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坊や大きくなっとくれ [フォークソング]

軍国の母.jpg


https://youtu.be/3WMSS9oum5Y

終戦記念日になるとマスコミは毎年判を押したように、凝りもせずセレモニーの模様を報道する。その数日前あたりから戦争の悲惨さを伝える企画番組、記事を発信する。そして日にちが変わると、もはや戦争報道などなかったようにいつもの日常に戻る。これが70数年間続いている。

これでいいのだと思う。365分の1日であっても毎年懲りずに発信することがかつてあの戦争に加担したマスコミの役割であり、本来のあるべき姿なのだと思う。
「誰も読まないし、見てないよ」といわれてもいいのである。超マイノリティであっても誰かたちが受信しているはずなのです。
彼らが受け止めている以上、万が一の危機が訪れようとしたとき、あの時代ののように流されていく社会に対して杭を打ち込んでくれるかもしれないのだから。多分。

だからたまには反戦歌を聞いてみるのもわるくない。

日本の反戦歌がもっとも盛り上がったのは昭和40年代の半ばあたり。西暦でいえば1960年代後半。
反戦というくらいなので、なにか戦争があったはずである。歌というくらいなのでなんらかの歌のスタイルがあったはずである。それが、ベトナム戦争であり、アメリカからやってきたフォークソングだった。

つまり、おせっかいにも日本では自国の戦争ではなく、海の彼方の国で起きている戦争に対して反対を表明する歌が生まれたのである。それもひとつやふたつではなく。

50年代とほぼ時を同じくして起こったベトナム内戦とアメリカのフォークリバイバル。
そして1964年にはアメリカが「民主主義」と「正義」を掲げてベトナム戦争へ参戦していく。
ところが60年代後半になると、戦争の泥沼化と、多くの若者の犠牲によりアメリカ国内でその「正義」に疑問をもつ人たちが増えていくことに。つまり反戦、厭戦気分がたかまり、その気分は文学や舞台、映画とともに音楽にも反映されていく。音楽ではとりわけ若者中心で、自由を求める歌が多かったフォークソングにその影響が顕著に現れることに。

プロテストソングの発生である。代表的なものをいくつかあげると「花はどこへ行ったの」、「悲惨な戦争」、「風に吹かれて」、「勝利をわれらに」、などがあり、シンガーとしてはピート・シーガー、ジョーン・バエズ、ボブ・ディラン、ピーター・ポール・アンド・マリーなど。

つまり、日本の反戦歌はアメリカのフォークソングのカヴァからはじまったのである。
当初、それは関東の大学生たちからはじまり、カレッジフォークなどとよばれた。それがハッキリとしたメッセージとして反戦がうたわれるようになったのは、関西からで、これはアメリカの「北爆」をはじめベトナム戦争が激化し、日本のなかでベトナム反戦運動が起こったことが大きく影響している。

その嚆矢が高石友也で、「戦争の親玉」などボブ・ディランの歌をみずから訳してうたいはじめた。彼に続いて、岡林信康、中川五郎、五つの赤い風船、加川良などがオリジナルのプロテストソングをつくり、当時流行りの深夜ラジオ放送などを通じて全国に広まっていった。

随分「前説」が長くなりましたが、今回聴いてみたいのは昭和44年(1969)に高石友也とマイケルズの共作としてリリースされたベトナムのカヴァ曲「坊や大きくならないで」。

https://youtu.be/Znl4LvEfZTQ

つくったのは1939年生まれのベトナムのシンガーソングライター、トリン・コン・ソン。正確な年代は不明ですが、たぶん60年代後半につくられた「坊や、お休み」という歌が日本で紹介され、先のふた組のカヴァとなった。
大ヒットしたという記憶はありませんが、何度も聴いたことがあるし、多くのシンガーにカヴァされて(カルメン・マキや森山良子などもカヴァしていた)いたので知っている人も少なくないのではないでしょうか。

