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NLCR(ニューロスト・シティ・ランブラーズ) [folksongs]

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https://youtu.be/dIuoJTuhkxA

1958年、キングストン・トリオの「トム・ドゥーリ」によって幕が開いたアメリカの「フォーク・リバイバル」。
その波は英米ばかりではなく、ヨーロッパはもちろん、アジアとりわけ日本にまで達し、ポップスの世界に新しいジャンルをもたらしました。

しかし、それはキングストン・トリオが突然自分ちの納屋から古い歌をひっぱりだしてきたわけではありません。
20世紀になると、何人もの学者や研究者がアメリカの民俗音楽に関心を寄せはじめ、「発掘」を試み始めます。

なかでも、テキサスにそうした研究者を父に持ったアラン・ロマックスという男がおりました。彼はアメリカの民謡やブルーズに限らずイングランド、アイルランド、さらにはカリブの民謡(カリプソ)などまで、各国各地のルーツミュージックを採集・収録しました。
その成果は40年代から50年代にかけて広く知られるようになり、多くのミュージシャンを刺激し、やがてはキングストン・トリオの「トム・ドゥーリ」となったのです。つまり60年代に大爆発を起こしたアメリカン・フォーク・リバイバルのベースになっていたのが、アラン・ロマックスらの民俗音楽研究家たちだったのです。

そして1958年のキングストン・トリオの登場と時を同じくするように結成されたトリオがニューロスト・シティ・ランブラーズ(以下NLCR)。
彼らこそそうしたルーツミュージックの発掘者の「子供たち」だったのです。

メンバーは20代半ばのジョン・コーエンとマイク・シーガー、30前のトム・ペイリーのそれぞれニューヨーク出身の3人。彼らはいずれもギターとバンジョーをこなし、ほかにジョンはフィドルを、マイクにいたってはほかにドブロ、オートハープなど弦楽器ならなんでもOKというユーティリティ奏者でした。

また、マイクは父親が民俗音楽を研究する学者であり、異母兄のピートとともに若くしてその影響下にありました。

その3人が時代の「求心力」に引かれるべくして集まり結成されたのがNLCRでした。
60年代にフォークウェイズというレーベルから何枚ものレコードを出すことになる彼らですが、そのポリシーは1920年代、30年代に録音されたSP盤を決して「今様」にソフィスティケートすることなく、当時の演奏スタイルを踏襲して再現する、ということでした。もちろんすべてアンプラグドであることはいうまでもありません。


https://youtu.be/s5YuvO5b4Bg

藍色の海に出た船乗りSAILOR ON THE DEEP BLUE SEA
英国でよくうたわれた、いわゆる「海の歌」sea song で、遭難事故で愛する彼を失った女性の悲しみをうたっております。日本のNLCRファンにも人気の歌。

いちばん年長のトム・ペイリーは、レッド・ベリーやウディ・ガスリを聴いて育ち、3人のなかではもっとも早くからルーツミュージックに関わり、NLCR結成前に、アパラチアのマウンテンミュージックを採録しレコーディングしています。また、彼の両親はコミュニストで、その影響も強く、第一次のNLCRが4年余りで解散したのも、そうした思想信条の違いからだといわれています。トムがメンバーから抜けたあと、代わりにはトレイシー・シュワルツが加入しています。

9枚のレコードを出してからNLCRを離脱したあと、別のグループを結成し、拠点をイギリスに移して英語圏ばかりでなく北欧のフォークソングにも関心を寄せていきます。そして2017年、89歳でイギリスで亡くなりました。

https://youtu.be/3izAqRJKngM

直訳すると「ルイビルの泥棒野郎」Louisville Burglar。
ルイビルで正直者の両親に育てられたのに、酒とギャンブルに明け暮れついには窃盗事件を起こして、可愛い彼女とも娑婆ともおさらばして牢獄につながれちまった、という男の悲劇がうたわれております。

アメリカ人はこうしたアウトローの歌というか、下獄する犯罪者の歌が好きなようです。
そういう犯罪者を面白がっているのか、共感しているのか、よく解りませんが。
日本にも鼠小僧とか、白浪五人男なんかの「ピカレスクソング」が無くはありませんが、アメリカほどではありません。
さらにいえばアメリカのルーツミュージックは実話が多く。このルイビル・バグラーもそうなのかもしれません。
ちなみにルイビルはケンタッキーの大都市で、モハメド・アリの出身地でもあります。余分なことですが。


ジョン・コーエンは3人のなかでも最もクリエイティヴな感性を持ち、多彩な分野で活動したアーチストでした。
演奏活動のほかにも、音楽プロデューサー、写真家、映像プロデューサー、大学教授として後に続く若者たちに少なからず影響を与えました。

ルーツミュージックはジョンの生涯のテーマであったようで、写真家としてはガースリィ、ディランやビートニク作家のジャック・ケルアックたちをそのフレイムに納めています。また、「カーター・ファミリー」やマウンテン・ミュージックの世界を描くドキュメンタリー映画のプロデューサーとしてルーツミュージックの紹介、普及に力を注ぎました。
最も長生きしたジョンも2019年に87歳で亡くなっています。

https://youtu.be/F8beZnAhsF0

「埴生の宿を作った男は、独り者さ」MAN WHO WROTE "HOME SWEET HOME"NEVER WAS A MARRIED MAN
歌を題材にした歌というのもおもしろい。
「ホーム・スイート・ホーム」は19世紀のはじめにイングランドでつくられた歌。
我が家がいちばん、いまは旅の途中だけれど、いつかは愉しき我が家に帰ろうという歌。
日本では「埴生の宿」として知られています。

