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それでなくとも 遥かな旅路 [歌謡曲]

深沢七郎.jpg


夜がまた来る、思い出つれて
俺を泣かせに足音もなく……
恋に生きたら、楽しかろうが
どおせ死ぬまで、シトリシトリぼっちさ

と深沢七郎はエッセイのなかに「さすらい」の歌詞を記している。
1番と2番がごちゃまぜなこと、「どうせ」を「どおせ」、「ひとり」を「シトリ」と誤記しているのは、確信犯で、この作家ならばそう書いても不思議ではない。

わが友・深沢七郎。
わたしより年上、というよりわたしの父親と同い年の偏屈作家を友と呼ぶのは畏れ多いが、
作家というよりその音楽的な嗜好に、先生ではなくはるか年齢のはなれた尊敬すべき友情を感じてしまうのです。

晩年の栖となった「ラブミー牧場」にふれるまでもなく、深沢七郎の「エルヴィス信仰」はつとに有名で、それ以外でもハンク・ウィリアムズをはじめとするカントリー好き、またエルヴィス以外でもリトル・リチャードらのロケンロー、さらにはアストロノウツなどサーフィンミュージックなども好んで聴いていたという洋楽の話はまたいつかということで、今回は歌謡曲「さすらい」。

もうひとつだけつけ加えておけば、彼はロケンローは好きだけどそのエピゴーネンである日本のロカビリーについては否定的でした。そりゃそうでしょう。わたしのようにモノマネ、いやカヴァから入って本ものへというのであればカヴァも愛しくなりますが、本ものを聴いてからカヴァというのでは聴くに堪えない、となるのは当然。とりわけ偏屈でプライドの高い作家であれば。多分聴いてはいたでしょうが。

歌謡曲についても、さほど関心はなかったのでは。よくクラシック好きが歌謡曲を「品がない」と切り捨てるのとはいささか違うようです。なにしろ彼はベートーヴェンのことを悪魔といっているくらいですから。

まあ、好んで聴くというよりは、自然と耳に入ってきていたのではないでしょうか。なにしろあの頃はラジオからは歌謡曲が洪水のようにあふれ出ていた時代なのですから。それでなければ「さすらい」を聴いたときもあれほどの反応はしなかったはず。

ようやく本筋にもどってきました。
冒頭の歌詞を書き記したのは、深沢七郎が昭和37、8年頃、北海道を流浪(さすら)っていたときのこと。夜の苫小牧で、街から流れてきたアキラのレコードを聴いて突然からだに痙攣がはしり、底知れない孤独を感じたのだと。

https://youtu.be/htWld61QCfk

深沢七郎はなぜ北海道を流浪っていたのか。
ご同輩や諸先輩の方々は記憶にあると思いますが、昭和37年(1962)、雑誌中央公論に掲載された彼の短編小説「風流夢譚」が大きな問題となりました。
内容は日本に左翼革命が起こり、天皇をはじめ皇太子、皇太子妃(いずれも実名で)が斬殺されるという荒唐無稽なストーリー。深沢はそれをリアルな描写ではなく、いわばお伽噺のように描いた。彼自身にいわせるとそれは「諧謔小説」だと。(のちにわたしも読みましたが、諧謔というよりは揶揄いと感じました)

戦前なら間違いなく不敬罪ですが、終戦から10数年経った1960年代にはもちろんそんなものはありません。戦前の軍国主義・帝国主義の右が壊滅すれば、その反動で左に大きく振れるのは道理で、その頂点が1960年の安保闘争でした。
当時、本当に共産革命が起きると信じたのは左翼やリベラリストだけではなく、右側の人間も「恐怖」として革命の波が押し寄せてくることを肌で感じていたのです。

左翼革命は右翼の存亡にかかわることで、なにがなんでも阻止しなくてはならない。その第一弾が「風流夢譚事件」の前年に起こった日比谷公会堂での社会党の代議士・浅沼稲次郎刺殺事件。公会堂で演説中の野党第一党の国会議員が17歳の右翼青年によって刺され死亡したのです。

その翌年に起こったのが「風流夢譚事件」。
浅沼代議士を刺した少年と同じ17歳の別の少年が、雑誌を発行していた出版社の社長宅を訪れ、社長不在のため応対に出た社長夫人とお手伝いさんを刺したのです。「ああいう(不敬の)小説で金儲けする出版社は許せない」とうのが少年の論理。不幸にもその後お手伝いさんが亡くなります。

この事件によって戦後、左に傾きぎみだった出版社が右寄りににシフトしはじめます。社会の風潮も同じで、軍国主義の反動のそのまた反動が起きたわけです。それは思想的というよりは、「皇室を批判したり右翼に反論すると刺されるぞ」という恐怖に裏付けられた忌避であったり忖度でした。

軌道修正。「楢山節考」の作家の話でした。
この思わぬ自身が原因の殺人事件を、深沢七郎はどう受け止め、対処したのか。
多分本人の意思でというより促されてでしょうが、謝罪会見を行っています。そこで涙を流して謝ったとされています。亡くなったお手伝いさんに謝ったのかどうかはわかりませんが、皇室に対しては謝罪したようです。

一時は次に深沢七郎が狙われるのではないか、ということで警察の保護下に置かれます。それでも彼の元には多くの脅迫文、抗議文が寄せられたそうです。

時間が経ち警察の保護がとけると、彼は北海道へ流浪の旅に出ます。
もともと放浪癖があったという彼ですが、今回の旅は彼曰く「死出の旅」。
脅迫文は全国から舞い込み、その中には「殺す」というものも少なくなかった。そんななか北海道からは唯一、ある青年からの脅迫文がありました。

深沢七郎は、北海道のどこに住んでいるのかも、またその名前も知らない青年に刺されるために北海道へ流浪いの旅に出たのです。歩いていれば、そのうちバッタリその青年と出くわし、みごと刺し殺してもらえる。常識ある人間なら「そんな」、と思うでしょうが、彼は本気でそう思っていたようです。

幸いにも、新たな事件は起こりませんでしたが、そうした彼の陰陰滅滅とした心情のなかで流れてきたアキラのうたう「さすらい」が、痙攣を惹き起こし、底知れない孤独感を与えたということなのです。

深沢七郎がこの忌まわしき事件からどれくらいで立ち直ることができたのかは知りませんが、その後の作家活動や生き方を垣間見ると再生できたことはまちがいなく、今川焼店を開いたり、自らつくった農園で農業に明け暮れたりと、自分の人生をまっとうできたのではないでしょうか。ただ、「風流夢譚」は彼の意志で、全集から外されています。

彼はギタリストでもあります。多分、そうした光景は見られなかったと思いますが、弾き語りで深沢七郎の「さすらい」を聴いてみたかった。

https://youtu.be/G_-KUrwDMqQ
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