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we will miss your bright eyes and sweet smile [country]

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大谷が心配だ。
W杯女子サッカーでベスト8と健闘、バスケでも31位と大健闘したけれど、やっぱり気になるのは大谷の動向だ。
とくに肘を再手術するかどうかという大トラブルが発覚してからは、なんとなく日本の朝も曇りがち。おまけに脇腹までいためて2日連続でスタメンを外れた。
あと数試合で今シーズンを終りにし、手術するなどという報道もあってとても気になる。
たしかなことは、今季はもう投げないということだけ。
このまま大谷が残り全試合欠場したとしても、まずホームラン王は間違いなさそうだが、打点王は絶望的となる。まぁ規定打席には達しているようなので、初の3割バッターにはなるのだけれど。

ファンとしては、大谷ロスをなるべく短くしてもらいたいので、早期治療早期復帰でとり組んでほしい。一刀流でもよいから来季もファーストゲームからあの雄姿を見たい。どこのチームにいても。

ふたたびテレビコマーシャル。
「ユー・アー・マイ・サンシャイン」とほぼ同じタイミングでテレビCMからもうひとつのアメリカのルーツミュージックが流れてきた。

https://youtu.be/ltXcxFDkv5I?si=ZlxDTnRhA_y9E08G

実際にみたのはもっと短いヴァージョンだったが。「かんぽ保険」のCMで老齢者にササル洋楽ナツメロということで採用されたのでしょう。オクラホマミクサーのほうがポップにできそうな気もしますが、情緒に訴えるには「レッド・リヴァー・ヴァレー」なのかな。

邦題「赤い河の谷間」としても知られているこの歌がつくられたのは19世紀の後半といわれている。もちろんP.D.(詠み人知らず)で、ルーサー・B・クラークによって初めて録音された(「ブライト・シャーマン・ヴァレー」のタイトルで)のが1924年とうから大正末期。その3年後にライリー・パケットらによって「レッド・リヴァー・ヴァレー」として録音されている。
わたしが初めて聴いたのは多分小学校の音楽の授業だったと思うが、もしかしたらフォークダンスで聴いたような気もする。曲調もあるのだが、いつ聴いてもなつかしい。

古くはカウボーイとネイティヴアメリカンの娘との別れの歌で、男からの女からのという両方のヴァージョンがある。だから男女のデュオというのもめずらしくなく、以前、スティーヴィ・ニックスとクリス・アイザックとか、クリス・クリストファーソンとジュディ・コリンズで聴きました。

映画でも1936年、ジーン・オートリー主演の西部劇をはじめ「レッド・リヴァー・ヴァレー」を題名とした作品が何本かつくられている。また歌が劇中で流れていた映画としては「怒りの葡萄」をはじめ「トゥームストーン」、「わたしに会うまでの1600キロ」、「ジェーン」などがある。
当然テレビドラマの中でも何度もうたわれていることは想像できる。

https://youtu.be/BaGoRN8nsbQ?si=w8LD1H8rKLygPucG

ほんとに男女ともいろいろなシンガーがうたっていて、何を聴こうか迷う。以前も聴いたブギウギ調の「レッド・リヴァー・ロック」もあるし、ブルーグラスにアレンジしたものもある。
今回は、ウエスタン・スイングの「アスリープ・アット・ホイール」でジャジーな一曲を聴いてみたい。

https://youtu.be/LqFrGi10ilQ?si=nqltx2CN1VqGJE0K

ところでこの有名な歌にも「ユー・アー・マイ・サンシャイン」のようにオマージュソング?がある。

https://youtu.be/5_cIF04tMTY?si=mhd9SSgOwbA_ew3I

[Do you know you are my sunshine]が「ユー・アー・マイ・サンシャインを演ってよ」なら[Please don't play Red River Valley]は「レッド・リヴァー・ヴァレーを演らないでくれ」ということに。

この歌はジョニー・キャッシュ(またですが)の1966年のアルバム[Everybody Loves at Not]の中の1曲。
ハーモニカを買った友だちに、「ソルティ・ドグ・ブルース」や「愛しのクレメンタイン」とか「ポリー・ウォーリーの落書き」(いずれもアメリカの有名なルーツミュージック)でも練習しなよ。でも「レッドリヴァー・ヴァレー」だけはやるなよ。なぜってこの曲は俺が唯一吹けた曲で、ちょうどマスターしたとき彼女からハーモニカと一緒にポイ捨てされたからさ。
という失恋ノヴェルティソング。

「レッド・リヴァー・ヴァレー」は日本で言えばわらべうたの「赤とんぼ」のような感じで、アメリカ国民に親しまれているようで、ほかにも[Sing Me the Red River Valley]とか[She Sang the Red River Valley]などという歌もある。

おまけはやっぱり「レッド・リヴァー・ヴァレー」をもう一度。
タイトルは[Can I Sleep in Your Arms]ですが、旋律はまぎれもなく「レッド・リヴァー・ヴァレー」。

https://youtu.be/s15X3DM9Y9o?si=ifH_yoRXc_4JMNWK

半世紀あまり前のウィリーがうたうハートブレークソングで、「失恋して立っていられないほど苦しいんだ。だから今夜は君の腕で眠らせてくれないか。もちろん何もしないから」というなんとも厚かましい歌。でも気持ちはわかる。
ウィリー・ネルソンの1975年のアルバム「Red Headed Stranger」の中の一曲。こんな替え歌ヴァージョンがつくられることからも「レッド・リヴァー・ヴァレー」がいかにアメリカで親しまれているかがわかる。

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I dreamed I held you in my arms [country]

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ときどきテレビのCMでカントリーやルーツミュージックが流れてくることがある。シンガーは誰でも、歌詞はどうでもとてもいい気分になる。最近もそんなことがあった。

https://youtu.be/ki9jVUadVK0?si=6OpUXX1JQDzSKSPG

こうなるとやっぱりフルヴァージョンでホンモノを聴きたくなる。
久しくカントリーからご無沙汰で、先日「ブルームーンがまた輝けば」を聴いたのでそのせいかも。

「ユー・アー・マイ・サンシャイン」を歌ったり演奏しているアーチストはたくさんいる。また、何度も聴いているので今回は誰を聴こうか迷った。オリジナルのジミー・デイヴィスとか、ブルースマンのミシシッピー・ジョン・ハートやBBキングもいい。ただはじめはなるべく正調でとうことで、いささか画像はわるいけれどジョニー・キャッシュ、ジュン・カーター夫妻で。

https://youtu.be/JcnNb7Pnmok?si=HzdSdTYTfGAMokpK

「ユー・アー・マイ・サンシャイン」がつくられたのは1940年。当時「歌う映画俳優」としてB級映画に出演していたジミー・デイヴィスと彼のバンドメンバーだったチャールズ・ミッチェルによってつくられたことになっている。
ただ、これは1937年に作曲し39年にレコーディングしたという「ライス・ブラザーズ・ギャング」のポール・ライスから版権を買っただけのようだ。当時困窮していたポールからわずか37ドルで権利を買ったという

