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時計ばかりがコチコチと [夏]

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1946年から数えて何度目の終戦記念日になるのでしょうか。
もはやこちらも歳をとりすぎて計算不可。ずいぶん昔のことのように遠ざかってしまったことは確かですが。もはや「いや、終戦やなくて、敗戦やろ」なんてつっこむ人もいなくなり。

幸いにも戦火を知らずに生まれ、壊滅的な飢餓時代も経験することなく乳母日傘はウソですが、まぁ無難に育ってきたわたしですが、両親はじめ先輩方からその聞くも涙、聞くも恐ろし戦争話のかずかずは聞かされてまいりました。さらに、空襲や灯火管制の経験はありませんが、子供時代防空壕はありましたし、傷痍軍人の方々を見かけることもさほどめずらしくない時代ではありました。

それでも、では己の子供たちに諸先輩から伝授された「戦争憎むべし」「戦争絶対反対」を伝えてきたかというと、はなはだ自信がありません。
すっかりノド元を過ぎてしまったあの戦争ですが、[War no more]は「やられたらやりかえせ、倍返しだ」になり、さらには「やられる前に、やっちまえ」になっていくような。

ただ今年の8月15日の日本は少し違う。
いまだ継続しているウクライナの戦禍を目の当たりにしているから。
侵略国が日本の隣国・ロシアということで、報道も多く、関心も高まっています。テレビ・新聞は飽くことなくウクライナの戦火を報道し続けています。ウクライナの方々にはほんとうに気の毒だというしかないのですが、ともすれば長期戦となり、関心も薄れがちになるので、粘り強く停戦になるまで報道を続けていってもらいたい。

若い人たちも戦争がスクリーンや本・雑誌のなかの話ではなく、すぐ隣で人間による人間に対する惨殺が行われていることを実感しているのではないでしょうか。また中国・台湾の問題も何かあれば飛び火し、やがて「自宅延焼」になるかもしれないコワさを実感しているのではないでしょうか。

民間人も含め300万人以上が殺されたという第二次世界大戦の教訓を活かし、「やる」のではなく、いかにすれば「やらない」ですむかということに全力を傾注してもらいたい。それを実現するのが外交の役目で、優秀な政治家や官僚たちが「反戦」を遂行できるように、報道を含めた国民のチェック、サポートが必要不可欠。ともすれば声高な言葉や強権に引きずられてしまいがちなわれわれなのですから。

話を変えて歌を。
「戦争と歌」といえば反戦歌もありますが、かつての日本でいえば「軍歌」でしょうか。
あんなに数年のあいだに、ほぼ戦争を支持肯定し、応援する歌が一国を席巻してしまったなんて国がほかにあったでしょうか。今考えてもほんとに信じがたいことが80年あまりの日本に起こっていました。
それこそクラシック界から歌謡界まで同盟国のドイツ、イタリアを除いた欧米音楽をすべて放逐しろなんてあたりまえのように高言していたのですから。そして国外には届かないことを知ってか知らずか自国の歌は敵国を完膚なきまでに打ち砕き、国民には忍耐を犠牲を強いるという、およそ現代では信じられない歌の数々。それが軍歌でした。軍歌の嵐が吹き荒んでいた時代でした。嵐の渦中にいる国民はまるでその異常に気づかなかった。

たとえば、その抒情に満ちた詩ゆえにいまでも多くのファンを持つ詩人も、その渦中にあっては「万歳ヒットラー・ユーゲント」「万歳ナチス」と筆をすべらせてしまう。
多くの(ほぼ全員)作曲家、作詞家、歌手たちが日本の戦争を支持し、敵国を壊滅させることを望んでいたのです。それは彼らの音楽を聴く国民も同じで、あの嵐の中で「戦争反対」を叫ぶ人間などほぼいなかった(例外は一部の思想家、宗教家で、彼らはもちろん国家権力から迫害を受けた)。

