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we will miss your bright eyes and sweet smile [country]

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大谷が心配だ。
W杯女子サッカーでベスト8と健闘、バスケでも31位と大健闘したけれど、やっぱり気になるのは大谷の動向だ。
とくに肘を再手術するかどうかという大トラブルが発覚してからは、なんとなく日本の朝も曇りがち。おまけに脇腹までいためて2日連続でスタメンを外れた。
あと数試合で今シーズンを終りにし、手術するなどという報道もあってとても気になる。
たしかなことは、今季はもう投げないということだけ。
このまま大谷が残り全試合欠場したとしても、まずホームラン王は間違いなさそうだが、打点王は絶望的となる。まぁ規定打席には達しているようなので、初の3割バッターにはなるのだけれど。

ファンとしては、大谷ロスをなるべく短くしてもらいたいので、早期治療早期復帰でとり組んでほしい。一刀流でもよいから来季もファーストゲームからあの雄姿を見たい。どこのチームにいても。

ふたたびテレビコマーシャル。
「ユー・アー・マイ・サンシャイン」とほぼ同じタイミングでテレビCMからもうひとつのアメリカのルーツミュージックが流れてきた。

https://youtu.be/ltXcxFDkv5I?si=ZlxDTnRhA_y9E08G

実際にみたのはもっと短いヴァージョンだったが。「かんぽ保険」のCMで老齢者にササル洋楽ナツメロということで採用されたのでしょう。オクラホマミクサーのほうがポップにできそうな気もしますが、情緒に訴えるには「レッド・リヴァー・ヴァレー」なのかな。

邦題「赤い河の谷間」としても知られているこの歌がつくられたのは19世紀の後半といわれている。もちろんP.D.(詠み人知らず)で、ルーサー・B・クラークによって初めて録音された(「ブライト・シャーマン・ヴァレー」のタイトルで)のが1924年とうから大正末期。その3年後にライリー・パケットらによって「レッド・リヴァー・ヴァレー」として録音されている。
わたしが初めて聴いたのは多分小学校の音楽の授業だったと思うが、もしかしたらフォークダンスで聴いたような気もする。曲調もあるのだが、いつ聴いてもなつかしい。

古くはカウボーイとネイティヴアメリカンの娘との別れの歌で、男からの女からのという両方のヴァージョンがある。だから男女のデュオというのもめずらしくなく、以前、スティーヴィ・ニックスとクリス・アイザックとか、クリス・クリストファーソンとジュディ・コリンズで聴きました。

映画でも1936年、ジーン・オートリー主演の西部劇をはじめ「レッド・リヴァー・ヴァレー」を題名とした作品が何本かつくられている。また歌が劇中で流れていた映画としては「怒りの葡萄」をはじめ「トゥームストーン」、「わたしに会うまでの1600キロ」、「ジェーン」などがある。
当然テレビドラマの中でも何度もうたわれていることは想像できる。

https://youtu.be/BaGoRN8nsbQ?si=w8LD1H8rKLygPucG

ほんとに男女ともいろいろなシンガーがうたっていて、何を聴こうか迷う。以前も聴いたブギウギ調の「レッド・リヴァー・ロック」もあるし、ブルーグラスにアレンジしたものもある。
今回は、ウエスタン・スイングの「アスリープ・アット・ホイール」でジャジーな一曲を聴いてみたい。

https://youtu.be/LqFrGi10ilQ?si=nqltx2CN1VqGJE0K

ところでこの有名な歌にも「ユー・アー・マイ・サンシャイン」のようにオマージュソング?がある。

https://youtu.be/5_cIF04tMTY?si=mhd9SSgOwbA_ew3I

[Do you know you are my sunshine]が「ユー・アー・マイ・サンシャインを演ってよ」なら[Please don't play Red River Valley]は「レッド・リヴァー・ヴァレーを演らないでくれ」ということに。

この歌はジョニー・キャッシュ(またですが)の1966年のアルバム[Everybody Loves at Not]の中の1曲。
ハーモニカを買った友だちに、「ソルティ・ドグ・ブルース」や「愛しのクレメンタイン」とか「ポリー・ウォーリーの落書き」(いずれもアメリカの有名なルーツミュージック)でも練習しなよ。でも「レッドリヴァー・ヴァレー」だけはやるなよ。なぜってこの曲は俺が唯一吹けた曲で、ちょうどマスターしたとき彼女からハーモニカと一緒にポイ捨てされたからさ。
という失恋ノヴェルティソング。

「レッド・リヴァー・ヴァレー」は日本で言えばわらべうたの「赤とんぼ」のような感じで、アメリカ国民に親しまれているようで、ほかにも[Sing Me the Red River Valley]とか[She Sang the Red River Valley]などという歌もある。

おまけはやっぱり「レッド・リヴァー・ヴァレー」をもう一度。
タイトルは[Can I Sleep in Your Arms]ですが、旋律はまぎれもなく「レッド・リヴァー・ヴァレー」。

https://youtu.be/s15X3DM9Y9o?si=ifH_yoRXc_4JMNWK

半世紀あまり前のウィリーがうたうハートブレークソングで、「失恋して立っていられないほど苦しいんだ。だから今夜は君の腕で眠らせてくれないか。もちろん何もしないから」というなんとも厚かましい歌。でも気持ちはわかる。
ウィリー・ネルソンの1975年のアルバム「Red Headed Stranger」の中の一曲。こんな替え歌ヴァージョンがつくられることからも「レッド・リヴァー・ヴァレー」がいかにアメリカで親しまれているかがわかる。

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I dreamed I held you in my arms [country]

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ときどきテレビのCMでカントリーやルーツミュージックが流れてくることがある。シンガーは誰でも、歌詞はどうでもとてもいい気分になる。最近もそんなことがあった。

https://youtu.be/ki9jVUadVK0?si=6OpUXX1JQDzSKSPG

こうなるとやっぱりフルヴァージョンでホンモノを聴きたくなる。
久しくカントリーからご無沙汰で、先日「ブルームーンがまた輝けば」を聴いたのでそのせいかも。

「ユー・アー・マイ・サンシャイン」を歌ったり演奏しているアーチストはたくさんいる。また、何度も聴いているので今回は誰を聴こうか迷った。オリジナルのジミー・デイヴィスとか、ブルースマンのミシシッピー・ジョン・ハートやBBキングもいい。ただはじめはなるべく正調でとうことで、いささか画像はわるいけれどジョニー・キャッシュ、ジュン・カーター夫妻で。

https://youtu.be/JcnNb7Pnmok?si=HzdSdTYTfGAMokpK

「ユー・アー・マイ・サンシャイン」がつくられたのは1940年。当時「歌う映画俳優」としてB級映画に出演していたジミー・デイヴィスと彼のバンドメンバーだったチャールズ・ミッチェルによってつくられたことになっている。
ただ、これは1937年に作曲し39年にレコーディングしたという「ライス・ブラザーズ・ギャング」のポール・ライスから版権を買っただけのようだ。当時困窮していたポールからわずか37ドルで権利を買ったという

ポールは37年にある女性から「あなたの存在はわたしにとってまるで太陽なの」というラブレターをもらい、それをヒントにこの歌をつくったと、その制作過程を語っている。ところがそのポールも、すでに33年にこの歌をつくり公に発表したというオリバー・フッドから買ったのではないかという話もあり「真の作者」はいまだ決着していない。
たしかなことは、ソングライトとしてクレジットされているジミー・デイヴィスらが「真の作者」ではない、ということ。

ただこの歌で最も利益を得たのはジミー・デイヴィスで、これまでの著作権料はもちろん、この歌を最大限利用してルイジアナ州の知事になったのだから。その後この「ユー・アー・マイ・サンシャイン」はルイジアナ州の州歌になっている(3つあるうちのひとつ)。