ポールは37年にある女性から「あなたの存在はわたしにとってまるで太陽なの」というラブレターをもらい、それをヒントにこの歌をつくったと、その制作過程を語っている。ところがそのポールも、すでに33年にこの歌をつくり公に発表したというオリバー・フッドから買ったのではないかという話もあり「真の作者」はいまだ決着していない。
たしかなことは、ソングライトとしてクレジットされているジミー・デイヴィスらが「真の作者」ではない、ということ。

ただこの歌で最も利益を得たのはジミー・デイヴィスで、これまでの著作権料はもちろん、この歌を最大限利用してルイジアナ州の知事になったのだから。その後この「ユー・アー・マイ・サンシャイン」はルイジアナ州の州歌になっている(3つあるうちのひとつ)。

聴き手としては誰がつくったとしても問題ない。あと10年も経ずしてパブリック・ドメインになってしまうのだから。

ではもう一度「ユー・アー・マイ・サンシャイン」を。
「ユー・アー・マイ・サンシャイン」が使用された映画といえば2000年公開のルーツミュージック・ムーヴィー「オー・ブラザー」Oh brother, where art thou? がある、そこではノーマン・ブレイクの歌が採用されていた。ノーマン・ブレイクはカントリーやブルーグラスのギタリスト&ヴォーカリストで、以前ここでも「峠の我が家」を聴いたようにルーツミュージックも多く録音している。クセのない歌は「教科書」のようで、親しみやすい。
今回は、そのサントラバージョンを全然別の映画のBGMとしてつかっている動画で聴いてみた。その映画のテーマと妙にマッチしていて何とも言えない「ユー・アー・マイ・サンシャイン」になった。やっぱり世界最高の監督であり、役者だなぁ。

https://youtu.be/2UuSrVq8Bbo?si=a1TJ23fzC9QZokrv

バスケは大健闘だね。パリ五輪の権利を獲得したことが最も大きく選手、コーチとも自信に満ちた表情だった。とりわけ東京五輪の女子といい、トム・ホーバスコーチの手腕がスゴイ。
ワールドカップ上位はベストエイトが決まったようだが、地上波での放送はないのかな。わたしも含め「にわかバスケ人気」ではあるけれど、こういう時こそ視聴率度外視してハイレベルの準決勝や決勝を放送すればさらにファンが増えると思うのだけど。

オマケは最近聴いた気もするが、バンドマンが「ユー・アー・マイ・サンシャイン」をリクエストした女の子に恋をするという[Do you know YOU ARE MY SUNSHINE]を。今回はオリジナルのスタットラー・ブラザーズではなく、ゴスペル・ヴォーカルとして知られているブース・ブラザーズとゲイザー・ヴォーカル・ユニットのビル・ゲイザーで。

https://youtu.be/lj0wNZdmUJU?si=9CWgq8JKct-NCpBt


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good hearted woman [country]

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https://youtu.be/T2T5_seDNZE

昨年末から今年にかけてほんとに訃報が目につく。

今日はティナ・ターナーが亡くなったとテレビが報じていた。
彼女にとっての安息の地・スイスで今月24日というから昨日のこと。
「ロックの女王」と言われているが、個人的にも70年代以降の女性のベストヴォーカリストだと思っているたので……。83歳という年齢もまだ、という気はするけど、健康を害し、ほぼ引退状態だったので、とうとう……という気持でもある。

ティナはカントリーシンガーでもある。アルバムも何枚かだしている。
いちばんはじめは、1974年というからまだアイクと別れる前。スタジオでの初のソロアルバムが「カントリー・オン」。
ボブ・ディランやジェームズ・テイラーのカヴァもあり、カントリー&フォークのアルバムということになるが、カントリーではクリス・クリストファーソンのの[Help me make it through the night]やドリー・パートンの[There'll always be music]などが。さらにはハンク・スノウの[I'm movin' on]のようなクラシックスもあったり。

https://youtu.be/7hO2Qes7y-M

サミ・スミスがヒットさせた究極のラヴソングをティナらしくややワイルドにうたっている。多くのカヴァがあるこの歌で突出していいとは思わないが、ティナらしい「想い」が伝わってきて、やっぱりいい。

個人的に好きなのは[Good hearted woman]。
しっているなかでは2005年のアルバム[Tina Turner Sings Country]にタミー・ウィネットの[Stand by your man]などといっしょに入っている。

https://youtu.be/kfAykwFQl-g

「 グッド・ハーテッド・ウーマン」はウェイロン・ジェニングスが1974年のアルバムで発表した歌。ビルボードのカントリーで4位になっている。
ソングライトはウェイロンとウィリー・ネルソンで、その後ふたりの歌唱でもレコーディングされている。

この男の気まぐれやわがままも許す心やさしきウーマンのストーリーを思いついたのはウェイロンで、そのヒントになったのが演奏旅行中のモーテル。当時売り出し中だった「アイク&ティナ・ターナー」の看板広告を見てインスパイアされたのだとか。そしてすぐにウィリーに話をもちかけ、合作することに。
もちろん、よい時もわるい時も男を愛し、許す心やさしき女性とはティナのことである。
ということは身勝手な男とは……。ということになるのかな。

おまけはティナといえばどうしても思い浮かぶのがミック・ジャガー。日本でのソロ公演でもゲストでティナが登場したし、ふたりの「仲睦まじさ」はつとに知られている。
テレビのティナの訃報でも、ミックの哀悼のことばを伝えていた。
ふたりでうたうのはほぼストーンズのナンバーで、今回はカントリーのにおいも感じられるこの歌で。冒頭のライブとともにティナの全盛期の映像ではないでしょうか。

https://youtu.be/i88NCvfoK58



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happy birthday willie [country]

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数日前、寝しなにYOU-TUBEでカントリーを聴いてたら、サムネールに「ウィリー・ネルソン生誕90年セレブレイション」の文字が。

「そうか90歳なのか……」という感慨とともに見てみると、なんとこのコンサートが開催されたのが4月29日と30日のふつかにわたってとのこと。
見たのが5月2日なので、アメリカでのコンサートを2日後に日本のわが苫屋の炬燵(しまわなく良かった)の中で見れるとは。

どうやら、観客がスマホで撮ったもののようで、ロングショットばかりのものや、顔がわかるほどかなり近いところからの撮影したもの、あるいはひたすらステージ上の大画面にレンズを向けていたものなど、複数の人がアップしていた。
多分、無断でYOU-TUBEにあげることは違法なのだろうが、個人的には素晴らしい動画をみせてもらった。

