴いた夫や恋人を待ったり、少し前なら都(東京)へひとはた上げに出て行った男を待つというのが定番でしたが、「再会」のヒロインは監獄に囚われの身の男を待つというのが新鮮でした。

前述したように35年は安保闘争の時代。
先輩たちは「戦いすんで日が暮れた」その虚脱感を西田佐知子の「アカシヤの雨がやむとき」で癒し、それを「われらが歌」とした、という伝説が残っております。しかし後輩は「再会」こそ安保を象徴する歌ではないか、と思うのです。
感情を抑え気味のオリジナルに比べるとキム・ヨンジャはやや感情過多ですが、そういう「待つ女」でもそれはそれでストーリーが浮かんできます。


ふたたび時は流れて、昭和は40年代。
かつてはダミ声といわれ、歌手には向かないといわれていたハスキーヴォイスの時代がやってきました。

https://youtu.be/q80UalD2Km0

昭和43年、矢吹健がうたったのが「あなたのブルース」。
7,8年前に亡くなってしまいましたが、彼のデビュー曲です。
その2年あまり前に「女のためいき」でデビューして大ブレイクしたのが元祖ハスキーヴォイスで「女歌」をうたったのが森進一。
ある歌手がブレイクすると、「柳の下の泥鰌」を探せとばかり、そのエピゴーネンが何人も出てくるのは今も昔も。

矢吹健もハスキーヴォイスで、森進一の亜流のひとりかと思われましたが、師匠・藤本卓也作詞作曲のこの「女歌」は大ヒット。多くの歌手にうたいつがれる名曲となっております。柳の下に泥鰌は2、3匹いるようです。
「あなた」を連呼する女の情念もスゴイですが、恋人に去られた女の「取り残され感」が半端ない。

この歌もある意味夜の世界を思わせる「ムード歌謡」でこのあたりから本格的なムード歌謡が流行歌のトレンドとなる時代がはじまっていました。
「あなたのブルース」の少し前の41年には黒沢清とロス・プリモスが「ラブユー東京」でデビュー、「あなたのブルース」の翌44年には内山田洋とクールファイブが「長崎は今日も雨だった」でデビューしております。

昔なにかの本でこの歌が実は「同性愛」をうたったものだ、という記事を読んだことがありました。真偽のほどはわかりませんが、そう思って聴けばそう聞こえないことはありません。女同士であれ、男同士であれ。
キム・ヨンジャのカヴァはその演出も含めて圧巻です。やっぱりこの歌は男がうたう「女歌」ではなく、女のシンガーで聴きたいと思わせられました。それほど彼女の歌は素晴らしかった。



北京五輪はいくつか問題を残しながらも終了しました。
平和の祭典が終った途端に戦争が始まろうとしています。
「平和が終ったのだから戦争だ」ってまるでマンガみたいな話です。ロシアとしてはオリンピックが終わったら軍事行動を起こそうな、と決まってたのでしょうし、欧米側だってそのことは承知していたのでしょうし。いや中国だってこのことを知ってたはず。
だとすれば、世界情勢からみればオリンピックなんて茶番なんでしょうね。IOCもオリンピックの期間中だけは避けてくださいねというスタンスなんでしょうか。

しかし昨日平和を唱和しながら、夜があけたら砲弾が飛び交う(かもしれない)というのはあまりにも露骨で、ばかばかしい行動。これが大人のやることか、という気さえします。

まだ全面戦争が始まったわけではないので、多くのひとたちの心配が杞憂におわることを願うだけです。
スポーツにはもちろん音楽にも戦争を回避する力はないけれど、それでもやりたくなるし、見たくなるし、聴きたくなるし、うたいたくなる。
オマケはロシアの変心を願ってこの歌を。

https://youtu.be/4o1KAKEGxbk


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銀、銀、銀、金 [deporte]

高木美帆02.jpg

スゴイのひと言。

高木美帆ぶっちぎりの金メダル。
コワイのは最後に滑るボウだけだと思っていましたが、途中のラップで高木金を確信できました。

それにしても5種目出場、最後の最後での金。ドラマチックじゃありませんか。まさに絵に描いたような高木美保の北京オリンピックでした。
1500mの銀も、500mの銀も、パシュートの銀もすべて1000mで頂点を極めるための伏線だったということでしょうか。

