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When you're rockin' and a-rollin' [covers]

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おとといブログを書いて、その勢いで怒濤の連日アップをするつもりでしたが、気力体力とも追いつきません。年相応といえばそうだけど。
同年代の知人とも会うたびに、仕事が遅くなったという話。昼間やり残した作業を夕食後にパッパとかたづけるつもりが、気がつけば夜中とか。
こうやって人間は体力がどんどん落ちていき、思考もガラガラと衰えていき、やがてふたつともピタッと静止してしまうのだろうな、なんて他愛のないことが頭をよぎるきのうきょうです。

当初の予定通り、CCRの後篇をやらねば。

CCRというバンド名で活動をはじめたのが1967年、そして解散したのが72年と、その期間はわずか6年。
その短い期間で多くのヒット曲を紡いだのはジョン・フォガティという類まれなるソングライターがいたから。また、あまりにも短い時間で分裂してしまったのも、ジョンという個性の強すぎる存在があったから。

たしかにジョンは天才的なロッカーでした。CCRのオリジナル曲のほぼすべては彼の作詞作曲による。また、またそのノイジーなヴォーカルも聴き手を魅了するのに充分でした。ということはやっぱりCCRはジョン・フォガティのバンドだった。
他のバンドでももっとも注目され、求心力となるのはメインヴォーカルですが、その主役が曲作りほぼすべてを担当という形態のバンドはそう多くはない。
もう少しジョンが寛大だったらCCRは継続していたかもしれませんが、かの名曲の数々は生まれていたかどうだか。
解散後、ジョンはソロ活動をはじめますが、そういう運命だったのでしょう。

ファンはジョンの素晴らしさを知っているけれど、やっぱりソロではなくバンドとしてのCCRが目に焼きつき耳にこびりつき、心に残っているのです。そんなわけで今回はCCRのカヴァ曲を何曲か聴いてみました。

https://youtu.be/wgzOzXPifYE

「コットン・フィールズ」Cotton fields は1969年の「ウィリー・アンド・プアボーイズ」Willy And The Poor Boys の収録曲。
1940年ブルース・ミュージシャンのバディ・リードベリーによって書かれた歌。オデッタらがフォークとしてうたい継ぎ、50年代末にハリー・ベラフォンテがうたって一般にも広まった。以後多くのフォーキーやカントリーシンガーがカヴァした。

わたしが初めて聴いたのはフォーク・グループのニュー・クリスティ・ミンストレルズで、CCRを聴くきっかけになった歌でもある。

「子供の頃、家の裏に綿畑があったけど、たくさん摘むことはできず、稼ぎも少なかった」という歌は、楽しい思い出の歌にも聞こえるが、もちろん畑は白人の地主のもので、俺たちは労働者にすぎない、という現実もあった。サリーフィールドの映画「プレイス・イン・ザ・ハート」を思い出す。いい映画だったけれど、白人(主人)、黒人(使用人)という仕組みを告発するような作品ではなかった。
動画はジョン・フォガティで。

https://youtu.be/WNFsS5pYO3A

つぎも同じ「ウィリー・アンド・プアボーイズ」の中の一曲、「ミッドナイト・スペシャル」Midnight Special。
トラディショナルな囚人ソング。「ミッドナイト・スペシャル」とは、牢獄の囚人たちが真夜中に見る「幸運の光」のこと。その光の元は刑務所の傍を通る列車で、真夜中に疾走する列車がフロントライトをまき散らす光。その光は獄舎のなかまで飛び込んできて、囚人たちはそのれが、やがて釈放されたり、愛しい恋人に再会を約束する幸運の光であることを信じている。
「コットン・フィールズ」のリードベリーは刑務所でのこの歌の採録にもひと役買っている。1959年、ウィルマとストーニーのクーパー夫妻がカントリーとしてヒットさせ(YOU-TUBEで見れます)、以後多くのシンガーやバンドがとりあげるようになった。

https://youtu.be/Y0AkRThPCSU

1972年のCCR最後のアルバム「マルディグラ」Mardi Gras に収録された一曲が「ハロー・メリールウ」Hello Marylou 。61年のリッキー・ネルソンのヒット曲。ソングライトは日本で「ルイジアナ・ママ」の歌唱でしられるジーン・ピットニー。日本でも弘田三枝子やザ・ピーナッツのカヴァでテレビ、ラジオから流れていた。
リッキー・ネルソンのヴァージョンで印象的だったカウベルをCCRもつかっている。以前YOU-TUBEでフレディ・マーキュリーがうたっていた。この歌のようにビフォア・ビートルズのアメリカン・ポップスにはエヴァグリーンのものがいくつもある。