ウィリーはとても90歳には見えないパフォーマンス(座ってうたうこともありましたが)となによりも衰えを知らない声でお得意のスタンダードナンバーなどをうたいはじめた。

https://youtu.be/Vsnl2w-jsWg

ゲストは2日にわたってキース・リチャーズやトム・ジョーンズ、ニール・ヤング&スティーヴン・スティルス、シェリル・クロウなどのアーチストが。
キースは以前からふたりの持ち歌でもある[We had it all]や[Live forever]をウィリーと。オリジナルは彼の「ならず者」仲間であるウェイロン・ジェニングス。
トムは1991年、ライ・クーダーによって書かれボブ・ディランやブルース・スプリングスティンなど多くのシンガーにうたわれている(もちろんウィリーも)[Across the Borderline]を変わらなく力強く美しい声でうたいあげた。

https://youtu.be/G0iTXU8bSpk

シェリル・クロウは1961年のウィリーによって書かれ、同年パッツィ・クラインによって大ヒットした[Crazy]をみごとに。ロイ・エイカフからウィリーへ、そしていまでも究極のラブソングとしてうたい継がれている[Blue eyes crying in the rain]はベック(もう一日はボブ・ウェアがうたった)。

https://youtu.be/N6wBxQVBozI

そのほか「ハイウェイメンの子供たち」も参加していて、ウィリーの息子のルーカスとウェイロン・ジェニングスの息子のシューターが、ふたりのデュオの代表曲である[Good hearted woman]を披露。ルーカスは父親の声によく似ていた。

https://youtu.be/7UI91G0KkzU

もちろん多くのカントリーシンガーも。
ドワイト・ヨーカムは1985年のウィリーのヒット曲[Me and Paul]を。どことなく「ボビー・マギー」を思わせるこの曲は、ウィリーのバンドのドラマー、ポール・イングリッシュのことをうたったものだそうだと。

ジョージ・ストレイトは1983年、ビルボードカントリーでナンバーワンになったウィリーとマール・ハガードの[Pancho and lefty]を。

https://youtu.be/fOHCXTuVJUA

以前よく聴いていた永遠のギター小僧、ビリー・ストリングスも登場。元グレイトフル・デッドのボブ・ウェアと[Whiskey river]そして[I gotta get drank]の2曲を。そしてウィリーとのデュオで[California Sober]を。もちろん華麗なるギターテクニックを織り交ぜて。

ミランダ・ランバートはやはりウィリーとウェイロンの[Mama don't let your babies grow up to be cowboys]を華やかに。

エミルー・ハリスもウィリーとのデュオでレコーディングもしているセイクレッドソング[The Maker]をボブ・ウェアとともにうたった。

そしてもっとも感動したのがクリス・クリストファーソン。
彼だってもう数年で90歳になるのだが、病気に苦しめられているようでほぼ引退同様だったのだが。

その前段はノラ・ジョーンズ。
ウィリーとレイ・チャールズのデュオで知られる[Seven Spanish Angels]をお得意のピアノ弾き語りで披露。

https://youtu.be/eDFzWJrdTZ8

歌い終わるとノラはステージの中央に。そして紹介したのがクリス・クリストファーソン。

クリスは病み上がりのようで、ゆっくりとした足取りでした。
そしてノラもレパートリーにしているクリスの[Help me make it, through the night]を一緒に。声が出ないのは仕方がない。それでも会場のファンはクリスがうたってくれるだけで拍手。それだけで充分なのだ。ノラのサポートもやさしかった。

https://youtu.be/uXMTxlAZQnw

クリスはそのあとも今は亡き「ならず者」仲間の娘、ロザンヌ・キャッシュと[Loving her was easier]をうたい、ロザンヌのサポートでフィナーレまでうたい続けた。

最後はほぼ全員がステージにのぼってのグランドフィナーレ。
個人的にもフェヴァリットの[On the road again]からはじまり[Will the circle be unbroken]、[I will fly away]と2つのセイクレッドソングをシングアウト。

https://youtu.be/TmfBh8i7s90

気がつけば午前3時ちかくになっておりました。
翌日というか当日は暦上連休とはいえ、しっかり仕事が待っていたのに。それでもグッスリと安眠できました。ひさびさの「カントリー腹いっぱい」になりました。

ずいぶんお爺さんになってしまったウィリーですが、若い頃はイケメンのシンガーソングライターでした。
おまけはそんな頃の代表曲[Hello walls]ほか彼のヒットメドレーを。

https://youtu.be/yWloaxXWv0g
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back home again [country]

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今日12月31日ははジョン・デンバーJohn Denverの生誕日。
79年前の1943年に生れている。ちょうど太平洋戦争のさなかです。
自身が操縦する自家用飛行機の事故で亡くなったのが1997年、53歳。生きていれば来年80歳。はやすぎました。

ジョンの本名はヘンリー・ジョン・ドイッシェンドルフ・ジュニアで、ジョンはあるけど「デンバー」はない。生誕地もニューメキシコ州のロズウェルで、コロラド州のデンバーではない。その由来は、その後のジョンの数々の歌からもわかるように、ロッキーマウンテンの麓にあったデンバーという地をこよなく愛していたからとか。

彼のヒット曲である「故郷へ帰りたい」Take Me Home, Country Road はおそらく日本で最もポピュラーなカントリーソングでしょう。それまでは「テネシー・ワルツ」Tennessee Waltz でしたが。アニメの主題歌に採用されたことで、ジョン・デンバーは知らなくても、この歌を知っている若者は多い。
ちなみに「故郷へ帰りたい」はジョンのナンバーワンヒットではなく、ポップスチャートで2位、カントリーチャートでは50位にとどまっている。ポップス、カントリーともに1位になったシングルは「すばらしきカントリーボーイ」Thank God I'm country boy と「アイム・ソーリー」I'm Sorry の2曲でともに1975年のリリース。

プライベートでは環境問題や飢餓撲滅運動に関わるなど、社会性に富んだアーチストとして知られ、日本でも誠実で素朴なカントリーシンガーとしての評価が高いようですが、アメリカではそうした活動も「スタンドプレイ」として反感も少なくなかったとか。1980年代のアフリカ飢饉救済ソング「ウィ・アー・ザ・ワールド」への参加を希望するも排除されたり、自宅の傍にガスタンクをつくろうとして活動家たちから非難されたりと、日本でのイメージとはいささか異なるようです。

それでも彼が70年代のカントリーというよりはポップシーンを彩ってくれた屈指のソングライターであることには変わりありません。
そんな彼のマイ・フェヴァリットソングをいくつか。

https://youtu.be/ZkvOUMseObI

「悲しみのジェット・プレイン」Leaving on a Jet Plane 1969年。
デンバーの初アルバム 「ジョン・デンバーは歌う」John Denver Sings (デモ盤)と次の初のセールス用アルバム「ライムス&リーズン」Rhymes & Reason に収録された曲で1966年につくられています。当初のタイトルは「行きたくないよ」Babe I Hate to Go でしたがのちにプロデューサーの意見で改名。そのプロデューサーが同じだったためPPMが1967年にレコーディング。そしてその年のビルボードのシングルナンバーワンになります。その後1969年にジョンがセルフカヴァしました。

個人的にはいちばん好きな歌。
女と男の別離の歌ですが、なぜふたりは別れるのか、ジェット機に乗ってどこへ行くのか。「いつ帰ってこれるかわからない」「帰ってきたらもうあなたを話さない。結婚しよう」と言っているので、ケンカ別れではない。
マリー・トラヴァースがうたったので当然去っていくのは女性。となるといったいどこへ行くのでしょうか。キャリアをつけるために海外へ行くのか。
ただ実際につくったのはジョン・デンバー、つまり男。
かれは実際に空港でこの歌をつくったそうで、その内容については深く説明されていませんし、おそらくドラマチックな別れのラブソングを書いたのだろうと思います。ただ、1966年というつくられた年とPPMがうたったということで、彼あるいは彼女はベトナムの戦地に赴くのでは、という解釈もあるようです。つまり、これもまた反戦歌なのだと。

https://youtu.be/JA5ASbk37M4

「シティ・オブ・ニュー・オーリンズ」City of New Orleans 1971年。
この曲は以前とりあげましたが、ソングライトは彼ではなく、1971年にシカゴのスティーヴ・グッドマンによってつくられました。
グッドマンの地元シカゴからニューオーリンズへ南下する鉄道、特急シティ・オブ・ニューオーオリンズ号のことをうたっています。
特急に乗車する人々、車窓から見える風景などを擬人化されたシティ・オブ・ニューオーリンズ号が暖かく見守っています。作者スティーヴが「鉄道オタク」だったかどうかは知りませんが、この特急に何度も乗り、こよなく愛していたことは伝わってきます。