とにかく大谷翔平以来の感激です。今回のオリンピックのハイライトといっていい。

スーパーウーマンをみられただけでもこの北京五輪をテレビ観戦した甲斐がありました。笑顔で表彰台の中央に立った姿はもはや女王の風格がありました。

ベストのレースができての金メダルでうれしさ倍増というインタビューも満点。
お疲れさまでした。

彼女の金メダルにふさわしい曲はと考えましたが気の利いた曲が思い浮かびません。
彼女の強さとは裏腹ですが、アイルランドのメロディーを。

https://youtu.be/-Pznujlzyls

やっぱり偉業金メダルにふさわしいミュージックを追加しておきます。
ちょっとイージーですが……。

https://youtu.be/NaabYMIpYgA

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五度目の正直 [deporte]

高木美帆.jpg

女子パシュート残念。

最後のコーナーで高木菜那がいっぱいいっぱいになってよろめいたときには、ほんとにハッとしました。そして転倒。そのままフェンスまで滑っていきました。

残念な銀メダルでしたが、カナダとの決勝はいい勝負でした。そしてそこいらの映画など吹っ飛んでしまうようなドラマチックな試合でした。今回だけはそのヒロインは髙木菜那選手でしょう。
転倒から立ち上がり、ゴールインして妹に手を合わせる彼女の心中を考えると目頭が熱くなりました。解説者は「謝らなくていい」といいますが、謝らずにはいられないことも真実ですから、謝らせてあげましょうよ。チームゲームの辛いところですね。
でも全力を尽くしての転倒ですから、拍手以外はありません。

思考の整理がつかないなか、インタビューにも素直に応えておりました。インタビュアーは新米アナウンサーだったのでしょうか、このあとマススタートが残っている奈那選手に「意気込み」を訊ねておりました。彼女は「これから考えます」と。そりゃそうだよね。マイクが「失笑」を拾っていましたが、あれは妹さんと佐藤綾乃選手の声では?
美帆さんの受け答えはいつみても冷静で的を射ています。インテリジェンスを感じます。「まだ整理がつかない」と。これまたそりゃそうだよね。彼女にはスケート以外でもいい指導者になる雰囲気があります。


もちろん奈那さんにはマススタートで頑張ってもらいたいし、前回金メダルの実績がありますので期待はしておりますが、申しわけありませんが最大の関心事は妹の美帆さんの最後のレース1000m。
パシュートで目算が外れたので、ぜひ金メダルと獲ってもらいたいし、偉そうなこというようですが獲らせてあげたい。
でも2位になって、1500mで銀、500mで銀、パシュートで銀、1000mでも銀とシルバーメダルコレクターになるのも、それはそれでスゴイ。いや、やっぱり金を。

失意のなかにあっても、次なる試合に臨まなくてはならない奈那さんと、今度こそトップに登りつめたいスケートクィーンの美帆さんの高木姉妹を励ます歌は1979年、2週間にわたってビルボード1位、年間でも5位にランクされたこの歌しかない。

https://youtu.be/RUGYe5TzPBg



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炬燵のなかでハワイアン [HAWAIIAN]

南かおる02.jpg

今朝、言われていたような雪は降りませんでしたが、寒い。
布団から出られない。仕事がないのにかこつけて布団の中で羽鳥さんのニュースショーを聞いておりました。

雪が降ったら毎年恒例?の「ロージズ・イン・ザ・スノウ」でも聴こうかなとも思いましたが。部屋を暖めて、久しく聴いていないハワイアンでも聴きましょうか。アロハを着て(ウソです)、ウクレレ片手に(こちらは天井ちかくでホコリまみれになっております)なんて。
ハワイアンといっても本場のではなく、日本のシンガーがうたったハワイアンを。昭和30年代から40年代にかけて、ブームというほどではありませんでしたが、巷にとりわけ夏のビルの屋上のビアガーデンなどではビヨーンとスチールギターが泣いていたものでした。
そんなハワイアンを当時印象的だった3人の女性で。

