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愛は醒めて水になる [歌謡曲]

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やっぱり豊昇龍の優勝か。
予想はあたったけれど、北勝富士に優勝させたかった。
でもどっちにしても初優勝だし、豊昇龍は大関になれるようなので良かったのかも。彼には叔(伯)父さんに負けないようなヒールとして活躍してもらいたい。

大谷もいささか不調ぎみ。バッティングもそうだけど、8勝はしたけどピッチングが不安定。いわゆる「球が軽い」ように見える。シーズン通じて好調なんてありえないので、今は山ではなく「谷」の状態なのかも。くれぐれも「大谷」にならないことを願っております。

今回も演歌歌手のカヴァを聴いてみました。
石原詢子は1988年デビューというからもうベテラン。
岐阜県生まれで、実家は詩吟の家元。当然彼女にも心得がある、ただし、将来の夢は演歌歌手だったとか。

彼女もカヴァが多い歌手で、とりわけお千代さんこと島倉千代子のカヴァーをよくみます。ほかの歌手のカヴァも見ごたえ聴きごたえのあるものがあるけれど、それはいずれまたということで、今回は亡くなって10年が経とうという島倉千代子の歌を三つ。

まずは昭和30年のデビュー曲

https://youtu.be/aoF25QdsFLA

哀れで儚い失恋ソング。女性がうたう失恋ソングはいつの世も同性の共感をうけ、異性の同情を生む。ヒットの定番のひとつなのでしょう。
島倉千代子はこの年だけで20曲以上をリリースしたというから、時代とはいえ驚き。「この世の花」は大ヒットとなり、11月の「りんどう峠」もヒットしている。
所属は美空ひばりと同じコロムビアレコードで、以後、このふたりがコロムビアの、というより日本の二大女性歌手として歌謡界に君臨していくことになる。
陽気で勝気な美空ひばりと静かで可憐なイメージの島倉千代子はまさに太陽と月で、両雄並びたった。

お千代さんはひばりに憧れて、コロムビアのコンクールでも「りんご追分」(?)をうたって優勝したとか。
ひばりと同じレコード会社の所属となって、大先輩(といっても年齢はひばりがひとつ上、学年なら同級生)と近づきになれると思ったけれど、ひばりが「拒否」。ふたりが「握手」するまでにはそれから30年近くかかった。それだけ美空ひばりは島倉千代子に脅威を感じていたということでしょう。
それゆえ、あれだけ日本の歌謡曲を手当たり次第にカヴァしてみせたひばりだけれど、島倉千代子の歌は聴いたことがない。もちろんその逆に「和解」するまではお千代さんがひばりの歌をうたうことも許されなかったはず。「和解」(一方的な)をしたあと、お互いにカヴァをしあったのかどうかはしりませんが。

作曲は戦前には「旅の夜風」が、終戦直後には「りんごの歌」が、そしてひばりの一連のヒット曲「悲しき口笛」「東京キッド」「越後獅子の唄」をてがけた万城目正。作詞も「旅の夜風」をはじめ、戦前そして戦後の20年代、30年代日本の歌謡曲を席巻したコロムビアの看板、西条八十。つまりヒット曲製造の最強コンビ。つまり島倉千代子がコロムビア
からいかに期待されていたかがわかる。

「この世の花」がヒットした昭和30年、島倉千代子はその年の暮れの紅白歌合戦に出場していない。その後もヒット曲を出しているのに初出場はなんと32年。彼女の代名詞である「この世の花」が紅白ではじめて披露されたのはなぜか27年後の昭和57年。ちなみにもうひとつのビッグヒット「東京だョおっ母さん」にいたってはアナクロニズムが嫌われたのか紅白でうたわれることはなかった。

2曲目はこれまた思いがままならないトーチソング。これもラブソングのステロタイプ。

https://youtu.be/nRtsrg45Dsc

「逢いたいなァあの人に」はデビューの翌年、昭和31年のの12月にリリースされビッグヒットとなった。こちらはタイミング的に紅白には間に合わなかったが、翌32年、彼女の紅白初出演の楽曲となった。
ちなみにこの年、彼女以外にも紅白初出場が何人かいた。その有名どころをあげてみると女性では朝丘雪路、松山恵子、浜村美智子。男性ではフランク永井、若山彰、青木光一らがいる。

「逢いたいなァあの人に」は昭和30年代前半の歌謡界のトレンドだった「ふるさと歌謡」。
「ふるさと歌謡」には、東京をはじめとする都会に働きに出てきた若者が艱難辛苦のなか、生まれ故郷に思いをはせるというタイプの歌と、反対にその故郷から都会へ出て行った異性を想うという歌があった。「逢いたいなァあの人に」は後者。いつも残されるのは女、とは限らずのちにヒットする「お月さん今晩わ」(藤島桓夫)のような男の場合もある。
いずれにしても、こうした歌の流行は若者が都会に殺到し、地方が淋しくなっていった時代が反映されている。

曲は「上海の花売り娘」ほか戦前から岡晴夫とのコンビで、戦後はひばりの「港町十三番地」やコロムビア・ローズの「東京のバスガール」で知られる上原げんと。詞は岡晴夫の「憧れのハワイ航路」、青木光一の「柿の木坂の家」、美空ひばりの「悲しい酒」などをてがけた石本美由起。

最後はもはやローカルの小都市化がすすみ、マイカー、新幹線、飛行機等によって「遠く望んだ」故里に日帰りできる時代となった昭和59年のスマッシュヒット。

https://youtu.be/ed_4VcYdAI0

昭和59年、1984年といえばチェッカーズと中森明菜が大ブレイクした年。という影響もあって、こんなリズミックな演歌というか歌謡曲がヒットしたのかもしれない。3年後に大ヒットする「人生いろいろ」もそうだけれど、泣き節・お千代さんにもこうした楽しい歌がたまにある。36年の「恋しているんだもん」とか38年の「星空に両手を」(with守屋浩)とか、41年の「ほんきかしら」とか43年の「愛のさざなみ」などが。

詞は細川たかしの「望郷じょんがら」を書いた里村龍一、曲は八代亜紀の「舟唄」、クールファイブの「そして神戸」、由紀さおりの「挽歌」、奥村チヨの「終着駅」などのビッグヒットがある浜圭介。ひばりの「夢飾り」を聴いてみたかった。

その「夢飾り」をオマケにもう一回。
これぞカヴァの醍醐味という一曲を。お千代さんもつきそっております。とにかく巻き舌の「夢飾り」なんてはじめて、それがなかなか。なにより歌が格別にうまい。

https://youtu.be/dh3u4lQssQg

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死ぬまでだましてほしかった [歌謡曲]

