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ユア・マイ・サンシャインをうたって [country]

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きょうは、昨晩からの歯痛(いつも土日に襲われる)のため、鎮痛剤をのんで部屋でおとなしくしております。
テレビでスポーツ観戦をしながら、このブログを書いております。
もはや晩秋でしょうが、さすがスポーツの秋。思わず見入ってしまう熱戦の数々でした。

女子ゴルフはプレイオフでみごとなバーディで勝った山下美夢有。小柄な選手ですが年間賞金王だそうで、比類なきパッティングセンスはみていて唸ります。ゴルフがパワー戦でないことをみごとに証明しています。優勝インタビューで声をふるわせて恩師でもある父親に感謝していたのが印象的でした。

その前にみた実業団女子駅伝も面白かった。結果は資生堂が久々に優勝したのですが、3区がスゴかった。新谷仁美(積水化学)、 一山麻緒(資生堂)、廣中瑠梨佳(JP日本郵政グループ)の激戦。トップでタスキをつないだのは廣中だったが、区間賞はわずかの差で新谷でした。最近にない日本の長距離トップランナーたちの闘いは見ごたえがありました。

ジャパンカップもスゴかった。結果は日本馬のワンツウスリー。むかしからそうだが海を
渡ってくる海外馬は不利。私的ですが、わたしの本命馬は5着。いつもどおりのタテ目で馬券吹雪が舞いました。

相撲は千秋楽。一歩リードの高安が阿炎にかき回されて土俵下に突き落とされた。そんなにわるい相撲ではなかったけれど、かたくなっていたのかな。ほんとうにツキがないというか。肝心のところでとりこぼす。でも決定戦で再戦で勝てそうな気が。結びの貴景勝も気迫で若隆景に勝って(ガッツボーズしていた)巴戦に。高安に勝ってほしいけど、阿炎かな。

前回の続きでスタットラー・ブラザーズをもう一度。

1964年にデビューし2002年、解散・引退するまで40年弱の音楽活動だったスタットラー・ブラザーズ。
カントリーファンだけでなくポップスファンにも知られたヒット曲があるわけでもなく、日本でもカントリーファン以外はまず知られていないコーラスグループですが、グラミー賞もいくつか獲っていますし、アメリカのカントリーシーン、とりわけゴスペルやセイクレッドソングではそれなりに貢献したグループでもあります。
ある作家は彼らのオリジナルソングの詞がとても「詩的」だと指摘しています。ほぼ作詞作曲はハロルドとドンのリード兄弟がおこなっています。

カントリーソングの変わらぬテーマのひとつに「ノスタルジィ」があります。
緑豊かな谷間。そこに建つ古びたわが家。ランプの下で過ごした一家の団欒。丘の教会とその鐘の音。祭りの夜のダンスパーティ。そして仕事や進学のための故郷との別れ。好きだった女の子(男の子)との切ない別離。
などなど。カントリーソングには田園風景を背景に(若い)男女の生活の営みがうたわれているのです。それが1940年代から50年代にかけてのカントリー。いまでいうカントリークラシック。

スタットラー・ブラザーズに対する評価のひとつとして、そうしたかつての自然に囲まれた故郷のノスタルジーを「郊外」のノスタルジーに変えたことをあげる評論家がいます。
20世紀初頭にうたわれたアメリカの田舎も、第二次世界大戦を経て大きく近代化されるなか、50年代、60年代になると郊外といえども豊かな生活の恩恵を受け、そうした日々が10年20年のちにはノスタルジックな日常としてアメリカ人たちに共有されていったのです。そういう甘酸っぱい郷愁を美しいハーモニーでうたってくれたのがスタットラー・ブラザーズでした。

そんなスタットラー・ブラザーズのノスタルジックなオリジナルソングをいくつか。

まずはいずれも全米カントリーチャートのトップ10に入った2曲。いずれもデビュー9年目の1972年にリリースされています。

まずは[do you remember these]こんなことあんなこと 。その年のカントリー・チャート2位にランクされたヒット曲。動画は彼らの映像ではなく、何が流行っていたのかが垣間見える動画で。

https://youtu.be/puGQsQux80k

彼ら(スタットラー・ブラザーズ)が子どもだった頃、ティーンネイジャだった頃(1950年代)に一世を風靡したり、流行った物や事柄の数々をうたっています。

アメリカでラジオ放送がはじまったのが1920年、それから約20年後の1941年にテレビ放送(白黒)が始まっている。したがって50年代になるとテレビは全米でかなり普及し、オールアメリカンで娯楽やファッション、物事などが共有されるようになります。日本は50年代半ば頃からテレビが出はじめ、急激に普及したのが60年代前後なので、アメリカから約10年遅れてテレビ時代が始まったことに。

そして大人になり、同世代の集まりで、むかしの事柄や出来事が話題になり盛り上がる「ナツカシズム」は日本でもおなじことのようです。

で、50年代のアメリカではどんなものが流行ったのかというと、YOU-TUBEでみたような事柄で、多いのが髪型や服装、靴などのファッション、マンガや映画のキャラクター、清涼飲料、コレクショングッズなど。ツェッペリン号炎上墜落や大統領選の大誤報など社会的ビッグニュースも子どもたちの話題になったようです。
日本とはいささか異なるのがハイスクールでのダンスパーティ(一部ありましたが)や父親への「鍵ねだり」(クルマを持つことがステイタスだった)。