ハワイアンといわれてまず思い浮かぶ歌が「アロハ・オエ」と「カイマナ・ヒラ」。
とりわけ後者は昭和30年代夏になると必ずラジオから溢れていたものです。
カイマナ・ヒラとはダイヤモンドの丘という意味でハワイのランドマーク、ダヤモンドヘッドのことで、民謡ではなく20世紀はじめにハワイでつくられた歌だそうです。

そしてその「カイマナ・ヒラ」といえばなんといってもエセル中田。彼女の代名詞と言ってもいいほど。ワイキキビーチ、カピオラニ公園とハワイの名所をとりあげながらダイヤモンドヘッドを讃えております。

https://youtu.be/P6w7ffiiW-k

エセル中田は学習院大出のお嬢さん。いかにもハワイの日系二世ふうの名前ですが、純然たるヤマトナデシコ。昭和33年に「カイマナ・ヒラ」でデビュー。30年代のハワイアンがよく聴かれた時代、アルバムも何枚も出しましたが、結婚後はフェイドアウトしていきました。
昭和9年生まれといいますから、90歳になろうかというご高齢。お元気にされているのでしょうか。

南かおるも30年代に活躍した女性シンガーでした。
彼女はハワイ生まれ。といっても父親の仕事の関係のようで、日系アメリカ人ではありません。
当時いくつかあったハワイアンのメジャーバンド「ポス宮崎とコニー・アイランダース」の専属シンガーとなり、34年に「南国の夜」でレコードデビュー。

https://youtu.be/YHoWR3jv9Pk

「南国の夜」は競作で彼女はキングレコード所属だったので、作詞は音羽たかし。
なお、ハワイアンの名曲「南国の夜」はハワイ生まれの歌ではなく、ラテンミュージック。
昭和41年にはバーブ佐竹とのデュエット「銀座は恋の十字路」をレコーディングし歌謡曲にも挑戦。残念ながら数年前に病気で亡くなっております。動画は「小さな竹の橋」もついております。これもハワイアンの名曲。ジャズヴォーカルのアンリ菅野がうたっております。バックはマヒナスターズでこれもめずらしい。・


最後はハワイアンというか、歌謡曲の世界でもヒットを飛ばしてその名をしらしめた日野てる子。

https://youtu.be/8tWUmT8zawM

パリーシェル(真珠貝の歌)はハワイの古謡に英語詞をつけたハワイアンポップスで、60年代ハワイ生まれのドン・ホーでヒットした。また当時のイージーリスニングブームのなかビリー・ボーン楽団のインストがよく流れていました。
太陽の日差しに輝く浜辺の真珠貝。それを見ているとあなたのことを愛していると確信できる。というラヴソング。

日野てる子は愛媛県松山市生まれで、昭和39年にハワイアンシンガーとして「カイマナ・ヒラ/南国の夜」でデビュー。翌40年にハワイアン風歌謡曲の「夏の日の想い出」が大ヒット。ロングヘアーに花の髪飾り、ムームーといったハワイアンファッションで歌謡界を席巻しました。
彼女も平成20年病気で亡くなっております。63歳は若すぎます。


冬季オリンピックが佳境です。
いま、テレビではジャンプ男子団体を映しております。

昨日の夜はスピードスケートの女子500mに釘付け。
高木美帆選手は比較的早い組のスタートでした。激走に見入り最後の直線ではまたこちらも腕を振ってしまいました。
テレビ解説者が37秒12という記録がメダル圏内というものですから、それからは彼女の記録が破られないよう願いながら、最終の15組まですべて見るはめに。
14組のアメリカのエリン選手がついに37秒04でトップに。残念。残すはひと組。これで高木選手の記録を上回らなければ銀メダル。
そして、最終の2選手は記録に届かず高木選手銀決定。みごとのひと言。
あとで、彼女がふたりの記録が出る瞬間の映像が流れ、飛びあがって喜んでおりました。あの1500mの銀のときとは表情が真反対。同じ銀なのにね。とにかくオールラウンドの彼女の偉大さを改めて知らされました。

