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十五、十六、十七と…… [covers]

ケイ・ウンスク.jpg

https://youtu.be/-ARBLU7Egw8

今日久しぶりに電車に乗って驚いた。コロナ以前に舞い戻ったような。それほど電車が混んでいたのです。ラッシュアワーのようにからだがくっつくというところまではいきませんでしたが、その寸前。ある種「懐かしさ」さえ感じてしまいました。まん延防止等重点措置(長い)が解除される前日だというのに。

話は変わりますが先日、韓国で新しい大統領にユン・ソギョルさんが決まり、いつまでたっても良好にならない日本との関係の改善が期待されます。
ウクライナへのロシアの侵攻がいまだ続いておりますので、落ち着いて日韓の関係を論じるタイミングになりませんが、こじれにこじれもつれにもつれた糸をほぐす知恵を持った政治家は日韓ともいないようです。

それでも、文化の交流は以前に比べると隔世の感があるほど深まっております。とくに最近は韓国発のテレビドラマや劇場映画、あるいはKポップスなどが日本でも熱烈に歓迎されているようです。

こうした文化の交流はとりわけ若い層に良い影響を及ぼしているようで、オールドピープルが感じている壁や垣根といった障壁を軽々と飛び越えているように感じます。

その強烈なインパクトで転換期となり韓国ブームを巻き起こしたのが平成15年の韓国ドラマ「冬のソナタ」でした。
ただ、それまで昭和40年代あたりから細々、徐々にではありますが、韓国発の歌が日本の流行歌の世界に浸透していき、やがて定着していきます。
つまり「冬のソナタ」の大爆発の起爆剤として韓国ソングがあったことは確かです。

とりわけ韓国女性歌手は受け入れやすかったようで、そのはしりが昭和40年代半ばに来日し、「カスマプゲ」をヒットさせた李成愛(イ・ソンエ)でした。

そもそもその頃までは韓国の流行歌が日本で流れることはほぼなく、反対に日本の歌謡曲やポップスが韓国で披露されることは原則禁止でした。

日本は別に法律で禁止していたわけではなく、そうした慣例がなかっただけで、そうした目新しさもあって「カスマプゲ」のヒットと、李成愛の日本での支持になったのだと記憶しています。

その李成愛がファーストペンギン(最近聞きませんが)となって、以後先日ここで紹介したキム・ヨンジャをはじめ多くの韓国女性歌手が日本を舞台に活動するようになったのでした。

ケイ・ウンスクもまた日本で親しまれた韓国シンガーで、昭和59年「大阪暮色」で日本デビューしています。
ベビーフェイスとハスキーヴォイスで、日本のオジサン族を魅了し、もしかすると最も人気を博した韓国人女性歌手だったかもしれません。
残念なことにその後薬物事件で日本から追放され、地元韓国でも同様の事件を犯し、もはや来日が絶望的の現状で、ファンを失望させております。韓国では活動再開しているようですが、もはや月日が経ちすぎた感があります。

そんな彼女もまた多くの日本の流行歌をカヴァしていますのでその何曲かを。

まずは昭和44年弘田三枝子の歌謡曲進出第一弾でヒットした「人形の家」。

https://youtu.be/60wP7PMNxak

作詞は昨年亡くなったなかにし礼。40年代がなかにし礼の全盛期で、この年にはほかに「恋の奴隷」(奥村チヨ)、「君は心の妻だから」(鶴岡雅義と東京ロマンチカ」、「夜と朝のあいだに」(ピーター)、「本牧ブルース」(ザ・ゴールデンカップス)、「恋のアタック」(響かほる)などが。

作曲も昨年亡くなった川口真。やはり最近亡くなった西郷輝彦の「真夏のあらし」、由紀さおりの「手紙」、布施明の「積木の部屋」、岩崎宏美「熱帯魚」、夏木マリ「絹の靴下」、伊東ゆかり「逢いびき」などのヒット曲を手がけています。
もともとアレンジャーで、作曲はこの「人形の家」が第一作だとか。

作曲もヒット曲の多さに驚きますが、それ以上に素晴らしくかつ多いのが編曲。印象的ないくつかをあげてみますと、「恋の町札幌」(石原裕次郎)「エメラルドの伝説」(ザ・テンプターズ)、「二人の銀座」(山内賢、和泉雅子)、「初恋の人」(小川知子)、「北国の青い空」、「悲しき天使」(森山良子)、「さすらいのギター」(小山ルミ)、いい日旅立ち(山口百恵)、愛人(テレサ・テン)などなど。いつかあらためて聴いてみたい。