日本の60年代で言ったら、たとえば「巨人の星」「おそ松くん」「石原裕次郎」「アイビールック」「ミニスカート」「パンタロン」「VAN」「JUN」「バイタリス」「MG5」「コント55号」「リカちゃん人形」「人生ゲーム」なんてところでしょうか。


このdo you remember these のアイデアソングのヒットで柳の下の何とかを狙ったのか数カ月後にリリースしたのが[class of '57] 1957年の同窓会。

https://youtu.be/RLr_C8QqPWg

前回は20年あまり前に流行した物や事柄をただ連呼するというアイデアでしたが、今回は20年前のハイスクールの級友たちが、その後どういう仕事に就いたのか、あるいはどんなハプニングがあったのかという「あの人は今」を名前入りでうたいあげています。こちらも前作ほどではありませんでしたが、それでもカントリーチャートで6位にランクインしています。

内容は級友たちの卒業後の仕事が中心になっていて、「トミーは中古車販売、ナンシーは美容師をしている」で始まり、トラックドライバー、生命保険の営業、工場勤務、小学校の先生、教会のオルガン弾きなどと級友の現状を紹介していきます。なかにはレイのように借金まみれになっていたり、マービスのようにいまだフーテン生活で、級友の誰もが彼がどうなるのか気にしているというヤツがいたり。マービスはきっとハイスクール時代、クラスの人気者だったのでしょうね。

そしてありがちな同級生同士の結婚。リンダはソニーと結婚し、ブレンダは私と結婚したと。「私」とはこの歌の作者でありスタットラー・ブラザーズのバスを担当しているハロルド・リードのことで、実際に彼の奥さんの名はブレンダ。
ただ、同級生結婚で皆が幸せになっているわけではなく、ジョーの奥さんを寝取ったフレディはそのジョーに殺されたなどという悲劇もあったり。

いろいろな人生があるけれど57年のクラスには夢があった。誰もが自分の描いた世界が実現すると思っていた。でも現実は思い通りにはならない。18歳を過ぎると事態は複雑になっていくのだ。しかし、あの年のわれらがクラスに夢があふれていたことは間違いなかった。と結んでいます。


最後は[do you know you are my sunshine]ユア・マイ・サンシャインをうたって 。
1978年のシングル。ビルボード・カントリー・チャートで初めてのナンバーワンになった歌。

https://youtu.be/VxT3Mf1i8TY

「ユア・マイ・サンシャイン」は1940年、後にルイジアナ州知事になったジミー・デイヴィスとチャーリー・ミッチェルによってつくられた(版権を買っただけという説も)カントリーソングで、ジーン・オートリーやビング・クロスビーなどでヒットとなり、以後多くのシンガーによってうたいつがれている歌でもあります。

スタットラー・ブラザーズのdo you know, you are my sunshine は彼らがライブ中に聴衆に向かって『「ユー・アー・マイ・サンシャイン」って歌、知ってますか?』とコールしている歌ではなく、ちょっとしたラヴソングなのです。

コンサートで演奏者の僕は観衆のなかに太陽のように輝くひとりの少女をみつけた。そしてなんとその少女は一曲を演り終えた僕らのいるステージに近寄ってきて、
「ねえ、『ユア・マイ・サンシャイン』演ってくれませんか?」
とリクエストしてきた。そして「この歌をもう一度聞きたいの。だから私のために歌ってくれませんか」と可愛い声で言ったのだった。

それからあの娘は僕の前から消えてしまったけれど、僕はどこのコンサート会場へ行っても、必ず「ユー・アー・マイ・サンシャイン」を歌い、大勢の観衆の中に彼女がいないかといつも探しているんだ。

という歌。ファンが好きなバンドに熱視線を送るコンサートで反対に演奏者がファンに一目惚れするという、これもありそうであまり聞かないストーリー。
当時から遡っても40年近く前の歌も懐かしいですが、バンドの純なボーカルが好きになったひとりのファンを探し求めるというシチュエーションは、かの「アメリカングラフィティ」の主人公が白い車の女性を探して町じゅうをクルマで走り回るという純情に似てノスタルジィを感じてしまいます。

この歳になりますと、もはや小・中・高の同窓会は霧消してしまい、誰が何処で何をしているかなど、風の便りさえほぼ聞こえてきません。ただ死んだヤツの噂は何人か伝わってくるのはなぜなのでしょうか。
唯一残っていた大学時代の少人数のささやかな「同窓会」もコロナで延期しているうちに昨年世話役が死んでしまい、はたしてこのあとどうなることやら。