1972年にアロー・ガスリーによってうたわれ、1985年にはウィリー・ネルソンがこの歌でグラミー賞を獲っています。名曲です。
ジョン・デンバーは1971年のアルバム「エアリー」Aerie に収録しています。わたしはこの歌をジョン・デンバーで初めて聴きました。いまでも時折シティ・オブ・ニューオーリンズ号はわたしの脳内鉄道を疾走しております。

https://youtu.be/wPndmL6HfIs

「バック・ホーム・アゲイン」Back Home Again 1974年。
1974年8枚目のアルバム[Back Home Again]バック・ホーム・アゲインの表題曲で、このアルバムには「緑の風のアニー」Annie's Song も収録されていて、ともにシングルカットされています。ちなみにバック・ホーム・アゲインはカントリーチャートの1位に、緑の風のアニーはポップチャートの1位になっています。
「アニー」は彼の最初の妻であるアニー・マーテルのことで、そのジャケットにはふたりが寄りそう写真がつかわれています。

「バック・ホーム・アゲイン」は長い旅を終え、自分の家へ帰る男の歌。
どんな「長い旅」だったのかはわかりませんが、かれはトラックドライバーで10日以上遠方へ行っていたのか、はたまた出稼ぎかなんかで半年、あるいは1年のほんとうの「長旅」から帰る途中だったのか。さらにさらに映画「スケアクロー」のアル・パチーノのように自由を求めて家族を捨て長きの旅に出たものの、その自由に疲れ果て忘れがたき「我が家」へ帰ろうとしているのか。いずれにしろ、それがもはや荊であっても帰るべき「我が家」を持つ男であることにはかわりない。「長い旅」を終えて家路をたどる男の疲労感とちょっとした幸福感がうかがえてとてもすきな歌です。

今年はいまだおさまらないコロナ、ウクライナ侵略、安倍元首相暗殺とそれから派生した様々な事件と「嫌な」一年でした。個人的にも心身ともに「劣化」を感じさせられた一年でした。衰えは仕方ないとしても、来年はもう少し余裕をもって音楽を楽しみたいと思っております。

おまけは「悲しみのジェットプレイン」でママキャスことキャス・エリオット(彼女もずいぶん前に亡くなってしまいました)を聴けたのでママス・アンド・パパス[Mama's and Papa's]の「夢のカリフォルニア」Carifornia Dreamin'を。最近YOU-TUBEでときどきみている欧米のユーチュバーたちが発信している[Reaction]とか[First Time Hearing]という動画で。現代の若者たちが60年代70年代を中心としたオールディーズを初めて聴いてどんな反応や感想を示すかというYOU-TUBEですが、途中で中断して感想を述べたりしますが、それはそれでおもしろい。ユーチューバーとその音楽を共有している気分にもなりますし。英語を完全に理解できなくてもそのリアクションは伝わってきます。

https://youtu.be/cAom10KQOOI


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ユア・マイ・サンシャインをうたって [country]

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きょうは、昨晩からの歯痛(いつも土日に襲われる)のため、鎮痛剤をのんで部屋でおとなしくしております。
テレビでスポーツ観戦をしながら、このブログを書いております。
もはや晩秋でしょうが、さすがスポーツの秋。思わず見入ってしまう熱戦の数々でした。

女子ゴルフはプレイオフでみごとなバーディで勝った山下美夢有。小柄な選手ですが年間賞金王だそうで、比類なきパッティングセンスはみていて唸ります。ゴルフがパワー戦でないことをみごとに証明しています。優勝インタビューで声をふるわせて恩師でもある父親に感謝していたのが印象的でした。

その前にみた実業団女子駅伝も面白かった。結果は資生堂が久々に優勝したのですが、3区がスゴかった。新谷仁美(積水化学)、 一山麻緒(資生堂)、廣中瑠梨佳(JP日本郵政グループ)の激戦。トップでタスキをつないだのは廣中だったが、区間賞はわずかの差で新谷でした。最近にない日本の長距離トップランナーたちの闘いは見ごたえがありました。

ジャパンカップもスゴかった。結果は日本馬のワンツウスリー。むかしからそうだが海を
渡ってくる海外馬は不利。私的ですが、わたしの本命馬は5着。いつもどおりのタテ目で馬券吹雪が舞いました。

相撲は千秋楽。一歩リードの高安が阿炎にかき回されて土俵下に突き落とされた。そんなにわるい相撲ではなかったけれど、かたくなっていたのかな。ほんとうにツキがないというか。肝心のところでとりこぼす。でも決定戦で再戦で勝てそうな気が。結びの貴景勝も気迫で若隆景に勝って(ガッツボーズしていた)巴戦に。高安に勝ってほしいけど、阿炎かな。

前回の続きでスタットラー・ブラザーズをもう一度。

1964年にデビューし2002年、解散・引退するまで40年弱の音楽活動だったスタットラー・ブラザーズ。
カントリーファンだけでなくポップスファンにも知られたヒット曲があるわけでもなく、日本でもカントリーファン以外はまず知られていないコーラスグループですが、グラミー賞もいくつか獲っていますし、アメリカのカントリーシーン、とりわけゴスペルやセイクレッドソングではそれなりに貢献したグループでもあります。
ある作家は彼らのオリジナルソングの詞がとても「詩的」だと指摘しています。ほぼ作詞作曲はハロルドとドンのリード兄弟がおこなっています。

カントリーソングの変わらぬテーマのひとつに「ノスタルジィ」があります。
緑豊かな谷間。そこに建つ古びたわが家。ランプの下で過ごした一家の団欒。丘の教会とその鐘の音。祭りの夜のダンスパーティ。そして仕事や進学のための故郷との別れ。好きだった女の子(男の子)との切ない別離。
などなど。カントリーソングには田園風景を背景に(若い)男女の生活の営みがうたわれているのです。それが1940年代から50年代にかけてのカントリー。いまでいうカントリークラシック。

スタットラー・ブラザーズに対する評価のひとつとして、そうしたかつての自然に囲まれた故郷のノスタルジーを「郊外」のノスタルジーに変えたことをあげる評論家がいます。
20世紀初頭にうたわれたアメリカの田舎も、第二次世界大戦を経て大きく近代化されるなか、50年代、60年代になると郊外といえども豊かな生活の恩恵を受け、そうした日々が10年20年のちにはノスタルジックな日常としてアメリカ人たちに共有されていったのです。そういう甘酸っぱい郷愁を美しいハーモニーでうたってくれたのがスタットラー・ブラザーズでした。