また、誰でも知っている童謡の作曲家も戦時中、多くの軍歌をつくりました。そのことを戦後糾弾されると「もし私が戦争犯罪者だというのなら、国民全員が同罪になってしまう」と言ったとか。たしかに的外れの言い訳ではないけれど、それを「扇動者」が言ってはいけないし、たとえ同じ犯罪人だとしても、「先導者」の罪ははるかに重い。

「万歳ナチス」と書いた詩人も、日本人は誰もが戦争犯罪人といった作曲家も、敗戦から10年も過ぎたころには、偉大なクリエイターとして「復活」していました。「自分たちだっていわば加担者だから…」という国民の負い目がそれを許したのかもしれません。

とにかく驚くほどの「軍歌一色」で、絶望的なほど「反戦歌」が生まれない時代でした。同調圧力の極みの時代ともいえます。

そんななかでいくらか救いになるのが、「反戦」ではないけれど、「厭戦」あるいは「諧謔・自虐・揶揄・皮肉」といった類の歌。そんな「軍歌」をいくつか。

https://youtu.be/K13GM1NtDVs

「戦友」(詞:真下飛泉、曲:三善和気、明治38年)

♪ 軍律きびしい中なれど これが見捨てておかりょうか
  しっかりせよと抱き起こし 仮包帯も弾のなか

14番まであるという歌詞の一部で、これが昭和の軍隊には見過ごせない軍規に反する行為になる。日露戦争の頃につくられた歌で、まだ国家の締め付けも緩かった時代。
ただ、このストーリーは斃れた友を抱き起した兵士も、負傷兵の願い(これが哀しい)もあり、未練を残しながらも友を残していくと続き、軍規違反をしてはいない。
しかし全般的にもの悲しい旋律、さらには戦友の形見の懐中時計が自分のポケットの中でコチコチと鳴っている、とかその詩も全般的に陰鬱で、およせ戦意を高めるものではないということで、「ふさわしくない」と禁止されます。とはいえ、なぜか上官が意識的に耳を塞ぎ、歌われていた部隊もあったとか。

ほかにもうたうことが禁じられていた「軍歌」がいくつかあります。

https://youtu.be/yXJw1DV9RvA

軍隊小唄(詞:不明、曲:倉若晴生)
♪ いやじゃありませんか軍隊は
  金(かね)の茶碗に竹の箸
  仏様でもあるまいに
  一膳めしとは情けなや

https://youtu.be/yl6tFlzMBRA

可愛いスーちゃん(詞・曲不明)
♪ お国の為とは言いながら
  人の嫌がる軍隊に
  召されて行く身の哀れさよ
  可愛いスーちゃんと泣き別れ

  朝は早よから起こされて
  雑巾がけやら掃き掃除
  嫌な上等兵にゃいじめられ
  泣く泣く送る日の長さ

いずれも建前上軍隊ではうたうことが禁じられていた歌。
「曳かれ者の小唄」なんて言葉もありますが、明日この世から消えてしまうかもしれなわが身を思えば、国家圧力があろうともつい本音がポロッとでてしまうのは人間のまともな心情だったのでしょう。またその歌に共感する人間が少なからずいたからこそ、圧殺されることなく生き延びてきたのではないでしょうか。

ただもし再び日本が戦争をはじめそうになったら、諧謔・揶揄ではなく「戦争は嫌だ」[War no more]とストレイトに言いたい。

戦後77年(といまニュースで言っておりました)の間、日本にも「反戦歌」が生まれなかったわけではありません。たとえば以前もふれましたが「もずが枯木で」とか「サトウキビ畑」と「戦争は知らない」、「戦争を知らない子供たち」、「教訓Ⅰ」ななどなど。「教訓Ⅰ」は例外ですが、だいたい拳を振り上げたり、シュプレヒコールしたりというような直接戦争反対を唱える歌というよりも、婉曲に戦争の悲惨さや悲劇を訴えることで戦争を否定するという歌で、そうした余韻を残した歌の方が日本人には好まれのかも知れません。
敗戦直後の童謡にもわたしにはそんなふうに聴こえる歌がありました。おまけの一曲はその歌で。

https://youtu.be/8lTdQzq1UgE


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