ただ「1957年の同窓会」を聴くと、やっぱり無垢でオモロイことばかり考えていて、思い返してもいちばん楽しかった高校時代の級友たちには会ってみたい、という気持ちはあります。というよりは、あの時の自分に時代に戻って彼らに会いたいというのが本音でしょうか。
オマケの歌を。当時級友たちのたまり場になっていた「ヒミツのアパート」で夜な夜な下手なギターを弾きながら暴唱していたナツカシソングを。

https://youtu.be/LR-T2qTLF6o

大相撲の結果は初戦で阿炎が高安を破り、そのとき高安が脳震盪で一時土俵から立てなくなるというアクシデントで大波乱。そんなわけで阿炎、貴景勝は勝った方がほぼ優勝。やっぱり勢いに乗った阿炎が数秒で大関を突き出して初優勝。横綱不在、大関不調の今場所でしたが、ニューカマー登場のしめくくりで良かったのでは。
スポーツ三昧の仕上げはもちろん日本―コスタリカ戦。

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your picture in the paper [country]

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https://youtu.be/NdDdb1OT9ng

きょうは仕事もなく、とくに出かける予定もなかったので、仕事場の掃除をしに。

遅ればせながらの夏の跡片付け兼冬支度。
エアコンを掃除し、扇風機もバラして拭き掃除。そのあとクリーナーをかけて机や棚、椅子にも雑巾がけ。その間、いつもどおりテープデッキから音楽を流します。
家だとほぼヘッドホンだけど、ここなら誰の遠慮もなく大音量とはいかないけれど(近所迷惑になるので)かなりのボリュームで堪能できます。

仕事中なら200本ほど放り込んであるテープボックス(と呼んでいる段ボール函)からランダムに取り出したテープをカセットにかけるのですが、きょうははじめからカントリーと決めていたのでゴソゴソと探します。
テープはほぼ昔レコードからダビングしたものですが、そのうちの20本あまりはレコードでいうところの「ジャケット」を着けたオリジナル商品。そのほとんどがカントリー。

そしてそのほとんどが知人がアメリカに行った時のお土産。いまやリタイアしてしまった知人ですが、30年あまり前は年に何度か仕事でアメリカへ行き、そのたびにカントリーのテープとTシャツを買ってきてくれました。ただ彼はカントリーが詳しくないので、その選択はテキトー。だから聞いたことないシンガーだったり、「ベスト・オブ・ハンク・ウィリアムズ」がすべてインストだったり、「ノンストップ・ブルーグラス30」の演奏者がほぼ知らないグループだったり(知らないのがわるい)とアメリカの奥の深さを感じさせられる?代物でしたが、それでもありがたいことで、昔もそしていまも充分堪能しております。

そんななかで唯一わたしが買ったテープがありまして。といってもアメリカなど一度もいったことがなく、当時アメリカの音楽通販会社へインターネットでアクセスし、直接注文しました。仕事でパソコンだけはウインドウズが出る前から使っておりましたので。まだamazonなどもなくて決済などどうやってやったのかも覚えておりませんが、欲望のパワーたるやものスゴイもので、ネットでなんとかたどりつきゲットしてしまったのでした。

それが「スタットラー・ブラザーズ」というカントリーのコーラスグループ。
当時よく売られていたCDのコンピアルバムのカントリー盤を買ったとき、なかに収められていたスタットラー・ブラザーズの「偉大なるかな神」が良くて、初耳のそのグループのアルバムが欲しくなり、何が何でもと買ってしまったのです。まぁカントリーのヴォーカルグループといえば、ソンズ・オブ。パオニーアーズが有名ですが、さほど多くはなくそれはそれでここちよい。

冒頭の動画がそのテープの中の一曲の[your picture in the paper]新聞で見た写真 で、日曜日の朝(土曜の夜とともにアメリカ人の好きな時間)ふと拡げた新聞に昔の恋人が結婚したという記事が写真とともに載っていた。それを見て動揺しながらも、昔の想い出がよみがえり、そして旦那さんともども幸せになってほしいと願った。というワンミニッツ・ドラマでスタットラー・ブラザーズのいくつかあるフェヴァリットソングのひとつ。


スタットラー・ブラザーズは1950年代から故郷のルイジアナ州スタントンの教会などでゴスペルをうたっていました。当初のグループ名は「フォースター・カルテット」で、その後「キングスメン」に改名。
初期のメンバーはドナルド・リード(バス)、ルー・デウィット(テノール)、フィル・バルズレー(バリトン)、ジョー・マクドーマン(リード)の4人で、1964年にレコードデビューするときは、リードのジョーが抜け、ドナルドの弟、ドン・リードが新たに加入しています。

また、1982年にはテナーのルーも体調不良で抜け、代わりにのちにソロになるジミー・フォーチュンが加入しています。いずれにしてもスタットラー・ブラザーズといっても4人が兄弟なのではなく、本ものの兄弟はドナルドとドンのふたりだけ。

スタットラー・ブラザーズと名乗ったのは1963年のことで、たまたま4人で泊まったホテルにあった顔用ティッシュが「スタットラー社」製のもので、なぜかそれが気に入り自分たちのグループ名にしたとか。こんなものか。そのとき泊まっていたホテルが「スタットラー・ホテル」だったかどうかは定かではありませんが。