小平選手は本調子ではなかったようです。レース後のインタビューではスタートに失敗して頭が真っ白になったと語っておりました。あんな実績のあるベテランでもうまくいかないこともあるのが一発勝負のコワサです。

高木選手は明日のパシュート、そして最後の1000mが残っております。両方とも金の可能性があり、北京冬季五輪では最大の楽しみとなっております。

しかし、いろいろな問題の起きるオリンピックです。
いちばん関心のあるのはやはり、日本の成績に影響が出た高梨沙羅選手の失格問題。なんだか正しい情報が聞こえてこないので不信感がつのりますが、連盟が抗議しないところをみますとルール違反はあったのでしょう。
高梨選手も謝罪しましたし、それはそれで一件落着のようにも思いますが、なんとなく連盟が高梨選手にかん口令をしいているような感じで、彼女のホンネが聞こえてきません。連盟はすべてを公にされると困ることでもあるのでしょうか。
また、一部報道されているようなスーツのルール違反が常態化していたというのも気になります。高梨選手は今回が初めてだったのでしょうか。もしかすると「赤信号みんなで渡れば」的に多くの選手がやっていて、連盟もそれを黙認していた、なんてことが文春あたりに暴露されないようにお願いしたいもんです。

スピードスケートのスーツは規定があるのかな。ジャンプと反対でダブダブは不利だとは思いますけど。

オマケはせっかくですので先にふれた日野てる子のオリジナルソング「夏の日の想い出」。
作詞・作曲は寡作ながら「女の意地」、「赤坂の夜は更けて」、「ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー」などのヒット曲がある鈴木道明。

https://youtu.be/Vx1dnqtoLh4

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なんで住めよかあの人が [歌謡曲]

赤と黒のブルース.jpg


石原慎太郎には「スパルタ教育」や「NOと言える日本」など小説以外のベストセラーもあります。
ほかにも回想録のような本も何冊かあり、そんななかの「わが人生の時の人々」という本から。これは2002年に書かれた本で、彼が作家になる前後から関わってきた作家仲間から政治家、プロスポーツ選手、芸能人たちの印象をエピソードを交えてつづったものです。そのなかに音楽、とりわけ流行歌や歌手にまつわる話がありますので、その何曲かを聴いてみたいと思います。

かなりボリュームのある本ですが、そのなかの一章を彼の「ナイトライフ」について書いております。昭和三十年代のナイトライフ、主にナイトクラブでの経験ですが、とても興味があります。
慎太郎氏をナイトクラブへ導いたのはなんと弟の裕次郎。それも兄が大学生、弟が高校生というのですから驚き。テリトリーは居住の横浜か東京だったとか。
銀座の銀巴里(シャンソン喫茶として定着する前はナイトクラブだったのでしょうか)で、「見てくれに比べてなんと味のある歌い手だろう」と目にとまったのが、のちに「有楽町で逢いましょう」をヒットさせるフランク永井。
また、新宿のキャロットでクラリネット&ヴォーカルのレイモンド・コンデとデュエットしていた美人で歌唱力ばつくんのシンガーが、のちの松尾和子だったと。

はたして二人が何の歌をうたっていたのかは書いてありませんが、松尾和子はクラブシンガー時代十八番だったのがシャンソンの「メランコリー」なので、のちにふれる慎太郎の好きなこの曲も聴いていたかも。