2曲目は昭和55年の「ダンシング・オールナイト」。

https://youtu.be/eofvm6Hj8a4

もんた&ブラザースのデビュー曲でダブルミリオンの大ヒットとなりました。
作曲はヴォーカルのもんたよしのりで、作詞はミュージシャンでもある水谷啓二。ほかではちあきなおみの「百花繚乱」や「ほおずきの町」などが。

40年以上も昔の歌ですが、いまだにカラオケでは人気があるとか。オールドファンでしょうが。
歌の延命の大きな理由のひとつがカヴァの多さ。ポップシンガーや演歌の歌上手たちがよくカヴァしています。とりわけ演歌歌手には好まれているようでよく聴きます。ポップなマイナーチューンの歌謡曲という感じでうたいやすいのかもしれません。

ケイ・ウンスクはオリジナル同様のノイジーヴォイスがこの歌に合っています。うたう途中での笑顔が「歌詞わかってんのかな」といささか気になりますが。

最後は昭和45年の藤圭子「圭子の夢は夜ひらく」。

https://youtu.be/FAutJBqojDA

これはその4年前に大ヒットとなった園まりの「夢は夜ひらく」のカヴァ。ということはケイ・ウンスクはカヴァのカヴァということになる。
といってもこのうたは園まり、藤圭子以外にもかなりの数のカヴァ(20人くらいいるのでは?)があるので、面倒なことはいわずにただカヴァといえばいいのかもしれません。
とはいえ、オリジナルが園まりであることは動かない。

曲は曽根幸明になっているますが、元は「読み人知らず」の俗謡、戯歌を曽根幸明が採譜したものだといわれております。「東京流れ者」や「さすらい」などと同様。
たとえば、軍隊とか刑務所、やくざの世界など閉ざされた世界の中から生まれた歌のようです。

異なるのは詞で園まり盤は中村泰士と富田清吾が、藤圭子版は石坂まさをがつくっております。園まりと競作となった緑川アコ盤は水島哲が、そしてその後のちあきなおみ盤は西沢爽、バーブ佐竹盤は藤間哲郎、香西かおり盤は市川睦月というようにそれぞれがオリジナルの歌詞を提供しております。

そのなかでやはり藤圭子盤の石坂まさをの詞が、もっともインパクトが強く、曲ともども後世に伝えられる歌になっています。

藤圭子もどちらかというとノイジーヴォイスで、ケイ・ウンスクにはカヴァしやすいようにも思いますが、やはりオリジナルの独特のキャラクターの印象が強すぎて、園まりあるいは緑川アコ盤にしたほうがよかったのでは、と感じてしまいます。
「圭子の夢は夜ひらく」にはシンガーの雰囲気とともに70年代ニッポンという時代が貼り付いていてカヴァも難しいかも。

前のキム・ヨンジャ、今回のケイ・ウンスクを聴きますとどうしても懐かしいイ・ソンエが聴きたくなってきます。残念ながら動画がありませんでしたが、せめて歌声だけでも。

https://youtu.be/eB4wbwn9Vag


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嫌いは嫌い好きは好き [memory]

宝田明.jpg


宝田明さんがお亡くなりになりました。
87歳だそうで、容体がわるくなり翌日に永眠されたそうです。
あれほど美貌の方でも亡くなるのか、とあたりまえのことにながら不条理を感じております。また、自分も願わくば長く寝付くことなく、体調をくずしたら即あの世へ行きたいものだ、という思いも浮かんでまいりました。


昭和9年生まれといいますから、昔よく言われた昭和一ケタ世代。
朝鮮の清津(ちょんじん)で生まれ、終戦は満洲の哈爾浜(はるびん)で迎えたと履歴に書いてありました。終戦後、ソ連軍の満洲への侵攻、蹂躙で過酷な引き揚げ体験があったそうで、そのとき残虐なソ連軍の記憶が消えず、いまでもロシアの文学、音楽ほか藝術に親しめなかったそうです。


昭和30年代の前半、イケ面といえば(いまは主演俳優ほぼそうですが、当時はそう多くはいなかった)宝田明と鶴田浩二が双璧でした。
わたしが小学校へあがるかあがらない頃、近所の遊び友達がいまして、そのお姉さん(いまでいう女子高生)がわたしに歌謡曲を教えてくれまして、そのイチ押しだったのが神戸一郎。彼女曰く「神戸一郎っていい男よね。だって宝田明と鶴田浩二を足して二で割った顔をしてるじゃない」。わたしはふたりのイケ面俳優も神戸一郎も知らなかったのですが、そのとき初めて宝田明という名とその存在をインプットされたわけです。

また彼女の強いプッシュもあってその後、幼いながら神戸一郎のファンになりました。
ちなみに神戸一郎は今でいうアイドルシンガーで、映画にも引っ張りだこ。のちに観ましたが宝田明とも「嵐を呼ぶ楽団」で共演しております。