初めてのシングルレコードは1964年の[the wreck of old 97 ]オールド97号の大参事 。

https://youtu.be/jxPdCj2QcRw

この歌は20世紀初頭にバージニア州で起こった鉄道の脱線転覆事故を題材にしたトピカルソングで、1924年にヴァ―ノン・ダルハートの歌・演奏でカントリー初のミリオンセラーとなったという曲。スタットラー・ブラザーズ以外でも、ルービン・ブラザーズ、フラット&スクラッグス、ウディ・ガスリー、ピート・シーガー、ジョニー・キャッシュ、ハンク・スノウ、、ロイ・エイカフ、ハンク・トンプソンなど多くのカントリーシンガーによってうたい継がれ、アメリカでもよく知られたトレイン・ソングのひとつ。

アルバムはその翌年の[flower on the wall]壁の花 でビルボードのカントリーチャート10位に入っています。
スタットラー・ブラザースの名をカントリーファンに知らしめたのは、64年から8年余りジョニー・キャッシュのバックコーラスを努めたことによって。

https://youtu.be/NGUP8oc9Bgs

[daddy sang bass]父の歌声 もそうですが、スタットラー・ブラザースのもっとも得意とするところがゴスペルやセイクレッドソング。ではそんな讃美歌をもう一曲。

https://youtu.be/7uWkEadWdkQ

[how great thou art]偉大なるかな神 は19世紀の後半、スウェーデンのカール・ボーバーグによってつくられた讃美歌をその後、イギリスやアメリカで翻訳され現在のかたちになったといいます。
高くそびえる山々、森の木々やその中を流れる小川、そしてここちよい風や鳥たちのさえずり、これらの不思議で感動的な光景を創造されたのが偉大なる神なのです。とあますところなく文字どおり神を讃美しています。
アメージング・グレイスとともに英米人にもっとも親しまれている歌で、コニー・スミスやキャリー・アンダーウッドなどレコーディングするシンガーは多い。そんななかでもよく知られているのが、1967年にリリースしたエルヴィス・プレスリー盤。アルバム[how great thou art]のタイトル曲で、グラミー賞を獲っています。
はじめにも述べましたが、わたしにとってもこの曲がスタットラー・ブラザーズで初めて聴いた歌でした。エルヴィス盤を聴いていたので耳に残ったでしょうね。

もちろん、彼らはゴスペルやヒムばかりをうたっているわけではなく、ラブソングやふつうのポップスもたくさんうたっています。そんななかから1985年彼らの26枚目のアルバム[pardners in ryme]韻をふむパードナー(意味がわからないのですが) の1曲目[hello mary lou]ハロー・メリー・ルウを。動画はほぼ音がわるいので、さいごは音重視で。

https://youtu.be/j-EcCKAc_iY

日本でも弘田三枝子などのカヴァーでよく聞こえていた歌で、オールドファンには耳馴染でしょう。日本では「ルイジアナ・ママ」のシンガーソングライターとして知られるジーン・ピットニーによって1960年につくられ、翌年リッキー・ネルソンでヒットしています。
シングル盤としてはこの「ハロー・メリー・ルウ」はB面で、全米ナンバーワンになったのはA面の「トラベリン・マン」。とはいえ「ハロー・メリー・ルウ」もB面ながら全米6位になっています。
その眼、そのくちびる、その声、そのすべてを永遠に愛することを誓います。という日本人には大袈裟な(今はそうでもないのかも)アメリカン・スタンダード・ラヴソング。

少し早めの大掃除を終えて、午後に帰宅。夕食には少し間がありますが、いまは大相撲をやっていますので時間はつぶせます。
ここ数日、ワールドカップの「ドーハの奇跡」で持ちきりです。わたしも当日席を立てずに歓喜のタイムアップまで釘付けでした。信じられない結末でした。ドイツの敗因はシュートミスの連発。決定的なシーンが少なくとも2つはありました。反対にいえば日本にツキがありました。とにかく勝ち点3は大きい。ただ、好発進ではありますがわたしはペシミストなので、明後日のコスタリカとその次のスペインに連敗して予選敗退なんてイメージもあります。フットボールに限らず過去にいろいろな勝負を見てきましたが、ジャイアントキリングのあとの取りこぼしというのは珍しくありません。
いずれにしても日曜日は「ドーハの奇跡」が現実なのか、眼をこすりながら確かめるつもりです。

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アメとムチ [day by day]

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ニュースで知ったのですが、サクマドロップで知られた「佐久間製菓」が来年1月廃業するそうだ。コロナの影響が少なからずあったとか。
まぁ、それがいちばん大きいのでしょうが、様々な形と触感、さらには味の「あめ」が発売されるようになった昨今、あの楕円形で小粒のサクマドロップはオールドファッションなのかもしれません。菓子類は懐かしいだけでは商売にならないのかも。

子どもの頃サクマドロップにはずいぶんお世話になりました。だいたい菓子類は近所の駄菓子屋で買うのが常でしたから、あの缶入りのサクマドロップはいわば高級品でした。

もちろ自分で買うことはなく、親が買ってくれて親の管理の元、1日に1粒とか2粒とかもらっていたような気がします。手のひらを出すと小さな取り出し口を下にしてまさに1粒落としてくれる。ドロップはイチゴ、レモン、オレンジ、ブドウ、ハッカなどの味があり、それぞれ赤とか黄色とか紫とか色分けされていた。ですから、白のハッカがでてくるとガッカリしたもので、母親に再試行を頼んだり。優し母は缶を振ってもう一度手のひらに落としてくれる。兄もハッカが嫌いで、結局缶の底にはあの白いハッカばかりが残ってしまったり。