曲名がわかりませんので勝手に選んでみました。フランク永井と松尾和子といえば。

https://youtu.be/6frvw2GJ-3g

「夏の終り」を一緒にレコーディングしたペギー葉山とはその以前からふたりで食事をするような仲だったとか。といってもラブアフェアーではなく、ペギーのボーイフレンドだったヴィブラホン奏者で作曲家の平岡精二の紹介で知り合ったと。
平岡精二とは慎太郎が政治家になってからも付き合いが続き、彼のことを天下国家を論じる大タカ派だった、と書いております。
平岡・ペギーの歌では「あいつ」「爪」「学生時代」が挙げられていますが、知りあいの大手出版社社長が涙を浮かべて愛唱していたというジャジーなこの曲を2曲目に。

https://youtu.be/eooHw71g2S0


3曲目は越路吹雪の「メランコリー」。

https://youtu.be/PDuWj1SSmoA

代表曲に「パリのお嬢さん」がある美人シャンソンシンガー、ジャクリーヌ・フランソワの50年代の楽曲。本場フランスではさほどヒットしていませんが、日本ではよくカヴァーされています。その代表が越路吹雪。ほかでは松尾和子や大木康子など。
よほど越路吹雪とこの歌が好きだったようで、歌詞の一節をまるまる引用しています。慎太郎が山田五十鈴や高峰三枝子のファンだったことはしっていましたが、越路吹雪のことはこの本を読んで初めて知りました。意外でした。

ほかに越路吹雪については別章にエピソードがあって、それがおもしろかった。
それは越路吹雪が知りあいを招待してプライベートコンサートを開いたときのこと。
彼女は石原慎太郎を含め招待客に対して、盛り上げるためにできるならタキシードを着て来てほしいと頼んだとか。
慎太郎氏は用事でどうしても着替えに帰る時間がなく、気になってはいたがタークスーツでかけつけたところ、誰もタキシードを着ていない。そこで先に来ていた招待客に、誰も着てこないと越路さんが気をわるくするのではないか、と訊いたところ「なぁにその内、誰か馬鹿が着て来るよ」との返事。その途端、「今晩わ」と入ってきたのがタキシードを着た三島由紀夫だった、そうである。
先輩の三島由紀夫についてはその出会いから死までかなりのスペースをさいて書いていますが、どこか彼をドン・キホーテ視しているような印象がある。


最後はそうした彼の「わが青春のナイトライフ」を象徴する歌としてあげている鶴田浩二の「赤と黒のブルース」。動画がよろしくないので音だけでも。

https://youtu.be/bZvU_GP80DU

鶴田浩二との接点は書かれていないようですが、この歌について、
「なんとなくデカダンな鶴田浩二の甘くニヒルな声も合っていたが…(中略)…なんともあの頃の夜の雰囲気を伝えてくれていて、今でもこの歌を聞いたり歌ったりするとひしとした実感がある」
と書いています。
曲はビクターの看板だった吉田正。詞は「好きだった」や「街のサンドイッチマン」(どちらも鶴田浩二)がある宮川哲夫。この人も佐伯孝夫に隠れていたがビクターの二番手で、ヒット曲が多く、ほかにも「東京ドドンパ娘」「湖愁」「公園の手品師」「美し十代」「霧氷」などのヒット曲がある。

それにしてもこの「赤と黒のブルース」はどことなく裏社会の匂いがして「夜霧のブルース」とも通ずる。また、西村賢太の「傷だらけの人生」ともどもの鶴田浩二で、石原慎太郎と西村賢太、このミスマッチの共通点は何なのか。
とはいえ名曲です。だからカヴァーが多いんだ。名人がこぞって。でもオリジナルには勝てない。

今回はすべて動画なし。古い歌(とくに日本のは)はだんだん動画が消えていくようです。仕方ないことですが。


オマケはインストのマンボで。
慎太郎は当時流行したマンボが好きで、楽曲がかかると同伴の女性をひっぱってフロアでよく踊ったとか。意外。そのかわりロックやツイストについてはケチョンケチョン。
そんな時代、王様・ペレス・プラドがマンボファンの皇室・清宮のご成婚祝にプレゼントしたという「プリンセス・スガ」を。

https://youtu.be/Nez8KFCXlyE

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思い込んだら命がけ [歌謡曲]

青年の樹02.jpg

石原慎太郎が亡くなったとの報道からさほど間もなく西村賢太の死が報じられた。
90歳に届こうかという石原さんに比べ、まだ50代半ばという西村さんは死ぬには早すぎる。死因は報じられていませんが、急死だそう。
命の不思議です。長生きする人、早世する人。神の選別でしょうか。
西村賢太の芥川賞受賞作「苦役列車」の文庫版では石原慎太郎が巻末の解説を書いている。