聴き手としては誰がつくったとしても問題ない。あと10年も経ずしてパブリック・ドメインになってしまうのだから。

ではもう一度「ユー・アー・マイ・サンシャイン」を。
「ユー・アー・マイ・サンシャイン」が使用された映画といえば2000年公開のルーツミュージック・ムーヴィー「オー・ブラザー」Oh brother, where art thou? がある、そこではノーマン・ブレイクの歌が採用されていた。ノーマン・ブレイクはカントリーやブルーグラスのギタリスト&ヴォーカリストで、以前ここでも「峠の我が家」を聴いたようにルーツミュージックも多く録音している。クセのない歌は「教科書」のようで、親しみやすい。
今回は、そのサントラバージョンを全然別の映画のBGMとしてつかっている動画で聴いてみた。その映画のテーマと妙にマッチしていて何とも言えない「ユー・アー・マイ・サンシャイン」になった。やっぱり世界最高の監督であり、役者だなぁ。

https://youtu.be/2UuSrVq8Bbo?si=a1TJ23fzC9QZokrv

バスケは大健闘だね。パリ五輪の権利を獲得したことが最も大きく選手、コーチとも自信に満ちた表情だった。とりわけ東京五輪の女子といい、トム・ホーバスコーチの手腕がスゴイ。
ワールドカップ上位はベストエイトが決まったようだが、地上波での放送はないのかな。わたしも含め「にわかバスケ人気」ではあるけれど、こういう時こそ視聴率度外視してハイレベルの準決勝や決勝を放送すればさらにファンが増えると思うのだけど。

オマケは最近聴いた気もするが、バンドマンが「ユー・アー・マイ・サンシャイン」をリクエストした女の子に恋をするという[Do you know YOU ARE MY SUNSHINE]を。今回はオリジナルのスタットラー・ブラザーズではなく、ゴスペル・ヴォーカルとして知られているブース・ブラザーズとゲイザー・ヴォーカル・ユニットのビル・ゲイザーで。

https://youtu.be/lj0wNZdmUJU?si=9CWgq8JKct-NCpBt


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細いナイフを光らせて [歌謡曲]

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いよいよ9月。
9月1日は「関東大震災」が起きた日で、もうあれから100年経ったという。死んだ父は8歳ぐらいだったようで、被災した本郷の話もしばしば聞いていた。父と同世代の人たちは震災と戦災という二度にわたる大災難を経験していたのだ。
テレビでも関東大震災を他人事ではなく、これから来るであろう大地震とダブルエクスポージャで紹介している。それに今年はなぜか朝鮮人虐殺とそれに関するデマについてとりあげている。森達也監督のそんな映画も公開されるとか。
そうした過去について国もそうだが、東京都知事の反動ぶりはひどい。

福島が艱難をかかえているようで、こちらも気になるが、今回はその福島出身の門倉有希のカヴァを。今年デビュー29年というからやはりベテラン。
平成6年にヒットしたオリジナルの「ノラ」は覚えている。
ハスキーヴォイスで、昼間よりは夜、幸福よりは不幸(これも流行歌には欠かせないテーマのひとつ)な歌が似合う歌手でカヴァも多い。
そんななか、今回は昭和40年代半ばから50年代半ば、つまり1970年代にヒットしたどちらかというとポップスよりの歌を3曲。

まずは、昭和45年(1970)の北原ミレイのデビュー曲。

https://youtu.be/Q71MtJs5gKk?si=zTuJcym20XvkaeLj

「ざんげの値打ちもない」は学生運動がピークだった政治の季節に阿久悠によって書かれたヒット曲。その数年前のGS全盛時に作詞家デビューした阿久悠が作詞家として今後やっていけると手ごたえをつかんだ歌。
はじめて聴いたとき、少女が大人へなっていく断片を、流行歌にはそれまでなかったようなラディカルな詞で描いていたことがとても印象に残った。
「細いナイフを光らせて にくい男を待っていた」とか「鉄の格子の空を見て」(この4番の歌詞はテレビ等ではカットされている)などというフレーズが当時としては衝撃的でかつ、阿久悠にとっては野心的だった。

作曲はその2年前ザ・モップスの「朝まで待てない」でコンビを組んだ村井邦彦。
村井邦彦は慶應のライトミュージック・ソサエティ出身。作曲活動は5年あまりで、60年代末から音楽出版事業や音楽プロデューサーとして活動し、アルファレコードを設立して多くのアーチストを世に送り出した。
代表曲は「翼をください」(赤い鳥、小林潤子)で、ほかには「経験」(辺見マリ)、「エメラルドの伝説」(テンプターズ)、「白いサンゴ礁」(ズー・ニー・ブー)、「雨上がりのサンバ」(森山良子)、「本牧ブルース」(ゴールデン・カップス)、「ある日突然」(トワ・エ・モワ)などのヒット曲がある。
プロデューサーとしては、赤い鳥をはじめ松任谷由実、YMO、小坂忠、シーナ&ロケッツ、ブレッド&バターなどを世に送り出している。

次は田中角栄前首相の逮捕など、ロッキード事件で明け暮れた昭和51年(1976)、流行歌の世界ではやがてカリスマになる女性シンガーのブームがはじまろうとしていた。

https://youtu.be/AfheYPuC7ac?si=asSBjo7SB6zsIOTG

「横須賀ストーリー」は昭和43年(1968)14歳でデビューした山口百恵13枚目のシングル。2年前の「冬の色」に次いで2回目のオリコン1位となった曲。
「冬の色」で「後追い自殺」まで宣言した恋人に隷属的な女の子は、やがて52年の「イミテーション・ゴールド」、53年の「プレイバックpart2」を経て自立していくことになるのだが、51年の「横須賀ストーリー」はまだその成長途中で、失恋を繰り返しながら男の本質を見抜き、やがて「馬鹿にしないでよ」などと言う時代の女に変身していくきっかけになった歌だったのでは。

作詞作曲は阿木燿子・宇崎竜童夫妻で、ふたりが山口百恵に初めて書いた楽曲だったのではないでしょうか。以後二人は「百恵劇場」の座付作者となり、彼女を成長させていくことに。もちろん「イミテーション・ゴールド」も「プレイバックpart2」も夫妻の作品。

最後はそれから2年後の昭和53年(1978)の歌。
トレンドがそれまでのフォークソングからニューミュージックに変わった時代。歌謡ポップスではキャンディーズやピンクレディーのユニットがティーネイジャから熱烈に支持された頃の一曲。

https://youtu.be/FTBXycujxYc?si=OZak9hyoQP7HdpI8

なんでイスタンブールなのか。イスタンブールはトルコの大都市で、日本で当時トルコへの旅行ブームがあったわけでもない。
プロデューサーの「無国籍ソングを」という依頼に応えた筒美京平の曲に、作詞のちあき哲也がイスタンブールというワードをつかってセンチメンタル・ジャーニーをモチーフにした詞をつけた。さらにその楽曲を船山基紀が中近東のイメージにアレンジしたのがこの歌だった。
ちあき哲也がなぜ「イスタンブール」という言葉をつかったのかは不明だが。この前年の昭和52年、池田満寿夫が「エーゲ海に捧ぐ」で芥川賞を獲っている。そして53年にこの「飛んでイスタンブール」、翌54年には「魅せられて」(ジュディ・オング)、「異邦人」(久保田早紀)といった中近東を思わせる歌が立て続けにヒットしている。
実際にイスタンブールや中近東諸国への旅行ブームがあったかどうかは定かではないが、日本の流行歌の世界では昭和50年代前半にちょっとした中近東ブームが起こっていたことはたしかだ。
庄野真代は当時トレンドのニューミュージックのシンガーソングライターだが、この歌も含め次の「モンテカルロで乾杯」、「マスカレード」「ジャングル・コング」はすべて筒美京平の作曲で、最後のヒットとなった「アデュー」のみ彼女の作詞作曲だった。
ちなみに「モンテカルロで乾杯」も作詞はちあき哲也で、筒美・ちあきのヒット曲としてはほかに少年隊の「仮面舞踏会」がある。

昨日は「スーパームーン」だったそうだが、ニュースで小耳に挟んでいたものの、気がつけば夜があけていた。
NASAによると次のスーパームーンは14年後だとか。生きている自信ないなぁ。まんがいち生きていても、そのニュースを認識できるかどうか。
まぁ何十年に1回とかいうナントカ彗星もそうだけれど、追いかけるほどの興味はない。ごくフツーの月を見るだけで充分。満月だろうが半月だろうが三日月だろうが。なんたって、太陽はキツイけれど、月は眼にヤサシイから。
そんなわけで?おまけはブルームーンの歌を。
「ブルームーン」というスタンダードもあるけれど、やっぱりカントリーで。
カントリーのブルームーンといえばビル・モンローがつくった「ケンタッキーの青い月」Blue moon of Kentucky がエルヴィスのカヴァでもしられているが、今回は「ブルームーンがまた輝けば」When my blue moon turns to gold againを。1941年にウィリー・ウォーカーらによってつくられた歌で、「ブルームーンがまた黄金に輝けば、彼女とのあの楽しい日々も帰ってくる」という失恋&未練ソング。エディ・アーノルド、マール・ハガード、ハンク・トンプソン、エミルー・ハリスらにカヴァされている。今回はエルヴィスで。
このブルームーンがはたしてあのブルームーンかどうかは定かではないけれど。

https://youtu.be/O3XcN_6Y2ug?si=lKOnfsUAy4V2fsPM


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勅使下向の春弥生 [歌謡曲]