お姉さんが言った宝田明、鶴田浩二が当時の二枚目スターの代表格であったということは後日知ることになり、あらためてかのお姉さんのミーハー度を確認することにもなったわけです。

「時代の顔」というのもあるのかもしれませんが、古い人間にとってはこの二人はもうしわけないけれどキムタクより「上」でした。すくなくとも、40歳、50歳になっても端正な顔は保たれておりましたし。現在のイケ面だらけの時代、誰が真の二枚目なのでしょうか。それはともかく。

宝田明といえば古くはゴジラ俳優、あるいは近年ではミュージカル俳優としてその存在感を示しておりましたが、昭和30年代に青春を謳歌した先輩方にとっては大学生ものや源氏鶏太原作のサラリーマンもの、つまり東宝青春映画を牽引したトップスターという印象がもっとも強いのではないでしょうか。

個人的に映画に関しては残念ながら東映、日活専門でしたので、ほとんど観ておりませんが、最も印象に残っているのは昭和37年に封切られた(死語?)成瀬巳喜男監督の「放浪記」。林芙美子の自伝原作で高峰秀子が芙美子を演じ、「浮雲」とともに彼女の代表作といえる映画です。
そのなかで芙美子の三人目の夫で、才能に乏しく気の強い妻からもやりこめられる作家を存在感たっぷり、みごとに演じていたのが宝田明でした。
彼の著書には、そのとき成瀬監督から出されたロングNGと高峰秀子とのやりとり、そしてその後日談がおもしろく書かれておりました。

当時の映画界は「歌うスター」というのが重要なプロモーションのひとつで、主題歌をレコーディングする主演級の男優、女優が少なからずいました。
代表的な俳優が日活の石原裕次郎や小林旭、松竹の鶴田浩二、東映の高倉健など。

宝田明は元々高校時代から演劇部に所属していたこともあり、エンタメ志向がつよく、歌も好きだったようです。映画の舞台あいさつや、プライベートで遊んでいたキャバレーなどではよく流行歌やジャズを披露していたとか。

そして彼がはじめてうたった映画主題歌が昭和32年の「美貌の都」。監督は松林宗恵監督でヒロインはその後東宝のトップペアになる司葉子。
この歌こそが彼の唯一最大のヒット曲です。

https://youtu.be/I-yGNgabMzo

作詞は歌謡曲草創期の「東京行進曲」から「愛染かつら」、さらには戦後復興期の代表曲「青い山脈」など昭和の歌謡曲を牽引した西條八十。作曲はやはりコロムビアの看板で「東京の花売り娘」「港町十三番地」「逢いたいなァあの人に」「東京のバスガール」「恋人をもつならば」など戦後歌謡曲を支えたヒットメイカー、上原げんと。

この映画と主題歌のヒットにより翌年「愛情の都」が製作され、その主題歌もうたったそうですが、映画も歌もほぼ埋もれた存在となっております。

「美貌の都」が公開された昭和32年は戦後日本映画のピーク(観客動員)で、各映画制作会社も多作となり、宝田明も主演級を19本こなしたとか。その昭和32年、「美貌の都」の数作品あとに「青い山脈」(新子の巻と雪子の巻の2作品)が公開されその主題歌をうたっております

https://youtu.be/gWgx391uekk

昭和24年今井正監督、原節子・池部亮主演の8年後のリメイク版です。
ちなみに新子はやはり石坂洋次郎原作の「山と川のある町」で共演した雪村いづみ、雪子(島崎先生)には司葉子。六助が久保明で宝田は校医の沼田という配役でした。

そのほかにも「大学の侍たち」とか「恋のいのち」など多くの映画主題歌・挿入歌をレコーディングしておりますが、音源としてどれだけ残っているのか、ほぼ絶望的です。

https://youtu.be/UyOlRk3yFPA

そんななか、YOU-TUBEに当時の二枚目双璧の共演、鶴田浩二と出演した「暗黒街の顔
役」の予告編があり、そのなかで宝田明が一瞬キャバレーでうたうシーンがありましたので、それを。

https://youtu.be/F6wsXQAqvKw

音源をもっていないので確信はありませんが、多分この映画の主題歌「毀れた方向指示器」だと思うのですが。
そうであれば作曲は浜口庫之助、作詞は最近も舟木一夫の青春歌謡でふれました脚本家であり鉄道写真家でもある関沢新一です。もし、違う歌だったとしても宝田明の若き日の姿と美声を聴けるのでご容赦ください。