どちらの作家も多くはありませんが、小説もエッセイも読んだことがあります。石原さんは若い頃(といってもリアルタイムではありませんが)、西村さんは高齢になってから。石原さんはその「てらい」が鼻についたし、西村さんの「純私小説」もナイーブな存在は認めるけれど(偉そうですね)、「露出癖」も度々だと胃薬が欲しくなってしまう。車谷長吉氏よりは文士だったような気がしますが。

「つき合い」が長かった分、今回は石原さんを。

石原慎太郎はやっぱり作家だと思います。政治家といわれてもいまひとつピンとこない。

小説家のなかには流行歌の作詞をする人がいます。流行歌は昔気質の純文学者にとって、下世話で唾棄するものかもしれません。「詩は書いても詞は書かない」なんて。なかには歌謡詞も漢詩や俳句、川柳さらには短歌のようにおもしろいじゃないかと、積極的にかかわる作家もいます。

その代表的な作家が五木寛之でしょうか。ある意味昭和「演歌」の誕生にかかわった人ですから。ヒットしたものをあげると「青年は荒野をめざす」(フォーク・クルセダーズ)、愛の水中花(松坂慶子)、織江の唄(山崎ハコ)、女人高野(田川寿美)、海を見ていたジョニー(渡哲也 これはヒットしてないか)など。

反対に作詞家から小説家になるひともいます。代表的な作家がなかにし礼と山口洋子。阿久悠もいくつか小説を書いております。

そして石原慎太郎もまた流行歌の作詞をしています。そこそこ流行歌の詞を書いているようで、最後は6年前の五木ひろしの「思い出の川」だそうです。

そんな慎太郎の歌をいくつか。

まずはその嚆矢となた「狂った果実」。昭和31年の日活映画主題歌。

https://youtu.be/IzoM1znmy0w

慎太郎原作の映画化で、脚本も書いた。監督はカルト的ファンがいる中平康。弟裕次郎の初主演作でもある。
タイトルともども20代の作家が書いたみずみずしい詞です。
作曲は多くの日本映画を手がけた佐藤勝。裕次郎では「俺は待ってるぜ」ほか「錆びたナイフ」、「風速四十米」も。
「狂った果実」はジャズのスタンダード[Where or When]を思わせるようなジャジーな感じがします。


次は「青年の樹」。これも、本人の原作の映画主題歌。

https://youtu.be/nNDrwaEpIRQ

35年の日活作品で、主演はもちろん石原裕次郎。ヒロインはかの芦川いずみ嬢。笹森礼子さんも出ております。
主題歌も裕次郎(テイチク)がうたうのかと思いきやなんとビクターの三浦洸一。曲はかの山本直純。山本直純の流行歌といえば「男はつらいよ」が知られていますが、映画主題歌としては「風は海から吹いてくる」ほか赤木圭一郎がうたう楽曲が少なからずあります。
知る人ぞしるCMソング「ミュンヘン、サッポロ、ミルウォオーキー」は曲だけでなく作詞もしております。
三浦洸一はフランク永井と並ぶビクターの看板歌手で、「弁天小僧」「踊子」「東京の人」などのヒット曲があります。
♪空に伸びろ ♪国を興せ 
まさに教育と憂国を秘めた慎太郎節が聴けます。

ここまで書いてきたところで、手を止めテレビを凝視。
高木美帆の1500mがスタート。オランダのビュスト選手が五輪レコードを出し、それを追うかたち。もはや金か銀の二択だ。最後のラップではやや遅れ。最後の直線で大きく手を振って力を絞り出す。恥ずかしながらわたしも手を振ってしまった。
タイムはわずか及ばすの2位。
サングラスを外した彼女の無表情が無念をあらわしている。銀でこれほど落胆するアスリートをみるのもめずらしい。最も自信があった1500mだっただけに胸が痛い。それでもしばらくして笑顔が出た。
勝負ってこういう時、意外とベストではない種目で金を取ったりする。だから1000m、さらには500mで大爆発する可能性もある。
テレビでは「銀」で「おめでとう」といっていますが、彼女は納得しているはずがない。
「レースを振り返って」なんて質問は野暮。まだ3レースあるのですから、全部終わってからでいいんじゃないですか。