そんな歌をつくった男はきっと、結婚なんかしたことない野郎さ。
くたくたに働き疲れて家に帰ると、女房は早々とベッドの中で大いびき。起きていてもケンカになって麺棒でどやされる、睡魔に襲われても赤ん坊が泣き叫んで安眠できない。これが「スイート・ホーム」の現実だぜ、だから「埴生の宿」をつくった野郎は家庭のことなんかまるで知らない野郎なのさ。
というシニカルかつユーモラスな歌。

3人目のマイク・シーガーは前述したように、とにかくどんな楽器でもこなしてしまう多才なミュージシャン。
父親のチャールズ、母親のルースとも作曲家であり民俗音楽の研究家だったため、若い頃からその影響を強く受けていました。とりわけ母親は、アメリカ議会図書館に席を置くア
ラン・ロマックスとともにルーツミュージックの保存に尽力し、作曲家の立場から、いくつものフォークソングのアレンジも手がけていたようです。そうした関係から、レッド・ベリーやウディ・ガースリィがシーガー家を訪れ、マイクも幼いころから彼らと接することがあったとか。

異母兄のピート・シーガーとは当然セッションはしたようで、はじめのYOU-TUBEの「いつも嘆き悲しむ男」Man of Constant Sorrow ではマイクがオートハープによる弾き語りを聴かせてくれています。

ソロアルバムを出すほど音楽的にもすぐれていたマイクですが、3人のなかでは最も早く2009年に亡くなっています。78歳でした。

https://youtu.be/jBp2tSKc1XU

ジョージ・コリンズGEORGE COLLINS
ジョージ・コリンズ氏は冬のとりわけ寒い夜に仕事から帰宅し、あんなに元気だったのに病気になって死んでしまった。といういきなりの悲劇ではじまるこの歌。その知らせを受けた恋人のネリーは取り乱し、墓標にすがりついて泣いたという悲しい死別のドラマがうたわれています。

ジョージ・コリンズ氏が何者なのか、彼の風貌、性格など一切うたわれておりません。
でもジョージというより、コリンズさんは髭を蓄えた英国紳士で、毎日判を押したように朝早く出勤し、夜遅く帰宅するという実直な銀行員かなにかだったのではないでしょうか。近所の評判も良くて。

おそらくこれも実話で、コリンズさんはその死を悼んで歌がつくられるほど、立派な人格者だったのではないでしょうか。
もちろんこれは勝手な想像ですが。確かなことは彼の死を、絶望の淵に立たされたように嘆き悲しむ相思相愛(おそらく)の恋人がいたということです。

60年代から70年代にかけてライ・クーダーやボブ・ディランらのミュージシャンたちにに少なからず影響を与えたニューロスト・シティ・ランブラーズ。

「NLCRのルーツミュージックはもちろん、彼らのバンドネーム、演奏スタイル、ファッション、すべてが好きだったね。いっときは彼らのあらゆる曲を弾き語りして、彼らの音楽世界に浸っていたもんだよ」
と、ボブ・ディランは自伝の中で語っています。

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「トリオⅡ」TrioⅡ [country]

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3人のホンキートンク・エンジェルの「Trio」がまぁまぁ成功すると、当然part2の企画が持ち上がるのがショービジネスの常。

もちろん『トリオII』(Trio II) はリリースされました。1999年に。

PartⅠの「トリオ」が1987年ですから、10年以上経ってしまいました。 
実はそのPartⅠも録音されたのが、1970年代。それが3人の所属レーベルが別々という問題からリリースに至らず、条件が整うまでに10年余りかかってしまったという現実がありました。その間、3人はそれぞれ、自身のアルバムに「トリオ」として録音した幻の曲をいくつか収録しました。もったいないものね。
たとえばエミルーなら、「ミスター・サンドマン」とか「エヴァンジェリン」とか「イーヴン・カウガール・ゲット・ザ・ブルース」を。

そしてこのpartⅡも当初、1994年に3人によって録音されましたが、やはりレーベル問題で頓挫。1997年にドリーとエミルーが当時のレーベルを離れたため、99年、ようやくコンピアルバムとしてリリースが可能になったのだそうです。
いわゆる大人の事情というヤツですが、そのほかにも3人のうち誰の名前をいちばん上に表示するかとか、それぞれのレコード会社やエージェントの間で論争があり、合意に時間がかかったとも。こうしたコラボアルバムで、序列とか写真の大きさとかシビアになるのは日本でも同じなんでしょうね。本人よりも周囲がうるさかったりして。

「トリオⅡ」の収録曲はカーター・ファミリーの「ラヴァーズ・リターン」やデル・マッコイの「アイ・フィール・ザ・ブルーズ・ムーヴィン・イン」やタンディ・ニューマンの「フィールス・ライク・ホーム」など10曲。

なかでもシングルカットされ、グラミー賞(ベスト・カントリー・コラボ・ヴォカル)に選ばれたニール・ヤングの名曲「アフター・ゴールド・ラッシュ」が光彩を放ちます。
その寓話のようであり、童話のようであり、黙示録のようでもある不思議な歌を。

https://youtu.be/4CoM9rMQuXE

せっかくですので、前回に続いてアルバムとは関係のない3人の歌を。
ルーツがカントリーであるロケン・ローを3人それぞれで。

まずは、日本でもそこそこヒットしたリンダの「バック・イン・ザ・USA」。
チャック・ベリーの1959年の曲で、1978年リンダのアルバム「ミス・アメリカ」Living in the USAのなかの一曲。日本でもシングル盤が発売され、わたしも買いました、いや神田の人生劇場でGETしました。

https://youtu.be/sXj2nQYm9kU

続いてドリー・パートン。

https://youtu.be/9pKGI-YJEPY

1957年、ジェリー・リー・ルイスのヒット曲「火の玉ロック」Great Balls of Fire 。
「ホール・ロッタ・シェイキン」Whole Lotta Shakin' Goin' On に続くジェリーのロケンロー。まさにこれらの曲でロケンローの夜が明けたわけです。
ドリーは1979年にアルバム「火の玉ロック」をリリース。このアルバムにはビートルズの「ヘルプ」も収められています。