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「暑い、アツい、あつい」
こんな状態があとふた月以上続くと思うと、それでなくてもスピードアップしている「時の流れ」をさらにギアアップしたくなる。すぐに秋は来るけれど死期も近づく。

昨今の興味は大谷をはじめとした大リーグと、メインキャストのいない大相撲。相撲はよく言えば群雄割拠の戦国時代で取組じたいは面白いけど、人気を煽るにはやはりスター不足。いでよ超力士。
ちなみに優勝予想は、きょう霧島をやぶった豊昇龍かな。白桜鵬の勢いも凄いけど。でも今場所だけは北勝富士希望。

就寝前はあいかわらずYOU-TUBEでミュージックを。
最近は邦楽中心。といっても新しい歌は、Jポップはもちろん演歌も聞かないのでまるで知らない。もはや脳内メモリーが飽和状態で新曲は受け付けないのかも。たまに初耳アワーで新曲(自分にとっての)をみつけるけれど、多分、なにかが上書によって消去されているのでしょう。

ここのところ聴いているのは昭和歌謡。安心ですからね
それも元歌は少々飽きもきているので、カヴァで。ほとんどがバリバリ現役の演歌歌手。
歌の上手な人が多いですね。そりゃそうでしょう、カヴァアルバムなんかをリリースするのは「歌上手」でなければ無理。1曲2曲ならばなんとかなっても10曲あまりをこなすには天性の歌マインドがなくては。

きのう見たのはクラウンレコードの川野夏美。1980年、大分県生まれだそうです。

https://youtu.be/n6QXyZCGWjY

「黒百合の歌」は昭和28年に公開された映画「君の名は 第二部」の主題歌で、オリジナルは「君の名は」や「夜が笑ってる」をうたった織井茂子。ソングライトはこのシリーズのコンビである古関裕而(曲)と菊田一夫(詞)。
28年といえば、敗戦から8年を経たとはいえ日本はまだまだ貧しかった。その3年前に当時の大蔵大臣・池田勇人が「貧乏人は麦を食え」(実際はもっと柔らかい言い回し)と発言して物議をかもし、以後政治家の横暴・傲慢さのたとえとして時どき引用されている。それから3年経ち、28年の食糧事情はといえば相変わらずヤミ米が流通し、外米(輸入米)さえ高騰するありさまで、庶民の塗炭の苦しみはさほど改善されていなかった。
当時の大手新聞のコラムには「消費者がもっと麦類を食べる腹を決めれば」とか「麦はいやだなどと贅沢なことはいえた義理ではない」と書かれている。池田勇人には先見の明があったということで、そのことの評価はあまり聞かない。

「黒百合の歌」はプロに人気のナツメロのひとつで、カヴァしている歌手も多い。またこの歌は、鉄火というか、今風でいえばやさぐれたような気の強い、略奪愛もいとわない女のうたで、そうしたフンイキがよくでていたのが川野夏美だった。

つぎは昭和39年というから、もはや戦後ではないどころか、経済成長の加速によってわれわれ下々の家庭もそのオコボレを授かり、「豊かさ」なんて言葉がつい口から出るようになった時代。そんなころ巷にながれていた女歌。

https://youtu.be/Qyys5YHv4R8

シンプルに言うと失恋ソングで、曲は戦前から脈々と受け継がれている和製ブルース。オリジナルの西田佐知子はその特性であるノンビブラートのうたい方が、シャープでベタベタ感がなく、「それでも生きていかなくちゃ」という戦後の女のしたたかさを感じさせた。
彼女の最大のヒット曲は35年の「アカシヤの雨がやむとき」で、ほかに「エリカの花散るとき」も含めて、詞・曲は水木しげると藤原秀行。
「泣いた女がバカなのか」とか「死ぬまでだましてほしかった」などという女の自虐のセリフはこのころから流行りのようにつかわれるようになった。そう言わせている(作詞家)のは男なんだけれど。

最後は、もはや経済成長もピークをむかえ、「昭和元禄」などと呼ばれる時代にさしかかった昭和45年、つまり1970年代に突入した年の歌。

https://youtu.be/ZKTyAt8Iwjk

オリジナルの渚ゆう子は元ハワイアンシンガーで、この年の2月、ベンチャーズ作曲の「京都の恋」で大ブレイク。同じ年の12月にベンチャーズ提供第二弾としてリリースしたのがこの歌。もちろんこちらもヒット。作詞はいずれも林春生で、ほかに「白いギター」ほかチェリッシュの一連のヒット曲や欧陽菲菲の「雨の御堂筋」をてがけている。
ちなみにベンチャーズ作曲の歌謡曲としては「京都慕情」に先がけて「二人の銀座」(山内賢・和泉雅子)や「北国の青い空」(奥村チヨ)があった

オマケは「東京ブルース」の前年にヒットした、昭和30年代最高の歌謡ポップスを前田有希とのデュオで。

https://youtu.be/PPRNNJydZAU

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イスタンブール [jazz]

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数日前のネットニュースで、柳澤真一が亡くなっていたことを知りました。
亡くなったのは今年の3月で89歳だったそうです。

彼も忘れられた人だったのだろうか。
子供の頃テレビで何度も観たおぼえがあります。
ドラマだったのかバラエティだったのか番組までは覚えていませんが、もの静かでおとなしい雰囲気でした。でもなぜか印象に残る人でした。多分、他の出演者が燥いだり騒いだりと派手だったので、反対に記憶に残ったのかもしれません。それでも子供のわたしにとってはサムシングがある人だったのでしょう。訃報を目にしたときすぐにあの落語家のような顔が浮かんできましたから。

彼がもともと歌手だったということをしったのも大人になってから、音源もいくつか持っていますがすべてコンピアルバムの中の一曲。
昭和20年代末にジャズをうたってデビューしたといいますから、同時代のシャンソンやラテンブームともども勢いもあったのだと思います。テレビのドラマやバラエティにも出て、映画にも出て一時は将来を嘱望されていたのではないでしょうか。

それが30年代に入っての空前のロカビリーブーム。そして音楽ファンの若返り。そんな流れについていけなかったのでは。いや、ついていく気がなかったのかも。そうした日本のジャズシンガーはあまたいたはずですから。

あらためて若かりし頃の柳澤真一の美声を何曲か聴いてみました。

彼の代表作といえば、ナット・キング・コールがヒットさせた「プリテンド」だと思うのですがなぜかYOU-TUBEでは見つけられませんでした。それでこれも記憶の底のその縁にわずかにこびりついているこの曲を。

https://youtu.be/1aqiyY3b9oQ

「イスタンブール」は1953年にジミー・ケネディとナット・サイモンによってつくられた歌で、フォー・ラッズというコーラスグループによってヒットした。
当時は「ウスクダラ」や「ムスタファ」(ちょっと後ですが)など中近東の香りがするエキゾチックな歌がときどきヒットしていました。