そんなスタットラー・ブラザーズのノスタルジックなオリジナルソングをいくつか。

まずはいずれも全米カントリーチャートのトップ10に入った2曲。いずれもデビュー9年目の1972年にリリースされています。

まずは[do you remember these]こんなことあんなこと 。その年のカントリー・チャート2位にランクされたヒット曲。動画は彼らの映像ではなく、何が流行っていたのかが垣間見える動画で。

https://youtu.be/puGQsQux80k

彼ら(スタットラー・ブラザーズ)が子どもだった頃、ティーンネイジャだった頃(1950年代)に一世を風靡したり、流行った物や事柄の数々をうたっています。

アメリカでラジオ放送がはじまったのが1920年、それから約20年後の1941年にテレビ放送(白黒)が始まっている。したがって50年代になるとテレビは全米でかなり普及し、オールアメリカンで娯楽やファッション、物事などが共有されるようになります。日本は50年代半ば頃からテレビが出はじめ、急激に普及したのが60年代前後なので、アメリカから約10年遅れてテレビ時代が始まったことに。

そして大人になり、同世代の集まりで、むかしの事柄や出来事が話題になり盛り上がる「ナツカシズム」は日本でもおなじことのようです。

で、50年代のアメリカではどんなものが流行ったのかというと、YOU-TUBEでみたような事柄で、多いのが髪型や服装、靴などのファッション、マンガや映画のキャラクター、清涼飲料、コレクショングッズなど。ツェッペリン号炎上墜落や大統領選の大誤報など社会的ビッグニュースも子どもたちの話題になったようです。
日本とはいささか異なるのがハイスクールでのダンスパーティ(一部ありましたが)や父親への「鍵ねだり」(クルマを持つことがステイタスだった)。

日本の60年代で言ったら、たとえば「巨人の星」「おそ松くん」「石原裕次郎」「アイビールック」「ミニスカート」「パンタロン」「VAN」「JUN」「バイタリス」「MG5」「コント55号」「リカちゃん人形」「人生ゲーム」なんてところでしょうか。


このdo you remember these のアイデアソングのヒットで柳の下の何とかを狙ったのか数カ月後にリリースしたのが[class of '57] 1957年の同窓会。

https://youtu.be/RLr_C8QqPWg

前回は20年あまり前に流行した物や事柄をただ連呼するというアイデアでしたが、今回は20年前のハイスクールの級友たちが、その後どういう仕事に就いたのか、あるいはどんなハプニングがあったのかという「あの人は今」を名前入りでうたいあげています。こちらも前作ほどではありませんでしたが、それでもカントリーチャートで6位にランクインしています。

内容は級友たちの卒業後の仕事が中心になっていて、「トミーは中古車販売、ナンシーは美容師をしている」で始まり、トラックドライバー、生命保険の営業、工場勤務、小学校の先生、教会のオルガン弾きなどと級友の現状を紹介していきます。なかにはレイのように借金まみれになっていたり、マービスのようにいまだフーテン生活で、級友の誰もが彼がどうなるのか気にしているというヤツがいたり。マービスはきっとハイスクール時代、クラスの人気者だったのでしょうね。

そしてありがちな同級生同士の結婚。リンダはソニーと結婚し、ブレンダは私と結婚したと。「私」とはこの歌の作者でありスタットラー・ブラザーズのバスを担当しているハロルド・リードのことで、実際に彼の奥さんの名はブレンダ。
ただ、同級生結婚で皆が幸せになっているわけではなく、ジョーの奥さんを寝取ったフレディはそのジョーに殺されたなどという悲劇もあったり。

いろいろな人生があるけれど57年のクラスには夢があった。誰もが自分の描いた世界が実現すると思っていた。でも現実は思い通りにはならない。18歳を過ぎると事態は複雑になっていくのだ。しかし、あの年のわれらがクラスに夢があふれていたことは間違いなかった。と結んでいます。


最後は[do you know you are my sunshine]ユア・マイ・サンシャインをうたって 。
1978年のシングル。ビルボード・カントリー・チャートで初めてのナンバーワンになった歌。

https://youtu.be/VxT3Mf1i8TY

「ユア・マイ・サンシャイン」は1940年、後にルイジアナ州知事になったジミー・デイヴィスとチャーリー・ミッチェルによってつくられた(版権を買っただけという説も)カントリーソングで、ジーン・オートリーやビング・クロスビーなどでヒットとなり、以後多くのシンガーによってうたいつがれている歌でもあります。

スタットラー・ブラザーズのdo you know, you are my sunshine は彼らがライブ中に聴衆に向かって『「ユー・アー・マイ・サンシャイン」って歌、知ってますか?』とコールしている歌ではなく、ちょっとしたラヴソングなのです。

コンサートで演奏者の僕は観衆のなかに太陽のように輝くひとりの少女をみつけた。そしてなんとその少女は一曲を演り終えた僕らのいるステージに近寄ってきて、
「ねえ、『ユア・マイ・サンシャイン』演ってくれませんか?」
とリクエストしてきた。そして「この歌をもう一度聞きたいの。だから私のために歌ってくれませんか」と可愛い声で言ったのだった。

それからあの娘は僕の前から消えてしまったけれど、僕はどこのコンサート会場へ行っても、必ず「ユー・アー・マイ・サンシャイン」を歌い、大勢の観衆の中に彼女がいないかといつも探しているんだ。

という歌。ファンが好きなバンドに熱視線を送るコンサートで反対に演奏者がファンに一目惚れするという、これもありそうであまり聞かないストーリー。
当時から遡っても40年近く前の歌も懐かしいですが、バンドの純なボーカルが好きになったひとりのファンを探し求めるというシチュエーションは、かの「アメリカングラフィティ」の主人公が白い車の女性を探して町じゅうをクルマで走り回るという純情に似てノスタルジィを感じてしまいます。

この歳になりますと、もはや小・中・高の同窓会は霧消してしまい、誰が何処で何をしているかなど、風の便りさえほぼ聞こえてきません。ただ死んだヤツの噂は何人か伝わってくるのはなぜなのでしょうか。
唯一残っていた大学時代の少人数のささやかな「同窓会」もコロナで延期しているうちに昨年世話役が死んでしまい、はたしてこのあとどうなることやら。

ただ「1957年の同窓会」を聴くと、やっぱり無垢でオモロイことばかり考えていて、思い返してもいちばん楽しかった高校時代の級友たちには会ってみたい、という気持ちはあります。というよりは、あの時の自分に時代に戻って彼らに会いたいというのが本音でしょうか。
オマケの歌を。当時級友たちのたまり場になっていた「ヒミツのアパート」で夜な夜な下手なギターを弾きながら暴唱していたナツカシソングを。

https://youtu.be/LR-T2qTLF6o

大相撲の結果は初戦で阿炎が高安を破り、そのとき高安が脳震盪で一時土俵から立てなくなるというアクシデントで大波乱。そんなわけで阿炎、貴景勝は勝った方がほぼ優勝。やっぱり勢いに乗った阿炎が数秒で大関を突き出して初優勝。横綱不在、大関不調の今場所でしたが、ニューカマー登場のしめくくりで良かったのでは。
スポーツ三昧の仕上げはもちろん日本―コスタリカ戦。