話を戻しまして、石原慎太郎の作詞、三曲目は「夏の終わり」。

https://youtu.be/aZleh12CI2Y

昨年亡くなった瀬戸内晴美の代表作(夏の終り)と同じタイトルですが関連はありません。ちなみに年齢も作家生活も瀬戸内さんのほうが先輩。読んでいませんがふたりの往復書簡?の本があるようです。
それよりもこの歌は石原慎太郎が作曲もしております。これがなかなかよいのです。
夏の終り、恋の終わりをアンニュイでシニカルな詞でつづっています。

わたしはペギー葉山とのデュエット(平成3年)で聴いたのですが。オリジナルはその20年あまり前で、うたったのは石原裕次郎。
ペギー葉山のいくつかあるベスト盤のひとつだったのですが、それが行方不明。残念ながらYOU-TUBEにもありませんでした。
あれこそ、慎太郎の魅惑のヴォイスが聴ける貴重な音源なのですが、どなたかUPしてくれないものでしょうか。
まぁ、オリジナルの裕次郎盤もタンゴでかなかよいのですが、やっぱり慎太郎&ペギーのデュエットを聴きたかった。UPされていましたので追加しておきます。

https://youtu.be/7B6K4TMargY?si=ML3nWNseUnCDAwRZ


最後は流行歌ではなく、童謡?唱歌?こどもの歌? ではなく「みんなの歌」だそうです。「さあ太陽を呼んでこい」。

https://youtu.be/Y8iPeNf9KCY

これも作曲・山本直純とのコンビ。
昭和38年にNHKの「みんなの歌」としてつくられました。

♪よあけだ よるがあけてゆく

とはじまる夜明けの歌ですが、岸洋子のうたう「夜明けのうた」(いずみたく・岩谷時子)とはだいぶ趣が異なる。ゆっくりゆったりした感じではなく、山本直純の曲ともどもどこかあわだたしい。「いつまでも寝ているんじゃない」とせかされているような感さえある。でもいい曲だし、いい詞です。昭和20年代、30年代の「合唱の季節」にうたわれそうな労働歌にもさも似たり。
でもいまのこどもたちは、こういう歌をうたうんだろうか。

おまけは、やはりふたりの作家の死についてひとりだけとりあげるのは「不公平」なので西村賢太の歌を。
彼が子どもの頃から現在にいたるまでどんな歌をうたってきたのか、聴いてきたのか興味があります。ただそれほど作品を読んでいるわけではないのでなにを取り上げればよいのか難しいのですが、唯一知っているのは以前読んだエッセイに書かれていた歌。

ある雑誌から「好きな曲は」というアンケートを受けたときに答えた(書いた)のが鶴田浩二の「傷だらけの人生」。

https://youtu.be/KDXprjgJPdQ

短い解説で、この曲の突き抜けたアナクロニズムが、師と仰ぐ藤澤清造や敬愛する川崎長太郎の小説世界と相通ずるものがある、というようなことが書いてあります。
また、私は読んだことがありませんが、彼の私小説のなかに稲垣潤一の歌がときどき出てくるとか。それは以前同棲していた彼女がよく聴いていたからだとか。

純文学の作家だって、通俗的な流行歌のひとつやふたつ好きで聴いているのではないでしょうか。なかにはカラオケで熱唱したり。
酔うと♪思い込んだら命がけ と灰田勝彦の「燦めく星座」(作詞・佐伯孝夫)の一節を口ずさんだのは太宰治。

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夜霧のブルース [歌謡曲]

夜霧のブルース.jpg

石原慎太郎が亡くなった。
テレビでは在りし日の彼の映像を流しています。

https://youtu.be/Ha9nQDSPTnM

そんななかに、弟裕次郎とデュエットする40代くらいの彼の動画があった。
以前YO-TUBEで見たことのあるものでした。石原慎太郎の歌声が見聴きできる貴重な映像です。