ただ、この歌を小ヒットさせたのは「ウスクダラ」同様江利チエミでしょう。当時のマンボブームを半ば強引に取り入れて「イスタンブール・マンボ」としてカヴァしています。カテリーナ・バレンテもうたっているので、こちらのほうをカヴァしたのかも。

後年この「イスタンブール・マンボ」を大瀧詠一もカヴァしていて、間奏では「ウスクダラ」や「ムスタファ」(悲しき60才)のワンフレーズを聴かせてくれる。
そのサビ?の部分が甲斐バンドの「裏切りの街角」の間奏によく似ている。まったくの余談ですが。

つぎはアメリカでビッグヒットとなり、日本でも昭和30年代によく流れていた曲。

https://youtu.be/scSflT8MZfw

1919年、ジョージ・ガーシュインによって作曲された「スワニー」は彼の出世作。当初売れなかったものがアル・ジョルスンがうたったことで全米中にとどろいたといわれています。日本では30年代の紅白歌合戦で雪村いづみが何度かうたっていた印象がある。

雪村いづみといえば、彼女のアルバム「フジヤマ・ママ」の中で柳沢真一とのデュエット「お猿の新婚旅行」が聴ける。

https://youtu.be/adse2R9gDH4

これは1950年の日本未公開のアメリカ映画「トゥ・ウィークス・ウィズ・ラヴ」の劇中歌「アバ・ダバ・ハニムーン」のカヴァで、映画ではデビー・レイノルズとカールトン・カーペンターがうたっている。ちなみに訳詞はビクターのカヴァをほぼ一手に引き受けた井田誠一ですが、「アバダバ」をどうして「お猿」としたのだろうか。

つぎはいささか出力が弱いのですが、「君慕うワルツ」を。

https://youtu.be/9nbeXhAIKGw

これは江利チエミで小ヒットしました。
ジャズヴォーカル・ファンならごぞんじのパティ・ペイジの「チェンジング・パートナーズ」のカヴァ。
パティの大ヒット曲「テネシー・ワルツ」のあとにリリースされたやはりダンスパーティを舞台にしたワルツ。彼と踊りたいのにすぐに相手が変わってしまう。はやくまた彼と踊りたい、という恋心をうたったもので、こちらは寝とられることはありません。江利チエミの「テネシー・ワルツ」の陰にかくれてしまった感じですが、こちらも名曲。

柳澤真一。私生活の詳細はわかりませんが、世渡りは決して上手ではなかったような気がします。それでも訃報を聴いたのち、YOU-YUBEでつい最近まで彼がライブハウスでジャズをうたっていたことを知り、なぜかうれしかった。ゆいつの動画です。晩年の柳澤真一ですが、もちろん若き日の彼の面影充分。残念ながら曲名はわかりませんが。

https://youtu.be/dlK95wqAkn8

柳澤真一さん、わたしはあなたのことを覚えていましたよ。そうだなぁ、もし可能ならば灰田勝彦の「森の小径」なんかを聴いてみたかった。
おまけは彼が主演したという映画の主題歌を。
うたっているのは彼ではありませんが、昭和30年代初頭、まごうことなきあの頃の歌です。

https://youtu.be/xZJ7rWaHQsE




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I'm younger than that now [oldies]

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先日夕食を取りながらNHKのニュースを見ていた時のこと。たらたらしていたら食べ終わる前にニュースが終ってしまい、次の番組になってしまった。
チャンネルを替えるのも面倒なのでそのまま見ていると、「週刊朝日」の休刊の様子が映った。それは「雑誌休刊」のドキュメントではなく、なんでもサラリーマンの食事がテーマの番組で、100年続いた雑誌の終焉にタイミングを合わせて番組をつくったようだ。
短い番組なのでNHKらしく、編集長をはじめ、記者、外部デザイアーの3人にフォーカスし当然食事を中心に上手にサラっとまとめていた。
こちらはリアルな食事中とはいえ、あまり他人の食事には興味はなく、ただメジャー週刊誌の終焉の光景とはこういうものかという思いで眺めていた。AIが発達しても仕事がなくなることはないと自負を語っていた記者が、これからどの部署に配属されるのか、はたまた会社を去るのかという余計な心配までしてしまった。

というのも、番組を見ている途中から、昔読んだある本のことが頭に浮かび、同時に脳内蓄音機でその本に関連した音楽が流れはじめたからだった。
その本の著者もかつては「週刊朝日」の記者だった。

https://youtu.be/3GrBH3I2Tz8

「マイ・バック・ページ」は1980年代の後半に川本三郎によって書かれた回想録で、1970年代はじめ「週刊朝日」「朝日ジャーナル」の記者として過激派と関わり、自衛官殺人事件に巻き込まれて懲戒免職をうけるという彼の苦い青春記でもある。
10数年前になぜか映画化(観ておりませんが)されたので知っている人もいるのではないでしょうか。

もちろんこの本のタイトルはボブ・ディランの「マイ・バック・ペイジズ」My back pages からとっている。
「マイ・バック・ペイジズ」は1964年のアルバム「アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン」の収録曲だが、メタファーに溢れたまさに「現代詩」で、理解できるのは何度もリフレインされる「あの頃の自分は老成しすぎていた いまの自分のほうがずっと若い」というフレーズばかり。
デビューから「風に吹かれて」「時代は変わる」「戦争の親玉」などプロテストソングの旗手としてまつり挙げられたディランの自己否定の歌ともとられ、アコースティックからエレキに持ち替えたということも相俟ってこの頃から、純正のフォーキーたちから裏切者よばわりされるようになったディランの「返歌」ともとれる。

しかし考えてみるとこの「若気の至り」を吐露する「マイ・バック・ペイジズ」を発表したのはデビューから2年目のことだ。その2年前を振り返り、「あの頃の自分は老成しすぎていた、今の方がずっと若い」なんていうのは早すぎる。実際に10年を経てディランがこの歌をうたうのを聴いたなら「なるほどなぁ」という思いにもなるだろうが。
もしかするとディランはわずか2年で10年分生きてしまったのかもしれない。あるいは、この歌をつくったとき、10年あるいは20年先の自分が憑依したかのように、未来を見通していたのかもしれない。いずれにしても、のちにノーベル文学賞を獲るほどの味わい深い詩であることは間違いない(たんなるコラージュ上手という人もいるが)。
曲だっていわゆるディラン節が耳になじむ。また吉田拓郎が影響を受けたであろうこともうかがえる。

「アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン」からもう一曲。
これも、あとになってみれば彼を「過大評価」するファンどもにあてたと思われなくもない歌。「僕はあなたが探しているような男では、断じてないんだ」とうたう「悲しきベイブ」It ain't me,babe をかつての同士と。

https://youtu.be/wh6yOC3rFes

最後はもう一度「マイ・バック・ペイジズ」を。
こんどは初出の1964年から30年近く経った1992年の歌で。

「伴走者」ロジャー・マッギンのほか、エリック・クラプトン、ニール・ヤング、ジョージ・ハリスンらのFriends らとの共演はディランのデビュー30周年のコンサートだそうで、ディランはもちろん、それぞれが「あの頃は若年寄みたいなこと言ってたけど、いまの俺の方がずっと若いんだぜ」ってうたってるようでしみじみする。

https://youtu.be/zU40ifUZOUY

ところで川本三郎の「マイ・バック・ペイジ」の中に彼の雑誌記者時代の音楽の話も出てくる。それもこの本が印象に残ったひとつで、その中で著者はクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルが好きだと書いている。
わたしもCCRをリアルタイムで聴いていたのでこの本を読んだとき、10歳近く年上の彼がとても近い存在に感じられたものだった。

ただ川本三郎はたんに当時の自身の音楽的嗜好を披瀝したわけではない。
実はこの「CCR」がのちに彼を奈落の底に突き落とすひとつのキーワードになったのである。彼が信じた自称過激派のテロリストもCCRが好きだと語った。また当時の映画「真夜中のカーボーイ」も川本三郎とテロリストが共に愛するシネマだった(わたしも60年代ベストワンの映画です)。さらには川本三郎がそのテロリストを下宿に招いたとき宮沢賢治が共通の愛読書であることも認識しあった。
「CCR」、「真夜中のカーボーイ」、「宮沢賢治」この3点セットで彼はテロリストを信頼に値する人間と思い込んでしまうのである。その後、その自称過激派の男を首謀者とするグループが朝霞自衛隊駐屯地に侵入し、隊員を刺殺してしまうなどとは微塵も思っていなかった。
まぁ、「マイ・バック・ペイジ」は凄い本でした。わたしが読んだ数少ない「青春記」の中では突出して心を動かされた本だった。

川本三郎はカントリーも聴いていたようで、その本にはそんな話もでてきたのを覚えているが、やはり同時間に聴いていたCCRをオマケに。
最近聴いたばかりでいささか気がひけますが、名曲はまだまだあるので。
アルバム「グリーン・リヴァー」(1969年)の収録曲で、旅巡業中のアーチストがカリフォルニア郊外の町・ロディで金を失くしたり、相棒に去られたり散々な目に遭い途方に暮れるという「ロディ」Lodi(シングルでは「バッド・ムーン・ライジング」のB面)を。

https://youtu.be/30tkt7beJiE


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Don't know much about history [カントリー]

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https://youtu.be/f4k1gg8nJnI


「僕は丘の上で一人の少女と出会い、孤独な心がふるえた」といううたい出しではじまるカントリーソング「青い鳥が鳴いていた」I heard the bluebirds sing が生まれたのは1952年というから、それほど古い歌ではないとも。とはいっても70年以上経つのだからかなり古いといえばいえるかも。
1952年といえば、たとえば、ハンク・ウィリアムズが「ユア・チーティン・ハート」や「コウライジャ」をレコーディングしているし、なによりも彼が死んだのがこの年の大晦日だった。
日本でいえば、NHKラジオで「君の名は」の放送がはじまり、ボクシング、フライ級の白井義男が日本人で初めて世界チャンピオンになり、流行歌では美空ひばりの「りんご追分」や江利チエミの「テネシー・ワルツ」が巷に流れていたのが昭和27年すなわち1952年ということに。

カントリーソングといっても実はこの歌をつくったのはホッド・ファリスというカナダ人で、初めてレコーディングしたのもハロルド・ブローと妻のベティ・コディが中心の「ローン・パインと彼のマウンテナーズ」というカナダのカントリーバンド。
現地ではそこそこヒットしたようだが、アメリカで広くしられるようになったのは、それから5年後の1957年、「谷間に三つの鐘が鳴る」Three bellsで知られるブラウンズがヒットさせたことによって。その後、ジム&ジェシーやマーティ・ロビンズがヒットさせている。また最近(でもないか)では1973年にクリス・クリストファーソンと当時の妻、リタ・クーリッジがうたい、デュエットによるハッピーソングの定番となっている。
ちなみに冒頭の動画は、クリスが主演した1980年の映画「天国の門」(マイケル・チミノ監督)の一場面で歌とは関係がない。

というわけで、ときどきこの歌が聴きたくなって、ネットへもぐりこんでいるのですが、たまには「新しい人」を聴きたくなり、さらに波乗りを続けることになるわけです。

まったく初耳のバンドや素人のバンドなどを聴いてまわるわけですが、これで素人かとおもうほど完成されているバンドがあったり、なかなか楽しめます。そんななかで今回気になったのがこのバンド。

https://youtu.be/O4aaXUIZzxY

ブランデンバーガー(ベルガー)・ファミリーBrandenberger Family というのでしょうか、フィドル、フラットマンドリン、ギター、ベース、ドブローと、いかにもプリミティヴなアメリカのファミリーバンド。演奏もレベルが高く、ヴォーカルも素朴でオールドカントリーにはもってこい。

音楽もそうですが気になったのがビジュアル。とりわけ女性の帽子。一見してアーミッシュを連想してしまいました。気になったのでどういうバンドなのか調べてみましたが、よくわからない。実体を詳らかにしないというスタンスらしい。
わかったのはビクターとアンジェラという夫婦を中心としたバンドで、アーミッシュを破門されたのだとか。「破門」というのはさらに気になる。そもそもアーミッシュはゴスペルであってもあまり音楽に興じないという話も聞いたことがあるので、まさか破門の原因が音楽だったりして? よくわかりませんが。

また、女性は3人いてだれがアンジェラなのかわからない。あとのふたりは夫妻の娘なのか(年齢差はあまりないよう)、はたまた親類なのか友人なのか。そもそも夫妻はいなくて子供たちで構成されているのか。とにかくミステリアスなバンドで、まさにアーミッシュそのもの。

ゴスペル中心の彼らの歌をもう何曲か聴いてみました。

まずはキープ・オン・ザ・サニー・サイド[Keep on the sunny side]。

https://youtu.be/_QFbVNaSijs

暗雲がたちこめ嵐が来ようとも、やがて太陽がさす時がくる。われわれは神を信じ、いつも陽のあたる場所を求めて生きよう、というカーター・ファミリーで知られるゴスペルソング。日本でも高石ともや&カチューシャ・セブンが「陽気に行こう」という邦題でレコーディングしているので、フォーク・ファンなら知っているかも。