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your picture in the paper [country]

statler brothers01.jpg

https://youtu.be/NdDdb1OT9ng

きょうは仕事もなく、とくに出かける予定もなかったので、仕事場の掃除をしに。

遅ればせながらの夏の跡片付け兼冬支度。
エアコンを掃除し、扇風機もバラして拭き掃除。そのあとクリーナーをかけて机や棚、椅子にも雑巾がけ。その間、いつもどおりテープデッキから音楽を流します。
家だとほぼヘッドホンだけど、ここなら誰の遠慮もなく大音量とはいかないけれど(近所迷惑になるので)かなりのボリュームで堪能できます。

仕事中なら200本ほど放り込んであるテープボックス(と呼んでいる段ボール函)からランダムに取り出したテープをカセットにかけるのですが、きょうははじめからカントリーと決めていたのでゴソゴソと探します。
テープはほぼ昔レコードからダビングしたものですが、そのうちの20本あまりはレコードでいうところの「ジャケット」を着けたオリジナル商品。そのほとんどがカントリー。

そしてそのほとんどが知人がアメリカに行った時のお土産。いまやリタイアしてしまった知人ですが、30年あまり前は年に何度か仕事でアメリカへ行き、そのたびにカントリーのテープとTシャツを買ってきてくれました。ただ彼はカントリーが詳しくないので、その選択はテキトー。だから聞いたことないシンガーだったり、「ベスト・オブ・ハンク・ウィリアムズ」がすべてインストだったり、「ノンストップ・ブルーグラス30」の演奏者がほぼ知らないグループだったり(知らないのがわるい)とアメリカの奥の深さを感じさせられる?代物でしたが、それでもありがたいことで、昔もそしていまも充分堪能しております。

そんななかで唯一わたしが買ったテープがありまして。といってもアメリカなど一度もいったことがなく、当時アメリカの音楽通販会社へインターネットでアクセスし、直接注文しました。仕事でパソコンだけはウインドウズが出る前から使っておりましたので。まだamazonなどもなくて決済などどうやってやったのかも覚えておりませんが、欲望のパワーたるやものスゴイもので、ネットでなんとかたどりつきゲットしてしまったのでした。

それが「スタットラー・ブラザーズ」というカントリーのコーラスグループ。
当時よく売られていたCDのコンピアルバムのカントリー盤を買ったとき、なかに収められていたスタットラー・ブラザーズの「偉大なるかな神」が良くて、初耳のそのグループのアルバムが欲しくなり、何が何でもと買ってしまったのです。まぁカントリーのヴォーカルグループといえば、ソンズ・オブ。パオニーアーズが有名ですが、さほど多くはなくそれはそれでここちよい。

冒頭の動画がそのテープの中の一曲の[your picture in the paper]新聞で見た写真 で、日曜日の朝(土曜の夜とともにアメリカ人の好きな時間)ふと拡げた新聞に昔の恋人が結婚したという記事が写真とともに載っていた。それを見て動揺しながらも、昔の想い出がよみがえり、そして旦那さんともども幸せになってほしいと願った。というワンミニッツ・ドラマでスタットラー・ブラザーズのいくつかあるフェヴァリットソングのひとつ。


スタットラー・ブラザーズは1950年代から故郷のルイジアナ州スタントンの教会などでゴスペルをうたっていました。当初のグループ名は「フォースター・カルテット」で、その後「キングスメン」に改名。
初期のメンバーはドナルド・リード(バス)、ルー・デウィット(テノール)、フィル・バルズレー(バリトン)、ジョー・マクドーマン(リード)の4人で、1964年にレコードデビューするときは、リードのジョーが抜け、ドナルドの弟、ドン・リードが新たに加入しています。

また、1982年にはテナーのルーも体調不良で抜け、代わりにのちにソロになるジミー・フォーチュンが加入しています。いずれにしてもスタットラー・ブラザーズといっても4人が兄弟なのではなく、本ものの兄弟はドナルドとドンのふたりだけ。

スタットラー・ブラザーズと名乗ったのは1963年のことで、たまたま4人で泊まったホテルにあった顔用ティッシュが「スタットラー社」製のもので、なぜかそれが気に入り自分たちのグループ名にしたとか。こんなものか。そのとき泊まっていたホテルが「スタットラー・ホテル」だったかどうかは定かではありませんが。

初めてのシングルレコードは1964年の[the wreck of old 97 ]オールド97号の大参事 。

https://youtu.be/jxPdCj2QcRw

この歌は20世紀初頭にバージニア州で起こった鉄道の脱線転覆事故を題材にしたトピカルソングで、1924年にヴァ―ノン・ダルハートの歌・演奏でカントリー初のミリオンセラーとなったという曲。スタットラー・ブラザーズ以外でも、ルービン・ブラザーズ、フラット&スクラッグス、ウディ・ガスリー、ピート・シーガー、ジョニー・キャッシュ、ハンク・スノウ、、ロイ・エイカフ、ハンク・トンプソンなど多くのカントリーシンガーによってうたい継がれ、アメリカでもよく知られたトレイン・ソングのひとつ。

アルバムはその翌年の[flower on the wall]壁の花 でビルボードのカントリーチャート10位に入っています。
スタットラー・ブラザースの名をカントリーファンに知らしめたのは、64年から8年余りジョニー・キャッシュのバックコーラスを努めたことによって。

https://youtu.be/NGUP8oc9Bgs

[daddy sang bass]父の歌声 もそうですが、スタットラー・ブラザースのもっとも得意とするところがゴスペルやセイクレッドソング。ではそんな讃美歌をもう一曲。

https://youtu.be/7uWkEadWdkQ

[how great thou art]偉大なるかな神 は19世紀の後半、スウェーデンのカール・ボーバーグによってつくられた讃美歌をその後、イギリスやアメリカで翻訳され現在のかたちになったといいます。
高くそびえる山々、森の木々やその中を流れる小川、そしてここちよい風や鳥たちのさえずり、これらの不思議で感動的な光景を創造されたのが偉大なる神なのです。とあますところなく文字どおり神を讃美しています。
アメージング・グレイスとともに英米人にもっとも親しまれている歌で、コニー・スミスやキャリー・アンダーウッドなどレコーディングするシンガーは多い。そんななかでもよく知られているのが、1967年にリリースしたエルヴィス・プレスリー盤。アルバム[how great thou art]のタイトル曲で、グラミー賞を獲っています。
はじめにも述べましたが、わたしにとってもこの曲がスタットラー・ブラザーズで初めて聴いた歌でした。エルヴィス盤を聴いていたので耳に残ったでしょうね。

もちろん、彼らはゴスペルやヒムばかりをうたっているわけではなく、ラブソングやふつうのポップスもたくさんうたっています。そんななかから1985年彼らの26枚目のアルバム[pardners in ryme]韻をふむパードナー(意味がわからないのですが) の1曲目[hello mary lou]ハロー・メリー・ルウを。動画はほぼ音がわるいので、さいごは音重視で。

https://youtu.be/j-EcCKAc_iY

日本でも弘田三枝子などのカヴァーでよく聞こえていた歌で、オールドファンには耳馴染でしょう。日本では「ルイジアナ・ママ」のシンガーソングライターとして知られるジーン・ピットニーによって1960年につくられ、翌年リッキー・ネルソンでヒットしています。
シングル盤としてはこの「ハロー・メリー・ルウ」はB面で、全米ナンバーワンになったのはA面の「トラベリン・マン」。とはいえ「ハロー・メリー・ルウ」もB面ながら全米6位になっています。
その眼、そのくちびる、その声、そのすべてを永遠に愛することを誓います。という日本人には大袈裟な(今はそうでもないのかも)アメリカン・スタンダード・ラヴソング。