最後はエミルー。

https://youtu.be/qjdYBzzWsew

ふたたびロケンローの神様、チェック・ベリーの「ネヴァ・キャン・テル」You Never Can Tell。1964年のリリースで、彼が売春強要で下獄していたときにつくったといわれる曲。
映画「パルプフィクション」でつかわれ話題になりましたが、エミルーは1977年のアルバム「ラグジュアリ・ライナー」で「セ・ラ・ヴィ/ネヴァ・キャン・テル」としてうたっています。


カントリーに限らずトップシンガーが3人でコラボアルバムをつくることがいかに大変なことかは理解できます。プロモーションもかねて3人そろってテレビ出演はしとようですが、ツアーなどステージにたつことはなかったようです。

松田聖子と中森明菜と小泉今日子がユニットでなんて、実現しなかった(調べてませんが)ですからね。でも全盛期に見られたらスゴかったでしょうね。今実現しても「ほおー」でしょうけど。

余計なことを言わずに「オマケ」の一曲を。
アルバムとは関係ない曲で、いわゆるアメリカのルーツミュージック。結婚式を前に病で死んでいく女性の話。
「私が死んだら柳の木の下に埋めてください。そしてときどき私に逢いに来てください」
という「悲しきソング」です。

https://youtu.be/Fua6PSz4-kY

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トリオtrio [country]

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カントリーでのトリオといえば、思い浮かぶのはドリー・パートン、エミルー・ハリス、リンダ・ロンシュタットの3人娘?。

この3人で1987年にリリースしたアルバムがまさに「トリオ」Trio。

女性カントリーの「3大テナー」というキャッチで宣伝されたこのアルバムは400万枚を売上げ、ビルボードのカントリーアルバム・チャートで5週間連続で1位になり、翌年グラミー賞のカントリー・グループ・ボーカル部門で最優秀賞をとります。

「トリオ」にはジミー・ロジャーズの「ホーボーズ・メディテーション」やトラディショナルの「紫檀の棺」、ドリーの「ワイルド・フラワーズ」など11曲が収められていますが、
シングルカットされてビルボード・カントリー・チャートでナンバーワンになったのが「つのる想い」To Know Him is To Love Him 。

https://youtu.be/TC-d2AkPqcE

この歌はカヴァで、1959年のテディ・ベアーズがオリジナル。テディ・ベアーズは今年の1月亡くなった、ロネッツの「ビー・マイ・ベイビー」などを手がけたプロデューサー、フィル・スペクターが結成したグループ(PPMスタイルのトリオ)。彼のシンガーとしての唯一のヒット曲でもあります。「あなたの笑顔をみるため、あなたを知ろうと努力します。それがあなたを愛するということ」と、無償の愛をうたっています。

のちにビートルズやピーター&ゴードンもカヴァしていますし、日本ではモコ・ビーバー・オリーブのトリオが1969年にシングル盤(B面)をリリースしています。女3人のユニットとしては、TRIOに先がけること18年。

せっかくですから、ドリー、エミルー、リンダそれぞれの曲を独断で聴いてみたいと思います。

https://youtu.be/c1zJzr-kWsI

「コートはカラフル」coat of many colors
というタイトルだけみると、サイケな色とりどりのパッチワークでつくったコートを着たイケイケガールの歌だと思うかもしれませんが、実際はドリーの子どもの頃の思い出をうたったもの。「貧しくて上着が買えず、お母さんがハギレでつくってくれた。それを着て学校へ行くと友だちから笑われたわ。でもわたしは上着をつくってくれた母親を誇りに思うし、大きくなったらきっと成功して親孝行をしてみせる」
と健気な少女の気持ちをうたったものです。

ドリー・パートンは1946年1月のテネシー、セビア生まれ。
子役をしていたことがあるくらい芸事と歌がすきで、初レコーディングは13歳。その頃すでにカントリーの殿堂「グランド・オール・オプリ」に立っていたほどの早熟。さらに高校を出て18歳のときにナッシュビルに移って作曲活動をはじめ、スキータ・デイヴィスなどに曲を提供していたというからスゴイ。
その後、当時の人気カントリーシンガー、ポーター・ワゴナーのテレビ番組に相手役として抜擢され名を売ることに。「ラスト・シング・オン・マイマインド」など彼とのデュエット曲がヒット。

そうしてキャリアを積みソロに。1973年、「ジョリーン」がカントリーの全米ナンバーワンに。翌年には「オールウェイズ・ラヴ・ユー」も1位に輝き全盛を向かえます。
さらに1980年には映画初出演の「9時から5時」の同名主題歌を自作自演。このキャリアウーマンの嘆きはカントリーチャートはもちろん、ポップスチャートでも全米ナンバーワンに。