https://youtu.be/JDDMoU2XZm8

最後は1969年のアルバム「バイヨー・カントリー」Bayou Country の収録曲「グッド・ゴリー・ミス・モリー」Good Golly Miss Molly。ごぞんじリトル・リチャードの純正ロケンロー。
わたしが初めてこの歌を聴いたのは中学生のころ。リトル・リチャードではなく、ミッチ・ライダーとデトロイト・ホイールズで、楽曲は邦題「悪魔とモリー」。「グッド・ゴリー・ミス・モリー」とショーティ・ロングのR&B「青い服を来た悪魔」を合わせたもの。最近YOU-TUBEでブルース・スプリングスティーンがこの歌をうたっているのを見た。
それはともかく、CCRがこの曲を発表した翌年に発表したのが「トラベリン・バンド」でこれも純正ロケンロー。このふたつのロケンローが似すぎているということで問題になったとか。
純正ロケンローはだいたい3コードのブギウギで、どれもある程度似てしまうのだけれど、このふたつの曲がそんなに似てるかなという印象がある。結局、法廷に持ち込まれることはなかったそうだが。

ほかにもファーストアルバム収録のロカビリー「スージーQ」とか、ハンク・ウィリアムズのジャンバラヤ(1972)など聴いてみたいカヴァーもありますがこのへんで。

おまけはやっぱりオリジナルで。
それでやっぱり「雨を見たかい」を。ただ、カヴァで、それも日本人のカヴァで。プロにも人気のある曲のようで、何人もがカヴァをしておりました。
そんななかでいちばん良かったのは、演奏アレンジはほぼ原曲どおりだけれど、ヴォーカルがオリジナㇽに迫っていたこの人で。

https://youtu.be/Ri_a3EurEjs

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十五、十六、十七と…… [covers]

ケイ・ウンスク.jpg

https://youtu.be/-ARBLU7Egw8

今日久しぶりに電車に乗って驚いた。コロナ以前に舞い戻ったような。それほど電車が混んでいたのです。ラッシュアワーのようにからだがくっつくというところまではいきませんでしたが、その寸前。ある種「懐かしさ」さえ感じてしまいました。まん延防止等重点措置(長い)が解除される前日だというのに。

話は変わりますが先日、韓国で新しい大統領にユン・ソギョルさんが決まり、いつまでたっても良好にならない日本との関係の改善が期待されます。
ウクライナへのロシアの侵攻がいまだ続いておりますので、落ち着いて日韓の関係を論じるタイミングになりませんが、こじれにこじれもつれにもつれた糸をほぐす知恵を持った政治家は日韓ともいないようです。

それでも、文化の交流は以前に比べると隔世の感があるほど深まっております。とくに最近は韓国発のテレビドラマや劇場映画、あるいはKポップスなどが日本でも熱烈に歓迎されているようです。

こうした文化の交流はとりわけ若い層に良い影響を及ぼしているようで、オールドピープルが感じている壁や垣根といった障壁を軽々と飛び越えているように感じます。

その強烈なインパクトで転換期となり韓国ブームを巻き起こしたのが平成15年の韓国ドラマ「冬のソナタ」でした。
ただ、それまで昭和40年代あたりから細々、徐々にではありますが、韓国発の歌が日本の流行歌の世界に浸透していき、やがて定着していきます。
つまり「冬のソナタ」の大爆発の起爆剤として韓国ソングがあったことは確かです。

とりわけ韓国女性歌手は受け入れやすかったようで、そのはしりが昭和40年代半ばに来日し、「カスマプゲ」をヒットさせた李成愛(イ・ソンエ)でした。

そもそもその頃までは韓国の流行歌が日本で流れることはほぼなく、反対に日本の歌謡曲やポップスが韓国で披露されることは原則禁止でした。

日本は別に法律で禁止していたわけではなく、そうした慣例がなかっただけで、そうした目新しさもあって「カスマプゲ」のヒットと、李成愛の日本での支持になったのだと記憶しています。

その李成愛がファーストペンギン(最近聞きませんが)となって、以後先日ここで紹介したキム・ヨンジャをはじめ多くの韓国女性歌手が日本を舞台に活動するようになったのでした。

ケイ・ウンスクもまた日本で親しまれた韓国シンガーで、昭和59年「大阪暮色」で日本デビューしています。
ベビーフェイスとハスキーヴォイスで、日本のオジサン族を魅了し、もしかすると最も人気を博した韓国人女性歌手だったかもしれません。
残念なことにその後薬物事件で日本から追放され、地元韓国でも同様の事件を犯し、もはや来日が絶望的の現状で、ファンを失望させております。韓国では活動再開しているようですが、もはや月日が経ちすぎた感があります。