意外なのはあまりこの歌に関する情報がないということ。たとえばマイケルズというグループの詳細が不明。レコードジャケットから男性3人組ということはわかるが、出身とか各個人の名前等はわからない。ということは2枚目をレコーディングするまえに解散してしまったのかもしれない。
また作詞の浅川しげるという人物も不明。ほかに作詞活動をした形跡がなく、推測すればベトナム語に堪能な方で、レコード会社から依頼されて翻訳したのではないか、ということに。

歌の内容は、訳詞が原曲に忠実ということを前提にすると、父親を戦争で亡くした幼ない男の子を寝かしつける母親の心情をうたったもので、大きくなれば父親と同じように戦地に行かなければならないだろう。そしてまたお前お失わなければならなくなるかもしれない。だからこのまま大きくならずにわたしの傍にいてほしい、という母親の思いがうたわれている。

通常ならば子どもに対して「元気に育ってほしい」と思うのが母心であり親心なのだが、そうした思いを歪めてしまっているのが戦争なのである。

ウクライナとの戦争で、ロシアには息子に戦争へ行ってほしくないという母親は少なくないという報道もあった。とうぜんだろう。どこに自分の息子に最前線へ行って敵を倒してきなさい、なんて親がいるだろうか。

というのは正論かもしれないが、そういう母親もいる、いやいた。
正しくいえば、母親が幼子に対して「早く大きくなって敵を倒し、国を守ってね」といったのではなく、いわされたのであり、そういう思いにさせられたのである。

それが80年あまり昔の日本の戦争で、国家が強いた母親の心構えだった。
当時の母親にとって息子が兵隊に召集されることは当たり前で、万歳三唱で戦地へ送ることも仕方のないこと。せいぜい無事を祈るしか術がなかった。もし戦死したとしても、恨み言をいわずそれを名誉と思わなくてはいけない。それが当時の国民の、さらには母親の共通認識だった。
いまでは考えられない一億総洗脳社会だが、それが戦争であり、それが帝国主義国家だったのである。
もちろん当時、歌といえばほぼ戦争を鼓舞する軍歌で、反戦歌なんて日本中どこを探しても「存在しない時代」だった。

太平洋戦争が起きた翌年の3月、「海の母」という歌がリリースされた。
「産みの母」とかけてるのかもしれないが、国家の検閲をクリアした「りっぱな」軍国歌謡である。残念ながらYOU-TUBEに音源がなかったので、その詞を書き記しておく。

「海の母」

坊や大きく なっとくれ
撫でてさすって 願かけて
風の吹く日は 袖屏風
抱いて寝かせた 夜の鶴

ねんねんおころり 子守唄
寝ればねたとて 可愛い顔
あかず眺めて 手枕も
ほんに昨日か 一昨日か

雨の降る夜も 母の灯は
なんで消えましょ 赤く点く
照らせわが子の 進む艦(ふね)
海は日本の 母ぢゃもの

ほぼ普通の母の子に対する思いが書かれているが、戦時中だということと、最後の2行をみれば、早く大きくなって立派な兵隊さんになり、御国のためにたたかっておくれ、という母の声が聞こえてくる。

この歌は、それまで「燦めく星座」や「新雪」(いずれも灰田勝彦の歌唱)をつくった佐々木俊一(曲)と佐伯孝夫(詞)のコンビによってつくられた。
つまり母親がつくったのではなく、「父親」たちがつくったのだ。

戦後、「いつでも夢を」(橋幸夫・吉永小百合)や「有楽町で逢いましょう」(フランク永井)「再会」(松尾和子)などをつくり昭和30年代ナンバーワンのヒットメーカーだった佐伯孝夫は、戦時中軍歌をいくつかつくったが、当時の売れっ子作詞家にしてはきわめて数が少ない。元来「夢見る人」である佐伯は、争いごとは嫌いという温厚で優しい人柄だった。だから勇ましい詞は苦手で、上の「海の母」がせいいぱいの軍歌だった。それでも当時の母親に成り代わって早く子どもを戦地へ送ろうと扇動したことは否定できないだろう。