つぎは「いつくしみ深き」What a friend we have in Jesus 。

https://youtu.be/SlybtVZk2RQ

19世紀後半、チャールズ・コンバーズによってつくられた讃美歌で、日本では唱歌の「星の界」(ほしのよ)として知られている。
♪月なきみそらに かがやく光
といううたいだしで、たしか中学生で習いました。現在はどうなのでしょうか。学校で習う歌もけっこう様変わりしているようですから。訳詞も美しい言葉で綴られていますが当時はよくわからなかった。それでも格調高い言葉だということだけは理解していました。

最後はこれもときどき聴きたくなる歌。

https://youtu.be/i7SiAEZcDv4

[The great speckled bird](大きなまだらの鳥)は鳥を神の使者にたとえたゴスペルで50年代にロイ・エイカフがうたった。メロディーはトラッドで、古くはカーター・ファミリーが[I'm thinking tonight of my blue eyes]としてうたい、その後ロレッタ・リンの「ホンキー・トンク・エンジェル」It was't God who made honky tonk angel やハンク・トンプソンの「ワイルド・サイド・ライフ」The wild side of life としてカントリーチャートを賑わしたオールドタイム・ミュージック。
とりわけ「ホンキー・トンク・エンジェル」は女性カントリーシンガーならほぼ誰もがうたいたくなる歌。日本でいえば演歌歌手がうたう美空ひばりの「リンゴ追分」のような。


おまけはサム・クックのティネイジ・ソングを。
「歴史や化学はさっぱりで、成績はぱっとしないけど、君が僕を愛してくれたらこの世界は最高なんだ」というハイスクール生活をうたった1960年のヒット曲「ワンダフル・ワールド」。実はこの歌、80年代のある映画のワンシーンで流れていました。もちろんサムは生存していませんから、ラジオから流れてくるという設定で。
今回のブランデンバーガー・ファミリーを聴いていてふとその映画を思い出したということです。

https://youtu.be/jPCPdhM0bTs

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When you're rockin' and a-rollin' [covers]

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おとといブログを書いて、その勢いで怒濤の連日アップをするつもりでしたが、気力体力とも追いつきません。年相応といえばそうだけど。
同年代の知人とも会うたびに、仕事が遅くなったという話。昼間やり残した作業を夕食後にパッパとかたづけるつもりが、気がつけば夜中とか。
こうやって人間は体力がどんどん落ちていき、思考もガラガラと衰えていき、やがてふたつともピタッと静止してしまうのだろうな、なんて他愛のないことが頭をよぎるきのうきょうです。

当初の予定通り、CCRの後篇をやらねば。

CCRというバンド名で活動をはじめたのが1967年、そして解散したのが72年と、その期間はわずか6年。
その短い期間で多くのヒット曲を紡いだのはジョン・フォガティという類まれなるソングライターがいたから。また、あまりにも短い時間で分裂してしまったのも、ジョンという個性の強すぎる存在があったから。

たしかにジョンは天才的なロッカーでした。CCRのオリジナル曲のほぼすべては彼の作詞作曲による。また、またそのノイジーなヴォーカルも聴き手を魅了するのに充分でした。ということはやっぱりCCRはジョン・フォガティのバンドだった。
他のバンドでももっとも注目され、求心力となるのはメインヴォーカルですが、その主役が曲作りほぼすべてを担当という形態のバンドはそう多くはない。
もう少しジョンが寛大だったらCCRは継続していたかもしれませんが、かの名曲の数々は生まれていたかどうだか。
解散後、ジョンはソロ活動をはじめますが、そういう運命だったのでしょう。

ファンはジョンの素晴らしさを知っているけれど、やっぱりソロではなくバンドとしてのCCRが目に焼きつき耳にこびりつき、心に残っているのです。そんなわけで今回はCCRのカヴァ曲を何曲か聴いてみました。

https://youtu.be/wgzOzXPifYE

「コットン・フィールズ」Cotton fields は1969年の「ウィリー・アンド・プアボーイズ」Willy And The Poor Boys の収録曲。
1940年ブルース・ミュージシャンのバディ・リードベリーによって書かれた歌。オデッタらがフォークとしてうたい継ぎ、50年代末にハリー・ベラフォンテがうたって一般にも広まった。以後多くのフォーキーやカントリーシンガーがカヴァした。

わたしが初めて聴いたのはフォーク・グループのニュー・クリスティ・ミンストレルズで、CCRを聴くきっかけになった歌でもある。

「子供の頃、家の裏に綿畑があったけど、たくさん摘むことはできず、稼ぎも少なかった」という歌は、楽しい思い出の歌にも聞こえるが、もちろん畑は白人の地主のもので、俺たちは労働者にすぎない、という現実もあった。サリーフィールドの映画「プレイス・イン・ザ・ハート」を思い出す。いい映画だったけれど、白人(主人)、黒人(使用人)という仕組みを告発するような作品ではなかった。
動画はジョン・フォガティで。

https://youtu.be/WNFsS5pYO3A

つぎも同じ「ウィリー・アンド・プアボーイズ」の中の一曲、「ミッドナイト・スペシャル」Midnight Special。
トラディショナルな囚人ソング。「ミッドナイト・スペシャル」とは、牢獄の囚人たちが真夜中に見る「幸運の光」のこと。その光の元は刑務所の傍を通る列車で、真夜中に疾走する列車がフロントライトをまき散らす光。その光は獄舎のなかまで飛び込んできて、囚人たちはそのれが、やがて釈放されたり、愛しい恋人に再会を約束する幸運の光であることを信じている。
「コットン・フィールズ」のリードベリーは刑務所でのこの歌の採録にもひと役買っている。1959年、ウィルマとストーニーのクーパー夫妻がカントリーとしてヒットさせ(YOU-TUBEで見れます)、以後多くのシンガーやバンドがとりあげるようになった。

https://youtu.be/Y0AkRThPCSU

1972年のCCR最後のアルバム「マルディグラ」Mardi Gras に収録された一曲が「ハロー・メリールウ」Hello Marylou 。61年のリッキー・ネルソンのヒット曲。ソングライトは日本で「ルイジアナ・ママ」の歌唱でしられるジーン・ピットニー。日本でも弘田三枝子やザ・ピーナッツのカヴァでテレビ、ラジオから流れていた。
リッキー・ネルソンのヴァージョンで印象的だったカウベルをCCRもつかっている。以前YOU-TUBEでフレディ・マーキュリーがうたっていた。この歌のようにビフォア・ビートルズのアメリカン・ポップスにはエヴァグリーンのものがいくつもある。

https://youtu.be/JDDMoU2XZm8

最後は1969年のアルバム「バイヨー・カントリー」Bayou Country の収録曲「グッド・ゴリー・ミス・モリー」Good Golly Miss Molly。ごぞんじリトル・リチャードの純正ロケンロー。
わたしが初めてこの歌を聴いたのは中学生のころ。リトル・リチャードではなく、ミッチ・ライダーとデトロイト・ホイールズで、楽曲は邦題「悪魔とモリー」。「グッド・ゴリー・ミス・モリー」とショーティ・ロングのR&B「青い服を来た悪魔」を合わせたもの。最近YOU-TUBEでブルース・スプリングスティーンがこの歌をうたっているのを見た。
それはともかく、CCRがこの曲を発表した翌年に発表したのが「トラベリン・バンド」でこれも純正ロケンロー。このふたつのロケンローが似すぎているということで問題になったとか。
純正ロケンローはだいたい3コードのブギウギで、どれもある程度似てしまうのだけれど、このふたつの曲がそんなに似てるかなという印象がある。結局、法廷に持ち込まれることはなかったそうだが。