そんな彼女もまた多くの日本の流行歌をカヴァしていますのでその何曲かを。

まずは昭和44年弘田三枝子の歌謡曲進出第一弾でヒットした「人形の家」。

https://youtu.be/60wP7PMNxak

作詞は昨年亡くなったなかにし礼。40年代がなかにし礼の全盛期で、この年にはほかに「恋の奴隷」(奥村チヨ)、「君は心の妻だから」(鶴岡雅義と東京ロマンチカ」、「夜と朝のあいだに」(ピーター)、「本牧ブルース」(ザ・ゴールデンカップス)、「恋のアタック」(響かほる)などが。

作曲も昨年亡くなった川口真。やはり最近亡くなった西郷輝彦の「真夏のあらし」、由紀さおりの「手紙」、布施明の「積木の部屋」、岩崎宏美「熱帯魚」、夏木マリ「絹の靴下」、伊東ゆかり「逢いびき」などのヒット曲を手がけています。
もともとアレンジャーで、作曲はこの「人形の家」が第一作だとか。

作曲もヒット曲の多さに驚きますが、それ以上に素晴らしくかつ多いのが編曲。印象的ないくつかをあげてみますと、「恋の町札幌」(石原裕次郎)「エメラルドの伝説」(ザ・テンプターズ)、「二人の銀座」(山内賢、和泉雅子)、「初恋の人」(小川知子)、「北国の青い空」、「悲しき天使」(森山良子)、「さすらいのギター」(小山ルミ)、いい日旅立ち(山口百恵)、愛人(テレサ・テン)などなど。いつかあらためて聴いてみたい。

2曲目は昭和55年の「ダンシング・オールナイト」。

https://youtu.be/eofvm6Hj8a4

もんた&ブラザースのデビュー曲でダブルミリオンの大ヒットとなりました。
作曲はヴォーカルのもんたよしのりで、作詞はミュージシャンでもある水谷啓二。ほかではちあきなおみの「百花繚乱」や「ほおずきの町」などが。

40年以上も昔の歌ですが、いまだにカラオケでは人気があるとか。オールドファンでしょうが。
歌の延命の大きな理由のひとつがカヴァの多さ。ポップシンガーや演歌の歌上手たちがよくカヴァしています。とりわけ演歌歌手には好まれているようでよく聴きます。ポップなマイナーチューンの歌謡曲という感じでうたいやすいのかもしれません。

ケイ・ウンスクはオリジナル同様のノイジーヴォイスがこの歌に合っています。うたう途中での笑顔が「歌詞わかってんのかな」といささか気になりますが。

最後は昭和45年の藤圭子「圭子の夢は夜ひらく」。

https://youtu.be/FAutJBqojDA

これはその4年前に大ヒットとなった園まりの「夢は夜ひらく」のカヴァ。ということはケイ・ウンスクはカヴァのカヴァということになる。
といってもこのうたは園まり、藤圭子以外にもかなりの数のカヴァ(20人くらいいるのでは?)があるので、面倒なことはいわずにただカヴァといえばいいのかもしれません。
とはいえ、オリジナルが園まりであることは動かない。

曲は曽根幸明になっているますが、元は「読み人知らず」の俗謡、戯歌を曽根幸明が採譜したものだといわれております。「東京流れ者」や「さすらい」などと同様。
たとえば、軍隊とか刑務所、やくざの世界など閉ざされた世界の中から生まれた歌のようです。

異なるのは詞で園まり盤は中村泰士と富田清吾が、藤圭子版は石坂まさをがつくっております。園まりと競作となった緑川アコ盤は水島哲が、そしてその後のちあきなおみ盤は西沢爽、バーブ佐竹盤は藤間哲郎、香西かおり盤は市川睦月というようにそれぞれがオリジナルの歌詞を提供しております。

そのなかでやはり藤圭子盤の石坂まさをの詞が、もっともインパクトが強く、曲ともども後世に伝えられる歌になっています。

藤圭子もどちらかというとノイジーヴォイスで、ケイ・ウンスクにはカヴァしやすいようにも思いますが、やはりオリジナルの独特のキャラクターの印象が強すぎて、園まりあるいは緑川アコ盤にしたほうがよかったのでは、と感じてしまいます。
「圭子の夢は夜ひらく」にはシンガーの雰囲気とともに70年代ニッポンという時代が貼り付いていてカヴァも難しいかも。

前のキム・ヨンジャ、今回のケイ・ウンスクを聴きますとどうしても懐かしいイ・ソンエが聴きたくなってきます。残念ながら動画がありませんでしたが、せめて歌声だけでも。

https://youtu.be/eB4wbwn9Vag


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指先に 夕陽が沈む [covers]

