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NLCR(ニューロスト・シティ・ランブラーズ) [folksongs]

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https://youtu.be/dIuoJTuhkxA

1958年、キングストン・トリオの「トム・ドゥーリ」によって幕が開いたアメリカの「フォーク・リバイバル」。
その波は英米ばかりではなく、ヨーロッパはもちろん、アジアとりわけ日本にまで達し、ポップスの世界に新しいジャンルをもたらしました。

しかし、それはキングストン・トリオが突然自分ちの納屋から古い歌をひっぱりだしてきたわけではありません。
20世紀になると、何人もの学者や研究者がアメリカの民俗音楽に関心を寄せはじめ、「発掘」を試み始めます。

なかでも、テキサスにそうした研究者を父に持ったアラン・ロマックスという男がおりました。彼はアメリカの民謡やブルーズに限らずイングランド、アイルランド、さらにはカリブの民謡(カリプソ)などまで、各国各地のルーツミュージックを採集・収録しました。
その成果は40年代から50年代にかけて広く知られるようになり、多くのミュージシャンを刺激し、やがてはキングストン・トリオの「トム・ドゥーリ」となったのです。つまり60年代に大爆発を起こしたアメリカン・フォーク・リバイバルのベースになっていたのが、アラン・ロマックスらの民俗音楽研究家たちだったのです。

そして1958年のキングストン・トリオの登場と時を同じくするように結成されたトリオがニューロスト・シティ・ランブラーズ(以下NLCR)。
彼らこそそうしたルーツミュージックの発掘者の「子供たち」だったのです。

メンバーは20代半ばのジョン・コーエンとマイク・シーガー、30前のトム・ペイリーのそれぞれニューヨーク出身の3人。彼らはいずれもギターとバンジョーをこなし、ほかにジョンはフィドルを、マイクにいたってはほかにドブロ、オートハープなど弦楽器ならなんでもOKというユーティリティ奏者でした。

また、マイクは父親が民俗音楽を研究する学者であり、異母兄のピートとともに若くしてその影響下にありました。

その3人が時代の「求心力」に引かれるべくして集まり結成されたのがNLCRでした。
60年代にフォークウェイズというレーベルから何枚ものレコードを出すことになる彼らですが、そのポリシーは1920年代、30年代に録音されたSP盤を決して「今様」にソフィスティケートすることなく、当時の演奏スタイルを踏襲して再現する、ということでした。もちろんすべてアンプラグドであることはいうまでもありません。


https://youtu.be/s5YuvO5b4Bg

藍色の海に出た船乗りSAILOR ON THE DEEP BLUE SEA
英国でよくうたわれた、いわゆる「海の歌」sea song で、遭難事故で愛する彼を失った女性の悲しみをうたっております。日本のNLCRファンにも人気の歌。

いちばん年長のトム・ペイリーは、レッド・ベリーやウディ・ガスリを聴いて育ち、3人のなかではもっとも早くからルーツミュージックに関わり、NLCR結成前に、アパラチアのマウンテンミュージックを採録しレコーディングしています。また、彼の両親はコミュニストで、その影響も強く、第一次のNLCRが4年余りで解散したのも、そうした思想信条の違いからだといわれています。トムがメンバーから抜けたあと、代わりにはトレイシー・シュワルツが加入しています。

9枚のレコードを出してからNLCRを離脱したあと、別のグループを結成し、拠点をイギリスに移して英語圏ばかりでなく北欧のフォークソングにも関心を寄せていきます。そして2017年、89歳でイギリスで亡くなりました。

https://youtu.be/3izAqRJKngM

直訳すると「ルイビルの泥棒野郎」Louisville Burglar。
ルイビルで正直者の両親に育てられたのに、酒とギャンブルに明け暮れついには窃盗事件を起こして、可愛い彼女とも娑婆ともおさらばして牢獄につながれちまった、という男の悲劇がうたわれております。

アメリカ人はこうしたアウトローの歌というか、下獄する犯罪者の歌が好きなようです。
そういう犯罪者を面白がっているのか、共感しているのか、よく解りませんが。
日本にも鼠小僧とか、白浪五人男なんかの「ピカレスクソング」が無くはありませんが、アメリカほどではありません。
さらにいえばアメリカのルーツミュージックは実話が多く。このルイビル・バグラーもそうなのかもしれません。
ちなみにルイビルはケンタッキーの大都市で、モハメド・アリの出身地でもあります。余分なことですが。