「マグノリアの女たち」などその後も映画やドラマにも出演し、カントリーの第一人者としてだけではなく、女優としても大成功をおさめます。

https://youtu.be/n2PUEy430Uw

「ブルーケンタッキー・ガール」blue Kentucky girl は1979年に発売されたエミルーのアルバムのタイトルトラック。
ロレッタ・リンのカヴァで、旅立つ彼に「ダイヤモンドも真珠もいらないから早く傷心のケンタッキーの傷心の女の子(自分のこと)の元に帰ってきてね」と「木綿のハカチーフ」のような「待つ少女」の心境をうたっております。

エミルー・ハリスは1947年4月、アラバマ州バーミングハム生まれ。
10代のときディランやジョーン・バエズらフォーキーの影響を受けて音楽の道を志します。1976年のディランのアルバム「欲望」ではバックコーラスで参加しています。
デビューアルバムは1969年の「グライディング・バード」。75年の3rdアルバム「エリート・ホーテル」でグラミー賞(ベストカントリー女性ヴォーカル)を獲り、以後カントリーエンジェルの仲間入りを果たします。
ちなみにこのアルバムでは彼女の代表曲のひとつになるカヴァー曲「トゥギャザー・アゲイン」(バック・オウエンス)と「スウィート・ドリームズ」(パッツィ・クライン)がシングルカットされています。

「ブルー・ケンタッキー・ガール」は彼女のもっともカントリーっぽさがあふれたアルバムで、因縁のグラム・パーソンズの「ヒッコリー・ウインドウ」や、ドリフターズでヒットした「ラストダンスは私に」などが収められています。
またこのアルバムでも1980年のグラミー賞(最優秀カントリー・ヴォーカル)を受賞しています。

https://youtu.be/DOAjOdn7YP0

リンダ・ロンシュタットは1946年7月、アリゾナ州ツーソン生まれ
歌好きの両親の影響で幼いころからポップスやフォークに親しみ、デビューは1967年、PPMスタイルのフォークロックバンドでしたが、そのあとすぐにソロデビュー。
1974年、アルバムからシングルカットされた「悪いあなた」で全米1位に。
75年にカントリーで、76年にはポップスの女性ヴォーカルでそれぞれグラミー賞を獲っています。
1977年のアルバム「夢はひとつだけ」と78年の「ミス・アメリカ」で世界的なポップシンガーとしても認知されます。

紹介した「金の糸に銀の針」silver threads and golden needles は1956年にワンダ・ジャクソンがはじめて録音したカントリーで、その後、スキーター・デイビス、ローズ・マドックスなどにカヴァーされ、リンダは1969年、ソロになってからのデビューアルバム「ハンド・サウン」で一曲に加えています。

不実な彼に「お金や名声でわたしの心を買うことはできないわ。わたしの傷ついた心は金の糸と銀の針でも繕うことはできないの」とうたっております。

カントリー3人娘はほぼ同年代ですが、ドリーが「長女」、リンダ、エミルーが「次女」、「三女」といったところ。
リンダとエミルーはもともと友人で、二人と交流のあったドリーが声をかけてこのコンピレーションは成立したのでは。(もちろんプロデュサーがいるので、単なる推測ですが)
結果は好評で当然「第二弾」の話がでたのですが……。

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天使のハンマーって? [folksongs]

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https://youtu.be/8of3uhG1tCI

キングストン・トリオがフォークブームの起爆剤の役割を果たしたとすれば、そのブームを爆発的に広め、とりわけ女性のフォークファンを増殖させたという意味で、日本のフォーク、さらにいえばポップスに多大な影響を与えたのがピーター・ポール・アンド・マリー(PPM)でしょう。
その曲をからだで感じ、絶叫でレスポンスしたのがビートルズファンならば、その曲をハートで感じ、つつましく口ずさんでみたのがPPMファンではなかったでしょうか、なんて。

ニューヨーカーのピーター・ヤーロウ、ボルティモア出身のノエル・ポール・ストゥーキー、それにケンタッキー州ルイヴィル出身のマリー・トラヴァースの3人が61年に結成し、翌年より多くのヒット曲をリリースした。とりわけ時代を反映したベトナム戦争へのプロテストソングをいくつもうたい、多くのファンに支持されたことが特筆されます。

実際、3人ともリベラルな考え方で、とりわけ穏やかな顔のピーターは政治活動、反戦活動に直接かかわった。反戦歌は彼の影響が大きい。ポールは信仰心が篤く、アルバムには「ソーリン」や「ヨルダン河」といった聖歌がいくつもみられます。マリーは両親がジャーナリストでその影響からか、やはりリベラルな思考がつよく、デビュー前はピート・シーガーのバックコーラスの一員だったこともあるとか。

https://youtu.be/P5Yx8cg6Gpg

レモン・トゥリーは1961年の彼らのデビュー曲。
父親が子供に自分の失恋談をレモンの木にたとえてさとす。「レモンの木は美しく、花は香ばしい。でもその酸っぱい実は食べられない」と。50年代にウィル・ホルトがブラジルの民謡をヒントにつくったといわれます。
トリニ・ロペスのカヴァーも知られています。トリニ・ロペスはそのルールであるラテンばかりでなく、カントリーやフォークもうたってしまう不思議なシンガーでした。

https://youtu.be/Xu-DWUngjhk

いわずと知れたボブ・ディランの作品。
邦題「くよくよするなよ」は名訳です。
早い話、ハートブレイクソングで、愛してくれなかった彼女に対して、また去っていかなければならない自分に対して、「しょうがないよ、でもこれでいいんだよ」と強がり、慰めています。