たかが歌ではあるけれど、百年も経たない昔の戦争中に「坊や(早く)大きくなって」という考え方が常識だった時代があったのである。
そういう時代が来ないようにたまには反戦歌が聴こえてきてもいいのだ。
ベトナム戦争のような海の向こうの戦争で日本に「坊や大きくならないで」が流れ、多くのオリジナルの反戦歌が生まれたのだから、ロシアのウクライナへの侵攻あるいはミャンマー軍事政権による民主化運動弾圧に対して反対を表明する歌が聴こえてきてもと思うのだが。とりわけ若者のIPOPから。

おまけは軍歌を。
「海の母」のコンビによってつくられた歌で、うたったのも「海の母」同様、戦前戦後芸者シンガーとしてしられた小唄勝太郎。と思いましたが、やはり終戦記念日まじかなので軍歌はちょっと控えて。
実はこのうた戦後の昭和30年代、歌詞を一部変えて三沢あけみがリバイバルヒットさせています。なのでそちらのほうを。

https://youtu.be/cSVxj3k955s
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Trio02 [フォークソング]

ネルソンズ.jpg

https://youtu.be/ZF0ZvJgVAd8

今朝起きて、テレビをつけて二度寝していると、とぎれとぎれでテレビのニュースショーの音声が聞こえておりました。
なんでも近藤真彦のジャニーズ退所について後輩が批判めいたことを語っておりました。
彼が円満退所ではなかったかどうかなどいきさつには興味がありませんが、ワンマン社長が亡くなることでかくも組織が崩壊とはいいませんが、変容してしまうものなのだなという思いが。それは組織にとってよいことですし、メンバーたちにとってもなるべくしてなっていくことなのだと思います。あとはテレビ局がちゃんと忖度しなくなるようになればいいのですけど。

なんでこんな話をするかといいますと、近藤真彦といえばたのきんトリオの一員でしたから、まぁ、トリオの話のイントロということで。

昨日のフォーク・トリオの続きです。
フォーク・トリオがさらに爆発するのは48年(1973)から。

https://youtu.be/JSgyHiKESGw

なんといっても和製フォーク最大のヒットといわれた「神田川」で南こうせつとかぐや姫。南こうせつが伊勢正三、山田パンダと組んだ第二期の「かぐや姫」6枚目のシングルでした。

曲はこうせつによるもので、詞は喜多条忠。
当時世間は同棲ブームで、歌詞に出てくる銭湯帰りの待ち合わせは喜多条の体験記らしい。
たしか、この曲がヒットしたとき、クラシックの黛敏郎(だったかな)が「名曲です」と、とりわけその曲に賛辞を送ったことで、さらに支持が増幅されたような記憶があります。
時代を反映した、名曲だとは思いますが、それほど格調高い曲だったのかなぁ、なんて感心した覚えが。だいたいわたしのような流行歌好きの俗人は、クラシックには弱く、なんか言われると、御説ごもっともと納得してしまう。

南こうせつとかぐや姫は、第一期から数えると45年のデビューで。まさに高節、ではなく苦節?3年の大ヒットとなったわけです。

そして48年にはこのトリオによるこの歌もヒットしました。今考えると、当時の和製フォークはアイデアに長けていて生活に裏打ちされた詞が秀逸でした。

https://youtu.be/B9mHBYtvw6I

武田鉄矢は70年あたりからヴォーカルとしてバンド活動をしていましたが、リードギターの千葉和臣、サイドの中牟田俊男とのトリオ「海援隊」を組んだのが47年。
この「母に捧げるバラード」、曲は海援隊、詞は武田鉄矢の母親讃歌で、語りの博多弁が新鮮でウケました。

母親讃歌は流行歌で時どきヒット曲が生まれます。
古くは(全部古いか)、「岸壁の母」(菊池章子)、「東京だョお母さん」(島倉千代子)、かあさんの歌」(ダークダックス他)とか、「おかあさん」(テンプターズ)、「おふくろさんよ」(森進一)、「おかあさん」(森昌子)など。
反面、父親讃歌は少ない。まぁ、「父よあなたは強かった」なんて言われるのはゴメンですけど。