もうすこし大きくなって自分で管理できるようになると手ごわかったのが蓋の開け方。10円硬貨くらいの取り出し口には密閉するように同じ大きさの蓋があり、それはかなり固くてそれこそ十円硬貨で梃子のようにして開けておりました。そのあとの閉め方がわるいとなかに湿気がはいっていしまい、あめ同士がくっついたり、ベトベトしてしまったりというのもありがちでした。
当時はあの缶そのものが貴重で、空になった缶を簡単に捨てた記憶はありませんが、なにに利用したのかは覚えていません。あの取出し口からも再利用しにくい缶だったこともたしかです。
多分、小学校の高学年あたりになると、もう舐めなくなってしまったのではないでしょうか。ガムはもう少し先まで噛んでいましたが。

覚えているアメの歌を。
横文字でいうキャンディも含めて。

はじめは昭和37年(1967)、東京オリンピック前の貧しいけれど希望にみちていた頃。山田洋次監督の初期の映画の主題歌。

https://youtu.be/gwMLj32zrhk

リアルタイムではありませんが、ほぼ地元が舞台だったので興味をもって数年後に観ました。もちろん歌はリアルタイムで聴いていました。さくらさんになる前から倍賞千恵子のファンで、小学校によく似た子がいました。
♪縁日にふたりで わけた丸いあめ
の作詞はキングレコードのエース・横井弘、作曲はほかに菅原洋一らの「忘れな草をあなたに」などがある江口浩司。

もうひとつは何度も聴いているのでいささか気がひける1975年の荒木一郎のバイバイ・ソング。

https://youtu.be/1rH0HoVfNjQ

♪ゆきずりの夜に買う綿あめは 君と愛した味がする
作詞作曲はもちろん、あのデキシーチックな編曲も荒木一郎。いぜん、荒木本人が同じバイバイソングの「帰らざる日々」(アリス)にクレイムをつけていましたが、あれもまたいい歌です。ちょっとアブナイ歌ですが。

つぎは「キャンディ」。こちらはJPOPにいくつもありそうですが、ミスチルの「CANDY」を聴いたことがあるくらいでよくしりません。
しっているのはやはり古い歌。未経験・未体験なのになつかしいとうフェヴァリットソング。

https://youtu.be/QLBtRS-at-g

冒頭から
♪赤いキャンディ つつんでくれたのは 古いニュースペーパー
とキャンディが出てくるのは柳ジョージの「青い瞳のステラ 1962年夏…」。作詞は水浦杜司、作曲は上網克彦。
赤いキャンディはどんなアメだったのでしょうか。すぐに思い浮かぶのはむかし駄菓子屋で買っていた円錐型のイチゴ飴。底にヒモがついていてね。たしかクジになっていてそのヒモを引いて大きいものが当たり、小さいのが外れ。大差はなかったけど。みんな口からヒモを垂らしながら遊んでいました。
この歌の赤いキャンディはそんなイチゴ飴ではないけれど、むき出しのアメを新聞紙に包んでというイメージ。

赤いキャンディ、白いペンキ、ブルーアイ(青い瞳)と歌詞に出てくるこの歌はその三色でもわかるとおりアメリカ小僧の歌。ほかにブルースやテネシーワルツも出てきます。
ほかには、佐良直美の「わたしの好きなもの」に♪棒のついたキャンディ とでてきますがあれはアメではなくアイスキャンディでしょうね。

おまけは洋楽を。歌詞をよく知りませんのでタイトルで「キャンディ」を。ナット・キング・コールやダイナ・ショアなどで知られている1945年のスタンダードで、「彼女は私にすごく甘い、私も彼女にとても甘いけどね」と恋人をキャンディにたとえた大甘のラブソング。

https://youtu.be/Q0yH2VaIYVI

実はいまでもアメは舐めております。
以前から、咳どめのアメをカバンの中に常備しております。ときどき喉がいがらっぽくなったり、咳が出そうになるとバッグの中の袋から取り出して口に放り込んでおります。とくにここ数年コロナが蔓延してからは電車の中など咳をするのがはばかれる場所では結構重宝しております。

車中でなくても、ツレや知人といるときに相手が咳をすると「どう?」とすすめて喜ばれてもおります。ツレなどは完全に「マイ・キャンディ」をあてにしているようで、外出中咳もしていないのに口が寂しくなるのかたびたび催促してきます。
また、以前喫茶店で咳込み、アメをあげて(嫌な言いかたですが)喜ばれた知人がまた同じ状況になったので「どう?」と言うと、二度目は丁重に断られました。
「糖尿ぎみなので」と知人。そういえば以前聞いたことがあったっけ。一度めは断ったらわるいと思って貰ってくれたんだな。誰もがアメをもらって喜ぶわけじゃないぞ。ムチなわたしでありました。

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乗り換えの 電車来れども 福は来ず [on the train]

