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なかにし礼▼まわり道 [歌謡曲]

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歌謡ポップスのイメージが強いなかにし礼ですが演歌もあります。

演歌は「歌謡曲」の分派というのが彼の自論。賛成です。
歌謡曲は昭和の終焉と共に終わってしまったとも。同感です。
しかし「演歌」は平成を生き延び、令和に至っております。

演歌もその最も輝いていた時代は歌謡曲同様昭和だったのかもしれません。
なかにし礼の昭和の演歌を。

まず50年の大ヒット曲。

https://youtu.be/ryyH8v4YxNs

細川たかしのデビュー曲で、オリコン1位に輝き、さらにその年のレコード大賞最優秀新人賞に輝いております。

失恋で旅に出るという歌詞は、なかにし礼にしてはまさに「ザ・演歌」といえる古いコンストラクションですが、冒頭の「わたしバカよね おバカさんよね」に、それまでの歌謡曲のように単に耐えて諦めるだけでなく、そこはかとない自虐というよりは自己主張があって、なかにし礼らしい。
43年の彼の作詞作曲作品「知りすぎたのね」(ロス・インディオス)でも、
♪みんなあなたにあげた バカなわたし 

この時代「バカね」とか「おバカさん」という女性の自虐フレーズを演歌やムード歌謡でよく耳にするようになりました。「よせばいいのに」とか「雪国」とか「うすなさけ」とか。
そのものズバリの「ばかなわたし」はロス・プリモスの45年の歌(五月みどりも)。間奏に「女の意地」が掠ったと思ったら、そのはず作詞作曲が鈴木道明でした。
ロス・プリモスでいえば41年の「ラブユー東京」にも♪お馬鹿さんね あなただけを信じたわたし や42年の雨の銀座の♪馬鹿な女の 涙雨 なんてのも。

このあたりが嚆矢かと思ったらさらに古い40年の都はるみの「涙の連絡船」には♪忘れられない 私がばかね とあります。
さらに都はるみでは「さよなら列車」でも♪馬鹿なのね と自虐しておりますし、「馬鹿っちょ出船」なんて強烈なタイトルの歌もあります。
あまり「ばか バカ 馬鹿」と言われると、山口百恵ではないけれど♪馬鹿にしないでよ!
と言いたくなります。

脱線しましたので軌道修正。
曲はやはり最近亡くなった中村泰士。サビの♪秋風が吹く 港の街を の4章節はニール・セダカの「恋の日記」をベースにしたと、いつだったか作曲者自身が語っておりました。さすが元ロカビリアン。
なかにし・中村・細川のコンビでは57年にも「北酒場」のヒットが。

次は、なかにし礼が自身の著書(歌謡曲から「昭和」を読む)で自分の作品で好きな歌三曲をあげていたうちのひとつがこの歌。

https://youtu.be/L7vXAukisMo

彼が少年時代を過ごした小樽の情景をうたったものだそうですが、まぁなんと意味不明の言葉が出てくることか。
いきなり♪ごめがなくから って何?
歌詞カードをみれば「海猫(ごめ)」と描かれているのでわかりますが、聴いただけではわからない。その後も「つっぽ」(筒袖)、問い刺し網、オンボロロ、笠戸丸、朝里の浜、オモタイ岬、古代文字と聴いただけではチンプンカンプン。地元の人なら解るのでしょうが。

これでヒットしてしまうのですから流行歌はわからない。好きな人は意味を調べるでしょうが、ほとんどの人は耳から聴こえた音をまるで外国語のようにうたってしまう。
それでもなんとなく石狩挽歌になってしまい、それでOKなのです。
これは作詞家の意図するところで、彼は本の中で「音の連なりとだけ聞いてくれてもいい」と語っています。
また「オンボロロ」は彼の造語で、「おんぼろ」でも「ぼろ」でもない言葉の響き、語感の「オンボロロ」なのだそうです。

「島原の子守唄」やそれを流用した高倉健の「望郷子守唄」でつかわれている「オロロン オロロン オロロンバイ」と言葉も、リズムも、心地よさも似ています。

うたったのは北原ミレイ。
45年、阿久悠作詞・村井邦彦作曲の「ざんげの値打ちもない」でデビュー。梶芽衣子の「怨み節」のようなクールでコワイ女路線でいくのかと思いきや、5年後にこの歌で大ブレイク。5年前のナイフ少女が流れ流れて、港の飯炊き女に…という展開もありそうではありますが。

曲は八代亜紀の「舟唄」や島倉千代子の「夢飾り」、奥村チヨの「終着駅」、千葉紘子の「折鶴」、内山田洋とクールファイブの「そして神戸」などの浜圭介。
なかにしとのコンビでは島津ゆたかの「ホテル」があります。

3曲めは聴くのはすきだけど、カラオケでうたうのは恥かしくてとても無理なこの歌。

https://youtu.be/RoR0hGhheB8

お相撲さんは声がいい、歌が上手いといいますが決してぶつかり稽古のせいではないでしょう。ただ肺活量は超人的でしょうから、そういう意味では歌上手が多いのかもしれません。音痴だっているでしょうけど。

琴風(現在の尾車親方)はとりわけ上手ですね。お相撲さんになるまえは勉学で優等生だったそうですし、ケガを克服して大関まで番付を上げたのですからなにをやっても、という力士でした。
あとはやはり大関までいった七代目・増位山。「そんな夕子にほれました」のヒット曲がありました。横綱では現在大相撲解説をしている北の富士も「ネオン無情」をヒットさせていました。ほかではレコードは出していませんが、40年代に活躍した、ソッポでもみあげが特徴の怪力・若浪も歌謡曲や相撲甚句が上手だったという記憶があります。

浪花節的な歌詞はなかにし礼のなかでもとびきりの演歌。
曲もまさしく「ド演歌」で、演歌からポップスまでオールマイティの流行歌作曲家・三木たかしによるもの。なかにしとのコンビでは妹・黛ジュンの「夕月」、キャンディーズの「哀愁のシンフォニー」、石川さゆりの「風の盆恋唄」があります。

そして平成元年につくられたその「風の盆恋唄」が作詞家としての最後の歌に。昭和が終焉し、あたらしい元号がはじまったとき、なかにし礼は作詞家を引退しました。
それが演歌というのもなにか象徴的です。
最後にその「記念碑」的曲を。

https://youtu.be/BH11RgN4UmU

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