日本のミュージカルを支えてきたひとりとしても、また常々映画の社会性を語り、いまだタブー視される俳優・タレントの思想・信条をあたりまえのこととして発信してきた貴重な俳優が亡くなられたことはとても残念に思いますし、ご冥福をお祈りするばかりです。

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嫁に行くよな娘じゃないが [歌謡曲]

おけさ唄えば.jpg

御三家最後は最年長でもちろんデビューも昭和35年ともっとも早い橋幸夫。すでに来年5月80歳になると同時に引退すると表明しております。そうですね、まぁ納得のいく決断でしょう。フェイドアウトしていく方もいますし、それはそれでよいと思いますが、引退宣言といいますか、引退予告というのも江戸っ子らしい。

ところで橋幸夫の代表曲といったら何でしょうか。
そのデビュー曲の「潮来笠」。ほかでは吉永小百合のデュエットでレコード大賞を獲った「いつでも夢を」。同じくレコ大受賞の「霧氷」……。
ほかでは作詞の佐伯孝夫が実話をもとにつくったという「江梨子」とか、リズム歌謡の一発目の「あの娘と僕」なんかでしょうか。

橋幸夫が他の二人と異なるところは、いわゆる「和もの」が多いということ。以前は「日本調歌謡曲」なんていってました。
とくに橋幸夫の場合は、デビュー曲の「潮来笠」に象徴されるような映画でいうところの「股旅もの」。江戸時代のやくざ者とかながれ者ですね。だから着物姿も多かった。

舟木一夫にも多くはありませんが、かの「銭形平次」があったし、赤穂浪士の若者をうたった「右衛門七討入り」とか「火消若衆」とか「一心太助江戸っ子祭」などありますが、ヒットしたのはテレビドラマでリピートされた「銭形平次」くらい。
西郷輝彦にいたっては、テレビの時代劇ドラマの主題歌があったような気がしますが、ほとんど聞きません。

特筆したいのは橋幸夫の数多ある「股旅もの」、たとえば「沓掛時次郎」「関の弥太っぺ」「南海の美少年」「磯ぶし源太」など、そのほとんどが吉田正、佐伯孝夫の作曲、作詞コンビ。
吉田・佐伯コンビといえば「哀愁の街に霧が降る」「東京の人」から「有楽町で逢いましょう」「東京ナイト・クラブ」「再会」など、いわゆるムード歌謡の達人たち。それが和ものというか、股旅ものもテリトリーとしていたというのがスゴイ。

わたしの記憶に残っていて、ときおり自動再生されるのは歌そのものは「和もの」ではないのですが、メディアミックスで同名映画の主題歌としてつかわれ、その映画というのが大映の股旅ものというアナクロぶりの「おけさ唄えば」。
映画は観ていませんが、主演が大映の看板・市川雷蔵。橋幸夫も出演していたようです。
動画はその映画のワンシーンで、若き日の橋幸夫登場で、ファンには堪らない。いや時代劇ファンや雷蔵ファンにも堪らない。ちょっと長いですが、歌だけなら8分あたりから。

https://youtu.be/Y_1JjKqzW98

歌の内容は、佐渡から東京へ出てきた男が故郷にいる恋人に想いを募らすという、やはり当時歌謡曲の主流だった「故郷歌謡」。

この歌の思い出は残念ながら発売当時、つまり青春歌謡全盛時の昭和30年代後半ではなく、それから10年あまり経過した昭和40年代。社会人になって間もない頃。

東京郊外の工業団地で働いていた頃の話です。気の合う先輩がいまして。部署は違ったのですが、最寄駅からの送迎バスで隣り合わせになったことから話をするようになり、しばしば酒に誘ってもらうようになりました。
大きなからだで、眼鏡をかけた細い目がいかにもやさしそうで。そんな警戒心をいだかせない風貌に魅かれるものがありました。仕事のほうはバリバリこなすというタイプではなく、しばしば上司や同僚から注意される光景を見かけたこともありました。やっぱりお互いに歌が好き、というところが共通点だったのかもしれません。

そんな先輩に誘われてスナック通いをしていたのは、ちょうどカラオケが出回り始めた頃。、といってもカラオケボックスなどはなく、バーやスナックに設置されたカラオケマシーンが全盛でした。選曲は専用の歌詞集があって、リクエストするとママさんや女の子が8トラックとよばれたカセットテープを挿入するというもの。で、ミュージックが流れると、客はそのマシーンに繋がったマイク片手に鼻声を披露するわけです。

