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東京見物 [歌謡曲]

https://youtu.be/WOAmubK0rvQ

古い歌です。

昭和32年といいますから、敗戦から7年、ようやく「KO負け」から気持ちの整理がつきはじめ、とにもかくにも復興へ歩みをはじめた頃。とはいえ、都内でも各所にみられた防空壕跡、傷痍軍人の募金活動など「悪夢」の名残りはまだまだ。

30年に「この世の花」でデビューした島倉千代子の17枚目のシングル。デビュー曲に匹敵するビッグヒットとなりました。

まさに完治未だしながら幸福へ向かおうという多くの人たちの心情をうたっていました。

戦後、東京へ働きに出た娘が、ようやく仕事にも慣れ、経済的にも気持ち的にもささやかながら余裕ができた頃、故郷にいる母親に復興急な都会を見せてあげたいと思い東京へ招き案内するというストーリー。

もはや死語になってしまった「東京見物」という言葉が日常化していたこの頃は、地方に住む人間にとっては行楽のひとつとして東京旅行が流行していたのでしょう。

当時すでに便利な「はとバス」があり、上野からはじまって、浅草まで主要な東京の名所を巡ってくれました。でも、この歌のヒロインは、はとバスには乗らず、路面電車や路線バスを乗り継いで母親に東京見物をさせてあげたのでした。

なぜ「はとバス」に乗らなかったのか。それは「はとバス」のルートに宮城や浅草はあっても、靖国神社がなかったから。

娘の母親孝行の最大の目的は、靖国神社で戦争で亡くなった兄、つまり母親にとっての大事な息子と「再会」させることだったのですから。

靖国神社に対する功罪は、敗戦から75年経ったいまだ論争が尽きないほどです。
しかし、つい数年前まで「神の国」を刷り込まれてきた当時の多くの日本人にとって、戦死した肉親がまつられているということ、そしてその神前で手を合わせることに疑問を挟む余地などなかっただろうことは、想像がつきます。

作曲は、船村徹。初期の作品で、歌謡曲の王道であった古賀メロディーを引き継いで、みごとに日本人(当時の)の琴線をふるわせてくれる旋律(編曲も)です。

作詞は福島県出身で新聞記者から転職した野村俊夫。

戦前は同郷の古関裕而と組んで「暁に祈る」「あゝ紅の血は燃ゆる」(学徒出陣の歌)、「嗚呼神風特別攻撃隊」などの軍歌をつくり戦争を扇動しました。

戦後は23年に「南の薔薇」「湯の町エレジー」(ともに近江俊郎)のビッグヒットで復帰。
船村徹とのコンビでは前年の31年にコロムビア・ローズの「どうせ拾った恋だもの」、同じ32年には織井茂子の「東京無情」、翌33年には小林旭のデビュー曲「女を忘れろ」などが。

この歌が脳内で再生されたのは、数日前の深夜テレビがきっかけ。

お笑いコントのトリオが、競艇場だったか競輪場だったか(とにかく鉄火場)、そこでギャンブルに興じるオヤジたちを揶揄う(実際は真面目にインタビューしているのだが、テレビのコンセプトとしてはそういうこと)という番組。

そのなかで取材された高齢者が最後に笑いながら「糖尿だよおっかさん」と捨て台詞。
おそらくその人の持病をネタにした自虐ギャグでしょう。

それをお笑いトリオはなんのことかわからずキョトン。
まだ20代そこそこ、わからなくても無理がない。

ならば、制作側が……、とも思いましたが、彼らも多分若い人たち。テレビ画面に「糖尿だよおっかさん」の文字までだしたのですがそこまで。「わけのわからないコメントを……」などとナレーションまで入れて、ダジャレを意味不明のコメントにしてしまいました。
しょうがないのかなぁ。

もはや「東京だよおっ母さん」は遠い昔の歌となってしまったようです。と同時に、あの戦争まで忘れられていくのでしょうね。
傷が完全に癒えるということと、記憶から消えるいうことは似て非なることだと思うのですが。

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