軌道修正。
昭和40年代最後の年、49年に遠距離恋愛を背景としたフォークソングが、翌年大ヒットする太田裕美の「木綿のハンカチーフ」に先がけてヒットしました。

https://youtu.be/IcYGOUs3NbM

マイ・ペースは秋田の中学校同級生の森田貢、伊藤進、根次男で結成されたフォーク・トリオ。森田がヴォーカルとサイドギター、根がリードとコーラス、伊藤がフルートとコーラスというめずらしい構成で、作曲は主に森田が担当。
フルートの響きが新鮮で「東京」でもメランコリックな雰囲気をかもしだしておりました。

この歌がメジャーデビュー曲で、中ヒットではありましたが、詞・曲とも心にも耳にも残る歌でした。残念だったのはネクストヒットが出なかったこと。
「東京」の二文字をタイトルとした歌はいくつもありますが、まちがいなくこの歌も名曲です。

だいぶ、長くなってきましたので、そのほかの49年にヒットしたフォークトリオの歌を

https://youtu.be/mSiiE9bPn-4

ソルティー・シュガー(4人構成)のメンバーだった山本コウタローが45年のヒット曲「走れコウタロー」以来4年ぶりのヒット曲。
名所・名跡めぐりではなく、岬をめぐるというアクティブな内容が若者にウケてヒット。歌に触発されて実際に岬をめぐった若者がいた? のかもしれない。
今だったら聖地めぐりとか御朱印めぐりとか、だろうけど。

リタイアしてから東京の神社めぐりをしている知り合いがいますが、2000近くあるそうなので、一日一社としても6年あれば東京の全社制覇も可能かも。わたしにはそんな志向も趣味もありません。まぁ、死んだら地獄めぐりでもしてみようかなんて。

https://youtu.be/6l6MJpDe5sM

以前のブログで何度かとりあげたN.S.P.(スタートはニュー・サディスティック・ピンク)の最大のヒット曲。デビューはその前年で「さよなら」。
天野滋、中村貴之がツインギターで、平賀和人がベースというトリオ。詞・曲はほとんど天野が担当。その天野は残念ながら平成17年に夭折しております。
叙情派フォークの代表的トリオで、「夕暮れ時は淋しそう」は中村のオカリナが印象的な歌でした。

ほかではアリスがデビューしたのが47年。
雌伏3年で「いまはもうだれも」がヒットしたのは50年、「帰らざる日々」は51年でした。
さらに付け加えれば、フォークではありませんがキャンディーズがデビューしたのが48年、「危ない土曜日」をリリースしたのが49年でした。

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Trio [フォークソング]

tokyo03.jpg

https://youtu.be/ewatbgw-7ec

いま「トリオ」といえば、何はともあれ「お笑い」でしょうか。

東京03、ネルソンズ、ハナコ、四千頭身、トンツカタン、ジェラードン、ジャングル・ポケットとかとか。
女性なら三時のヒロインにぼる塾も。
こんなにトリオ芸人が活躍した時代など、過去にはなかったんじゃないでしょうか。
その魁ともいえるのが昭和30年代の「トリオ」たちでした。

戦後、まずお笑いトリオで名を馳せたのが二枚目・南利明、ひょうきん者・由利徹、むっつり・八波むと志の脱線トリオでした。昭和31年の結成ということで、かすかに覚えております。やっぱり最も長生きした由利徹の印象がいちばん。「ハヤシもあるでよぉ」も。

その後、「脱線」を意識しながら36年に浅草ストリップのコメディアンたちが結成した「てんぷくトリオ」もよく覚えております。
リーダー格で池袋の裕次郎?とのたまっていた三波伸介、名脇役になるなんて思えなかった伊東四朗、そしてもし夭折しなければ日本のジーン・ハックマンになっていたんじゃないかと思わせるほど味があった戸塚睦夫。
よく出ていましたテレビに。

ほかにも東八郎がいて、とぼけた味の小島三児が印象に残るトリオ・スカイラインもありました。また浅草出身ということなら、かの寅さん・渥美清だって谷幹一、関敬六とともにスリーポケッツというお笑いトリオを組んでいました。
関西には漫画トリオ、レッツゴー三匹、かしまし娘やチャンバラトリオもおりましたし。
それにしてもあれから半世紀以上が経ってしまったなんて……。