先輩、スナックでは水を得た魚。
よくうたっていたのが鶴田浩二とか神戸一郎とか。そして締めにうたったのがこの「おけさ唄えば」。
橋幸夫のこの歌は知っていましたが意識しはじめたのは先輩のカラオケショーで。聴けば聴くほど「いい歌だなぁ」と思うようになって、やがてわたしの脳内名曲アーカイブスに。
先輩のうたも上手だったなぁ。こちらは鼻声ではなく、美声で。
遠距離恋愛の歌詞もいいですが、演奏の「おけさ節」の浮かれ囃がなんとも哀愁を含んだ賑やかさで。嫌なことでも忘れさせてくれるチャンチキ囃。先輩にとってもそんな歌だったのかもしれません。

当時、一年ごとに職場を変わるという渡り鳥のような生活をしていたわたしは、「予定通り」その会社を短期退職し、先輩ともそのままになってしまいました。
短期間ではありましたが、その先輩とは歌にまつわる別の思い出もありますが、それはいつかまた披露できることがあれば。

もい一曲といいますか、今回は二曲を。
橋幸夫でも「チェッ、チェッ、チェッ」とか「恋のメキシカン・ロック」とか「若いやつ」など聴きたい曲はたくさんありますが、大好きな「チャンチキ囃」が聞こえてくる他の歌手の歌を。
まずは元祖チャンチキ節。やはり佐渡から都会へ出て来た男の歌。こちらも遠い故郷の彼女の顔も浮かびますが、都会へ出てきたものの一向に芽が出ない己を嘆き、酒で紛らすというある意味やけ酒ブルーズ。

https://youtu.be/K8vURIZ8Myk

もう一曲は、昭和の歌姫のチャンチキ節で、はじめに述べたような「和もの」。
主人公はこれもはっきり言ってはいませんが、どうやら佐渡から江戸へ向かう旅がらすのようです。こちらはチャンチキ囃もそうですがドドンパがいい。

https://youtu.be/B45Ckl7lsaA





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どこかで鳥が啼いている [screen music]

川津祐介.jpg

またも訃報です。

先が短くなると、どうも訃報が気になる。
俳優の川津祐介さんがお亡くなりになりました。命日は2月26日で86歳だったそうで、十分生きられたといっていいのではないでしょうか。

しばらく前からテレビではみかけませんでしたが、いろいろな経験、体験をされてなにかスピリチュアルの世界に傾倒されていたようです。、キリっとした顔つきとチャキチャキなセリフ回しがここちよい俳優でした。

テレビの「ザ・ガードマン」で文字どおり茶の間の人気者(死語かなぁ)になったそうですが、番組は知っていても実際に見た記憶がないので、ガードマン姿の川津さんのことも覚えておりません。ニュースで知ったのですが、てっきり主人公は丹波哲郎だとおもっていました。実際は宇津井健だそうです。なにかほかの番組と取り違えていたようです。

川津祐介(以下敬称略で書きます)の映画は、ウェブサイトで確認するとかなり観ておりますが、印象的だったのは2作品。

まずは鈴木清順の「けんかえれじい」。
昭和41年の公開といいますから、リアルタイムではなくのちに名画座で観たのだと思います。その後何度か見て、映画好きの友人とよく語り合った映画です。
前半は岡山、そして後半は学校を追われての会津若松が舞台。そこで男を磨き「喧嘩の修業」をする旧制中学生・南部麒六(キロク)の「青春記」でした。いつの世も変わらぬ若者のすべてが描かれていた映画でした。

主人公のキロクに若き日の高橋英樹が。そして岡山時代キロクに喧嘩の仕方を伝授するのが川津祐介扮する先輩のスッポン。袴姿でローラースケートで闘ったり、パチンコ、釘バットなどの武器をつくったり、多勢に無勢でも知恵と度胸で勝利の凱歌をあげる頼もしい「兄貴」を演じておりました。

女優陣ではキロク憧れのマドンナ・道子に浅野順子。カフェの女給に松尾嘉代が出ておりました。浅野順子はNHKテレビドラマの「次郎物語」で見とれていたお姉さん。のちに大橋巨泉夫人に。松尾嘉代は「紅の流れ星」でもおなじみのこれまたネクストドアお姉さんで、当時、仲間内でもファンが多かった。
北一輝が出てきたり、2・26事件の号外を見て居てもたってもいられず夜汽車で東京へ向かうキロクの姿で終る(多分)という思わせぶりなラストでした。
川津さんの命日が2・26というのも何かの縁でしょうか。