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大谷は無安打。そんなときもあるさ。なにしろ10打席で7回は不発なのだから。
高校野球は「密な青春」の仙台育英を応援していたけれど、完敗。「エンジョイ・ベースボール」の勝ち。107年ぶりだってスゴイな。でも甲子園球場のあの慶應ホーム感は、仙台育英にはつらい。泣くな坊主たち。
世界陸上は110mハードルの泉谷にメダルを期待していたが、わずかに及ばず5位。いまだメダルなし。あとは予選トップで決勝進出した女子やり投げの北口にどうでも、いや、銅でもいいから獲ってほしい。それがだめだと男子の4×100mリレーと4×400mリレーに期待するしかなくなってしまう。番狂わせで幅跳びの城山、橋岡、吉田の誰かとか、あるいは今大会は期待できない男女のマラソンでヒーローがでるとか。とにかく「にわかナショナリズム」を充たしてほしい。まぁ世界のトップアスリートをみるだけでも充分堪能できますが。ただ、夜中というか明け方の決勝はキツイ。


今回は島津亜矢で。
島津亜矢は熊本県出身で、今年デビューより37年というこちらもベテラン。
うたの上手さは「歌怪獣」の名で知られるほどの超絶ぶりで、演歌ファンだけでなくポップス好きにも知れわたっている。
このブログでも何度かとりあげているが、ちょっと「上手すぎる」という印象もある。

彼女の歌の魅力は、その声量とうたいあげる迫力で、その魅力を十二分に発揮している歌を三つ選んでみた。はからずもそれらのオリジナルシンガーがすべて浪曲師出身ということになった。また三つとも昭和30年代の歌で、まずは女性の歌うま演歌歌手がこぞってカヴァするという聞かせどころ満載でプロに好かれるという歌を。

https://youtu.be/GlEAuU-xmhY?si=iVcjgSRJXUFAxczg

「無法松の一生」は昭和戦前の岩下俊作の小説「富島松五郎伝」を元にした映画で、戦前戦後と何度か制作されている。
粗野で乱暴者だが純情という人力車夫・松五郎の叶わぬ恋の物語で、「馬鹿だが憎めない」キャラクターが日本人の人情にふれて広く親しまれた。松五郎を演じた阪東妻三郎や三船敏郎のそれらしき演技がさらに松五郎像をかたちづくっていくことに。
そうした日本人の好きな松五郎というキャラクターはその後、山田洋次によって「馬鹿まる出し」の安五郎(ハナ肇)や「男はつらいよ」の寅次郎に受け継がれていく。

福岡生まれ佐賀育ちの村田英雄は5歳から浪曲師・酒井雲門下に。その世界でも頭角をあらわしていたが、古賀政男に見いだされ昭和33年、29歳で歌謡曲デビュー。それが古賀政男作の「無法松の一生」だった。皮肉なことだが、戦前戦後聞く娯楽として一世を風靡した浪曲は歌謡曲の発展とともに衰退していくことに。

作曲の古賀政男はあらためていうまでもない「歌謡曲の父」。
作詞の吉野夫二郎は浪曲作家で、作詞家としては村田英雄の「海の悪太郎」「流れる雲」、やはり浪曲師出身の二葉百合子の「一本刀土俵入り」や「残菊物語」がある。

また、現在うたわれている ♪空にひびいた ではじまる「度胸千両」の部分はのちに付け加えられたもので、当初はなかった。この「度胸千両」の作詞も吉野夫二郎だが、こちらの歌が単独でうたわれるということはない(多分)。

つぎは村田英雄より6歳年上の三波春夫の昭和34年のヒット曲。

https://youtu.be/gn2WwDdTg8k?si=_U-ssXu4CrRfqCEw

新潟出身の三波春夫は16歳のとき「南篠文若」の名で浪曲師デビュー。その後従軍し敗戦後は4年間シベリアに抑留されるという苦難を味わっている。
帰国後、浪曲師として復活するが、その行く末を予感してか32年に歌謡曲に転向。民謡の三橋なら浪曲の三波だとばかり所属のテイチクレコードが総力をあげて売り出し、2枚目のシングルの望郷歌謡曲「チャンチキおけさ」が大ヒット。33年のNHK紅白歌合戦に初出場。
「大利根無情」は34年リリースで、実際にあったヤクザ同士の縄張り争いを描いた講談・浪曲「天保水滸伝」の中の架空の用心棒・平手造酒を主人公とした歌。
この年のテイチクナンバーワンヒットとなり、三波春夫は押しも押されもせぬ歌謡曲の王道をゆく歌手となっていく。

余談ですが、学生の頃、夏休みに昔の歌舞伎座で恒例だった「三波春夫ショー」の大道具のアルバイトをしたことがあって、好きでもなかった三波春夫をこの「大利根無情」と「チャンチキおけさ」に魅了されてすっかりファンになってしまった。
この歌に関しては以前とりあげたので、作曲は長津義司、作詞は猪又良ということで。

最後は昭和36年に発表された、江戸時代から人気の忠臣蔵を題材とした時代物の歌を。

https://youtu.be/VJGsZG24Jlg?si=wJim3nXgvvDPY1rB

これまた浪曲師・真山一郎の昭和36年のヒット曲。

忠臣蔵は昭和の時代までは、年末の時代劇映画の定番であり、NHKの大河ドラマでもとりあげられ、大佛次郎や池波正太郎をはじめ外伝をふくめ小説としても多くの作家がとりあげたドラマチックなストーリー。
日本人の好き(だった)な人情・仇討ち物で、今風にいえばいじめられ我慢の限界を超えた藩主が公の場で刃物をふりまわしいじめた当人を傷つけたため、切腹の刑に処せられ、藩は取り潰された。そのことに納得できない藩士たちが徒党を組みいじめた当人の家に殴り込みをかけ、その首を打ち取ったという仕返しストーリー。
観客・読者は相手の首をとったところで歓喜の涙を流し、そのご47人の元藩士たちは切腹に処せられる(そういう時代)ところで哀悼の涙を流すのである。
ただ近年、打ち取られた相手側の地方から「いじめはなかった」「濡れ衣である」という反論も出ている。

真山一郎も山口県出身の浪曲師から歌謡曲デビューした歌手。36年にこの「刃傷松の廊下」をヒットさせたが、以後ビッグヒットはなかったが、その後は独自の歌謡浪曲を最後まで貫いた。
作曲は桜田誠一でほかには「川は流れる」(仲宗根美樹)、「銀座の蝶」(大津美子)、「あの娘たずねて」(佐々木新一)などのヒット曲ををつくっている。
この難解な詞の作者・藤間哲郎はキングのエースでほかに「おんな船頭唄」(三橋美智也)、「別れの波止場」(春日八郎)、「東京アンナ」(大津美子)、「お別れ公衆電話」(松山恵子)などのビッグヒットがある。
いまは令和の世の中。富島松五郎も天保水滸伝も忠臣蔵も、さらには村田も三波も真山も、さらにさらには浪曲も歌謡曲も忘れられていくのは仕方がない。

おまけは彼女のカヴァアルバムにも意欲的に取り入れられているポップスを。「演歌ばかりじゃないわよ。ポップスだって上手いんだから」という彼女の声が聞こえてきそうなので、それではお口並み拝見ということで。
いろいろあるのですが、動画があるカヴァとなると限定されます。
ここは歌上手同士のデュエットで。

https://youtu.be/FKaWJ9rUPWc?si=qydVehJbWMv-Kj1n


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一度決めたら二度とは変えぬ [歌謡曲]

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今回も現役演歌歌手の歌謡曲カヴァを。
市川由紀乃は1976年生まれでデビューから30年というベテラン歌手。
以前小林旭の「さすらい」のカヴァを聴いたので、そのときほかのカヴァもいくつか聴いた。とにかくこの歌手もカヴァが多い。つまり歌が上手ということに。