いえいえ、お笑いの話ではなく、音楽の話、歌のトリオの話です。

昭和40年代(西暦1965~1974年)のトリオといえば、これはもうフォークの季節であり、30年代の女性トリオとはうって変わって男性グループが中心の時代でした。

アメリカのフォクリバイバル(当時はモダンフォークといった)の影響で30年代後半からカレッジ・フォークが抬頭しておりましたが、オリジナルのJフォーク(なんて言わない)を、ということで42年、突如日本の若き音楽ファンを驚かせたトリオがフォーク・クルセダーズ。

https://youtu.be/ieVYEYNBN-U

なんとも、あの早回し風のサウンドがインパクト大で、その詞も酔っぱらい運転で死んだ男が天国でも酒がやめられず、神様から地上へ追放されるという荒唐無稽な話。
この歌を広めたのが、当時若者文化になりつつあったラジオの深夜番組でした。

フォークルは翌年「悲しくてやりきれない」をヒットさせますが、予定どおりその年に解散。

フォークルの出現、解散は衝撃的でしたが、和製フォーク、とりわけトリオが隆盛を迎えるのはその数年後の47年、西暦でいえば70年代に突入した1972年。

https://youtu.be/3iNRPxcRiZA

まずはGSのシッポをのこしたマーク、トミー、ボーカルのトリオ「ガロ」が「学生街の喫茶店」をリリース。
翌年、この歌をはじめ「君の誕生日」、「ロマンス」がヒット。女の子と見まがうマークがアイドル的人気を誇っておりました。

またその2年前あたりからフォークヒーローになりつつあった吉田拓郎のバックバンドをしていた「猫」が拓郎節の「地下鉄に乗って」や「雪」でデビュー。
ディランのバーズみたいなバンドを意識してプロデュースされたのでしょう。

https://youtu.be/5WtYWvRXBZM

猫はもともと43年に「海は恋してる」をヒットさせた早稲田大学のバンド「ザ・リガニーズ」の常富喜雄、内山修とほかのカレッジフォークバンドのメンバーだった田口清の3人で立ち上げたバンド。

カレッジ・フォークといえば、やはり43年に「小さな日記」をヒットさせたフォー・セインツがいますが、その後メンバーチェンジをし、フォーク・クローバーと改名して47年にテレビドラマの主題歌「冬物語」をヒットさせています。

https://youtu.be/IxCh3OqFXKo

そしてガロ同様、歌謡曲をベースにしたトリオも登場。

https://youtu.be/Ydam47WMgtI

「青い三角定規」はこの曲を作曲したいずみたくがプロデュースしたトリオで、ヴォーカルの西口久美子と、ギター、ハーモニーの岩久茂、高田真理と、かたちはPPMスタイル。
テレビの青春ドラマの主題歌となったこのセカンドシングルは大ヒットしましたが、翌年解散。

トリオに限ったことではないのかもしれませんが、個性の強いミュージシャン同士のユニットというのは、そのバランスがむずかしい。
デュオだってふたつの意見が食い違ってコンビ解消ってことがめずらしくないのですから、みっつの意見が交叉するトリオとなればなおさら。
だからトリオはだいたいバラバラになってしまいます。これを「トリオ・かいさんず」なんていったり。

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戦争はいやだ [フォークソング]

野火.jpg

昨日は終戦記念日。
ファンだった渡哲也さんの訃報を知り記事を書きました。

そして、渡さんのほかにも、かの戦争で不条理にも死んでいった人々、さらに生き残ることはできたものの、その戦争に翻弄され、あるいは青春の甘露を味わうことなく胸に一抹の後悔を宿しながらその後の人生を終えられた人々に対しても、心の中で手を合わせました。

https://youtu.be/X6xpEwmxhkg

戦争の風化は確実に起こっています。
戦後まもなく生まれたわれわれ世代は、体験者や記録媒体によって悲惨な戦争の追体験を確実にしたはずでした。

しかし、自身の反省をこめていうならば、その追体験を昭和の、平成の子どもたちにしっかりと追々体験するように振る舞ったかというと、はなはだ自信がない。

となればその子どもたちは、さらなる子どもたちに追々々体験などさせるわけがない。

残念ながら、もはや反戦マスコミ人や知識人の発言力を信じるしかない。

それでも口を噤むわけにはいかないので、悲惨な戦争が終わった日(翌日になってしまいましたが)に、はっきり、いかなる大義名分も国家が個人を殺すという戦争を肯定する理由にはならないということは、死ぬまで言いつづけなくてはならないと思っています。