映画の中では「昭和維新の歌」が流れていたような気もしますが、あまり好きではありませんので、もうひとつ旧制中学生たちがうたっていたという歌で、映画の中でもうたわれていた歌を。といいましたが残念ながらYOU-TUBEに元歌がないのでアレンジされたこの歌で。ハナ肇とクレイジーキャッツも別アレンジでうたっておりました。P.D.で「東京流れ者」の元歌でもあります。

https://youtu.be/hIfOYrjXcxw

もうひとつの川津祐介の映画は「けんかえれじい」よりさらに昔の昭和34年の木下恵介作品。もちろんこれまた名画座で観た映画です。

偶然ですがやはり会津若松を舞台にした作品。
幼なじみの五人の青年と彼らをとりまく「大人」たちの青春群像劇。とにかく監督好みのいまでいうイケメンを揃えた、当時の若い女性には堪らない映画。といっても単なるアイドル映画ではなく、友情と誤解の入り混じったほろ苦いドラマはたしかキネ旬のベスト10にも名を連ねたはずです。
今のマンガでいえばBLものとしても観れる映画。ゲイからの支持も高いとか。

好色五人男ではなく五人の色男(と当時は言った)には石濱朗、川津祐介、山本豊三、津川雅彦、小坂一也が扮し、川津は唯一東京へ出たエリートで、たしか映画は彼が会津に帰ってくるところから始まります。これも多分になってしまうのですが、川津にはどこかカゲがあり、その理由が東京で何か罪を犯して逃げてきたから、ということがのちのちわかってくる。そんな暗い秘密をかかえた若者をみごとに演じておりました。

「友情物語」のサイドストーリーとして大人の恋物語もあってやはり当時のイケメン、美女の佐田啓二と有馬稲子が演じていました。「東京暮色」からのファンであった有馬稲子の舞う白虎隊ではスクリーンに見とれておりました。

それはともかく、この映画が印象に残っているもうひとつの理由が主題歌。
木下恵介の弟・木下忠司の作詞作曲で、当時の人気歌手若山彰がうたった同名主題歌が耳に残り、やがて脳内アーカイブスへと記録されていきました。

https://youtu.be/DIjd_a7Lbm4

歌も映画もその2年前の「喜びも悲しみも幾年月」(こちらも木下忠司作曲。作詞は木下恵介)ほどヒットしませんでしたが、旋律も詞も木下メロディーで日本人の原風景をかんじさせる(勝手なこと言ってます)歌でした。
好きな歌なのですが、カラオケでうたったことがありません。そこそこ人気のある歌だと思うのですがなぜかカラオケにないのです。「隠れた人気」くらいじゃカラオケに入れてくれないのかな。やはり木下メロディーの映画主題歌「ここは静かなり」もありませんし。

最後はグチになりましたが、川津祐介さんお疲れさまでした。熱烈なファンではありませんでしたが、あなのた魅力を脳裏に描いているファンがわたしを含め少なからずおりましたよ。

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夢のハワイで初デート [歌謡曲]

夢のハワイで盆踊り.jpg


今日道端でみごとなタンポポ一輪を発見しました。
え、こんな季節にタンポポ? と一瞬思いましたがもはや三月。春が迫っていたのでした。
しかしわたしはダウンにニット帽に手袋の冬仕様。トップをきって咲き誇ったタンポポが勝ち誇ったように「あんた、そろそろだよ」と教えてくれました。では。

舟木一夫こそ「青春歌謡」の代名詞でしょう。

御三家では橋幸夫のほうがデビューは早いのですが、舟木一夫が制服でうたったデビュー曲「高校三年生」で、その後百花繚乱咲き乱れる「青春歌謡」の幕が開いたといってもいいのでは。

デビューは西郷輝彦より1年早く、わたしは小学生ながらすでに片耳で洋楽を片耳で歌謡曲を聴いていました。
「高校三年生」はたしかにそのタイトルからして衝撃的でした。高校生の流行歌などそれまで聞いたことがなかった( あったのかもしれませんが)。
それまで歌謡曲といえば大人の歌というのが当たり前で、なにが大人かといえば自ら働いているということが条件のひとつとしてあったのではないでしょうか。つまり十代であっても学生ではなく、労働者、社会人ということ。当時は中学卒業したら半分近くが就職していたのではないでしょうか。それほど社会は若い働き手を必要としていたということでもあります。

それがいきなり♪こうこうさんねんせい ですからびっくり。
まぁ、ひとつにはレコード会社の戦略として、高校生、さらには中学生にまでレコードを買わせちゃおうという算段があったのもたしか。それだけ当時の中高生の懐事情がよくなってきていた、すなわち親からもらう小遣いの額が増え始めてきたという時代でもありました。
わたしもこの頃はじめて小遣いでレコードを買いました。残念ながら「高校三年生」ではなくブラザース・フォアの「グリーン・フィールズ」でしたが。