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きのうに続き、きょうも東京は暖かい日でした。
きのうは仕事場と家との往復で外へ出ただけだったので、きょうは少し遠出してみようと。
もはや冬まじかという思いだったので厚手の上着を着てでかけたため、駅へ向かう途中いささか汗ばんだり。
それにしてもいつもより人出が多いと思ったら、きょうは文化の日、祝日でした。毎日が仕事と言えばそうだし、毎日が日曜日ともいえる。そんなわけですから、曜日の感覚も月日の感覚もうすれるという昨今。まして祝日なんて覚えているわけがない。

ちょっとした買い物もあったので、今日は私鉄を乗り継いでローカル線で郊外へ。
乗り換えのM駅で、電車を待ちながらホームの向こうに広がる畠を見ていたら、昔のことを思い出しました。

20代の頃、ひとなみにガールフレンドができまして、休日になると月に何度か彼女の棲む郊外の家へ通っていたことがありました。
やはり乗り換えの駅があり、ホームからは畠が見えていました。菜の花がたくさん咲いていて、モンシロチョウやモンキチョウがたくさん飛んでいました。その光景は今でも思い描くことができます。

間がわるいとその乗換駅で30分ちかく待たされたこともありました。
その畠の彼方に2階立てのアパートが2棟並んでたっていました。その右側の当時でもくすんだ古アパートの2回の手すりに看板が設えてあって、その看板には「〇福荘」というアパート名が書かれておりました。実は頭の「〇」というのは、そのアパートの庭の大きな木の生い茂った枝葉で隠されていて読めなかったのです。
ですから、その乗換駅で電車を待つあいだ、そのアパートの看板を眺めながら、あの隠れている文字はなんなんだろう、なんて考えていたものです。

いちばんありそうなのは、「幸福荘」。でも「七福荘」もある。あまり聞かないけれど「万福」や「来福」だってなくはない。ひとの苗字なら「今福」とか「伊福」とか。などと電車が来るまでの暇つぶしに考えたものでした。

残念ながらそのガールフレンドとは1年も続きませんでした。その乗換駅での冬の記憶がないので、おそらく半年足らずで終ってしまったのだと思います。ですから、その乗換駅に立つこともなくなってしまいました。
その当時は、それ以上考えませんでしたが、もし彼女ともう少し長く、たとえば1年とか2年とか続いていれば、あのアパートの庭の木立ちの葉が散る季節になり、「〇福荘」の正体が判明していたかもしれません。などと思ったのは、それからずっとあとのこと。

とにかくわたしと彼女に福は来なかったのですから、わからないままで良かったのかもしれません。

あの時の乗換駅にはあれから行っておりませんが、たまに利用するこのM駅で電車を待っているとたまにそのことを思い出すのです。

もう少しヴァイオリンの歌を。

歳並みに記憶がポロポロと抜け落ちていくのは仕方ありません。と同時に過去のメモリーを検索し抽出する力も老化によってその機能が劣化しているのがわかります。やだやだ。
ですから、昔よく聴いた歌や、好きだった歌を思い出すことがけっこう至難。
そんななかでも、なぜか検索に引っかかってくる歌もなくはありません。

ヴァイオリンが印象的な歌もたくさんあったはずなんですが、かなり忘れております。そんななかかろうじて検索で脳内蓄音機で再生された70年代、80年代の歌をいくつか。
まずは1975年の歌。当時はフォークに代わってニューミュージックが主流になりつつある時代で、この歌もそう。

https://youtu.be/KOmqSISgG6o

「想い出まくら」はシンガーソングライターの小坂恭子の作詞作曲の失恋歌。
つたない記憶では、おなじ苗字の小坂明子の「あなた」やボサノバが印象的だった丸山圭子の「どうぞこのまま」などが流れておりました。
イントロから印象的なヴァイオリンが流れる編曲は福井峻。
福井峻はほかに「この空を飛べたら」(加藤登紀子)、「わかれうた」(中島みゆき)共同、木曽は山の中(葛城ユキ)、「夕暮れ時はさみしそう」「雨は似合わない」(N.S.P.)、あるいはチューインガムの作品など、かずかずのニューミュージックを担当しました。

つぎは少し戻って1971年の歌。この歌もラジオからよく流れていました。

https://youtu.be/Av20x26yrFI

加藤登紀子の「愛のくらし」。この歌もイントロのヴァイオリンが耳に残ります。作曲はタンゴ楽団で知られるアルフレッド・ハウゼで、加藤登紀子のために作曲したので、カヴァー曲ではない。詞は加藤登紀子で、編曲は日本を代表するアレンジャー・馬飼野俊一。
その名作品をいくつかあげてみると、「襟裳岬」(森進一)、「石狩挽歌」(北原ミレイ)、「草原の輝き」などアグネス・チャンの数々、「恋する夏の日」など天地真理の数々、「若草の髪飾り」ほかチェリッシュの数々。チェリッシュのヒット曲のほとんどは作曲も担当しています。
そのほか「北酒場」(細川たかし)、「愛情物語」(ヒデとロザンナ)、「笑ってゆるして」(和田アキ子)、「想い出迷子」(チョー・ヨンピル)、「戦争を知らない子供たち」(ジローズ)、「池上線」(西島三重子)など枚挙にいとまがありません。
YOU-TUBEはオリジナルとはちがいますが、オリジナルもイントロから力強いヴァイオリンの響きが聞こえます。