ジョン・コーエンは3人のなかでも最もクリエイティヴな感性を持ち、多彩な分野で活動したアーチストでした。
演奏活動のほかにも、音楽プロデューサー、写真家、映像プロデューサー、大学教授として後に続く若者たちに少なからず影響を与えました。

ルーツミュージックはジョンの生涯のテーマであったようで、写真家としてはガースリィ、ディランやビートニク作家のジャック・ケルアックたちをそのフレイムに納めています。また、「カーター・ファミリー」やマウンテン・ミュージックの世界を描くドキュメンタリー映画のプロデューサーとしてルーツミュージックの紹介、普及に力を注ぎました。
最も長生きしたジョンも2019年に87歳で亡くなっています。

https://youtu.be/F8beZnAhsF0

「埴生の宿を作った男は、独り者さ」MAN WHO WROTE "HOME SWEET HOME"NEVER WAS A MARRIED MAN
歌を題材にした歌というのもおもしろい。
「ホーム・スイート・ホーム」は19世紀のはじめにイングランドでつくられた歌。
我が家がいちばん、いまは旅の途中だけれど、いつかは愉しき我が家に帰ろうという歌。
日本では「埴生の宿」として知られています。

そんな歌をつくった男はきっと、結婚なんかしたことない野郎さ。
くたくたに働き疲れて家に帰ると、女房は早々とベッドの中で大いびき。起きていてもケンカになって麺棒でどやされる、睡魔に襲われても赤ん坊が泣き叫んで安眠できない。これが「スイート・ホーム」の現実だぜ、だから「埴生の宿」をつくった野郎は家庭のことなんかまるで知らない野郎なのさ。
というシニカルかつユーモラスな歌。

3人目のマイク・シーガーは前述したように、とにかくどんな楽器でもこなしてしまう多才なミュージシャン。
父親のチャールズ、母親のルースとも作曲家であり民俗音楽の研究家だったため、若い頃からその影響を強く受けていました。とりわけ母親は、アメリカ議会図書館に席を置くア
ラン・ロマックスとともにルーツミュージックの保存に尽力し、作曲家の立場から、いくつものフォークソングのアレンジも手がけていたようです。そうした関係から、レッド・ベリーやウディ・ガースリィがシーガー家を訪れ、マイクも幼いころから彼らと接することがあったとか。

異母兄のピート・シーガーとは当然セッションはしたようで、はじめのYOU-TUBEの「いつも嘆き悲しむ男」Man of Constant Sorrow ではマイクがオートハープによる弾き語りを聴かせてくれています。

ソロアルバムを出すほど音楽的にもすぐれていたマイクですが、3人のなかでは最も早く2009年に亡くなっています。78歳でした。

https://youtu.be/jBp2tSKc1XU

ジョージ・コリンズGEORGE COLLINS
ジョージ・コリンズ氏は冬のとりわけ寒い夜に仕事から帰宅し、あんなに元気だったのに病気になって死んでしまった。といういきなりの悲劇ではじまるこの歌。その知らせを受けた恋人のネリーは取り乱し、墓標にすがりついて泣いたという悲しい死別のドラマがうたわれています。

ジョージ・コリンズ氏が何者なのか、彼の風貌、性格など一切うたわれておりません。
でもジョージというより、コリンズさんは髭を蓄えた英国紳士で、毎日判を押したように朝早く出勤し、夜遅く帰宅するという実直な銀行員かなにかだったのではないでしょうか。近所の評判も良くて。

おそらくこれも実話で、コリンズさんはその死を悼んで歌がつくられるほど、立派な人格者だったのではないでしょうか。
もちろんこれは勝手な想像ですが。確かなことは彼の死を、絶望の淵に立たされたように嘆き悲しむ相思相愛(おそらく)の恋人がいたということです。

60年代から70年代にかけてライ・クーダーやボブ・ディランらのミュージシャンたちにに少なからず影響を与えたニューロスト・シティ・ランブラーズ。

「NLCRのルーツミュージックはもちろん、彼らのバンドネーム、演奏スタイル、ファッション、すべてが好きだったね。いっときは彼らのあらゆる曲を弾き語りして、彼らの音楽世界に浸っていたもんだよ」
と、ボブ・ディランは自伝の中で語っています。

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