ところが中学に入ると、それまでそれほどファンではなかった舟木一夫と対峙しなくてはならない事態に。
当時のクラスの中ではたしかに「青春歌謡」の嵐が吹きまくっておりました。とりわけその熱狂的支持者は圧倒的に女子が多く、休み時間になるとあちこちのグループで舟木一夫だ、いや西郷輝彦だとか、それぞれの新曲の話などでもちきり。

わたしはさほど感心がなく、「蚊帳の外」常態だったのですが、夏休みを控えたある日、なんと熱狂女子のひとりがわたしを映画に誘ってきたのだからびっくり。
とくべつ気になっていたクラスメートでもなかったのですが、「チケットがあるから」という「タダ」の誘惑に勝てず「お供」することに。
いまから考えれば中学生のアヴェック? が映画でデートなんていい度胸だとおもいます。当時も女子中学生は「無敵」だった。

で、そのとき観た映画が「夢のハワイで盆踊り」。

https://youtu.be/BYRp2uFI-7k

たしか二本立てだったと思いますが、もう一本は覚えておりません。「夢のハワイ」というのが時代を感じさせますが。
また、映画の内容も断片的にしか記憶にありません。そりゃそうです、それまではというと同じ東映でも大友柳太郎や大川橋蔵などの時代劇ばかり観ていたのですから。ただ本間千代子は可愛かった。

それでも「夢のハワイで盆踊り」の同名の主題歌はしっかり脳内の歌謡曲アーカイブスに保管されております。
実はこの歌、舟木一夫だけではなく、映画で共演していた本間千代子、高橋元太郎、二代目コロムビア・ローズの四人でうたっているのです。ソロシンガーが四人で、というのはめずらしい。軍歌や盆踊りの歌など以前はたまにあったようですが。

面白い歌だと思うのですが、どこか難しく、カラオケでうたったことはありません。
作曲がなんと後の演歌の大御所・船村徹。
舟木一夫への楽曲提供は少なからずあるようで、ヒット曲でも「夕笛」「夏子の季節」「ブルー・トランペット」「太陽にヤァ!」などが。
作詞はゴジラ、モスラ映画などの脚本家として、また元祖トリ鉄の鉄道写真家としての顔ももつ多才ぶりで知られた関沢新一。
作詞は、古くは小林旭の「ダイナマイトが150屯」や美空ひばりの「柔」、都はるみの「涙の連絡船」などが。また舟木一夫では「学園広場」や「高原のお嬢さん」「銭形平次」などがあります。

YOU-TUBEを見ても当時の記憶は甦ってきませんが、改めて笠智衆が出ていたことに驚き。また加藤治子も。キレイでしたね加藤治子。それと落語家の桂伸治も。さらにチラチラ見えていたハーフっぽい女性はもしかして高見理沙では?すべてこれらの俳優の顔と名前が一致するのはずっとあとのこと。

蛇足ですが、初心なわたしを映画に誘った彼女との後日談。
その後わたしと彼女は恋に発展した、ということはまったくなく、夏休みが過ぎ新学期が始まっても彼女から何のアプローチもありません。私の方といえばはじめから気にしていなかったとはいえ、映画に誘われたのですから、いささか気になっておりました。
多分、夏休みに新しいボーイフレンドでも見つけたのでしょう、わたしにはまるで無関心。
そのまま卒業していきました。

と、わたしの初デートの盛り上がらない話ではありますが、じつはその数年後、大学生になったあるとき突然彼女から電話が、という続編が。

彼女曰く「話したいことがあるから逢いたい」と。
彼女の通う大学のある御茶ノ水の喫茶店での再会。彼女はロングヘアはあの頃のままでしたが、少しキレイになっておりました。
どうでもいい近況のやりとりのあと、彼女はバッグから写真を取り出しました、それも100枚はあろうかというスナップ写真。なんでも最近ドイツへ旅行にいったとかで、そのスナップを一枚一枚、その時の感想とともに説明してくれるのです。
ソイツにもドイツにもまったく興味のないわたしは、数枚目で思考停止。
1時間余りドイツの「スライドショー」が続いたあと、「これから授業なの、また連絡するね」の言葉を残して彼女はさっそうとドアを開けて出ていきました。

「夢のハワイで盆踊り」の映画同伴事件といい、喫茶店でのスライドショー事件といい、わたしが暇つぶしに都合のいい男だったことは間違いありません。
でもそれもまた若い頃の思い出の一粒(ふた粒か)と考えれば、彼女に対して退屈しのぎでも誘ってくれてありがとう、といいたいくらい。当時の気持ちは別としても。