市川由紀乃は芸名で、師匠の作曲家・市川昭介からつけたそうだ。
市川昭介といえばコロムビアの専属で、「出世街道」(畠山みどり)、「涙を抱いた渡り鳥」(水前寺清子)、「絶唱」(舟木一夫)、「好きになった人」(都はるみ)など多くのヒット曲をつくったヒットメーカー。どちらかというと古賀政男の流れをくむ和風の楽曲が中心で、現在の演歌でいえば正統派。
市川由紀乃はそうした師匠の教えを受けただけに筋金入りの正統派演歌歌手。

なぜか師匠の楽曲のカヴァはみつからなかった。
今回は演歌歌手なら男女を問わずカヴァしたくなる美空ひばりの30年代後半から40年代にかけての3曲を。

まずは昭和38年のこの歌。

https://youtu.be/TD4-FqMOXAk?si=3g9yu4J3GrJ4P1W8

昭和38年といえば初代東京オリンピックの前の年。
景気の上向きで老いも若きもバカンスに興じはじめた頃だが、世相的には「吉展ちゃん誘拐事件」や「狭山事件」が起こり、海外ではアメリカ大統領のJ・F・ケネディが暗殺されていたり、暗い事件はいつの年でも。
歌謡曲では舟木一夫の「高校三年生」が大ヒットして、青春歌謡の幕があいた。
「哀愁出船」はその「高校三年生」を作曲した遠藤実の作品。
昭和32年「お月さん今晩は」(藤島桓夫)でヒットメーカーの仲間入りした遠藤実だが、以後北原謙二、こまどり姉妹、山本リンダ、小林旭、五月みどり、千昌夫ら多くの歌手のヒット曲を書くことになる。
いわゆる「演歌」では古賀政男に次いでヒット曲を多産している。

歌は時代にのったマドロスものというか、伝統的な港の別れ歌で、美空ひばりには「哀愁波止場」もあり、こちらはライバル・船村徹の作品。

♪うしろ髪ひく 哀愁出船
とその別れを描いた作詞家は菅野小穂子。
ほかには新沼謙治の「青春想譜」があるだけで謎の人物。この歌も作曲は遠藤実なので、もしかしたら菅野小穂子の実体も作曲家自身なのかもしれない。

つぎはミニスカートが流行し、ラジオの糸居五郎はじめの「オールナイトニッポン」がはじまった昭和42年のヒット曲

https://youtu.be/GXlfhsS5C6s?si=NY02FrXm1WCD4-08

流行歌的にはその前年からはじまっていたグループサウンズの絶頂期。
ブルーコメッツの「ブルーシャトー」はその年のレコード大賞を受賞している。
そしてこの「真赤な太陽」だが、作曲はバンドマスターの原信夫だが、ブルーコメッツのメインコンポーザーで管楽器&ヴォーカルの井上忠夫が編曲を担当していて、ブルーコメッツはひばりのバックバンドとしてしばしば共演していた。動画の三原綱木はブルコメのリードギタリスト。
はやい話がGSの大流行に便乗した一曲なのだが、これが大ヒット。

かつてならマンボ、チャチャチャ、ロカビリー、ツイスト、ドドンパとその時流行りのリズムを貪欲に取り入れてきた美空ひばりの「流行好き」の一面がみられる一曲。
作詞はのちに「真夜中のギター」(千賀かおる)、「八月の濡れた砂」(石川セリ)、「さざんかの宿」(大川栄策)をてがける吉岡治。

最後は「日航機よど号のハイジャック事件」と「楯の会・三島由紀夫の割腹事件」で騒然となった昭和45年の歌。

https://youtu.be/9oJe13XwmVw?si=kyGA2tHUh4z6BtOr

「苦しみ抜いて」「埋もれて耐えて」「生きる試練」「意地をつらぬく」「根性の炎を抱いて」「決めたこの道まっしぐら」「花は苦労の風に咲け」
と全篇が「説教ソング」というか古い言葉でいえば「人生の応援歌」。もちろんタイトルの「人生一路」もでてくる。
作詞したのはコロムビアの重鎮のひとり石本美由起。代表曲には「憧れのハワイ航路」(岡晴夫)、「柿の木坂の家」(青木光一)、「矢切の渡し」(細川たかし)などがある。美空ひばりでは「港町十三番地」、「哀愁波止場」、「悲しい酒」など。

作曲はかとう哲也。ひばりの実弟である。
姉の歌を中心に20曲あまりつくっているが、ヒットしたのは「人生一路」のみ。
ほかの曲はしらないが、この曲については以前なにかの本で、実際は昵懇にしていた著名な作曲家がつくったもので、「かとう哲也」名義でリリースされた、と書かれていた。
真偽のほどは不明だが、専門的に音楽を勉強したわけではないようで、名義だけでなくとも、その作曲家の指導を受けながらつくったという可能性はある。

今日は一日家に。
なによりも大谷のエンジェルス戦が雨天延期になってしまったのが残念。ゆっくり試合を観れると思っていたので。
また高校野球決勝も明日だし、このブログを書きながらずっとテレビをみておりました。
ニュースショーがいちばんヴィヴィッドなのでそこにチャンネルを合わせて。

それらを見て感じたのはギスギスして生きにくい世の中になっているということ。なにか潔癖性、品行方正さを強く求められて息苦しい世の中に。

わたしは自民党支持者ではないが、パリへ視察旅行をして楽しんでいる写真をネットに上げて女性局長を辞任したという自民党議員。税金が入っていたとはいえ、仕事もしてるようだし、多少観光してもいいのではと思う。観光してもネットにあげなければセーフだったのならばSNSではしゃいでいたことがアウトということに。いささか意地悪なバッシング。

韓国出身の女性タレントがイベント会場で観客から胸をさわられるなど性被害にあったというニュースもあちこちでやったいた。痴漢は犯罪だけど、つぎに問題なのはイベント運営会社の警備体制ではないか。タレントの服装はイベントの衣装なので問題はないけれど、映像をみるかぎりファンと接近したときガードマンがおらず、まったくの無防備。もし凶器を持った暴漢がいたらもっとひどい事件になっていたはず。イベント会社は当然そういうことも想定できたはずで、責任はあると思うし、加害者告発の会見には違和感。
また故意かどうか不明な時点で加害者をたたきすぎでは。報道はそれほどこの性加害をたたくのならばもっとジャニー喜多川氏の「犯罪」も掘り下げるべきで、告発者たちがうごいたときだけ報道するという姿勢はいまだ芸能事務所に忖度していると思われてもしかたがない。

日大アメフト部の再家宅捜索も各局で放送していた。しかし他の某大学ボクシング部でも複数人が大麻で逮捕されているがあまり報道されない。というか「林真理子」、「日大アメフト」の通りのよいキーワードで日大ばかりがとりあげられている印象。某大学の逮捕者たちは大麻を「売っていた」ようなので、より罪は重いとおもうのだが。
それに日大アメフト部の活動停止について、関東連盟が決めたように試合に出られないのは当前だが、練習までしてはいけないというのは疑問。たとえ部員たちが先輩同僚後輩のなかに大麻を使っていた人間がいたことを知っていたとしても、自分たちがつかっていなかったのならば練習をしてもいいのでは。まるで廃部にせよといわんばかりのバッシングとは部活を生き甲斐にしている若者にとっては非道い話だ。

テレビを見ているとついつい余分なことが思い浮かんできてしまう。あくまでテレビから世間をのぞいている昭和の人間の愚痴だとおもって聞き流していただければ。

おまけは市川由紀乃に戻って、ややタイミングを逸してしまいましたが、これもある意味反戦歌というひばりではない昭和の名曲を。

https://youtu.be/-fOmNIK-rkI?si=laiYYOnbjF7U0MEo

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みたびゆるすまじ [戦争]

日本海海戦.jpg

https://youtu.be/zq9pXGShrHk

昭和29年につくられた「原爆を許すまじ」は原水爆禁止運動のテーマソングのような歌で、昭和30年代には労働組合や市民団体で、あるいは「うたごえ運動」や「うたごえ喫茶」でよく歌われました。当時ワルシャワで開かれた青年学生友好祭の音楽コンクールで2位に入賞したそうです。作は浅井石二は生粋の労働者で生涯唯一の名作をつくった。作曲の木下航二は都立日比谷高校の先生で、これも労働歌として30年代の「うたごえ運動」でよくうたわれた「しあわせの歌」(作詞は石原健治)の作者でもあります。