キムヨンジャ.jpg

https://youtu.be/tAZWCeJpAIw

最近、あまり見かけませんが韓国の歌姫キム・ヨンジャはどうしているのでしょうか。
もっともわたしが最近、歌のテレビ番組をほとんど見ないので知らないだけなのかも。いまでも彼女は日本で活動しているのでしょうか。それともこのご時世ですから故国へ戻っているのでしょうか。

キム・ヨンジャは1959年全羅南道光州市生まれ、15歳で歌手デビュー。その3年後には日本デビューというから、日本を歌手活動の舞台としてあと数年で半世紀になろうとしています。出稼ぎといったら失礼ですが、腕(のど)と努力がなければ、こんなに長く続けることはできません。
プロゴルファーのように国際ルールがあって、言葉や文化がさほど関係ない「舞台」ならばともかく、オリジナル、カヴァーをふくめすべて日本語で、それも耳の“肥えた”客に聴いてもらい満足してもらうのは、並大抵の努力とセンスがなければ不可能。

とりわけ彼女が日本の流行歌ファンから支持されるのは歌謡曲のカヴァーじゃないでしょうか。もちろん、いまの日本人歌手でも難しい昔のヒット曲をうたうのですから、正直「当たり外れ」はあります。でもハマったときの迫力はそれこそスゴイ。
だからそのカヴァーたるやおびただしい。日本の上手な歌手なら何度か歌えば会得する「歌詞」や「主題」や「ストーリー」を「肉体化」するのにどれだけの時間がかかるものか。

数あるカヴァーの中から、昭和の歌謡曲を聴いてみたいと思います。
それも古い歌謡曲。戦後の復興と発展のなかで庶民に受け入れられた昭和20年代、30年代、40年代の歌謡曲をそれぞれ1曲ずつ3曲を。


まずは昭和29年(1954)のヒット曲、「黒百合の歌」。

https://youtu.be/2iHJeQ5qFOc

29年といえば敗戦から9年、日本がようやくひと息つけそうになってきた頃。それでも横丁には防空壕跡があったり、街角には傷痍軍人が弾くアコーディオンが悲しげに響いていたりと、戦争の残滓はいまだ残っておりました。
そんななかで頻繁にラジオから流れていたのが「黒百合の歌」。

同年に公開された映画「続・君の名は」の主題歌で、前年の前作「君の名は」と同じ織井茂子がうたった。作詞作曲も同じコンビで、詞は原作者でもある劇作家の菊田一夫。曲は戦前・戦中・戦後と一貫して流行歌の売れっ子だった古関裕而。
もともとはその2年前の連続ラジオドラマ「君の名は」からはじまった遭ったり離れたりと運命に翻弄される男女・春樹と真知子のドラマで、社会現象といえる大ブームとなりました。
SNSはもちろん、ケータイもない、テレビもないそんな時代で、ラジオと新聞と書籍と雑誌とレコードで日本のすみずみまで、その存在を知らしめるということは、今の尺度では推し量れないほど爆発的なエネルギーが存在していたはず。

第一作の「君の名は」もヒットしましたが、この「黒百合の歌」のほうがヒットしたようで、いまだうたいつがれているのはこちらのほう。
作詞の菊田一夫はアイヌの娘・ユミ(北原三枝)の激しい情念そのままにプロ作詞家には書けない独特の世界を描いています。
とりわけ、「あたしが死んだら」とか「やがては私も死ぬんだよ」という歌詞のインパクトが大きかった。それまでの歌謡曲にもあったリリシズムとしての「死」ではなく、どこか心中をにおわせていたり、死ぬことへの「居直り」が感じられるコワイ女がうたわれておりました。
別の言い方をすればある種の狂気、それをキム・ヨンジャはみごとに演じております。


時は流れて昭和35年。
この頃になると、日本が完全に経済成長のレールに乗ったといってもいい時代。
その一方我が先輩方のなかには、本気で革命が起きると信じていた政治の季節でもありました。まぁ、いまから考えれば、そうした思いや行動ができたのも、一般庶民にも経済的な基盤ができあがってきたから、といえないこともありません。少なくとも全般的には食うや食わずという生活からはなんとか抜け出せていたのですから。

そんな時代、夜の街に低く暗く流れていたのが松尾和子がうたう「再会」。

https://youtu.be/oDo8imSSY_A

その少し前の昭和32年には29年の「お富さん」以来の大ヒットとなった「有楽町で逢いましょう」が日本を席巻し(大袈裟かな)、翌33年には「西銀座駅前」が、そして34年には「東京ナイトクラブ」と、大人の恋愛ソングが巷に流れます(JPOPと比べるとなんとも流行歌の変遷に唖然とさせられます)。