もう一曲、ピート・シーガーの日本の歌を。

https://youtu.be/AxH4FWjHdMM


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バンジョー持って出かけるところです [フォークソング]

kinfstone trio.jpg


そもそもバンジョーの起源はアフロ系アメリカ人がアフリカ時代につかっていた民俗楽器が原形だとか、アラブからアフリカへ伝えられた楽器が大元だとか明確な「元祖」は不明のようですが、ブルーグラスでつかわれる5弦バンジョーは、アメリカでつくられたもの。

18世紀のミンストレルショー(白人が黒人に扮したりする、歌あり芝居ありの日本でいうところの大衆演劇みたなものかな)では欠かせない楽器でしたし、19世紀に入ってつくられたスティーブン・フォスターのミンストレル・ソング「草競馬」や「おゝスザンナ」がそうですね。

https://youtu.be/qSIj17xbAyk

とはいえ、主に脇役のリズム楽器だったのですが、その脇役が一躍注目され始めるのが1950年代後半にアメリカで爆発したフォーク・リバイバル・ムーヴメント。
そのきっかけとなったのが1958年、キングストン・トリオの「トム・ドゥリー」

https://youtu.be/S3zdE8bliGI

「トム・ドゥリー」は邪魔になった恋人を殺して縛り首になった実在の人物、トム・デューラーのことをうたった歌で、南北戦争直後につくられといわれています。

いちおう「よみびと知らず」のP.D.つまり民謡ということになっていますが、トムが刑場に曳かれていく最中に自らつくったという説も。おまけにトムはカントリーバンドのフィドラーだったという説も。さらに、実はトムは冤罪だったという説まで。

真偽のほどはともかく、殺人者処刑の話が歌となり、それがヒットするなんて日本ではおよそ考えられません(殺人事件が流行歌になったことはありますが)。

とにかくキングストン・トリオの「トム・ドゥリー」のビッグヒットによりモダンフォークの大ブームがアメリカで起こり、ピト・シーガー、フラザース・フォア、ジョーン・バエズ、ボブ・ディラン、ピーター・ポール&マリーなど多くのフォーキーたちが名曲とともに誕生したわけです。ビートルズ登場前夜の話です。

日本でも60年代半ば、このフォークとビートルズとエレキという3つの大波が到来し、日本のポップスシーンを激変させていきました。JPOPのルーツも間違いなくこの時期にあるはずです。

そうでしたバンジョーの話でした。

この時代の日本のフォークソングでバンジョーが印象的につかわれている曲というと、すぐに思い浮かぶのがソルティ・シュガーの「走れコウタロー」。草競馬からでもヒントを得たのでしょうか。ただこの歌はもろカントリーサウンド。ドンキー・カルテットの「宮本武蔵」と並ぶジャパニーズカントリーです。

それよりも印象に残っているのは、のちに本格的なブルーグラスバンドをつくることになる高石ともやのこの歌。

https://youtu.be/15wUSRm_joc

ちょうど高校受験の年だったこともあって問題集以上にこの歌が頭に入ってきて、半世紀を優に過ぎたいまでも、脳みそにこびりいついております。


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愛しているなら、そばに来て [フォークソング]

怒りの葡萄.jpg

閑なので、amazonのプライムビデオとやらを観てみようと思い立った。買い物ではたまにつかうけど、映画は初めて。

で、何を観ようかと考えましたが、まずは邦画でと。
しかしそのラインナップをみるとどうも…。どうしても古い人間なもので、新しい海には出たくない。で、古い作品群をみると、東映のやくざ映画と時代劇ばっか。ほとんど観たもの。