さいごはタイトルからしてヴァイオリンが聞こえてきそうな歌。

https://youtu.be/ACRSd2OGfGY

「マイ・クラシック」は1984年のヒット曲で。これもラジオからよく流れておりました。
作曲、歌唱はシンガーソングライターの佐藤隆。作詞は佐藤の曲のほとんどを担当した大津あきら。
佐藤隆は、ほかにも高橋真梨子に提供した「桃色吐息」とか、「カルメン」とか「希望商人」とかヨーロピアンで、格調高い独特のスタイルをもったミュージシャンでした。
編曲は彼と、ハプニングス・フォーのチト河内の共同。

作詞の大津あきらにもふれておきますと、元々はつかこうへい劇団で音楽を担当。作詞家としては1981年に中村雅俊の「心の色」がヒット、翌年には高橋真梨子に「for you …」、86年には杉山清貴に「さよならのオーシャン」を提供。
ほかに「風のエオリア」(徳永英明)、「東京HOID ME TIGHT」(ケイ・ウンスク)、「二十三夜」(堺正章)などをはじめ、矢沢永吉にも多くの詞を提供している。
1997年に47歳という若さで亡くなっています。奥さんがやはり劇団の根岸季衣でした。

おまけは、やはりイントロからヴァイオリンの調べが印象的で、当時のエキゾチックブームのなかで大ヒットとなった久保田早紀の「異邦人」を。この歌も、ヴァイオリンを上手にフュチャしておりました。でも「おまけ」なのでカヴァーで動画を。
この歌をカヴァするシンガーはけっこういますが、今回は一時よく聴いていたEGO-WRAPPIN'で。ヴァイオリンはでてきませんが。

https://youtu.be/M9RnnrsSH8s

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拳闘はらいっぱい

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日本シリーズは終ったけれど、スポーツの「秋」はまだまだ続きます。
今日は午後5時半からパソコンでボクシングの試合を。
世界戦2試合を含む4カードでしたが、終ったのが10時近く。ベッタリ観ていたわけではないけど疲れました。

メインイベントのともに世界ライトフライ級チャンピオン同士の日本人戦はいちばん盛り上がった。結局地力にまさるWBC王者の寺地拳四朗が京谷紘人を7ラウンド、レフリーストップでWBAのベルトも奪取した。ファンの多い京谷ですが実力負け。拳四朗は1ラウンドから余裕があり、自信に満ちていた。つぎはその前の試合で帝拳の岩田翔吉を判定でやぶってWBOのタイトルを防衛したプエルトリコのゴンザレスとやって3本目のベルトを狙うのだとか。

ほかでは期待していた中谷潤人。スーパーフライに階級をあげたけど問題ないだろうと思っていましたが、相手は元世界チャンプ、メキシコのロドリゲス。しつこいブルファイターで、相性がわるいのか結構手をやいた。それでもさしたるダメージもなく、大差の判定勝ち。いまは負けないことが大事でひと安心。「勉強になった」とインタビューに応えていましたが、ほんとにいい相手とやったと思う。その言葉どおり、今度ファイターとやるときはきっともっと上手くやってくれるだろうと思った。中谷潤人にはそれだけのセンスを持ち合わせている。

歳のせいかボクシング4試合はきつい。野球のほうがまだ気楽に観ることができる。

今月はワールドカップもあるし、13日には九州場所も始まるし、27日にはジャパン・カップもあるし、駅伝・マラソンのシーズンでもあるし、忙しいけれど楽しみでも。

寒かったり、暖かかったり、やっぱり秋なんですね。

日本シリーズは終わりましたが、わたしの脳内蓄音機ではいまだヴァイオリンの調べが鳴り響いております。

よくよく考えてみますと、たとえば昭和24年の大ヒット曲「青い山脈」(藤山一郎・奈良光枝)だって29年の「お富さん」(春日八郎)だって昭和30年の「この世の花」(島倉千代子)だって昭和34年の「黒い花びら」(水原弘)だって35年の「さすらい」(小林旭)だって昭和38年の「高校三年生」(舟木一夫)だって昭和40年の「女の意地」(西田佐知子)だってみんなその伴奏にヴァイオリンがつかわれていた。

あたりまえですが、レコーディングに際しては規模はどうあれオーケストラをつかうのが一般的でした。だから当然ストリングスのメインとしてヴァイオリンがつかわれたのです。
前面に押し出したものもあれば、バックでささやかに聞こえてくるものもあったり。とにかくヴァイオリンは伴奏には便利で、また欠かせない楽器なのです。

ただ子どもの頃は、フランク永井の「有楽町で逢いましょう」を聴いても石原裕次郎の「赤いハンカチ」を聴いても、ヴァイオリンどころかバックの演奏のことなど意識しなかった。

はじめて歌の中の演奏のヴァイオリン、正確に言えばストリングスを意識するようになったのはゴールデン・カップスの「長い髪の少女」でした。間だけでしたが印象的でした。

https://youtu.be/sFojpmJLWZw

GS(グループサウンズ)といえば、当然楽器はギターであり、ベースでありドラムスであり、加えてキーボード。それをグループのそれぞれがパートを受け持ち、リードボーカルがいるというのがスタイルで、いまのバンドにまで引き継がれている。もちろんビートルズをはじめとするUKのバンドグループを見本にしたものですが。
楽器がありヴォーカルがいればそれだけでレコーディングは可能で、レコードもつくれそうな気がします。