そして35年には「好き好き好き」や「東京カチート」が。
これらすべてフランク永井の歌。そしてこれらすべてソングライターは曲が吉田正、詞は佐伯孝夫のコンビ。
あきらかにそれまでの流行歌とは異なった雰囲気の歌で、当時「都会調歌謡曲」なんて呼ばれていました。それが後にトレンドとなるムード歌謡のさきがけでもありました。

「再会」も吉田・佐伯コンビの作で、フランク永井同様、ジャズシンガー出身の松尾和子が情念たっぷりにうたっております。牢獄に囚われの身となった男を指折り数えて待つという健気な女性のストーリー。ひと昔前なら戦地に赴いた夫や恋人を待ったり、少し前なら都(東京)へひとはた上げに出て行った男を待つというのが定番でしたが、「再会」のヒロインは監獄に囚われの身の男を待つというのが新鮮でした。

前述したように35年は安保闘争の時代。
先輩たちは「戦いすんで日が暮れた」その虚脱感を西田佐知子の「アカシヤの雨がやむとき」で癒し、それを「われらが歌」とした、という伝説が残っております。しかし後輩は「再会」こそ安保を象徴する歌ではないか、と思うのです。
感情を抑え気味のオリジナルに比べるとキム・ヨンジャはやや感情過多ですが、そういう「待つ女」でもそれはそれでストーリーが浮かんできます。


ふたたび時は流れて、昭和は40年代。
かつてはダミ声といわれ、歌手には向かないといわれていたハスキーヴォイスの時代がやってきました。

https://youtu.be/q80UalD2Km0

昭和43年、矢吹健がうたったのが「あなたのブルース」。
7,8年前に亡くなってしまいましたが、彼のデビュー曲です。
その2年あまり前に「女のためいき」でデビューして大ブレイクしたのが元祖ハスキーヴォイスで「女歌」をうたったのが森進一。
ある歌手がブレイクすると、「柳の下の泥鰌」を探せとばかり、そのエピゴーネンが何人も出てくるのは今も昔も。

矢吹健もハスキーヴォイスで、森進一の亜流のひとりかと思われましたが、師匠・藤本卓也作詞作曲のこの「女歌」は大ヒット。多くの歌手にうたいつがれる名曲となっております。柳の下に泥鰌は2、3匹いるようです。
「あなた」を連呼する女の情念もスゴイですが、恋人に去られた女の「取り残され感」が半端ない。

この歌もある意味夜の世界を思わせる「ムード歌謡」でこのあたりから本格的なムード歌謡が流行歌のトレンドとなる時代がはじまっていました。
「あなたのブルース」の少し前の41年には黒沢清とロス・プリモスが「ラブユー東京」でデビュー、「あなたのブルース」の翌44年には内山田洋とクールファイブが「長崎は今日も雨だった」でデビューしております。

昔なにかの本でこの歌が実は「同性愛」をうたったものだ、という記事を読んだことがありました。真偽のほどはわかりませんが、そう思って聴けばそう聞こえないことはありません。女同士であれ、男同士であれ。
キム・ヨンジャのカヴァはその演出も含めて圧巻です。やっぱりこの歌は男がうたう「女歌」ではなく、女のシンガーで聴きたいと思わせられました。それほど彼女の歌は素晴らしかった。



北京五輪はいくつか問題を残しながらも終了しました。
平和の祭典が終った途端に戦争が始まろうとしています。
「平和が終ったのだから戦争だ」ってまるでマンガみたいな話です。ロシアとしてはオリンピックが終わったら軍事行動を起こそうな、と決まってたのでしょうし、欧米側だってそのことは承知していたのでしょうし。いや中国だってこのことを知ってたはず。
だとすれば、世界情勢からみればオリンピックなんて茶番なんでしょうね。IOCもオリンピックの期間中だけは避けてくださいねというスタンスなんでしょうか。

しかし昨日平和を唱和しながら、夜があけたら砲弾が飛び交う(かもしれない)というのはあまりにも露骨で、ばかばかしい行動。これが大人のやることか、という気さえします。

まだ全面戦争が始まったわけではないので、多くのひとたちの心配が杞憂におわることを願うだけです。
スポーツにはもちろん音楽にも戦争を回避する力はないけれど、それでもやりたくなるし、見たくなるし、聴きたくなるし、うたいたくなる。
オマケはロシアの変心を願ってこの歌を。

https://youtu.be/4o1KAKEGxbk


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