ほかにもファーストアルバム収録のロカビリー「スージーQ」とか、ハンク・ウィリアムズのジャンバラヤ(1972)など聴いてみたいカヴァーもありますがこのへんで。

おまけはやっぱりオリジナルで。
それでやっぱり「雨を見たかい」を。ただ、カヴァで、それも日本人のカヴァで。プロにも人気のある曲のようで、何人もがカヴァをしておりました。
そんななかでいちばん良かったのは、演奏アレンジはほぼ原曲どおりだけれど、ヴォーカルがオリジナㇽに迫っていたこの人で。

https://youtu.be/Ri_a3EurEjs

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Workin' for the man every night and day [not mellow AB]

proud mary.jpg


きょうの大谷、3試合連続はなかったけど、昨日の2連発は久しぶりに気分が良かった。最近のホームランはほとんどセンター方向。ついに開眼したか。

これで今シーズン20勝50本に近づいた。(現実的には16勝40本だけど)
あとは千賀。おとといは今季のベストピッチンングじゃなかったでしょうか。このままいけば15勝は確実で、新人王も夢じゃない。
今年はメジャーの日本人が総じて元気がいい。それだけ楽しみが多いということ。できれば筒香にも頑張ってもらってメジャーに昇格してもらいたい。そうなればもういうことない。

では本題に。
ティナ・ターナーの死はあらためて彼女が偉大なパフォーマーだったことを教えてくれた。「プラウド・メアリー」は彼女の魅力をもっとも伝えてくれる歌のひとつで、「プラウド・メアリー」はティナのものだと思う。

とはいえオリジナルはジョン・フォガティによってつくられたわけで、わたしがはじめて聴いたのもC.C.R.(クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル 以下CCR)でした。
CCRはカリフォルニアで生まれたリードギター&ヴォーカルのジョン・フォガティをはじめとする4人組の(カントリー)ロックバンドで60年代末から70年代はじめにかけて、頻繁に聴いた洋楽のひとつ.だった。

https://youtu.be/7F_ILRVJdes

はじめて買ったアルバムがその「プラウド・メアリー」Proud mary が収録された「バイヨー・カントリー」Bayou Country で、1969年にリリースされた彼らの2枚目のアルバム。

詞は「ティナ盤」とまったく同じで、仕事でこき使われ心身ともに疲れ果てた若者が、ミシシッピをダイナミックにすすむ蒸気船の「プラウド・メアリー号」にこころ魅かれ、その船に乗って楽天地を求めるというストーリー。

ティナのおかげで久しぶりにCCRを何曲か聴いてみたくなった。
つぎは今のシーズンにふさわしい雨の歌を。

雨の歌といえばよく知られているのが「雨を見たかい」Have you ever seen the rain 。1970年のアルバム「ペンデュラム」Pendulum の挿入歌でのちにシングルカットされて大ヒットした。当時、雨はナパーム弾のメタファであり、ベトナム戦争の反戦歌なのだという噂が広まり話題になった。その影響もあってか、ボニー・タイラーやロッド・スチュアートなどカヴァするシンガーがいた。カントリーでもウィリー・ネルソンが娘のポーラとレコーディングしているし、AJ・リーもレパートリーにしている。
CCRのなかでもベストソングだと思うけれど、聴きすぎて(飽きてはいないけど)いるので今回はやはり70年のアルバム「コスモス・ファクトリー」Cosmo's Factory の収録曲
[Who'll stop the rain]誰が雨を止められる? を。

https://youtu.be/jaEEFBTtofc

「雨を見たかい」よりこちらのほうがよりトピカルな詞で、雨はひどい状況や厳しい現実を象徴している。善良な市民は太陽を望んでいるのに、雨はいっこうに降り止まない、とうたっている。ストレートなアメリカ政府に対してもの申しているわけで、やはり当時のベトナム戦争の影響が大きかったことは否定できない。また、「プラウド・メアリー」でも同じだがジョン・フォガティにはいわゆるブルーカラーの視線が感じられる。この歌のカヴァではブルース・スプリングスティーンのものが有名。
また、1978年にはこの歌をつかった「WHO'LL STOP THE RAIN」という映画がつくられている。ニック・ノルティ主演のクライムムヴィーだそうだが、観ていない。

つぎも当時のアメリカやジョンの心情を映しているかのようなネガティブな歌を。

https://youtu.be/w6iRNVwslM4

「バッド・ムーン・ライジング」Bad moon rising は1969年の彼らの3枚目のアルバム「グリーン・リヴァー」Green River の1曲で。全米1位になっている。
「悪い月がのぼっている。地震が起こる、ハリケーンだってくる。俺はもうお終いだってことを知っている。あんたたちだって死ぬ準備をしておいたほうがいい」というこの世界の終末を描いたような歌は、核戦争への恐怖をうたったもの、ではない。
これはジョンがホラー映画を観た後にその印象を書き下ろしたものだそうだ。しかし、受け止めようによっては一歩一歩近づいてくる最終戦争への警鐘ととれないこともない。

なにか悲観的な歌が続いたので最後は楽しい歌を。

https://youtu.be/Aae_RHRptRg

「ルッキン・アウト・マイ・バック・ドア」Lookin' out my back door は「フール・ストップ・ザ・レイン」と同じく1970年のアルバム「コスモス・ファクトリー」の収録曲。
「タンバリンと象がバンド演奏をしている」とか「空飛ぶスプーンに乗ってみない」とか「不思議な世界を醸し出す手品師」など幻想的というかイメージの世界をうたっている。70年という時代もあって、この歌をLSDによるトリップの世界、ととらえる人もいたようだが、実際は子供にきかせるお伽噺のつもりでつくったとジョンは言っている。
音楽も当時はやったサイケデリックサウンドではなく、どちらかというと「ハロー・メリー・ルー」のような50年代のアメリカンポップスっぽく、なんともノリのよいサウンド。