少し早めの大掃除を終えて、午後に帰宅。夕食には少し間がありますが、いまは大相撲をやっていますので時間はつぶせます。
ここ数日、ワールドカップの「ドーハの奇跡」で持ちきりです。わたしも当日席を立てずに歓喜のタイムアップまで釘付けでした。信じられない結末でした。ドイツの敗因はシュートミスの連発。決定的なシーンが少なくとも2つはありました。反対にいえば日本にツキがありました。とにかく勝ち点3は大きい。ただ、好発進ではありますがわたしはペシミストなので、明後日のコスタリカとその次のスペインに連敗して予選敗退なんてイメージもあります。フットボールに限らず過去にいろいろな勝負を見てきましたが、ジャイアントキリングのあとの取りこぼしというのは珍しくありません。
いずれにしても日曜日は「ドーハの奇跡」が現実なのか、眼をこすりながら確かめるつもりです。

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二刀流開眼 [country]

大谷10勝.jpg


最近ピッチングもバッティングも調子いまひとつの大谷。
今日こそはと思っておりましたが、朝から出かける羽目に。
暑い、外ではもうマスクはつけられない。

用事を終えて家へ戻ってきたのは午後1時半過ぎ。
汗だくの服を着替える間もなくパソコンのスイッチオン。
間に合ったまだやっておりました。でも9回裏アスレチックスの攻撃。
5-0でエンジェルスが勝っている。

大谷は無失点で責任を果たしたことになる。
このままクローザーのキハーダが押さえれば大谷に勝ち星。
ホームランを1本くらって「まさか」と思ったけれど、残り3人を押さえてエンジェルスの連勝。

大谷ようやくの10勝。スゴイ。身内(のつもりになっているのはわたしだけではない)としてはやれやれです。
ゆっくりダイジェストを見れば、なんと7回にライトへソロホームラン。25号で、内野安打もあって3打数2安打。みごと。久々にすっきりしました。
そのあと、テレビで各局のスポーツニュースを飽きることなく見まくったことはいうまでもありません。

ベーブルース以来104年ぶりの2ケタ勝利、2ケタホームランの偉業、大谷にとってはあたりまえのように思ってしまいがち。とてつもないことなのですけど。とにかく今季は無理だけど、20勝、50ホームランを実現してもらいたい。

不安はケガ。今日も打球が足に直撃して痛そうでしたが、最近自打球を足に当てること2度、先日は相手のピッチャーに足を踏まれたり、なにかと足への「攻撃」を受けているようでいささか心配。

とにかく久しぶりにモヤが晴れたような爽快な気分になりました。
それでは歌を。

気の利いた歌が思い浮かばないのでイージーですが、「二刀流」にかけて「宮本武蔵」を。

https://youtu.be/HDonMWZqXDU

今は懐かしいドンキー・カルテット。
昭和40年代に活躍したコミックバンド。メンバー中、リーダーの「鳥取県が生んだ天才」・小野ヤスシと、名フィドラー・飯塚文雄やベビーヴォイスの猪熊虎五郎は亡くなってしまいましたが、いつもリーダーとやり合っていたジャイアント吉田とメンバーがケンカ中でも舞台の端でドカ弁を食べていた祝勝は存命だそうです。
「宮本武蔵」はそのジャイアント吉田の作詞・作曲で、メインヴォーカルも彼です。

1曲だけでは寂しいので、おまけに「宮本武蔵」によく似ているカントリーソングをふたつ。どちらも古い伝承歌です。

https://youtu.be/ZIvd-enRJFw

https://youtu.be/CFLL9GVh3Jk

カブスの鈴木誠也も9号ホームランをふくむ3安打で久々の活躍。明日はその本拠地・リグレー球場で「フィールド・オブ・ドリームス・ゲーム」というかの名作映画にちなんだ試合が行われるそうで、見たいと思ったのですが、abemaでは配信がないようで残念。
ちなみに鈴木誠也は「フィールド・オブ・ドリームス」を観たことがないとのこと。時代ですねえ。

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オリビアを聴きながら [country]

olivia.jpg


近年にない猛暑でバテております。歳のせいもありますが。
歩く姿もトボトボと。若い人たちが追い抜いていきます。元気だなぁ。

外に出たタイミングがわるく日影がまるでない。しばらくはこんな灼熱が続くようです。

その暑さのせいがあるのかないのか、ここのところ訃報が多い。声優の方もふたり亡くなりましたし、以前テレビでよく見た服飾評論家の女性も亡くなった。そして先ほどの報道では三宅一生氏も亡くなったとか。

海外からも訃報は聞こえて来ております。
やはりもっとも親しみを感じていたオリビア・ニュートン・ジョンの死には驚いた。73歳はまだまだという気もしますが、70年生きれば充分という気もします。

とにかくシンガーとしては際立った美形でした。そのため映画にも何度も出演しており、女優という側面もあったようです。トラボルタとのロケンロー・ミュージカル「グリース」は当時観ました。ヤンキー娘をみごとに演じてました。
彼女は、やはり俳優のメル・ギブソンやワンマンバンドのギタリスト、トミー・エマニュエルと同じくオーストラリア出身だとは知っていましたが、今度の訃報でイギリス生まれであることを知りました。

一般的にはポップシンガーであり映画俳優なのですが、個人的にはカントリーシンガーのひとりだと思っております。
彼女を偲んでそんなカントリーソングを3曲聴いてみます。


故郷へ帰りたいtake me home, country roads

https://youtu.be/GJzq3dAEgIs

ジブリのアニメでもつかわれた(観てませんが)という近年では最も日本人に知られたカントリーソング。「悲しみのジェット・プレイン」や「緑の髪のアニー」などをつくったジョン・デンバーがつくり歌ったことなど知らないでしょうね。1971年のこの大ヒット曲でジョンは日本で知られるようになった。オリヴィアはその2年後にリリースし、全英で15位にチャートインしています。
ジョン・デンバーも20年以上前に飛行機事故で亡くなっております。

オハイオの岸辺でbanks of the Ohio

https://youtu.be/e5lt_BgJK9Y

P.D.(パブリック・ドメイン)でカーター・ファミリー、オズボーン・ブラザーズ、リリー・ブラザーズ、ドク・ワトソン、ニュー・ロスト・シティ・ランブラーズ、ジョーン・バエズなど多くのカントリーシンガーやフォーキーたちによってうたわれています。
アメリカの伝承歌にありがちなマーダーソングで、結婚を拒否された男が恋人を殺してしまいオハイオ川に投げ込み、流されている姿を見ているという残酷な歌。男は翌日訪ねてきた保安官に捕まるという因果応報的なエンディングにはなっております。
マーダーソングは実話が多いと言われ、この歌もそうだったのかも。でもオリヴィアはなぜこの歌を選んだのかな。たしかにメロディーは美しいですが。