個人的にも、はじめてこの曲を聴いたのはディランではなくPPMで。ポールのスリーフィンガーがとても魅力的でした。アメリカでもヒットしたのはPPMが先だそうです。

この歌はヒットしたことももちろんですが、多くの後輩ミュージシャンたちに影響を及ぼした歌ではないでしょうか。それほどカヴァーするフォーキーやポップシンガー、さらにはカントリーシンガーが多い。日本のフォーキーたち、とりわけ「ディラン党」には「風に吹かれて」以上に影響を与えた歌ではないでしょうか。友部正人をはじめ。

https://youtu.be/zVQAhhlq798

悲しみのジェットプレインは1967年にアルバムに収録。2年後にシングルカットしたところビルボードのポップチャート1位となった歌。数あるPPMのフェヴァリットソングのなかでも、いちばん好きな歌です。

元々はジョン・デンバーの作品で、はじめはタイトルも歌詞に出てくる[Baby, I hate to go](恋人よ、行きたくないんだ)だった。PPMがこの歌をシングルカットした同時期、ジョンも新タイトル「悲しみのジェットプレイン」として再リリースしたそうです。

空港での別れをうたった歌で、去っていくのが男。残されるのが女。のようです。
「僕を待っていると言ってくれ」「もう一度抱きしめて、キスしてくれ」「どこへ行こうが、君のことは忘れない」「帰ってくるときは、エンゲージリングを捧げるよ」といまだ相思相愛のふたり。でも「いつ帰ってこれるかわからない」とも。
いったい彼は愛する恋人を残してどこへ行こうというのでしょうか。
もちろん旅行ではないし、仕事での出張とも考えられない。もしかしたら、兵役につくのかも。さらには、その後ヴェトナムへ赴くことになっているのかもしれません。
そうならば、およそ日本では考えられない別離だともいえます。

https://youtu.be/GIbzPNTxSHY

1962年の「虹と共に消えた恋」。この歌も日本でヒットしました。哀調を帯びたマイナーチューンで戦争へいった恋人を嘆き悲しむ歌詞が、平和ニッポンの若者たちにも共感をよぶことに。

この歌は1860年代といいますから南北戦争期にうたわれていたトラディショナルソング「ジョニーは行ったの兵隊に」がベースになっています。
さらにいえばこの歌のルーツはアイルランドの伝承歌「シューラ・ルゥ」Siúil A Rúnだといわれています。内容は恋人や夫を戦地に送り出してしまった女性の悲しみや淋しさを歌ったもので、シューラ・ルゥとはゲール語(アイルランドの言葉)で旅立つ人の無事を祈る言葉だとか。

ほかにも「500マイル」、「悲惨な戦争」、「勝利を我らに」、「わが祖国」、「戦争は嫌だ」、「風に吹かれて」、そしてピート・シーガーの「花はどこへ行った」、「天使のハンマー(ハンマーソング)」など聴きたい曲はいくつもありますが、キリがありません。

マリー・トラヴァースが亡くなってもう10年以上が経ってしまいました。毎日のようにPPMを聴いていた時代からなら半世紀以上が過ぎました。J-POPやK-POPに夢中になっている音楽好きの若者のどれくらいがPPMを、またその歌を知っているでしょうか。
ポップソングの宿命といえばそれまでですが。

最後に「日本のPPM」の一曲を。
六文銭を結成する前の小室等が「レモン・トゥリー」に衝撃を受けて1963年に結成したのが「PPMフォロワーズ」。その一曲を。

https://youtu.be/c1QkvsfgytQ



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フォークはどこへ行った [folksongs]

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https://youtu.be/kguj_dz9JjI

昭和40年代、日本の隅々にまで浸透したフォークソング。
吉田拓郎も井上陽水も五つの赤い風船も南こせつとかぐや姫も、すべてはその10年余り以前、西暦でいうと1958年に全米を席巻したこのトリオの登場からはじまったのでした。

https://youtu.be/wfTDFy4Z2O4

キングストン・トリオはハワイ生まれのデイブ・ガード(ギター)とボブ・シェーン(ギター、バンジョー)、サンディエゴ出身のニック・レイノルズ(ギター、パーカッション)の3人がカリフォルニアで結成したポップス・トリオグループ。当初はハワイアンやカリプソを演奏していたとか。「キングストン」(ジャマイカ)というトリオ名がその指向を象徴しています。

トム・ドゥーリ、この歌でアメリカのフォークリバイバルがはじまります。
歌の内容はいわゆる「人殺しソング」で19世紀のノースカロライナで、トム・ドゥーリ(ドゥラ)によって惹き起こされた愛人殺人事件がうたわれています。

ノースカロライナはアメリカ東海岸に面し、アパラチア山脈沿いにある州で、まさにアメリカ音楽のルーツのひとつであるマウンテンミュージックの宝庫。
そんななかで生まれたトム・ドゥーリもトラディショナルソングです。

元歌を聴いたわけではありませんが、多分、その歌のケバや凹凸をカンナ掛けしその時代風にしたものがキングストン・トリオの「トム・ドゥーリ」なのでしょう。

しかしアメリカ人(だけではないけど)ってなんでこういう残虐な歌が好きなのでしょうか。「オハイオの岸辺で」なんかもそうですし。昨年はボブ・ディランがケネディ暗殺をうたった「最も卑劣な殺人」をうたって(何で今?)少し話題になりました。
日本では不謹慎と言われてしまいそう。オウムや大量殺人について歌にしようというミュージシャンはまずいません。犯人にというより被害者に配慮しているのでしょうか。