訃報はなりやまず、ブログを書いているときにテレビが上岡龍太郎が亡くなっていたことを報じていた。
漫画トリオ時代もおもしろかったが、「ソロ」になってからのほうがよりおもしろかった。
博識で饒舌でその正論とアイロニーは立川談志も一目置くほどだった。
全盛期のリタイアも見事。当時、関西に(失礼)こんな粋で自分の美学を貫く芸人がいたとは、と感心した記憶がある。
笑福亭鶴瓶を育てたのは彼だし、もしあのまま芸人を続けていたら(無理な話だが)、「本物」のご意見番になっていたのではなでしょうか。ご冥福をお祈りいたします。

妙な流れになりましたが、やっぱりオマケを。
「ルッキンアウト・マイ・バック・ドア」にはこんなフレーズも出てくる。
「蓄音機から聴こえてくるバック・オーエンズ」
そのバック・オーエンズBuck Owensの歌を。ビートルズ・ファンにはおなじみだけど、オリジナルはバックです。

https://youtu.be/3Eev0xt1AwA


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good hearted woman [country]

tina.jpg

https://youtu.be/T2T5_seDNZE

昨年末から今年にかけてほんとに訃報が目につく。

今日はティナ・ターナーが亡くなったとテレビが報じていた。
彼女にとっての安息の地・スイスで今月24日というから昨日のこと。
「ロックの女王」と言われているが、個人的にも70年代以降の女性のベストヴォーカリストだと思っているたので……。83歳という年齢もまだ、という気はするけど、健康を害し、ほぼ引退状態だったので、とうとう……という気持でもある。

ティナはカントリーシンガーでもある。アルバムも何枚かだしている。
いちばんはじめは、1974年というからまだアイクと別れる前。スタジオでの初のソロアルバムが「カントリー・オン」。
ボブ・ディランやジェームズ・テイラーのカヴァもあり、カントリー&フォークのアルバムということになるが、カントリーではクリス・クリストファーソンのの[Help me make it through the night]やドリー・パートンの[There'll always be music]などが。さらにはハンク・スノウの[I'm movin' on]のようなクラシックスもあったり。

https://youtu.be/7hO2Qes7y-M

サミ・スミスがヒットさせた究極のラヴソングをティナらしくややワイルドにうたっている。多くのカヴァがあるこの歌で突出していいとは思わないが、ティナらしい「想い」が伝わってきて、やっぱりいい。

個人的に好きなのは[Good hearted woman]。
しっているなかでは2005年のアルバム[Tina Turner Sings Country]にタミー・ウィネットの[Stand by your man]などといっしょに入っている。

https://youtu.be/kfAykwFQl-g

「 グッド・ハーテッド・ウーマン」はウェイロン・ジェニングスが1974年のアルバムで発表した歌。ビルボードのカントリーで4位になっている。
ソングライトはウェイロンとウィリー・ネルソンで、その後ふたりの歌唱でもレコーディングされている。

この男の気まぐれやわがままも許す心やさしきウーマンのストーリーを思いついたのはウェイロンで、そのヒントになったのが演奏旅行中のモーテル。当時売り出し中だった「アイク&ティナ・ターナー」の看板広告を見てインスパイアされたのだとか。そしてすぐにウィリーに話をもちかけ、合作することに。
もちろん、よい時もわるい時も男を愛し、許す心やさしき女性とはティナのことである。
ということは身勝手な男とは……。ということになるのかな。

おまけはティナといえばどうしても思い浮かぶのがミック・ジャガー。日本でのソロ公演でもゲストでティナが登場したし、ふたりの「仲睦まじさ」はつとに知られている。
テレビのティナの訃報でも、ミックの哀悼のことばを伝えていた。
ふたりでうたうのはほぼストーンズのナンバーで、今回はカントリーのにおいも感じられるこの歌で。冒頭のライブとともにティナの全盛期の映像ではないでしょうか。

https://youtu.be/i88NCvfoK58



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happy birthday willie [country]

willie nelson.jpg


数日前、寝しなにYOU-TUBEでカントリーを聴いてたら、サムネールに「ウィリー・ネルソン生誕90年セレブレイション」の文字が。

「そうか90歳なのか……」という感慨とともに見てみると、なんとこのコンサートが開催されたのが4月29日と30日のふつかにわたってとのこと。
見たのが5月2日なので、アメリカでのコンサートを2日後に日本のわが苫屋の炬燵(しまわなく良かった)の中で見れるとは。

どうやら、観客がスマホで撮ったもののようで、ロングショットばかりのものや、顔がわかるほどかなり近いところからの撮影したもの、あるいはひたすらステージ上の大画面にレンズを向けていたものなど、複数の人がアップしていた。
多分、無断でYOU-TUBEにあげることは違法なのだろうが、個人的には素晴らしい動画をみせてもらった。

ウィリーはとても90歳には見えないパフォーマンス(座ってうたうこともありましたが)となによりも衰えを知らない声でお得意のスタンダードナンバーなどをうたいはじめた。

https://youtu.be/Vsnl2w-jsWg

ゲストは2日にわたってキース・リチャーズやトム・ジョーンズ、ニール・ヤング&スティーヴン・スティルス、シェリル・クロウなどのアーチストが。
キースは以前からふたりの持ち歌でもある[We had it all]や[Live forever]をウィリーと。オリジナルは彼の「ならず者」仲間であるウェイロン・ジェニングス。
トムは1991年、ライ・クーダーによって書かれボブ・ディランやブルース・スプリングスティンなど多くのシンガーにうたわれている(もちろんウィリーも)[Across the Borderline]を変わらなく力強く美しい声でうたいあげた。

https://youtu.be/G0iTXU8bSpk

シェリル・クロウは1961年のウィリーによって書かれ、同年パッツィ・クラインによって大ヒットした[Crazy]をみごとに。ロイ・エイカフからウィリーへ、そしていまでも究極のラブソングとしてうたい継がれている[Blue eyes crying in the rain]はベック(もう一日はボブ・ウェアがうたった)。

https://youtu.be/N6wBxQVBozI

そのほか「ハイウェイメンの子供たち」も参加していて、ウィリーの息子のルーカスとウェイロン・ジェニングスの息子のシューターが、ふたりのデュオの代表曲である[Good hearted woman]を披露。ルーカスは父親の声によく似ていた。

https://youtu.be/7UI91G0KkzU

もちろん多くのカントリーシンガーも。
ドワイト・ヨーカムは1985年のウィリーのヒット曲[Me and Paul]を。どことなく「ボビー・マギー」を思わせるこの曲は、ウィリーのバンドのドラマー、ポール・イングリッシュのことをうたったものだそうだと。