オリヴィア盤は1971年にリリースされ、全豪ナンバーワンになっています。


雨の別離blue eyes crying in the rain

https://youtu.be/vAu7sagkKuA

1940年代、フレッド・ローズの書いた美しい別れの歌。はじめにレコーディングしたのはロイ・エイカフでその後、51年にハンク・ウィリアムズによってうたわれています。
大ヒットしたのは1975年のウィリー・ネルソンによって。いまでも彼の代表曲のひとつです。そのほかエルヴィスをはじめ多くの歌手にうたわれているカントリークラシック。

オリヴィアは1976年のアルバム[Come On Over]のなかの一曲としてうたっております。わたしがもっている2枚のアルバムのひとつで、ほかにドリー・パートンの「ジョリーン」、ビートルズの「ロング・アンド・ワインディング・ロード」、トラデショナルの「グリーンスリーヴス」などが入っています。

ほんとに綺麗なシンガーで日本でも70年代にブームがあったのではないでしょうか。尾崎亜美&杏里の「オリヴィアを聴きながら」は彼女のことでしたよね、たしか。あの歌もEP盤を買うほど好きな歌でした。おまけに。

https://youtu.be/_rm4rbX2RbA


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cowboy hat [country]

大谷カウボーイ.jpg

ようやく大谷がバッティングでエンジン全開の兆し、かな。
ピッチングのほうは、勝てませんでしたが今日もいい内容でした。

ところで今シーズンは大谷に限らず、エンジェルスの選手でホームランを放ち、ダイヤモンドを一周してベンチに戻ってくるとチームメイトにカウボーイハットを被らされる、というシーンが毎度おなじみになっております。

カウボーイハットは以前どこかのオリンピックで選手団が着用していたようにある意味アメリカの象徴ともなっておりまして、カントリーミュージックではいまでも被るミュージシャンがいます。
もともとは文字どおり、牛の世話や移動などを生業とするカウボーイ(牧童)たちが作業用に被っていた帽子のこと。

今でもカントリーシンガーやアメリカ人に愛用されているのはステットソン型といわれるもので、ほかに鍔の上のクラウン部分が長い(昔テレビのボナンザで見たような)テンガロンハットなどがあります。
テンガロンの命名には諸説ありますが、クラウン部分に10ガロンの水が入ったからというのは間違い。なにしろ1ガロンは約4リットルなので、そんなに入るわけがない。スペイン語で飾りヒモをgalonといい、それを取り違えたという説もありますが、たしかに鍔とクラウンの間に飾りヒモがありますが、これもいまひとつ説得力が。

それはさておき、先日その大谷カウボーイのシーンを見ていたら、テレビから懐かしい名前が聞こえてきました。

ホームランを放ち、ベンチに戻ってきた大谷に例によってメンバーがカウボーイハットを被せてあげる場面で、解説のメジャーリーグ評論家・福島良一さんの蘊蓄によると、あれはエンゼルスの初代オーナー、ジーン・オートリーに由来すると。

ジーン・オートリーGene Autry はモダン・カントリーミュージック草創期の人気シンガー。

カントリーミュージックの起源をかいつまんでいいますと、18世紀あるいは19世紀初頭、アメリカ南部を中心に演奏されていたのがイングランド、スコットランド、アイルランドの移民たちから持ち込まれた民俗音楽からといわれています。いわゆるマウンテンミュージックと呼ばれるものなどで、楽器はフィドル(ヴァイオリン)でした。その後黒人の影響でバンジョーが取り入れられ、ギター、フラットマンドリン、オートハープはその後のこと。

そうしたいわゆるヒルビリー音楽が、洗練されたカントリーミュージックとして定着するようになったのは、1920年代後半、ジミー・ロジャーズというビッグスターの出現によって。カントリーは彼の歌を、歌い方を踏襲、複製するように発展していきます。それをアメリカ全土にまで及ぼしたのが、レコードとやはり20年代に出現したラジオの存在であることはいうまでもありません。

そのカントリーの全米化をさらに助長したシンガーがテキサス出身のジーン・オートリー。かれもまたジミー・ロジャーズに憧れてうたいはじめたひとりですが、かれの功績はレコード、ラジオに加えて映画によって、つまり「ビジュアル化」でよりカントリーミュージックを身近で親しみやすいものにしたことです。
シンギング・カウボーイと呼ばれたジーンは1930年代から大戦を挟んで50年代まで当時ハリウッド娯楽映画の主流だった多くの西部劇に主演し、そのスクリーンの中でカントリーソングをうたいました。

そのなかでビッグヒットしたのが1939年の「鞍へ戻ろう」Back in the saddle againで、いまでもジーンの代表曲であり、カントリークラシックとして欠かせない歌となっています。牧場の仕事が一段落し、また気ままな旅に出よう、というさすらいのカウボーイソングです。

https://youtu.be/Bt18gd6OSHk

その2年後にやはり一世を風靡したのが、カントリーファンならずとも聞き覚えのある「ユー・アー・マイ・サンシャイン」You are my sunshine 。

https://youtu.be/1AhpWZjqMLI

この歌は1939年にジミー・デイヴィスとチャールズ・ミッチェルによってつくられレコーディングされていますが、「ジミーらは単にこの歌の版権を買っただけ」、という説も。ちなみにジミー・デイヴィスは1944年、この歌を「応援歌」としてうたいまくり、ルイジアナ州の知事に当選しています。

3曲目は個人的な好みで「青い瞳の君を想う」I'm thinking tonight of my blue eyes を。

https://youtu.be/UIwO_FjXpdQ

ヒットしたかどうかはわかりませんが、1929年にカーター・ファミリーThe Carter Familyによるヒット曲のカヴァです。
もともとA.P.カーターが採譜した古い歌だといわれ、カントリーだけではなく、ビング・クロスビーやアンドリュース・シスターズなどにもカヴァされたスタンダードナンバー。
カントリーではのちにキティ・ウェルズKitty Wellsの「ホンキー・トンク・エンジェル」It wasn't God who made honky tonk angels やハンク・トンプソンHank Thompson の「ワイルドサイド・ライフ」The wild side of life としてリメイクされています。

歌と映画で財をなしたジーンはMLBのマイナーリーグの経営をしていましたが、1960年に誕生したエンゼルスの初代オーナーになり、1996年ウォルト・ディズニー社に譲渡するまで球団運営に尽力したそうです。そのためジーンの背番号26は永久欠番となっています。この26番はかつてベンチ入りできる選手が25人だった時代、オーナーのジーンは26番目の選手として、その背番号を得ていたのだそうです。
そして2002年にエンジェルスが初めてワールドシリーズを制覇したとき、すでにジーン・オートリーはオーナーではなかったのですが、その功績を讃えてスタジアムに彼の「鞍へ戻ろう」が流されたとか。

おまけの1曲。
日本も含め、世界じゅうに知られた1949年のジーン・オートリーのヒット曲を。なんでもその年にベストセラーになった「児童書」をヒントにつくられたとか。」
当時カントリーシンガーに限らずほとんどのメジャーシンガーはこの季節になると一連のこのジャンルの歌をレコ―ディングしたものです。日本の歌謡曲でもそれに倣った歌手がいた、そんな時代がありました。

https://youtu.be/tMhyOvYzZM0



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