原子爆弾が究極の武器であり、最終戦争に使用されるものと考えると「原爆を許すまじ」
は反戦歌そのもの。それも2度の被害にあった日本が発信できる唯一無二のワールドワイドな反戦歌ともいえる。

日本で反戦歌が盛り上がったのは昭和40年代半ばだったが、そもそもそれ以前に日本に反戦歌があったのか。日本人の国民性として「反戦」はなじまないものなのかどうなのか。

日本最古であり、とうぜん嚆矢ともなる反戦歌は明治37年に勃発した日露戦争時につくられた。それが、
♪ここは御国を何百里 離れて遠き満州の 赤い夕陽に照らされて 
ではじまる「戦友」である。

https://youtu.be/eHssWQN_gQo

これは京都の歌人・真下飛泉によって書かれ長詩で、厳しい戦火をくぐりぬけ生還した男が村長になるまでが綴られているらしい。そのうちの戦争に関する14話までに陸軍に所属する三善和気が曲をつけた。
軍の規則を破ってまで敵の攻撃で負傷した戦友の介抱をしたり、戦死した友の遺品である時計がポケットの中でコチコチ鳴っていた、などと厭戦気分のあるれる詩的な言葉が綴られていて、昭和の太平洋戦争時でも兵士には人気の歌だったという。

この歌が果たして反戦かなのかという疑問もあるが、少なくとも太平洋戦争中はうたうことが禁じられていたというし、戦争のいたましさや厭戦気分を受けるという意味で反戦歌と考えてもいいのではないだろうか。
日本の反戦歌には「戦争は知らない」にしても「さとうきび畑」にしても直接というより戦争の悲劇を語ることで間接的に反戦を表明している歌が多い。これこそ日本人の国民性なのかもしれない。

ただ明治・大正期(そして昭和の20年までは)、「反戦」という言葉は日常的にはつかわれていなかったのではないだろうか。当時の日露戦争に反対する社会主義者やキリスト教者あるいはリベラリストは「反戦」ではなく「非戦」という言葉をつかっていた。
当時のリベラル派新聞、万朝報や平民新聞でも「非戦」がつかわれていた。
「戦友」の作者の真下飛泉の「飛泉」は雅号であり「非戦」からとったとも考えられる。

またその頃、町では社会の出来事などに「節」をつけてうたうラッパ節(演歌節)が人気で、なかでも知られていたのが演歌師・添田唖蝉坊。
彼のうたう多くは多くは税金苦や反資本家などの世相を舌鋒鋭く撃つ「ラッパ節」だったが、なかには、

●「大臣大将の胸先に ピカピカ光るは何ですえ 金鵄勲章かちがいます 可愛い兵士のしゃれこうべ」とか
●「名誉名誉とおだてあげ だいじな倅をむざむざと 砲(つつ)の餌食に誰がした もとの倅にして返せ」

などという反戦歌つまり「非戦歌」もあった。これは非戦論をかかげて万朝報を退社し、平民社を起こした幸徳秋水や堺利彦に共感してつくったものといわれている。
これらも「反戦歌」といえばいえる。

それから「無風」の大正時代を経て昭和へ。
どんな自信に支えられたのか、日本は中国へ侵入し、さらには世界の連合国と一戦構えるという暴挙にでます。
もはやラジオやレコード・蓄音機の出現に支えられて日本全国に歌謡曲、流行歌が急激に浸透していった時代、当然反戦歌もあちこちに。と思いきや、これがまったくといっていいいほど見当たらない。それどころか時代がすすむごとに、ラブソングや抒情的な歌などは緊急時にうたう歌か、女々しいとばかり検閲という国家権力によって封印されてしまう始末。
つまり「歌の自由」は帝国主義国家が解体される敗戦時まで続いた。このように歌を作った人、うたった人が皆同じ方向を向いていた不幸で奇妙な時代の話は長くなりますので、いつかまたということに

ただ昭和の時代、40年代までに「反戦歌」や「非戦歌」がまったくなかったかといえば、そうともいえない。昭和10年にかのサトウハチローの詩に小学教師の徳富繁が曲をつけた「もずが枯木で」は日中戦争の悲劇をうたったもので、
♪兄さは満州へ行っただよ 鉄砲が涙で光っただ もずよ寒いと泣くがいい 兄さはもっと寒いだろう
という部分がまさに「反戦歌」。もっとも当のサトウハチローは反戦とか非戦という思想をもっていたわけではない。佐伯孝夫同様、数は少ないが「御国のために」とか「勝利の日まで」などという軍歌もつくっている。ただ「もずが枯木で」は彼が持っている叙情性がつくらせたもので、戦争によって起きる家族の悲劇を感じ取っていたという意味で厭戦という考え方はあったのかもしれない。

とはいえこの歌が「反戦歌」として陽のめをみたのは戦争直後、20年代のなかば頃から全国的に広がった「うたごえ運動」によって。うたごえ喫茶などでもよくうたわれたらしい。もちろん当時の男女は「反戦」を意識しながらうたっていたのである。

昭和40年代の半ばには岡林信康が再々発掘して、フォークファンの知るところとなった。
今回はその岡林の音源で。やや長めの「前説」付ではありますが。

https://youtu.be/56S52eXkAkA

昨今、わざわざ他所の国へ行って「戦う準備を」なんて演説をした某自民党政治家にはあきれた。誰に向けて「戦闘態勢を」と煽ったのか。訪問国の人たちに対してなら「大きなお世話」だし、外国から日本の国民にたいしてのメッセージなら、そんなこと「自分の国で言えよ」ということになる。

その某政治家はとにかく品性にも問題がある。なのにマスコミは彼に甘い。
元総理の孫だからなのか、暴言が清々しいとでも受け止めてるのか、あるいはマンガ好きだから若者の気持ちがわかっているとでも思っているのか。たんに世間知らずで、品性に問題があり、活字がキライなだけなのでは。
本気でかの大国と一戦交えるつもりなのか。頼りにしているもうひとつの大国に梯子を外されるかもしれないとは考えてもいないのだろうか。彼も自民党も。とにかくマスコミは彼に寛大すぎる。かつての某音楽事務所に対するように忖度の度を越えている。

いささかヒートアップしました。クールダウンして最後にもう一度「原爆をゆるすまじ」を。反戦歌の父の歌で。

https://youtu.be/AxH4FWjHdMM
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坊や大きくなっとくれ [フォークソング]

軍国の母.jpg


https://youtu.be/3WMSS9oum5Y

終戦記念日になるとマスコミは毎年判を押したように、凝りもせずセレモニーの模様を報道する。その数日前あたりから戦争の悲惨さを伝える企画番組、記事を発信する。そして日にちが変わると、もはや戦争報道などなかったようにいつもの日常に戻る。これが70数年間続いている。

これでいいのだと思う。365分の1日であっても毎年懲りずに発信することがかつてあの戦争に加担したマスコミの役割であり、本来のあるべき姿なのだと思う。
「誰も読まないし、見てないよ」といわれてもいいのである。超マイノリティであっても誰かたちが受信しているはずなのです。
彼らが受け止めている以上、万が一の危機が訪れようとしたとき、あの時代ののように流されていく社会に対して杭を打ち込んでくれるかもしれないのだから。多分。

だからたまには反戦歌を聞いてみるのもわるくない。

日本の反戦歌がもっとも盛り上がったのは昭和40年代の半ばあたり。西暦でいえば1960年代後半。
反戦というくらいなので、なにか戦争があったはずである。歌というくらいなのでなんらかの歌のスタイルがあったはずである。それが、ベトナム戦争であり、アメリカからやってきたフォークソングだった。

つまり、おせっかいにも日本では自国の戦争ではなく、海の彼方の国で起きている戦争に対して反対を表明する歌が生まれたのである。それもひとつやふたつではなく。

50年代とほぼ時を同じくして起こったベトナム内戦とアメリカのフォークリバイバル。
そして1964年にはアメリカが「民主主義」と「正義」を掲げてベトナム戦争へ参戦していく。
ところが60年代後半になると、戦争の泥沼化と、多くの若者の犠牲によりアメリカ国内でその「正義」に疑問をもつ人たちが増えていくことに。つまり反戦、厭戦気分がたかまり、その気分は文学や舞台、映画とともに音楽にも反映されていく。音楽ではとりわけ若者中心で、自由を求める歌が多かったフォークソングにその影響が顕著に現れることに。