この歌のヒットにより全米でフォークブームが起こります。もちろんビフォア・ビートルズです。
そして60年代に入り、ベトナム戦争が勃発し、アメリカの若者たちは徴兵という現実の中で死に直面していきます。
今アメリカで問題になっている「アジア人(主に黄色人種)への暴力事件」は、白人の何割かに確実にある東洋人への潜在的蔑視思想でしょう。いや白人だけじゃないですね、黒人もまたというか、の方が顕著ではないかとすら思えるアジア人へのヘイト行動。ただ、黒人は白人からの被差別があり、「被差別が差別を産む」という面があり100万分の一くらいは同情できないこともないのですが。

https://youtu.be/ecyI0SM85YE

日本でキングストン・トリオの代表曲といえば、「トム・ドゥーリ」ではなく、おそらくピート・シーガーの「花はどこへ行った」ではないでしょうか。歌の内容がワールドワイドの分。また、彼らのビジュアルではおそろいのストライプ柄のボタンダウンがカッコよかった。ビーチ・ボーイズもそうでしたけど、当時日本でも流行りました。たしか。

20世紀最高のプロテクトソングといわれるこの歌は、ピート・シーガーがショーロホフの小説「静かなるドン」を読んでいてインスパイアされて詞を書き上げたといわれていますが、そうではないという評論家も。小説を読んでおりませんので何ともいえませんが。
とにかくピートの作品(補作者はいる)であることには異論はないようです。近年100歳をまたずに亡くなったピートは1940年代のアメリカの錯乱「赤狩り」の標的にもされた筋金入りの反戦・平和主義者です

このピートのある意味「ただの反戦歌」だった歌を、その美しくドラマチックな詞ゆえ、とりあげて洗練された世界的フォークソングに仕立てたのがキングストン・トリオでした。1961年のことです。

ディランの「風に吹かれて」が1963年ですから。それに先がけてのキングストン・トリオによる「プロテストソング」でした。
ジョーン・バエズやブラザース・フォアやPPMといったフォーキーばかりでなく、ドイツの大女優マレーネ・デイトリッヒがカヴァーしたことでも世界的な歌となりました。
日本でも雪村いずみやザ・ピーナッツ、梓みちよなどがカヴァしています。女性が多いということはキングストン・トリオよりはPPMやジョーン・バエズの影響のほうが強かったのかも。

https://youtu.be/Miq1lfb2AwI

これもファースト・アルバム「キングストン・トリオ」に収められていた一曲。元はカリプソソング(バハマの民謡)で、多くのフォーキー、あるいはビーチ・ボーイズも取り上げている名曲です。
スループとは帆船のかたちで、1本マストの帆船のこと。
邦題はキングストン・トリオ盤では「ジョン・B号の遭難」、ビーチ・ボーイズ盤では「ジョン・B号の難破」となっておりますが、内容は「俺と爺さんの航海記」でケンカ沙汰や警察沙汰があった最悪の航海となり、早く家に帰りたい、という外国のフォークソングにありがちな荒唐無稽な話。
でも座礁とか遭難なんて話は出てきません。はじめにタイトリングした人が船のトラブルだから「遭難」じゃないか、なんて思ったのでしょうか。
日本ではウルフルズが日本語でうたっています。もはや航海でもなんでもなくなっておりますが、「家へ帰りたい」というホームシックソングであることは同じです。

とにかくモダンフォークの魁となったキングストン・トリオの功績は大きい。冒頭にもふれましたが、日本にも輸入され、それを日本風にアレンジした和製フォークが爆発した1960年代後半、その影響で空前のフォークギターブームが起きました。これは60年代のエレキギターブームを遥かに凌駕するもので(アンプがない分誰もが遠慮なく自室で掻き鳴らすことができた)、わたしもその時代に乗った(乗らされた)ひとりです。

実は1950年代後半、アメリカでも空前のアンプラグドのギターブームが起きたのですが、そのきっかけとなったのがこのキングストン・トリオの登場にあったといわれています。
この時ギターを手にして弦を掻きならした若者の中から、のちにどれだけのミュージシャンが誕生したことか。ボブ・ディランもそうした一人だったそうです。

そんなキングストン・トリオですが、なぜか評価がいまひとつ。
多分、50年代後半彼らによって勃発したフォークブームが、60年代に入りベトナム戦争という時代背景もあって、プロテストソングが主流になっていったからでしょう。そしてその担い手としてピート・シーガー、ボブ・ディラン、ジョーン・バエズ、PPMたちが抬頭してきます。

そんななかにあってキングストン・トリオは政治的中立を保ち続けたといわれます。「花はどこへ行った」もおそらく、反戦歌というより、抒情歌としてうたったのではないでしょうか。「俺たちはノンポリである」「反戦歌はうたわない」というグループがいたってかまわないのですが。

1849年にカリフォルニアで起こった「ゴールドラッシュ」。30万人あまりの人間が殺到し僻地だったサンフランシスコは一夜にして(大袈裟です)都市へと変貌したといわれています。では、はじめてその金脈を掘り当てたのは誰なのか。
それはニュージャージー出身のカーペンター、ジェームズ・マーシャルだと歴史書に記されています。
それに倣えば、アメリカン・モダンフォークの先駆者としてのキングストン・トリオも、ジェームズ・マーシャルに匹敵するくらいの功績があり、アメリカの、いや世界のポップミュージック史の1ページに記されてもいいし、きっとその名をとどめるはずです。
なお、昨年、最後のオリジナルメンバー、ボブ・シェーンが亡くなっています。


https://youtu.be/10oDs-S7yC0

おまけの一曲。
アメリカというより、世界のポップミュージックのモニュメント的ソング「トム・ドゥリー」はファーストアルバムからシングルカットされた一曲ですが、実はこの歌、セカンドシングルなのです。ファーストシングルはアルバムの前に出した「スカーレット・リボン」(B面?はスリージョリー・コーチマン)。
1949年に書かれたもので、父親が娘のために赤いリボンを買ってあげようと思うのですが、町じゅうどこを探しても売っていなくて、途方に暮れて家へ帰り、娘の寝ている部屋をのぞくと、ベッドの上にたくさんの覚えのない赤いリボンが散乱していたという幻想的な歌。
この歌もアメリカでは多くのシンガーにカヴァーされているよく知られた歌です。