邦画はあきらめ、洋画のリストをスクロールしてみたが、SFだのゾンビだのドンパチアクションばかりで、どうも食指が動かない。

邦画が時代劇ならば洋画は西部劇。
古い作品はやはり観ているものが多いので、とにかく初見のものをさがしていたらありました。

「ジェーン」とう題名で2016年公開というから知るはずがない。

監督も役者もほとんど初耳アワー。
唯一知っていたのが、ジェーンを演じた主演のナタリー・ポートマン。「レオン」でみた少女だ。

1時間40分あまりはけっこうキツかった。

南北戦争後、ある夫婦とその奥さんの元彼の3人が、家に閉じ込められてアウトローたちの襲撃を受けるという話で、サム・ペキンパーの「わらの犬」を連想してしまったが、あれほどハードというか緊迫感はなかった。まだ爆弾を仕掛けて応戦するシーンも、「ワイルドバンチ」と比べるといささか。

カリフォルニアを目指すラストシーンも、忘れられた亡きジェーンの旦那に思わず同情してしまったり。

そんななかで、唯一ホットさせてくれたのが、ジェーンの元カレが彼女を探してホンキートンクを彷徨う回想シーンで、わずか10数秒ほど流れたBGMの[red river valley]。

https://youtu.be/yXBJqxwG0oE

レッド・リヴァー・ヴァレーがメインテーマとして使われていた映画といえばスタインベック原作の「怒りの葡萄」があまりにも有名。とりわけバーンダンスのシーンが忘れられません。好漢・ヘンリー・フォンダの素朴な歌もよかった。

https://youtu.be/AQ-wt7vQErs

レッド・リヴァー・ヴァレーはアメリカの民謡で、切ない別れ歌。その成り立ちはわかっていない。たかだか建国200年ちょっとの国でも「よみびと知らず」の歌があるんだな。

赤い河の谷間とはどこなのか。テキサス、オクラホマ、ルイジアナにかかり、ミシシッピーの支流となっている河にレッド・リヴァーがある。
1948年制作で、ハワード・ホークス監督、ジョン・ウェイン主演の映画「赤い河」RED RIVERはこの河を舞台にした西部劇(観てません)だが、かの曲が使われた形跡はない。
ということはここではないのか。

じつはもうひとつレッド・リヴァーがある。
こちらはミネソタあたりから北上してカナダとの国境を越え、ウィニペグ湖へと流れ込む河。この地域もカナダ建国前期にはドラマチックな紛争や政争が起きており、「別れ歌」が生まれる素地はある。

普通、民謡というと作者はともかく、特定の土地で誕生し、その自然や風習がうたわれることが多いが、このレッド・リヴァー・ヴァレーははっきりしない。

大元はレッド・リヴァーではなく「輝けるモホークの谷」あるいは「輝けるシャーマンの谷」というタイトルでニューヨークあたりでうたわれていたとい説もあり、アメリカ先住民にちなんだ歌だったのかもしれません。
「レッド」は先住民を指す俗称でもあり、ストレンジャーである白人が異文化に刺激されてつくった幻の川がレッド・リヴァーだったのかも。なんて。

詞もそうだが、気になるのは旋律。アメリカ民謡といえば、どこかイングランドやスコットランドあるいはアイルランドの匂いがするものだが、このレッド・リヴァー・ヴァレーはどこか「異臭」がする。異臭といってももちろんいい香りであることはいうまでもないのですが。

カナダということになれば、フランスの影響などもあるのかもしれないし。

似ている曲といえば、アメリカでよく対比されるのが讃美歌のスイート・バイ・アンド・バイ[Sweet By and By]。
それほどでも、とも思うけど、部分的には似てなくもない。

https://youtu.be/MrgQvJBMnL4

話が馬のナントカみたいになっているので曲を聴きましょう。

詞は日本でいうところの「男歌」と「女歌」があり、とにかく主人公(歌い手)が去っていく異性を惜しむというかたちになっている。男歌ではカウボーイ・ソングとしもうたわれている。

https://youtu.be/zFyBCBBCjOg

YOU-TUBEでジュディは♪あなたを愛していた女の子がいたことを忘れないで とうたっているし、クリスは♪きみを愛していたカウボーイを……、とうたってる。

この歌がさらに知られるようになったのは、50年代のロケンローブームでジョニーとハリケーンズが「レッド・リヴァー・ロック」Red River Rockとしてヒットさせたから。これはインストでのちにベンチャーズもやっていた。