プロテストソングの発生である。代表的なものをいくつかあげると「花はどこへ行ったの」、「悲惨な戦争」、「風に吹かれて」、「勝利をわれらに」、などがあり、シンガーとしてはピート・シーガー、ジョーン・バエズ、ボブ・ディラン、ピーター・ポール・アンド・マリーなど。

つまり、日本の反戦歌はアメリカのフォークソングのカヴァからはじまったのである。
当初、それは関東の大学生たちからはじまり、カレッジフォークなどとよばれた。それがハッキリとしたメッセージとして反戦がうたわれるようになったのは、関西からで、これはアメリカの「北爆」をはじめベトナム戦争が激化し、日本のなかでベトナム反戦運動が起こったことが大きく影響している。

その嚆矢が高石友也で、「戦争の親玉」などボブ・ディランの歌をみずから訳してうたいはじめた。彼に続いて、岡林信康、中川五郎、五つの赤い風船、加川良などがオリジナルのプロテストソングをつくり、当時流行りの深夜ラジオ放送などを通じて全国に広まっていった。

随分「前説」が長くなりましたが、今回聴いてみたいのは昭和44年(1969)に高石友也とマイケルズの共作としてリリースされたベトナムのカヴァ曲「坊や大きくならないで」。

https://youtu.be/Znl4LvEfZTQ

つくったのは1939年生まれのベトナムのシンガーソングライター、トリン・コン・ソン。正確な年代は不明ですが、たぶん60年代後半につくられた「坊や、お休み」という歌が日本で紹介され、先のふた組のカヴァとなった。
大ヒットしたという記憶はありませんが、何度も聴いたことがあるし、多くのシンガーにカヴァされて(カルメン・マキや森山良子などもカヴァしていた)いたので知っている人も少なくないのではないでしょうか。

意外なのはあまりこの歌に関する情報がないということ。たとえばマイケルズというグループの詳細が不明。レコードジャケットから男性3人組ということはわかるが、出身とか各個人の名前等はわからない。ということは2枚目をレコーディングするまえに解散してしまったのかもしれない。
また作詞の浅川しげるという人物も不明。ほかに作詞活動をした形跡がなく、推測すればベトナム語に堪能な方で、レコード会社から依頼されて翻訳したのではないか、ということに。

歌の内容は、訳詞が原曲に忠実ということを前提にすると、父親を戦争で亡くした幼ない男の子を寝かしつける母親の心情をうたったもので、大きくなれば父親と同じように戦地に行かなければならないだろう。そしてまたお前お失わなければならなくなるかもしれない。だからこのまま大きくならずにわたしの傍にいてほしい、という母親の思いがうたわれている。

通常ならば子どもに対して「元気に育ってほしい」と思うのが母心であり親心なのだが、そうした思いを歪めてしまっているのが戦争なのである。

ウクライナとの戦争で、ロシアには息子に戦争へ行ってほしくないという母親は少なくないという報道もあった。とうぜんだろう。どこに自分の息子に最前線へ行って敵を倒してきなさい、なんて親がいるだろうか。

というのは正論かもしれないが、そういう母親もいる、いやいた。
正しくいえば、母親が幼子に対して「早く大きくなって敵を倒し、国を守ってね」といったのではなく、いわされたのであり、そういう思いにさせられたのである。

それが80年あまり昔の日本の戦争で、国家が強いた母親の心構えだった。
当時の母親にとって息子が兵隊に召集されることは当たり前で、万歳三唱で戦地へ送ることも仕方のないこと。せいぜい無事を祈るしか術がなかった。もし戦死したとしても、恨み言をいわずそれを名誉と思わなくてはいけない。それが当時の国民の、さらには母親の共通認識だった。
いまでは考えられない一億総洗脳社会だが、それが戦争であり、それが帝国主義国家だったのである。
もちろん当時、歌といえばほぼ戦争を鼓舞する軍歌で、反戦歌なんて日本中どこを探しても「存在しない時代」だった。

太平洋戦争が起きた翌年の3月、「海の母」という歌がリリースされた。
「産みの母」とかけてるのかもしれないが、国家の検閲をクリアした「りっぱな」軍国歌謡である。残念ながらYOU-TUBEに音源がなかったので、その詞を書き記しておく。

「海の母」

坊や大きく なっとくれ
撫でてさすって 願かけて
風の吹く日は 袖屏風
抱いて寝かせた 夜の鶴

ねんねんおころり 子守唄
寝ればねたとて 可愛い顔
あかず眺めて 手枕も
ほんに昨日か 一昨日か

雨の降る夜も 母の灯は
なんで消えましょ 赤く点く
照らせわが子の 進む艦(ふね)
海は日本の 母ぢゃもの

ほぼ普通の母の子に対する思いが書かれているが、戦時中だということと、最後の2行をみれば、早く大きくなって立派な兵隊さんになり、御国のためにたたかっておくれ、という母の声が聞こえてくる。

この歌は、それまで「燦めく星座」や「新雪」(いずれも灰田勝彦の歌唱)をつくった佐々木俊一(曲)と佐伯孝夫(詞)のコンビによってつくられた。
つまり母親がつくったのではなく、「父親」たちがつくったのだ。

戦後、「いつでも夢を」(橋幸夫・吉永小百合)や「有楽町で逢いましょう」(フランク永井)「再会」(松尾和子)などをつくり昭和30年代ナンバーワンのヒットメーカーだった佐伯孝夫は、戦時中軍歌をいくつかつくったが、当時の売れっ子作詞家にしてはきわめて数が少ない。元来「夢見る人」である佐伯は、争いごとは嫌いという温厚で優しい人柄だった。だから勇ましい詞は苦手で、上の「海の母」がせいいぱいの軍歌だった。それでも当時の母親に成り代わって早く子どもを戦地へ送ろうと扇動したことは否定できないだろう。

たかが歌ではあるけれど、百年も経たない昔の戦争中に「坊や(早く)大きくなって」という考え方が常識だった時代があったのである。
そういう時代が来ないようにたまには反戦歌が聴こえてきてもいいのだ。
ベトナム戦争のような海の向こうの戦争で日本に「坊や大きくならないで」が流れ、多くのオリジナルの反戦歌が生まれたのだから、ロシアのウクライナへの侵攻あるいはミャンマー軍事政権による民主化運動弾圧に対して反対を表明する歌が聴こえてきてもと思うのだが。とりわけ若者のIPOPから。

おまけは軍歌を。
「海の母」のコンビによってつくられた歌で、うたったのも「海の母」同様、戦前戦後芸者シンガーとしてしられた小唄勝太郎。と思いましたが、やはり終戦記念日まじかなので軍歌はちょっと控えて。
実はこのうた戦後の昭和30年代、歌詞を一部変えて三沢あけみがリバイバルヒットさせています。なのでそちらのほうを。

https://youtu.be/cSVxj3k955s
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生活とロックはイコールやけん [ロケンロー]

シーナ&ロケッツ.jpg

ネットニュースで「シーナ&ロケッツ」のドキュメンタリー映画がこの25日から全国公開されると報じておりました。

先日遅ればせながら、録画しておいた鮎川誠追悼のテレビ・ドキュメンタリーをみたばかりでした。
以前、YOU-TUBEでみた映像(これもドキュメンタリー?)がひんぱんに出てきたように思ったが、それはともかく。
やさしくて、家庭的で、ナチュラルで、真剣で、ロッカーで、という昔から抱いていた彼へのイメージそのままでした。再現シーンは蛇足だと思いましたが。

今年の1月でしたか、鮎川誠が亡くなったというニュースは強い印象が残った。
わたしより少し兄貴ですが、ほぼ同世代。74歳ははやすぎると思うけれども、わたしの周囲の同輩、先輩たちを思えばいつ亡くなっても不自然でない年齢なのかもしれません。

サンハウス時代は知りませんし、コアなファンではないけれどが、シーナ&ロケッツとしてメディアにではじめた頃から鮎川は誠に気になるロッカーでした。

https://youtu.be/0_ZjRmZk8sc

背が高くて、スマートで、短めの髪にサングラスや黒ぶち眼鏡、ジーンズではない衣装にこだわってレスポールを弾くというスタイルがほかの日本のロッカーとは違っていましたし、単にヴィジュアルでみてもカッコよかった。
そしてあのしゃべり。博多弁?にのせてロックを語る。なんともやさしく柔らかな話しぶり。