それにしてもロシアの横暴といいますか狂暴といいますか、止まりそうもありません。話が変わっております。
まだ始まっておりませんが、今日はパラリンピックの開会式。
世界が注視している戦争のさなかに平和の祭典って正気なのかって思います。選手の方々には気の毒だと思いますけど、「延期」っていう選択肢はなかったのでしょうか。ロシアとベラルーシの選手を締めだしましたが、国連のロシア非難決議に賛成しなかった中国で開催するのもヘン。気持ちはわかりますが、「我が国は戦時下では競技はできません」といってボイコットする国はないのでしょうか。
戦争は戦争、オリンピックはオリンピックと割り切っているのでしょうか。これから先オリンピックが平和の祭典だなんて言っても誰も納得しないでしょうね。

そうでした青春歌謡でした。
では舟木一夫をもう一曲。
せっかくなので正調・船村徹節を。作詞は西條八十で最後のヒット曲かもしれません。西條の先輩詩人・三木露風の「ふるさとの」にインスパイアされた詞だといいます。

https://youtu.be/S33wUB91vm8




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星歌 [歌謡曲]

西郷輝彦.jpg


西郷輝彦さんが先月20日に亡くなりました。

「御三家」のなかでもいちばん若く、ときおりテレビで見かける姿は元気そのもので驚きました。昨年がんの治療でオーストラリアへ行ったというニューは聞いていたのですが、これほどはやく亡くなるとは。

デビューが昭和39年(1964)といいますから、まさに東京オリンピックの年。
御三家、橋幸夫、舟木一夫のなかでは最後発で、最年少。
彼らをふくめて当時の歌の一部は「青春歌謡」などと呼ばれておりました。わたしも中学へ入りたてで、まさに青春の門をくぐりはじめた頃でした。

ですから、リアルタイムで青春歌謡は聞こえていたのですが、その一方でカヴァポップスから「洋楽事始」の頃で、その新鮮さインパクトの強さでヒットパレードに夢中になっていた頃でもありました。

それでも西郷輝彦をはじめ青春歌謡の印象は当時の思い出とともに記憶の壺に残留しております。そこで「御三家」の印象に残っている歌を聴いてみたいと思います。

まずは西郷輝彦。

彼の歌のなかで当時よく聞こえていたのは「星娘」や「星のフラメンコ」でしょう。
どちらもそれまでの歌謡曲とは異なり、ビートやリズムが効果的につかわれていて洋楽風でもありました。それもそのはずで、作曲はラテン出身の浜口庫之助。ハマクラ節ではほかにも「願い星叶い星」というのもありました。

わたしが印象に残っているのはやはり「星」に関する歌なのですが、ハマクラさんではなく当時のクラウンレコードの花形作曲家で、西郷輝彦のデビュー曲「君だけを」もてがけた北原じゅんの「星空のあいつ」。

https://youtu.be/IPHzSxXo8MY

ちなみにこの歌はハマクラさんの「星歌三部作」よりも早い、デビュー3枚目のシングルです。YOU-TUBEの映像は日活映画「涙をありがとう」で見ておりませんが、山本陽子、久保菜穂子が懐かしい。

当時の小学校からの幼なじみとは中学へ入ってもお互いの家を行き来しておりました。そして西郷輝彦がデビューして間もない頃、彼の家へいくと彼はなんとガットギターをかかえておりました。彼の兄のもので、見よう見まねで彼もつまびいていたというわけ。エレキギターのブームが起こる少し前だったような記憶です。
彼はわたしの目の前でギターをつまびきながら一節を口ずさんでみせました。いまでいうドヤ顔で。それが♪星空のあいつは という「星空のあいつ」のはじめの二小節。
残念ながらその先へは進まず、延々とその二小節の弾き語りをリピートするばかり。その先は未だ未習得だったのでしょう。

それでもギターなどに触ったこともなかったわたしにとっては大したことで、なぜかその二小節の旋律と歌詞が頭の中に強くインプットされ、時折再生されてくるのです。今でも。
ちなみに作詞はやはり西郷輝彦のデビューから初期のヒット曲をてがけた水島哲。
水島は新聞記者と二足の草鞋を履いていた作詞家で、ほかに平尾昌晃の「星は何でも知っている」、布施明の「霧の摩周湖」、三島敏夫の「面影」、渡哲也の「星よ嘆くな」などがあります。

「二小節シンガー」の彼、どうしているのでしょうか。中学を出て別々の高校へ行った頃から徐々に疎遠になっていきました。何かの都合で引っ越したという話は聞きましたが。どこかの道でバッタリなんてこともなく半世紀以上が過ぎてしまいました。
最後にもう一曲、西郷輝彦作詞作曲歌唱の歌を。
YOU-TUBEではじめて知ったのですが、平成10年(1998)の星歌を。

https://youtu.be/qNw8hgw-EzY





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