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お嬢もうたった白い雲 [on the park]

白い雲05.jpg

今日も東京は快晴で良き雲が浮かんでおりました。
昨日はもっと晴れていて、ほとんど青空。もうしわけ程度に東の空の下に小さな雲がひっそりと。

明治・大正期の詩人・山村暮鳥はそんなわずかな雲を、青空があまりにも果てしないので「途方に暮れている」とうたっていました。

昭和30年代の白い雲はこの歌。

https://youtu.be/ARQhU4-2kYw

33年の美空ひばりのヒット曲です。
もはや最高峰の歌姫として伝説化されていますが、彼女と同時代の音楽ファンには嫌いな人も少なくなかった。
とりわけ、洋楽好きのなかには自身のルーツでもあった流行り歌に気づかず、邦楽(当時は流行歌とか歌謡曲といいました)を見下していた音楽好きも。その歌謡曲のナンバーワンがひばり嬢だったのですから、それは風当たりも強かった。
そのくせ、彼女が亡くなると「日本の歌は好きになれないけど、美空ひばりは別だな」などとのたまわれたり。

個人的にはそうした先輩方の影響はまるでなかったのですが、違った意味でひばり嬢にはいささか偏見も。それは島倉千代子のファンだったので、ひばり嬢を勝手にライバル視していたわけでして。お千代さんはひばり嬢を決してライバル視などせず、コロムビアの偉大な先輩として尊敬していました。

「ライバル視」していたとはいえ、いい歌はどう逆立ちしてもいい歌なわけです。とりわけこの歌のような「日本調」は鼻歌で出るほどでしたし、聴いていました。
「ひばりの渡り鳥だよ」、「関東春雨傘」「車屋さん」「日和下駄」なんかはいまでもGOOD。

このうちの「ひばりの渡り鳥だよ」以外はすべて「花笠道中」同様、米山正夫の作詞・作曲です。
そうなんです、米山正夫のスゴイところは専門の作曲(リンゴ追分)ばかりではなく、作詞もしてしまうというところ。こういう流行歌の作家はごくごく稀。

米山正夫は大正元年東京生まれで、東洋音楽学校でピアノを学んだという本格派。当時は流行歌の作曲家といえども、学校でクラシックから学ぶという人が少なくなかった。

流行歌の初期は股旅もの、つまり意外にも日本調が多かった。
当然軍歌もつくりましたが、たとえば昭和13年の♪男ひとたび銃とるからは 手柄たてずに帰らりょか という「男ひとたび」(作曲のみ)もお得意の? 日本調。その後の軍歌の主流となるイケイケドンドン調ではありませんでした。

軍歌はあまり得意ではなかったようです。軍歌ではありませんが、17年の彼の戦前最高傑作といわれる「森の水車」は曲調も詞(清水みのる)も戦時にふさわしくないと発禁になっています。

そのことが古関裕而や山田耕筰、古賀政男のように歌で「参戦」せずにすんだ要因なのかもしれません。

戦後は戦中から曲を提供していた近江俊郎との「山小屋の灯」で大ブレイク。以後、作詞もするようになり、ヒット曲を連発していきます。
そして20年後半から30年代にかけて、美空ひばりに多くの楽曲を提供し、多くのヒット曲を世に送りました。美空ひばりの「育ての親」という人もいます。

30年代後半からはレコード会社をコロムビアからクラウンへ移籍。
そこでも西郷輝彦(恋人ならば)、水前寺清子(三百六十五歩のマーチ)らを育てました。
めずらしいところでは渥美清にも「寅さん音頭」など数曲を提供しています。

最近亡くなられた筒美京平をはじめ、戦前からの古賀政男、古関裕而、服部良一の諸作曲家たちは米山正夫のような「二枚鑑札」ではありませんでした。
古賀政男はデビュー曲(影を慕いて)ほか何曲か、また服部良一も「ラッパと娘」ほか数曲の作詞をしていますが、ほぼ「珍品」。

70年代のシンガーソングライターは作詞作曲をする人が多かったですが、ヒット曲を連発できたのはごくわずか。松任谷由実と井上陽水くらいしか思い浮かびません。

昭和の流行歌の作曲家で「二枚鑑札」で名をはせたのは、この米山正夫と浜口庫之助くらいではないでしょうか。

例によって1曲目で長話になってしまいましたので、昭和30年代以降の「白い雲」ソングをサラッと、立て続けに。

30年代なかばからテレビはナベプロの時代。
その代表選手の二人?がザ・ピーナッツとクレイジーキャッツの植木等。

https://youtu.be/rWEGgAdCuh0

36年から3年間NHKテレビで放映された「若い季節」の主題歌。
ドラマは淡路恵子、黒柳徹子、渥美清、坂本九、三人娘(中尾ミエ、伊東ゆかり、園マリ)等がレギュラー出演した伝説的バラエティドラマ。
歌は詞・永六輔、曲・桜井順、編曲・宮川泰のトリオ。

https://youtu.be/k4xz2sE2a-Q

日テレのバラエティ「シャボン玉ホリデー」で大ブレイクしたクレージーキャッツのなかでのメインヴォーカルで、ソロでもヒットをとばし、歌手としても俳優としても(元々はジャズギタリストだった)一時代を築いた植木等の一曲。
詞曲は、「スーダラ節」から「無責任一代男」まで一連のヒット曲コンビ、青島幸男と萩原哲晶。

そして40年代はフォークの季節。

https://youtu.be/JnBLB3oX2Zw

その先駆けとなった高石友也の2枚目のシングル。3枚目の「受験生ブルース」で大ブレイク。

https://youtu.be/iKAnjDyNGlM

フォークブームの起爆剤となった衝撃作「帰って来たヨッパライ」、そして「イムジン河」に続くザ・フォーク・クルセダーズの3rdシングル。イムジン河が自粛となり、急遽つくった作品。曲はメンバーの加藤和彦。詞はなんと「リンゴの歌」や「浅草の唄」のサトウハチロー。加藤らが挨拶にいったとき、サトウは顔見世だけして、そのまま部屋に戻り出てこなかったとか。それでも名曲は誕生した。

最後は駆け足というかクルマでぶっ飛ばした感じになりましたが、最後の最後に好きないずみたくの「白い雲」を。由紀・安田姉妹ですが、オリジナルはピンキーとキラーズだった記憶が。

https://youtu.be/eJiLKBtxrZI



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