いまは知りませんが、当時の日本では「反日常(的)」「反社会(的)」というポーズをとるロッカーが多く、いわゆるワルや不良でなくてはロックじゃないなんて風潮もありました。そんななかで鮎川誠はとても自然で「ドキュメンタリー」のなかで語っていたように、彼の生活そのものがロックだったから、わざわざアウトローのポーズをとることはなかったのでしょうね。

https://youtu.be/CkdLhjF1w0w

もうひとつ彼のそうした「佇まい」からインテリジェンスすら感じていました。
そんな思いをいっそう強くしたのが、もう20年ちかく昔に読んだ彼の本。

鮎川誠には著書が共著をふくめ何冊かあります。
もちろんすべてロックの話なのですが、そのなかでも異色の本が「DOS-Vブルース」。

実はこの本、その道の人はわかるとおりパソコンの本なのです。
「DOS-V」とはパソコンのOS(基本ソフト)のことで、ウィンドウズが世に出る前のIBMのオペレーションシステム。
1995年に画期的なウインドウズ95が発売され、その使いやすさから多くのユーザーを増やすことになりましたが、DOSはそれ以前のパソコンに搭載されていた小難しいOSでした。
つまり鮎川誠はウィンドウズが発売される前からパソコンと取り組み始めたわけで、この本「DOS-Vブルース」はいわばパソコンに挑んだ奮戦記なのです。
ちなみにウィンドウズ95が発売された当時、マイクロソフトのテレビCMでこんな歌が流れていました。

https://youtu.be/SGyOaCXr8Lw

ローリング・ストーンズは鮎川誠の大好きなバンドで作家の山川健一との共著で「ローリング・ストーンズが大好きな僕たち」という本もあります。

話を「DOS-Vブルース」に戻しまして。この本はロッカー鮎川が必死でパソコンと格闘している様子が記されているのかというとそうではない。彼がパソコンをはじめたのもすべてロックのため。したがって横糸でパソコンを習得し、やがてホームページまでつくってしまう模様を時系列で描きながら、縦糸では彼の真骨頂であるロック人生がそれこそリトル・リチャード、ストーンズからはじまるロック遍歴、あるいは現在(当時の)進行形の内外のロックへの関わり方やYMOやロッカーたちとの交遊録を描くという前代未聞の電脳ロックブックなのです。
パソコンが苦手な人は、その部分を飛ばして読んでも充分読みごたえがあります。

実はわたしもほぼ彼と同じ時期より「DOS」すなわちパソコンと関わりはじめ、その本に書かれた彼の苦労と同じ経験をしているので、とても強烈な印象と共感を覚えたものでした。

この本は文庫化もされたはずです、古いファンはおそらく読んでいるでしょうが、若い人でもシーナ&ロケッツや鮎川誠に興味のあるひとにはおすすめの本です。ただ古い本なので入手むずかしいかも。増刷になればよいですが、多分むりかなぁ。


鮎川誠の死は愛妻・シーナが亡くなってから8年後のことでした。
これでシーナ&ロケッツは完全に消えてしまうのでしょうか。亡くなるすこし前から彼とシーナの娘さんをヴォーカルとしてシーナ&ロケッツの活動をしておりましたが、どうなるのでしょうか。バンドの入れ替えはごく普通のこととはいえ、鮎川誠のいないシーナ&ロケッツは考えられないけれど。

おまけは久しぶりに聴いた「レモン・ティー」が懐かしかったので、その元歌を。
ジェフ・ベックも昨年の12月に亡くなりました。78歳だったそうです。
ロッカーだって歳をとるし、ロッカーだって永眠する。

https://youtu.be/mz4mqshe_54

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明るく明るく走るのよ [歌謡曲]

百日紅と入道雲.jpg


真夏だから暑いのはあたりまえだけど、突然やってくるスコールがやっかい。きのうも家から出たとたんポツポツと。引き返して傘を手にして再出発。雨を見たかいなんて余裕もなく激しい雨に。
それでも、1時間あまり用事をすませて外へ出ると手にした傘がマヌケに見えるほどの青空にお陽さまサンサン。
年寄りはなるべく家にてテレビでも見ているのが無難なようです。

きょうは降らなかったけれど、空にはみごとな夏の雲が。
天には白い雲に青い空、そして地には鮮やかな赤い花をつけた百日紅並木。
夏ならではの光景でしょうか。

話変わって、エンゼルスのPSシリーズは絶望的で、大谷もビッグアーチが不発ぎみでウォチャーもいまいちスッキリしない。贅沢はいいません、せめて大谷にホームランキングMVPを獲ってほしい。
今夏はスポーツの花盛り。いまは女子ワールドカップ。なでしこジャパンは優勝アゲインがありそうな勢い。スピードと個々のテクニックが抜けてるよう。少なくとも男よりは世界レベルのチーム。それ以外でもこれからはワールドワイドでいえばラグビーがあり、バスケがあり、陸上もあるし、バレーもあるし楽しみは多い。とりわけ世界陸上は楽しみ。

そして夜の寝しなには相も変わらずYOU-TUBEで音楽を。これまた相変わらず歌謡曲のカヴァが「睡眠導入剤」にはもってこい。

今回は現在休業中という林あさ美を。
青森県出身で幼い頃から民謡と演歌に接していたというよくある経歴。平成8年にデビューし、当初は演ドル(演歌のアイドル)と呼ばれていたとか。
音楽以外でもテレビ、ラジオで活動したい多様だが、なぜか平成25年より休業している。
それでもTOU-TUBEがいくつも残っているということはやがて歌手活動を再開するのかもしれない。

まずはこの曲を。

https://youtu.be/NzA__3QzBYY

「東京のバスガール」は昭和32年の大ヒット曲。
うたったのはコロムビア・ローズ(初代)。幼い頃、彼女がバスガールの制服と帽子をまとってうたう姿をテレビで見た記憶がある。わたしにとってもっとも古い歌謡曲の映像かもしれない。
いまや観光バス以外では見ることのできないバスガイドさんの歌ですが、当時は「バスガール」といった。また昭和40年代のはじめころまではその姿をみることができた。その後、一気に現在のようなワンマンバスに切り替わって、あっという間にいなくなってしまった束の間の少女たちだった。
バスの振動を見事なフットワークでこなして、YOU-TUBEにあったような釣り銭と切符の入った蝦蟇口型のポシェットを提げた姿が可憐で、見とれていたり、口説いた男客も多かったのではないでしょうか。

作曲は「東京の花売り娘」(岡晴夫)や「白鷺三味線」(高田浩吉)、「銀座九丁目は水の上」(神戸一郎)などの上原げんと。作詞は「高原列車は行く」(岡本敦郎)、「山のロザリア」(スリー・グレイセス)、「高校三年生」(舟木一夫)などの丘灯至夫。

昭和32年といえば、終戦から12年目。その前の年には経済白書で「もはや戦後ではない」という宣言が出て、豊かさ行きの急行列車が走り始めた時期。今から思えばいちばん幸せな時代だったかもしれない。
そこで林あさ美の残りの二曲も昭和32年の歌を。
2曲目はやはり上原げんと作曲のこの歌。

https://youtu.be/OrjYJXPT26E

昭和24年「河童ブギウギ」でデビューした美空ひばりの8年目、111枚目のシングル「港町十三番地」。8年で100枚越え。今では考えられない。
ちなみに「港町十三番地」は彼女のシングル売り上げの第7位。ちなみに1位は「柔」で2位が「川の流れのように」で、ひとつ上の6位が「みだれ髪」。
とはいえ、この昭和32年は、彼女にとって災難の年。年明け、浅草国際劇場での正月興行でファンの十代の女の子から舞台上で硫酸をかけられ負傷するという被害を受け、興行も休演となった。「港町十三番地」はその2か月後にリリースされ、大ヒットとなり、みごとにマイナスイメージを払拭してみせた。

作詞は「柿の木坂の家」(青木光一)や「憧れのハワイ航路」(岡晴夫)、矢切の渡し(細川たかし他)のヒットメーカー石本美由起。
♪な~がい 旅路の 航海おえて
とはじまる「カッコイイ男」海の男をうたったマドロスソング。
そうです、この時代はマドロスがモテモテで、船、港、波止場をキーワドに旅立つ男に見送る女のドラマをうたったマドロスソングが全盛だった。誰もが身近にマドロスなんていなかったのに、なぜかキャプテンハットをかぶり縞のジャケツを着た「幻のヒーロー」が存在していたのです。