歌は昭和22年にヒットしたディック・ミネの「夜霧のブルース」。

https://youtu.be/4vzVzOS_-oE

同年封切られた映画「地獄の顔」の主題歌のひとつで、映画は日本のウィリアム・ホールデン(と個人的にいってます)こと水島道太郎の主演で、ディック・ミネもちょい役で出ていた。水島道太郎は歌も上手で、ミネ亡き後、よく「夜霧のブルース」などミネの歌を披露しておりました。

映画もヒットした(多分)でしょうが、それ以上に「夜霧のブルース」が巷のすみずみにい流れていったようです(未生ですので見たわけではありませんが)。
ワイルドサイドを生きるいかにも男くさく、さらにはどこかあニヒリズムをまとったような男に、終戦間のない日本の若者の一部が共感したようです。
素直でなくて反抗的で、いわば「不良」(自称・他称問わず)と呼ばれる若者たちの琴線を鷲づかみにしたような流行歌だったようです。
♪男同士の合々傘で なんていうと 昭和残侠伝の高倉健と池部良をイメージしてしまいます。

ともにいまでいう中学生だった石原兄弟は「大人なんか信用できない」「真面目なんかになれない」といういわば「不良」予備軍で、このカタギではない歌、そしてそれをうたったこれまた硬派と軟派を兼ねそなえたような、およそ真面目とはいいがたい歌手、ディック・ミネに魅かれたのではないでしょうか。
いってみれば「俺たちの兄貴」(いささか歳は離れていますが)のような存在だったのかも。少し前でいうと一部の「不良」が矢沢永吉を盲目的に支持したように。
そういえば、高倉健も同世代でやはり当時「夜霧のブルース」を口ずさんでいたというようなことが彼の著書に書かれていました。

誰かの本にあるように「男はみんな不良だった」(なわけはないけど)の伝でいえば、あの頃「男はみんな夜霧のブルースを口ずさんだのよ」ということになる。

ディック・ミネはたしかにどこか不良の匂いがただよう歌手で、実際戦前、東京の浅草で「不良の神様」と呼ばれ、戦後ボクシングジムを開いてチャンピオンも育てた益戸克己と親交があったとか。
益戸会長が亡くなったとき、ボクシングのメッカ後楽園ホールで追悼式がおこなわれたのだが、そのときディック・ミネがリング上から「夜霧のブルース」をうたった。

「夜霧のブルース」の作曲は大久保徳二郎。戦前からのテイチク専属の作曲家で、ディック・ミネの「或る雨の午後」や「上海ブルース」を書いています。また映画音楽も多く手掛けた。
作詞はやはりテイチク専属(昭和40年代ころまでは専属制度が当たり前でした)の島田磬也(きんや)。
佐伯孝夫やサトウハチローと同じ西條八十門下で、上記のディック・ミネの歌のほか上原敏の「裏町人生」や赤坂小梅の「黒田節」、霧島昇の「白虎隊」などを書いています。

また、映画「地獄の顔」は「夜霧のブルース」のほかにも三つの主題歌というか挿入歌があり、渡辺はま子の「雨のオランダ坂」(曲・古関裕而、詞・菊田一夫)も大ヒットしましたが、もう一曲、大久保・島田コンビでディック・ミネが藤原千多歌とデュエットした「長崎エレジー」もヒット。

おまけはディック・ミネの戦前のヒット曲を。

https://youtu.be/iN1cdFSffM8

冬季五輪がはじまっております。
チラチラ、ジロジロ見ております。
昨日の高木美帆と高梨沙羅は残念でした。高梨はどうも運が巡ってこないようですね。これで引退となってしまうのでしょうか。高木はなんとか銅メダルをと思っていたので6位は残念。個人では得意の1500m以外でも500と1000もありますから、最低ひとつは金を撮ってくれるのではないでしょうか。
いま、男子のジャンプ、ノーマルヒルで小林 陵侑 が断然の金メダル。スゴイのひと言。


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