しかし、GSブームのなか、数多のバンドがレコードを発売し、それを商品として1枚でも多く売らなければならない。それには商品としてそこそこのグレイドは保たれなければならない。
はたして、俄にに仕立てられたようなグループもあったような当時のバンドにそれだけの演奏テクニックがあったのかどうなのか。もちろんすべてではないだろうけど、ほとんどスタジオミュージシャンなんてレコーディングもあったのでは。
つくる側としては、いくらバンドの魅力で売るといってもよりよいレコードに仕上げようと思えば、昔ながらのオーケストラの力を借りてのレコ―ディンということになる。

それはレコードという商品の質をたかめようとすれば当然のことで、ビートルズだってストーンズだってストリングスをつかっています。

とにかくGSのころから伴奏のヴァイオリンに目覚めたわけで、そのころのGSではほとんどバンドがストリングスを取り入れていました。スパイダースだってワイルド・ワンズだってオックスだってテンプターズだって。
ということはみんな演奏が下手だった? ということはないでしょうが。とにかくレベルの高いレコード(商品)をつくろうとうことだったのでしょう。

GSのなかでもとりわけ、ヴァイオリンやほかのストリングスを多用し、なおかつそれが効果的だったのがタイガース。スタートメンバーは沢田研二(ヴォーカル)、岸部修三(ベース)、加橋かつみ(リードギター)、森本タロー(サイドギター)、瞳みのる(ドラムス)の5人。
デビューからしばらくは作曲&編曲:すぎやまこういち 作詞:橋本淳のコンビ。
近年亡くなったすぎやまこういちは当時テレビ「ザ・ヒットパレード」のディレクターで、以来GSの中心的作曲家として、またその後はゲーム音楽の第一人者として活躍することになります。その音楽的素養は当初から天才的でした。それがとりわけ編曲にあらわれています。それではストリングスに彩られたタイガースをいくつか。

https://youtu.be/YaavZ1MWiwg

「モナリザの微笑み」(1967年)はデビュー曲「僕のマリー」から3枚目のシングル。この頃からレコードジャケットもメルヘン調というかバロック調といいますか、ストリングスのつかい方もそんな感じになってきます。その後、GSで主流となるステージ衣装のミリタリールックもタイガースがはじめてだったような。

https://youtu.be/j_2srPcvsfc

「白夜の騎士」(1968年)は、「花の首飾り」に続く6枚目のシングル「シー・シー・シー」のB面。作詞の有川正子は、なにかの芸能雑誌でタイガースの歌詞を募集したところ入選した読者。それを「座付作詞家」の橋本淳が手直しして完成させています。「花の首飾り」もそういうケース。当時、GSに限らず人気(アイドルなんて言葉はまだなかった)歌手の歌の歌詞を雑誌で募集するというケースが少なからずあったようです。
曲・編曲は当然すぎやまこういちで、まさにメルヘンチックな歌になっています。当時はやりのベースランニングとともにやはりヴァイオリンが印象的。

https://youtu.be/xfqEhaBNosc

最後は「青い鳥」1968年。タイトルからもメルヘン。完全にほぼ女の子をターゲットにしています。「青い鳥」は当時世界のポップミュージックを席巻していた「ラヴ&ピース」をコンセプトにしたアルバム「ヒューマン・ルネッサンス」からシングルカットされた曲で、作詞作曲がギターの森本太郎というのがめずらしい。編曲はもちろんすぎやまこういちですが。印象的なギターのイントロとともに、ヴァイオリンがふんだんに活かされています。

反対にGSで比較的ストリングスをつかわなかったのがブルー・コメッツ。初期の「青い瞳」や「青い渚」などはほぼバンドの楽器構成だけでやっている。大ヒットの「ブルーシャトー」では目立たないようにつかっていますが、晩年?の「さよならのあとで」などムード歌謡っぽい楽曲になるとイントロからしっかりつかうようになっています。

https://youtu.be/oV7u5hsGDvI

同様にジャガーズもデビュー曲の「君に会いたい」や「ダンシング・ロンリー・ナイト」ではバンド演奏だけで録音している。

https://youtu.be/GpT1R4LHvis

こうしたバンドは当初予算がなかったと考えるべきなのか、それともメンバーそれぞれがレコーディングに耐えうる演奏テクニックを持っていたと考えるべきなのか。ブルーコメッツは後者でしょうけど。

おまけもGSで。
はじめから売る気満々で、デビュー盤からしっかりストリングス付きのオーケストラをつけてもらったバンドの初シングル。作詞はタイガース専属?ではなかった橋本淳。さらに作曲・編曲はかの筒美京平。ならばオーケストラつけるのは当然ですね。
タイガース、テンプターズに続くアイドルバンドという売り込みでした。失神さわぎがあったりしてね。

https://youtu.be/33XhDL48rhQ

今日はボクシングとひさしぶりのGSでおなかいっぱいです。

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