最後もそんなマドロスソングを今度は女の立場から。

https://youtu.be/g5B6RvRPH-E

「未練の波止場」は昭和30年「マドロス娘」でデビュー(松山恵子名義)した「おけいちゃん」こと松山恵子の大ヒット曲。
その後、「だから云ったじゃないの」や「お別れ公衆電話」などのヒット曲を連発したマーキュリーレコードのエースで、30年代の女性スター歌手のひとりだった。
彼女のトレードマークは「えくぼ」と「白い手袋に白いハンカチ」、そして小林幸子の先をいっていたときおり見せるビッグな衣装。ひばりや島倉千代子に対抗するにはこのくらい派手でなくては。

「未練の波止場」はタイトルどおり、航海に出るマドロスに「置いてかないで、連れてってよ」とすがる恋女の歌。
作詞は井沢八郎の「男船」や氷川きよしの「箱根八里の半次郎」をつくった松井由利夫。松山恵子では「だから云ったじゃないの」や「バックナンバー1050」も。
作曲の水時富士夫はほかに花村菊江の「潮来花嫁さん」や赤木圭一郎の「海の情事に賭けろ」などがある。

おまけも昭和32年の歌を。
この時代のリアルヒーローといえばマドロスさんではなく、その前年に映画デビューし、その主題歌もうたって一時代を築いていくことになる石原裕次郎。その32年のヒット曲「俺はまってるぜ」と「錆びたナイフ」をライバルのカヴァで。

https://youtu.be/qawN6f6hMzs

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みんながジロジロ見てるから [歌謡曲]

tokyoanna.jpg

今回のカヴァー名人は森山愛子。
森山愛子は以前から知っています。もちろんYOU-TUBEでみたのですが、シンディ・ローパーの前で童謡「赤とんぼ」をうたい、シンディを感動させた動画が印象的でした。
栃木の宇都宮出身で平成16年に「おんな節」でデビュー。
とにかく歌が上手なことはいうまでもありませんが、明るく愛嬌があります。YOU-TUBEに上がっているカヴァーはかなり多く、選ぶのがたいへん。
とりあえず今回は昭和30年代のビッグヒット3曲を選んでみました。

まずはじめは、島倉千代子の「この世の花」と同じ昭和30年の歌。うたうはやはり昭和30年代に歌謡界の主軸として活躍した女性歌手。

https://youtu.be/pbaFIL2BJxE

「東京アンナ」は当時流行のリズム、マンボを取り入れて大ヒット。同年にデビューした大津美子の2枚目のシングル。
大津は豊橋出身で「東海のひばり」といわれたほどの歌うま少女だった。デビューの2年前から当時キングレコード所属だった作曲家・渡久地政信に師事。「東京アンナ」はその師匠の作品。翌年には彼女の代表曲「ここに幸あり」を、32年には「いのちの限り」や「東京は恋人」、33年には「銀座の蝶」とたてつづけにヒットをとばした。

渡久地は戦前は歌手だったが無名で、戦後作曲家に転身。26年に津村謙の「上海帰りのリル」がヒット。そして29年には彼のというか、それまでの歌謡史上最大のヒットといわれた「お富さん」(春日八郎)を手がけた。30年代にはこの「東京アンナ」をはじめ「踊子」(三浦洸一)、「湖愁」(松島アキラ)、「島のブルース」(三沢あけみ)、さらに40年代には青江三奈の「池袋の夜」や「長崎ブルース」と息長くヒット曲をつくり続けた。

大人の社交場だったナイトクラブの花、踊子・アンナの神秘的な魅力を描いた詞は藤間哲郎。ほかでは「お別れ公衆電話」(松山恵子)、「別れの波止場」(春日八郎)、「東京の灯よいつまでも」(新川二郎)など昭和30年代を彩ったヒット曲がある。


つぎはまさに昭和30年代前半を代表し、歌謡曲を社会現象にまでたかめたシンガーの一曲。

https://youtu.be/OqDQGRdNLek

昭和33年(1958)、三橋美智也がうたった「赤い夕陽の故郷」。
北海道生まれで民謡歌手だった三橋美智也は昭和29年にキングレコードから、福島の新相馬節をベースにした「酒の苦さよ」で歌謡曲デビュー。翌年「おんな船頭唄」がヒット。以後、31年の「リンゴ村から」「哀愁列車」、32年には「俺ら炭鉱夫」「東京見物」「おさらば東京」、33年には「夕焼けとんび」「センチメンタル・トーキョー」そしてこの「赤い夕陽の故郷」がヒット。以後も「古城」「達者でナ」「星屑の町」とヒットを連発した。

そのファンの過熱ぶりは戦後最高とまでいわれたほどで、心に刺さるという意味でいまでもつかわれる「シビレる」という言葉は彼のファンが発信したもの、となにかの本に書いてあった。
彼の愛称は「ミッチー」で当時は「本家」がいたためかあまり大ぴらには言われなかったが、昭和50年代なぜか再ブレイクし、第二の「ミッチーブーム」をつくった。

「赤い夕陽の故郷」の詞はキングの主力作家で「下町の太陽」をはじめ数えきれないヒット曲をつくった横井弘。ワケあって故郷を離れた男の望郷の思いをつづっている。どこかカントリーの匂いがする旋律は中野忠晴。

中野は戦前「コロムビア・ナカノ・リズム・ボーイズ」のメインヴォーカルをつとめ、「ダイナ」や「ミルク色だよ」などのジャズや、師匠である服部良一の作品をうたっていた。戦後になると、作曲家に転身し「歌謡曲でなければヒットしない」と悟って和風に専念。その甲斐あって昭和33年にはこの「赤い夕陽の故郷」とともに彼の最大のヒット曲となる「おーい中村君」をつくっている。
とはいえジャズで育った体質ゆえ、ところどころにジャズやカントリーはたまたロックといった洋楽のニオイが感じられる。
やはり三橋美智也とのコンビとなる「達者でナ」は、馬産者と育てた馬との別れをうたった哀歌だが、そもそも舞台が牧場というのがカントリーっぽく(当時はアメリカの西部劇が大ブーム)、曲はなんとエルビスの「ハートブレイク・ホテル」をベースにしたというから驚き。いわれなければわからないけれど、いわれてみればナルホド

それはさておき、長くなっておりますので最後の曲に。
これも昭和30年代に一時代を築いたグループのヒット曲。

https://youtu.be/p26SfGNO_Gw

植木等をメインヴォーカルとしたハナ肇とクレイジーキャッツの37年のヒット曲「ハイ、それまでよ」。

ナベプロ創設期からのジャズバンドだったハナ肇とクレイジーキャッツ。ロカビリーからはじまってテレビの音楽バラエティを席巻したナベプロのバックアップで、コミックバンドとして大ブレイク。それを決定づけたのが36年にギターの植木等のヴォーカルで出したシングル「スーダラ節」。クレイジーキャッツの前身のキューバン・キャッツでクラリネットを弾いていたナベプロの座付作曲家・萩原哲晶が曲をつけ、当時若手放送作家として第一線で活躍していた青島幸男のC調な詞を書いて大袈裟でなく日本列島を席巻するウルトラヒットに。
以後植木等を看板とするクレイジーは、30年代、40年代のテレビ、音楽、映画、舞台の前衛として活躍する。

それから3枚目のシングルとなる「ハイ、それまでよ」も作詞・作曲は「スーダラ節」と同じで、編曲も同じくナベプロのジャズピアニストで作・編曲家の宮川泰(ひろし)。
とにかく詞も曲もしっとりしたムード歌謡風からはじまったと思ったらすぐにジャズ風、コミック風に「転調」するという、意表をついた当時も今でも前代未聞の楽曲。これがウケたのは間違いないが、いわゆる「ネタバレ」した2度目を聴いても面白い。
上記の製作スタッフはもちろん、クレイジーキャッツもベーシストの犬塚弘をのぞいて、みなさんお亡くなりになってしまいました。淋しいことですが、経過した時間を考えればいたしかたないのかも。ただ、いま振り返ると、もろもろ面白い時代を面白く生きた面白い連中でした。

おまけは戦後歌謡曲を代表する三橋美智也をもう一度。
民謡歌手・斎藤京子とのデュエットで。カヴァもアベックで。
この歌もよくラジオから流れておりましたっけ。

https://youtu.be/N7uivpTVc8w?si=EFVgQrCs65D47wZa
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