https://youtu.be/NCfsqvyiXs4

昔から好きな歌で、いろいろなレッド・リヴァー・ヴァレーを聴いてきましたが、やっぱりフォークソングということでもあり、素朴な弾き語りがいい。
こんな感じの。

https://youtu.be/cTSfkeD3mQs

日本でも赤川さんがいるように、赤い河があるのではないかと思い調べたところ、全国に13もの赤井川がありました。そしてなんとそのうちの8つが北海道に。
まさか、「レッド・リヴァー・ヴァレー」を町歌や村歌にしているところはないだろうけど。

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夜明けは近い [フォークソング]

okabayashi.jpg

家にいる時間が驚くほど長くなると、無趣味の人間には辛い。

わたしはそんなこと……、と思ってみましたが、「……あれっ俺って、趣味らしい趣味がないんだ……」と思い至って。

テレビを見てもニュースは「コロナ」ばかり。
わかってますよ、ほぼ家にいますよ、ほとんど人と会っていませんよ、だから今日は何人死んだとか、このままでは何十万人が死ぬとか言わないで下さいよ、それでなくても死亡率の高い老人には不安なのですから。

もしかするとこのウイルスって、高齢化しすぎた人間の平均年齢を、引き下げて生き延びようとする「生物」のバランス感覚というか、正常化運動の反映ではないのか、なんて疑ってみたり。

何もすることがないから、妙な妄想が沸き上がってくるのだなと思い、断捨離でもないけど、引っ越してから20年あまり手を付けていなかった押し入れに詰め込んだパンドラ、ではなく段ボールの「蓋」を開けてみました。

何箱かあったうちのひとつを開いて、思わず手が止まりました。

中には本がギッシリ。それがすべて音楽関係。

ほとんどはジャズやカントリー、ブルーグラス、シャンソンといった洋楽のガイドブックやソングブックでしたが、何冊か邦楽もありました。

ほとんど読んだ記憶のない美空ひばり、渡辺はま子、古賀政男、筒美京平、漣健児といった本の中に、見覚えのある雑誌サイズの中綴じの1冊が。

書名は「岡林信康のすべて」。奥付をみると発行年が1970年というから50年前。さすがに読み込んだというか、触りまくったというか、半世紀の時間を感じさせるほどの手垢の付き具合、傷み具合ではありましたが。

https://youtu.be/MNrJ18P8k5s

岡林のファンというわけではありませんでしたが、彼が日本のフォークソングの礎をつくったシンガーソングライターであることには敬意を抱いていましたし、とりわけ初期の作品には心に響くものが少なくなかった。
ただ、その後の彼の方向性については懐疑的であり、正直その変節ぶりに幻想が滅んだと感じた部分もありました。

メッセージソングの脆弱性というのは、時代が変わると急激に色褪せてしまうということ。その詞が過激であればあるほど、その変色ぶりは激しく、もはや喜劇と思えるほど変わって見えてしまう。それを一番わかっていたのが岡林信康だったのではないでしょうか。

若さゆえの「生真面目」という姿勢をくずさずに生きていくことは極めてむずかしい。とくにあの時代そうした姿勢を貫くということは、他人をさらには自分を傷つけてしまいかねません。それはあの頃を振り返れば理解できることです。

段ボールから取り出した本のページをめくりながら、目に入ってくる岡林信康の歌を心の中で(家人がいるので)鼻歌してみると、やっぱり彼の歌の数々は素晴らしいものが多く、色褪せていたのは自分だったんだな、なんて思ったり。そういえば最近テレビで、加川良の歌も聴こえていたな。

コロナとの闘いは戦争だという人もいます。たしかにそうかもしれない。
とりわけわれわれ高齢者には長く厳しい戦いになりそうです。
半世紀前の岡林信康の歌に接して、あの頃まかり通った「生真面目」な勇気を少しもてたような気がしました。

彼の好きな歌をもう一曲

https://youtu.be/T54S9wa7Yj4



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