ジョージ・ストレイトは1983年、ビルボードカントリーでナンバーワンになったウィリーとマール・ハガードの[Pancho and lefty]を。

https://youtu.be/fOHCXTuVJUA

以前よく聴いていた永遠のギター小僧、ビリー・ストリングスも登場。元グレイトフル・デッドのボブ・ウェアと[Whiskey river]そして[I gotta get drank]の2曲を。そしてウィリーとのデュオで[California Sober]を。もちろん華麗なるギターテクニックを織り交ぜて。

ミランダ・ランバートはやはりウィリーとウェイロンの[Mama don't let your babies grow up to be cowboys]を華やかに。

エミルー・ハリスもウィリーとのデュオでレコーディングもしているセイクレッドソング[The Maker]をボブ・ウェアとともにうたった。

そしてもっとも感動したのがクリス・クリストファーソン。
彼だってもう数年で90歳になるのだが、病気に苦しめられているようでほぼ引退同様だったのだが。

その前段はノラ・ジョーンズ。
ウィリーとレイ・チャールズのデュオで知られる[Seven Spanish Angels]をお得意のピアノ弾き語りで披露。

https://youtu.be/eDFzWJrdTZ8

歌い終わるとノラはステージの中央に。そして紹介したのがクリス・クリストファーソン。

クリスは病み上がりのようで、ゆっくりとした足取りでした。
そしてノラもレパートリーにしているクリスの[Help me make it, through the night]を一緒に。声が出ないのは仕方がない。それでも会場のファンはクリスがうたってくれるだけで拍手。それだけで充分なのだ。ノラのサポートもやさしかった。

https://youtu.be/uXMTxlAZQnw

クリスはそのあとも今は亡き「ならず者」仲間の娘、ロザンヌ・キャッシュと[Loving her was easier]をうたい、ロザンヌのサポートでフィナーレまでうたい続けた。

最後はほぼ全員がステージにのぼってのグランドフィナーレ。
個人的にもフェヴァリットの[On the road again]からはじまり[Will the circle be unbroken]、[I will fly away]と2つのセイクレッドソングをシングアウト。

https://youtu.be/TmfBh8i7s90

気がつけば午前3時ちかくになっておりました。
翌日というか当日は暦上連休とはいえ、しっかり仕事が待っていたのに。それでもグッスリと安眠できました。ひさびさの「カントリー腹いっぱい」になりました。

ずいぶんお爺さんになってしまったウィリーですが、若い頃はイケメンのシンガーソングライターでした。
おまけはそんな頃の代表曲[Hello walls]ほか彼のヒットメドレーを。

https://youtu.be/yWloaxXWv0g
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you've got to feel it [not mellow AB]

雲の中の太陽02.jpg

きょうも寒い一日でした。
午前中の早い時間には太陽も輝いていたようですが、わたしが出かけたころはすでに厚いい雲が空をおおい、サンシャインも鈍い光となっておりました。
でも、太陽を直視できるのはこういう時でないと、なかなか。

ということ(?)で、懐かしかったフィフス・ディメンションをもう一度。


フィフス・ディメンション[5th Dimension]は1966年に結成した男3人、女2人あわせて5人のR&Bコーラスユニット。オリジナルメンバー(発足当時の)はビリー・デイビスJr.、マリリン・マックー、ラモンテ・マクレモア、ロン・タウンソン、フローレンス・ラルー。
その後、何度もメンバーチェンジが行われています。現在も活動を続けているそうですが、オリジナルメンバーはいません。

初ヒットが1967年の「ビートでジャンプ」up up and awayで全米7位となり、グラミー賞も獲得。日本のヒットパレードでも、1967年の9月に最高位7位を記録しています。

https://youtu.be/J2hI3-KvYZY

ビートルズが登場した1963年のすこし前あたりから、本場ビルボードのヒットチャートと日本のベストテンのタイムラグがなくなり、アメリカでヒットすればほぼ日本でもヒットするようになります。もちろん、アメリカに先がけて日本でまずヒットというのはかの「スキヤキ」以外にはありません。

前回で少し触れましたがその翌年の1968年、当時ブロードウェイで爆発的にヒットしていたミュージカル「ヘア」(のちに映画化)の挿入歌「輝く星座(アクエリアス/レット・ザ・サンシャイン・イン)」Age of Aquarius/Let the Sunshine in をリリースし、1968年の全米ナンバーワンになり、グラミー賞も受賞して、フィフス・ディメンションの名をお世界にとどろかせます。
楽曲はスローテンポの「アクエリアス」からアップテンポの「レット・ザ・サンシャイン・イン」に切り替わるところがドラマチックで、ブラスとベースをバックに延々と「レッド・サンシャイン・イン」とリフレインします。それはまるで「読経」のようで、思わずからだが動かされてしまうベースランニングとあいまって精神世界にトリップしてしまうような感じさえします。

https://youtu.be/vbCH5lnZ6sA

1968年といえばアフタービートルズですが、いまだ日本でもラジオのヒットパレードが全盛で、ほかではジリオラ・チンクエッティの「雨」とか、サイモン&ガーファンクルの「ボクサー」が聴こえたいました。CCRの「プラウド・メアリー」を聴いたのもこの頃でした。

その翌年、ビリー(レット・ザ・サンシャイン・インのメイン・ヴォーカルを努めたイケメン)とマリリン・マックー(美形で背の高い方。フローレンスが美形でないというわけではなく、とにかく身長の高い方です)が絵に描いたように結ばれ、しばしグループはマリリンを中心に活動します。
そして1975年にマリリンとビリーが脱退し、ペアユニットとして活動しその年の「星空の二人」You don't Have to be a Star が全米ナンバーワンに。
マリリンはその後もソロシンガーとして、またMCとして活躍していくことになります。

https://youtu.be/Wdzt2HGTYfk

前回もふれましたが、フィフス・ディメンションの「レット・ザ・サンシャイン・イン」はそのサワリだけですが、YOU-TUBEで前篇をカヴァーしているものを探したところダイアナ・ロス(上手だなぁ)とテンプテーションという貴重な動画がありましたが、ほかの楽曲もあって長くなっているのでブログにあげるのはやめておきました。興味のある方は探してみてください。

その代わり別のカヴァーをみつけました。前回に戻ってしまうようですが、上手とはいえませんが、懐かしいシンガーでフンイキがあり、なによりも貴重な動画ではあります。

https://youtu.be/shgnaiOwrVo

おまけは、以前聞いた[FAST TIME REACTION]で「レット・ザ・サンシャイン・イン」を3連発。それぞれの反応がおもしろい。興味と時間のある方はどうぞ。

https://youtu.be/jovwL16_ZrU

https://youtu.be/DMR32CJ_d7Q

https://youtu.be/hDkjvdbgJi8

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