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Trio02 [フォークソング]

ネルソンズ.jpg

https://youtu.be/ZF0ZvJgVAd8

今朝起きて、テレビをつけて二度寝していると、とぎれとぎれでテレビのニュースショーの音声が聞こえておりました。
なんでも近藤真彦のジャニーズ退所について後輩が批判めいたことを語っておりました。
彼が円満退所ではなかったかどうかなどいきさつには興味がありませんが、ワンマン社長が亡くなることでかくも組織が崩壊とはいいませんが、変容してしまうものなのだなという思いが。それは組織にとってよいことですし、メンバーたちにとってもなるべくしてなっていくことなのだと思います。あとはテレビ局がちゃんと忖度しなくなるようになればいいのですけど。

なんでこんな話をするかといいますと、近藤真彦といえばたのきんトリオの一員でしたから、まぁ、トリオの話のイントロということで。

昨日のフォーク・トリオの続きです。
フォーク・トリオがさらに爆発するのは48年(1973)から。

https://youtu.be/JSgyHiKESGw

なんといっても和製フォーク最大のヒットといわれた「神田川」で南こうせつとかぐや姫。南こうせつが伊勢正三、山田パンダと組んだ第二期の「かぐや姫」6枚目のシングルでした。

曲はこうせつによるもので、詞は喜多条忠。
当時世間は同棲ブームで、歌詞に出てくる銭湯帰りの待ち合わせは喜多条の体験記らしい。
たしか、この曲がヒットしたとき、クラシックの黛敏郎(だったかな)が「名曲です」と、とりわけその曲に賛辞を送ったことで、さらに支持が増幅されたような記憶があります。
時代を反映した、名曲だとは思いますが、それほど格調高い曲だったのかなぁ、なんて感心した覚えが。だいたいわたしのような流行歌好きの俗人は、クラシックには弱く、なんか言われると、御説ごもっともと納得してしまう。

南こうせつとかぐや姫は、第一期から数えると45年のデビューで。まさに高節、ではなく苦節?3年の大ヒットとなったわけです。

そして48年にはこのトリオによるこの歌もヒットしました。今考えると、当時の和製フォークはアイデアに長けていて生活に裏打ちされた詞が秀逸でした。

https://youtu.be/B9mHBYtvw6I

武田鉄矢は70年あたりからヴォーカルとしてバンド活動をしていましたが、リードギターの千葉和臣、サイドの中牟田俊男とのトリオ「海援隊」を組んだのが47年。
この「母に捧げるバラード」、曲は海援隊、詞は武田鉄矢の母親讃歌で、語りの博多弁が新鮮でウケました。

母親讃歌は流行歌で時どきヒット曲が生まれます。
古くは(全部古いか)、「岸壁の母」(菊池章子)、「東京だョお母さん」(島倉千代子)、かあさんの歌」(ダークダックス他)とか、「おかあさん」(テンプターズ)、「おふくろさんよ」(森進一)、「おかあさん」(森昌子)など。
反面、父親讃歌は少ない。まぁ、「父よあなたは強かった」なんて言われるのはゴメンですけど。

軌道修正。
昭和40年代最後の年、49年に遠距離恋愛を背景としたフォークソングが、翌年大ヒットする太田裕美の「木綿のハンカチーフ」に先がけてヒットしました。

https://youtu.be/IcYGOUs3NbM

マイ・ペースは秋田の中学校同級生の森田貢、伊藤進、根次男で結成されたフォーク・トリオ。森田がヴォーカルとサイドギター、根がリードとコーラス、伊藤がフルートとコーラスというめずらしい構成で、作曲は主に森田が担当。
フルートの響きが新鮮で「東京」でもメランコリックな雰囲気をかもしだしておりました。

この歌がメジャーデビュー曲で、中ヒットではありましたが、詞・曲とも心にも耳にも残る歌でした。残念だったのはネクストヒットが出なかったこと。
「東京」の二文字をタイトルとした歌はいくつもありますが、まちがいなくこの歌も名曲です。

だいぶ、長くなってきましたので、そのほかの49年にヒットしたフォークトリオの歌を

https://youtu.be/mSiiE9bPn-4

ソルティー・シュガー(4人構成)のメンバーだった山本コウタローが45年のヒット曲「走れコウタロー」以来4年ぶりのヒット曲。
名所・名跡めぐりではなく、岬をめぐるというアクティブな内容が若者にウケてヒット。歌に触発されて実際に岬をめぐった若者がいた? のかもしれない。
今だったら聖地めぐりとか御朱印めぐりとか、だろうけど。

リタイアしてから東京の神社めぐりをしている知り合いがいますが、2000近くあるそうなので、一日一社としても6年あれば東京の全社制覇も可能かも。わたしにはそんな志向も趣味もありません。まぁ、死んだら地獄めぐりでもしてみようかなんて。

https://youtu.be/6l6MJpDe5sM

以前のブログで何度かとりあげたN.S.P.(スタートはニュー・サディスティック・ピンク)の最大のヒット曲。デビューはその前年で「さよなら」。
天野滋、中村貴之がツインギターで、平賀和人がベースというトリオ。詞・曲はほとんど天野が担当。その天野は残念ながら平成17年に夭折しております。
叙情派フォークの代表的トリオで、「夕暮れ時は淋しそう」は中村のオカリナが印象的な歌でした。

ほかではアリスがデビューしたのが47年。
雌伏3年で「いまはもうだれも」がヒットしたのは50年、「帰らざる日々」は51年でした。
さらに付け加えれば、フォークではありませんがキャンディーズがデビューしたのが48年、「危ない土曜日」をリリースしたのが49年でした。

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Trio [フォークソング]

tokyo03.jpg

https://youtu.be/ewatbgw-7ec

いま「トリオ」といえば、何はともあれ「お笑い」でしょうか。

東京03、ネルソンズ、ハナコ、四千頭身、トンツカタン、ジェラードン、ジャングル・ポケットとかとか。
女性なら三時のヒロインにぼる塾も。
こんなにトリオ芸人が活躍した時代など、過去にはなかったんじゃないでしょうか。
その魁ともいえるのが昭和30年代の「トリオ」たちでした。

戦後、まずお笑いトリオで名を馳せたのが二枚目・南利明、ひょうきん者・由利徹、むっつり・八波むと志の脱線トリオでした。昭和31年の結成ということで、かすかに覚えております。やっぱり最も長生きした由利徹の印象がいちばん。「ハヤシもあるでよぉ」も。

その後、「脱線」を意識しながら36年に浅草ストリップのコメディアンたちが結成した「てんぷくトリオ」もよく覚えております。
リーダー格で池袋の裕次郎?とのたまっていた三波伸介、名脇役になるなんて思えなかった伊東四朗、そしてもし夭折しなければ日本のジーン・ハックマンになっていたんじゃないかと思わせるほど味があった戸塚睦夫。
よく出ていましたテレビに。

ほかにも東八郎がいて、とぼけた味の小島三児が印象に残るトリオ・スカイラインもありました。また浅草出身ということなら、かの寅さん・渥美清だって谷幹一、関敬六とともにスリーポケッツというお笑いトリオを組んでいました。
関西には漫画トリオ、レッツゴー三匹、かしまし娘やチャンバラトリオもおりましたし。
それにしてもあれから半世紀以上が経ってしまったなんて……。

いえいえ、お笑いの話ではなく、音楽の話、歌のトリオの話です。

昭和40年代(西暦1965~1974年)のトリオといえば、これはもうフォークの季節であり、30年代の女性トリオとはうって変わって男性グループが中心の時代でした。

アメリカのフォクリバイバル(当時はモダンフォークといった)の影響で30年代後半からカレッジ・フォークが抬頭しておりましたが、オリジナルのJフォーク(なんて言わない)を、ということで42年、突如日本の若き音楽ファンを驚かせたトリオがフォーク・クルセダーズ。

https://youtu.be/ieVYEYNBN-U

なんとも、あの早回し風のサウンドがインパクト大で、その詞も酔っぱらい運転で死んだ男が天国でも酒がやめられず、神様から地上へ追放されるという荒唐無稽な話。
この歌を広めたのが、当時若者文化になりつつあったラジオの深夜番組でした。

フォークルは翌年「悲しくてやりきれない」をヒットさせますが、予定どおりその年に解散。

フォークルの出現、解散は衝撃的でしたが、和製フォーク、とりわけトリオが隆盛を迎えるのはその数年後の47年、西暦でいえば70年代に突入した1972年。

https://youtu.be/3iNRPxcRiZA

まずはGSのシッポをのこしたマーク、トミー、ボーカルのトリオ「ガロ」が「学生街の喫茶店」をリリース。
翌年、この歌をはじめ「君の誕生日」、「ロマンス」がヒット。女の子と見まがうマークがアイドル的人気を誇っておりました。

またその2年前あたりからフォークヒーローになりつつあった吉田拓郎のバックバンドをしていた「猫」が拓郎節の「地下鉄に乗って」や「雪」でデビュー。
ディランのバーズみたいなバンドを意識してプロデュースされたのでしょう。

https://youtu.be/5WtYWvRXBZM

猫はもともと43年に「海は恋してる」をヒットさせた早稲田大学のバンド「ザ・リガニーズ」の常富喜雄、内山修とほかのカレッジフォークバンドのメンバーだった田口清の3人で立ち上げたバンド。

カレッジ・フォークといえば、やはり43年に「小さな日記」をヒットさせたフォー・セインツがいますが、その後メンバーチェンジをし、フォーク・クローバーと改名して47年にテレビドラマの主題歌「冬物語」をヒットさせています。

https://youtu.be/IxCh3OqFXKo

そしてガロ同様、歌謡曲をベースにしたトリオも登場。

https://youtu.be/Ydam47WMgtI

「青い三角定規」はこの曲を作曲したいずみたくがプロデュースしたトリオで、ヴォーカルの西口久美子と、ギター、ハーモニーの岩久茂、高田真理と、かたちはPPMスタイル。
テレビの青春ドラマの主題歌となったこのセカンドシングルは大ヒットしましたが、翌年解散。

トリオに限ったことではないのかもしれませんが、個性の強いミュージシャン同士のユニットというのは、そのバランスがむずかしい。
デュオだってふたつの意見が食い違ってコンビ解消ってことがめずらしくないのですから、みっつの意見が交叉するトリオとなればなおさら。
だからトリオはだいたいバラバラになってしまいます。これを「トリオ・かいさんず」なんていったり。

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